本書はそのゲーム理論、あるいはゲームを題材にした連続公開講義をまとめたもの。講師と内容は以下の通り。
後半の講演はあまりゲーム理論と関係ないんじゃないかと思えるものもあるが、もともとが一般向けの講演だけに多様で、飽きずに上をさっとなでることはできる。本当にゲーム理論を理解するには多分、自分でいろいろ計算機を回さないとダメなので、素人的にはこれでいいのではないかと思う。
ゲーム理論について、柳川範之氏がこう言っている。
ここで注意すべきなのは、経済学やゲーム理論の話は、基本的には、どのような戦略をとれば、トヨタは勝ち残れるのか、あるいは、スーパーの店員は利益を生むことができるのか、を議論するものではないという点である。経済学とかゲーム理論のポイントは、誰が勝つのか、どうやったら勝てるのか、ではない。読み合いをした結果、結局何が起きるのか、社会はどうなるのか、または、競争の結果、市場はどういう形で落ち着くのか、価格はどうなるのか、参入者は何社いるのか、という点であり。つまり、競争の結果として、社会では何が起きるのか、その結果どういう価格がつくのか、どのような新製品が開発されていくのか、傍観者的な立場で分析することが経済学の主眼である。これは経済の話だが、生物学におけるゲーム理論もほぼ同様だろう。読み合いの結果として何が起きるのか、あるいはいまあるこの状況はどういう読み合いが行われた結果なのか、あくまで傍観者の立場で観察し、原理を読みとるのだ。自己の行動と他者の行動があいまった結果を見るのである。
生き物の行動や姿形は本当に不思議である。だが彼らは彼らなりに適応してきた結果としてそれがあるはずなのだ。それはいったいどのように生じてきたものなのか。そこを羅列ではなく、理論でさぐっていこうというのが数理生態や進化生態の世界である。あけてびっくり玉手箱みたいな話ばっかりでは、なかなか科学にはならないのだ。
基本にあるのはダーウィンの進化論である。本書では「生物の遺伝的性質が世代を通して変化していくこと」と定義している。ここで重要なのは「世代を通して」という部分である。進化というのは未だに誤解が多いが、個体に起こるものではないのである。もうちょっと付け加える。適者生存という言葉があるが、単に生存しただけではダメなのだ。そいつらが子どもを産んで、子孫を残さなければならない。
そこで本書では、あたまでもう一つ「適応度」という言葉を定義している。「適応度とは、ある遺伝的性質を持った型(遺伝子型)の個体が、1個体あたり次世代に残す子の数の平均である。
で、進化的に安定な戦略=ESSなどを定義し、性比の進化、性淘汰、利他行動、擬態、共進化など生物の不思議に対するアプローチが解説されていく。
現在の進化生態学という学問がどんなものなのか覗いてみたい人は一読されたい。普通の人にはあまり…。
内容は邦題そのままだ。「シャーマンの弟子になった民族植物学者の話」。著者は様々な薬理作用を秘めた植物を求めて、南米アマゾンのシャーマンたちを尋ね歩き、教えを乞う。カッサバと呼ばれる椰子から作ったパンを食べながら、ふんどし姿の人々と共に森に分け入って、様々な植物はもちろん、現地人、そして彼らを取り巻く現場と出会っていく。
本書が優れた読み物になっている理由はいくつかある。情景描写やイベントなどを描く際の著者の巧みな「間」の取り方もさることながら、さまざまな知識や出来事に、非常に素直に反応する著者自身の姿が見事に描き出されていることも挙げられるだろう。そのために、著者のアマゾンでの体験や苦労が、こちらに情感豊かに伝わってくると同時に、なんだか優しい気分にさせられるのである。実際にどうかは知らないが、本書での著者の人柄のようなものが行間から滲み出ている。
熱帯雨林は近年になって有用な遺伝子産物の宝庫と見なされるようになった。そこには、医薬品となるかもしれない植物がある。痛み止め、解熱剤、止血剤、風邪薬、そして糖尿病や水虫に効く植物まである。分娩や生理痛に効く薬もあるらしい。多くの人々がキノコの絞り汁を使う。抗生物質が含まれているらしい。血管収縮物質を含む植物を使って魚を捕る漁の話は驚きである。そして毒として有名なクラーレには未だに謎の成分が多いという。
それを知っているのは現地のインディオ、特に治療師としても活躍するシャーマンたちである。だが文明化が進むにつれ、古き知識は失われていく。10年にわたって調査を行った著者はその様子を目の当たりにしていく。シャーマンの後継者たちも減少を続けている。著者らの願いは、「森の人々の智慧を記録し、守ること」そして、その智慧が「インディオたちに恩恵をもたらすこと」。「なおかつ、有用な植物性医薬品が新たに発見される手がかりとなること」である。
実際に彼が採集したサンプルをもとに各種医薬品の研究開発も同時に進行している。著者らはシャーマン製薬なる会社を作り、そこで研究を行うかたわら、収益の一部を使ってヒーリング・フォレスト管理委員会というNPOを通じて、現地の人々に利益を還元しているという。
なお巻末の著者紹介によれば(本書には訳者あとがきの類がない)、現在彼はスミソニアンの研究員をしながら、アマゾン・コンサベーション・チームなる団体の代表をしているということである。また各種ドキュメンタリー番組にも登場しているということだから、ひょっとすると顔も見たことがあるのかもしれない。
人と植物、人と人、科学と冒険。それぞれの側面が相互に、見事に絡み合ったドキュメンタリー作品である。
ヒト進化に関する話はとにかくややこしい。新しい化石発見や調査研究が行われるたびに系統樹が書き換えられているような印象がある。そこには当然のことながら多くの研究者達の思惑や学説が絡んでくる。著者はそこの辺りを巧みに説いていく。結果、研究の歴史と研究成果双方がスムーズに理解できるようになっている。各章のアタマに、それぞれの内容がまとめられているのも親切。
ネアンデルタール人は、以前考えられていたほど我々には似ていなかったようだ。また脳が現生人類より重かったという話もよく知られているが、これは筋肉を動かすためであったらしい。このネアンデルタール人は、不当に貶められたり、「復権」させられたりと紆余曲折を経た。たとえば、ラルフ・ソレッキによるシャニダール洞窟で発見された「花で埋葬された」化石の話などはその一つの典型である。これにはやはり人種に対する偏見や差別の影響もあったらしい。人類学という学問自体、非常に若い学問なのだ。
現在では、ネアンデルタール人とホモ・サピエンスはおおよそ5万年間「共存」していたらしいと考えられている。ただし「共存」といっても共に暮らしていたわけではない。単純に生息域が離れていたと考えられる。ネアンデルタール人は比較的北方に、ホモ・サピエンスはより南方に暮らし、気候変動に伴って生息域を変えていたらしい。とにかく両者は、それほど(接触しあうほど)似ていなかったのではないかと考えられている。両者の間に戦争があったのではという説もあったが、結局、「何もなかった」と考えるのがもっとも妥当であるらしい。
何が起こったにしろ、ともあれ、生き残ったのはホモ・サピエンスだった。その彼ら、つまり我々のご先祖も一度絶滅しかかったことがあるらしい。これはミトコンドリアDNAの研究から推定された結果だそうで、なんと1万人くらいまで人口が激減した可能性があるというのだ。もちろん、全地球で1万人である。おおよそ7万年くらいまえのことらしい。
後半はなぜヒトが生まれたのかという話になる。著者が重視するのは気候変動と、肉食である。脳はエネルギーを食う。そうなるとどうしてもよりエネルギーを多く摂る必要が出てくる。手軽に高栄養を実現できるのが肉食だったという話だ。確かにそういうこともあったかもしれない。
もっとも『人間性はどこから来たか サル学からのアプローチ』などを読むと、肉食よりも火を使う調理が始まったという考えもあるようだ。
とにかくこのジャンルは「そういうこともあったかもしれない」ということが多すぎる。まあだからこそ面白いのだが。本書は、その辺をうまくまとめている本である。もうちょっと図解などが欲しかった気もするけど。
まあ平たく言ってしまえば植物バカである。伝記を初めて読んだとき、家人はさぞかし大変だったろうなあと思ったことである。だがそれで日本一になれたのだから周囲はともかく、本人は満足だったろう。その彼の業績としてもっとも有名なものが『牧野日本植物図鑑』である。未だに店頭に並んでいる本だ。
その牧野富太郎に、知られざる「ライバル」がいた、そしてそこには人間・牧野の一側面を伺わせる葛藤が見られるというのが本書の趣旨である。歴史から消え去っていた男の名前は村越三千男。その謎に著者が気づき、調査を行いながら日本植物学草創期をひもといていく。この過程が面白い。植物学、しかもその科学史オンリーの本だが、さらさら読める。牧野富太郎の伝記などを読んだことのある人ならば楽しめると思う。
本書の内容は162ページにまとめられている。
牧野富太郎と村越三千男が、明治39年ころ、どのような出会いをしたかはわからない。しかし牧野が初めて手がけた一般向きの普及型植物図鑑は、村越の『普通植物図譜』(1906〜10)を校訂することだった。そして牧野と村越は協調しながら『植物図鑑』(1908)を刊行した。ところが、やがて二人は離反するようになり、二〇年ほど後の牧野『日本植物図鑑』と村越『大植物図鑑』のころには対立が決定的となり、それは昭和戦後まで尾をひいた。そして明治の出会いから半世紀をへた後、牧野九十余年にわたる永い生涯の最後に手がけた普及型植物図鑑も、村越の『内外植物原色大図鑑』を『原色植物大図鑑』に補筆改訂することだった。ここには、牧野と村越の、協調から対立へ、そして最後の仲直り、というふしぎな因縁が感じられる。ただし、最後の仲直りというのは、著者の牧野に対するリップサービス、あるいは本を終わらせるためのオチでしかない。本を改訂したというのも村越の死後なのだから。「植物の精」として愛される偉人・牧野に対して、無難に落ち着けようとした著者の意向には背くことになろうが、牧野は自分の名誉欲、自己顕示欲のために村越を徹底的に嫌っていて、消し去ったとみるほうが妥当であると思えるのだが如何だろう。
著者が原発事故を通じて物事の裏に気づいていく過程は迫力もあるが、本書の主題は「市民科学者」とは何か、ということであるということなので、そこに焦点を絞ろう。著者が組織を離れる直前の話が面白い。ドイツのハイデルベルクでの話である。
私は、「自前の科学」といった文脈で考え、個人的な力量のことをまず考えたが、彼らはいかにもドイツ人らしく、まずシステム(組織)のことを考えていた。当時はNGOなどという言葉もなく、どこまで考えつめていたわけではないが、彼らの当時の問題意識は、後にドイツで大きな力をもつようになったNGO研究機関の構想につながっていったと思う。すべての面でそうなのだが、われわれ日本人は、事柄を個人的努力や倫理の問題に還元してしまう傾向が強いが、彼らは常にシステムの問題として考えていく。この点で、大いに教えられた。(130ページ)私は結局ものごとを行うのは個人なのだから、やはり個人が大切だとは思う。だが、個人ではできないこともある。科学研究などその典型だという人もいるだろう。だがそれは「既存の組織」においてしかできないことではないかもしれない。いったん既存の組織を出て、新たに独立した組織を作り、そこで研究なりなんなりを行うこともできるはずではなかろうか。こういう考え方のもとに生まれているのがNGO研究機関だと思う。だが日本ではそういう考えかたを持つものは少ない。著者が既存のシステムからくる利害性を嫌い、大学を離れるときも同様のことを言われたそうである。とにかくアカデミズムの世界を離れるな、逆に大企業の下請けみたいなことをするハメになるぞ、と。
これらはおおむね善意に基づくものではなあったろう。しかし、つまるところ、大学の外に学問・研究はありえない、科学にこだわるなら大学を離れるな、ということだった。個人的に面白かったのはここからで、
しかし、総じて次第に私に分かってきたことは、私に対する慰留は必ずしも単なる善意によるものではないということだった。かといって悪意ではもちろんない。もっと別の、家族意識のようなものに由来するのだろう。私は、彼らにとってその時未だインサイダーであり、「大学人」という共同性なり、「アカデミズム」という一体性のうちにくくっておきたかったのであろう。今、慰留しておけば、いずれは元の学問のラインに戻ってくるだろうと見られたのではないか。そう思うと、なおのこと、今という機会を失しては、自分は永遠に逃げの人生を送ることになると思った。(134ページ)この後著者は、迷いつつも原子力資料情報室(http://www.jca.apc.org/cnic/index.html)を作ることになる。そして著者自身の活動も変化していくのだが、そこは本書を読んで頂きたい。私が興味を惹かれたのは上記で著者が言っている「インサイダー」という言葉である。この辺には『鏡のなかのアインシュタイン つくられる科学のイメージ』を読んだときと共通した問題意識というか関心を感じるのだ。科学者という集団、そして彼らが自らに抱いているイメージ。それはいったいどんなものなのか、どこから来ているのか、その結果いったい何が起こっているのだろうか、ということだ。そこらへんを見極めるためには、著者のように外に出るというのもまた一つの方法だろう。ただしその場合、諸般の問題を抱えることになる。
閑話休題。本書に戻る。著者は現在、「高木学校(http://www.jca.apc.org/takasas/)」をつくり、「市民科学者」「オルタナティブな科学者」を育てようとしているという。変わらず、「どこまで市民活動家であり、どこまで専門の科学者なのか」と悩みながら。また、今後の活動については以下のようにも言っている。
私自身は、批判的作業や原発反対運動に終始してきた感があるが、基本的には、それは「よりよく生きたい」という意欲、明日への希望に発していた。しかし、そのようなものとして、うまくポジティブに表現できず、反対運動としてネガティブにのみ受け取られたことが、今日の危機をとめるための有効な運動を生み出せない原因だったのか。この点は、私個人の問題としてでなく、戦後の平和、人権、環境運動全体の問題として考えていかなくてはならない宿題だ。そして著者は「希望の組織化」「希望の科学」の必要性を提唱し、本書をまとめている。
偉人のイメージに合わせてつくられた偉人廟に行って、もっと近くで偉人を見ようとするのは、はっきりいって偶像を破壊するようなものだ。と語る言葉に思わずにやっとしてしまうような人のための科学史エッセイ。
歴史はしばしば神話化する。科学史の世界もそれは同じだ。事実のように語られていることが実は虚構に過ぎなかったり、今日ではまさに偉人と崇められている人やそれを代表するエピソードが、当時は論議を呼んだりしていた。たとえばベンゼンが夢の中で自分の尻尾をくわえるヘビを見てベンゼン環を思いついたというのは逸話としてよく引かれるはなしだが、その当時、化学者たちは「ケクレがそんな夢を見たはずがない」と声高に叫んでいたのだという。だが時間が経つに連れ物事は人々に記憶されやすいように編集加工されていく。
本書は、だれでも知っているダビンチやアインシュタイン、アルキメデスにニュートン、ノーベルといった有名な科学者たちやUFOやフランケンシュタイン、ブラックホールといったことごとにまつわるエピソードを綴った本である。原題は「アルキメデスの風呂桶──科学のちょっとした神話」という意味だそうである。一つ一つは読みやすい。科学史に興味がある人はどうぞ。
カウフマンは秩序は自発的に形成された/されるものだという。自発的秩序が形成され、それが自然淘汰によって選択されていく。それが進化であるとカウフマンはいう。つまり無数の偶然の組み合わせなどは最初からなく、ある限られた可能性が最初から秩序を作るというのである。
そして生命は「化学スープの中で分子の種類の数がある閾値を超えると、自己を維持する反応のネットワーク──自己触媒的な物質代謝──が、突然生ずる」と主張する。つまり生命は生ずるべくして生じたのだと。
さらにカウフマンは、自己組織化はありとあらゆるところで起こると主張し、NKモデルやら、そのほかの理論やらを紹介しつつ「複雑適応系はカオスの縁に向かって進化する」という自説を展開する。
ちびちびと通読しながら繰り返し感じたのは、単純な原理を発見しようとするあまり、生命をあまりに単純化しすぎているんじゃないか、という皮肉な思いである。いくらカウフマンがモデルを披露しても、どれもこれも、あまりに単純に思えてしまった。むろんあてはまるものもあるのだろうけど。95年当時ならオッケーだったんだろうけど、今となってはこれ「だけ」では、本としても苦しい。
ていうか、出るのが遅すぎたんだよな。初めてここで言われているような内容を読んだら、むちゃくちゃ興奮したかもしれない。
内容は、ゲームを製作する上での技術テクニックやその考え方などが、まあいろいろと書かれているわけだ。はっきり言えばコンピュータゲームに興味ない人には、全く面白くないだろう。いやゲームに興味があっても、こういう技術解説に興味を持つ人で、なおかつここに書かれているようなことを知らない人というのはどのくらいいるのだろうか。謎だ。僕は基礎教養を勉強するつもりで「ふーん」と思いつつ読んだが。
というか、計算速度が遅いので○○という手法を開発しました、と言われても「ふーん」としか言いようがない。
まあ、今後この手の仕事がもし入ったら資料としてはめくりなおすだろうなあ。でもこれ、本当にどういう人を読者対象にしてるんだろ。将来ゲーム開発者になりたい高校生や大学生、かな? よく分かりません。
今月レビューした本だと、当然のことながら『ネアンデルタールと現代人 ヒトの500万年史』と大きく重なっている。違いを読み比べてみるのも面白い。一番違うのは、タッターソルはネアンデルタール人とクロマニヨンの間に戦いがあったと考えている点だ。
著者は進化における「個体群と種の重要性」を強調する。彼は実際の議論の多くが「種の歴史を説明するというよりは特殊な身体的な特徴や複雑な機能の進化を問うことに集中し、進化のプロセスを理論的に解釈することとは区別されている」ことを危惧しているようだ。どういうことかというと、人類学者は脳の大きさや歯の形態の違い、引いては二足歩行することによって体温調節や移動能力が高まったとか視界が広がったといった話をしがちだが、そういうことは「基本的にはまったく意味がないのである」。なぜかというと機能や形質はそれだけで独立して存在することはあり得ず、それだけに淘汰がかかって選び出されるということはないからである。それぞれはまず、一個体において機能し成功しないといけない。そして、彼らが子孫を残さないと進化においては意味がない。
さて本書の主題はヒトはいったい何者かということである。
ヒトは動物だが、やはりかなり変わった動物だ。いったい何が起こり、ヒトをヒトたらしめたのか。人類に何が起こったのかということについて、著者は最後のほうでこう言っている。
私たち人間は、いつ、どうやって、象徴的な言語能力を身につけたのだろうか? すでに述べたが、人間の脳はどのようにして完成されたのか、情報はどうやって伝達されるのか、そして、たとえば行動のような特定の機能はどう働くのか、さらに、複雑な意識構造のメカニズムはどうなっているのか、依然として解明されていない。はっきりしているのは、人類の歴史の二,三百万年の間に、脳が変則的に拡大し、同時にそのほかの器官も獲得されたということだ。つまり、遺伝子の立場では小さな変化かもしれないが、その変化がおきれば驚異的な全体構造が完成されるような外適応(森山註:いわゆる前適応)は、あらかじめ準備されていたにちがいない。ちょうどアーチのかなめ石が、全体から見れば小さな部分でも決定的な使命をになっているように、比較的小さな神経系の変化によって、脳内部に革新的な機能がもたらされたはずである。著者はこういう見方に到ったらしい。
つまり、この本は「あたり」だ。著者ならではの幅広い視野と視点で、現在の霊長類学と人類学の研究をレビュー。それに自らの考察をいろいろ付け加えたような内容なのだが、これだけコンパクトに、そしてよくまとまっている本というのは、僕は読んだ記憶がない。
著者は教育万能主義に対して非常に反発している。また脳は汎用コンピュータではないと何度も繰り返している。ただし脳がコンピュータとは上だとか言っているわけではない。その逆で、脳は何でもできるものではなく、限られたことしかできないと言っているのである。脳は進化の産物であるのだから生物としての枠組みから外れることはないと。
著者曰く、こうだ。
進化の産物である以上、ヒトの行動は教育やしつけによって、どうにでも変えられるというものではない。文化人類学者は人間文化の多様性を強調する。多様であることは私も否定しないが、私が強い関心をもっているのは共通性である。ヒトがお互いによく似ているだけでなく、ヒトは霊長類はじめ他の動物とも多くの共通点をもっているのだ。ヒトが共通して持っている特徴は「ヒューマン・ユニヴァーサル」というのだそうだ。
ヒトに共通な心理や行動の特徴は、長い進化の過程の産物である。それらはいつ、どうして生まれたのか、どういう適応的意義をもっているのか、自然の中のヒトの位置はどのようであるか、それを探るのが本書の目的である。
本書で展開される様々な行動の起源や機構に関する考察は、誰もが興味を惹かれそうなものばかりだ。結婚、同性愛のようなものからはじまり、社会、互酬的援助行動、インセストタブー、性的分業、家族、コミュニティ、戦争、文化、学習、言語、模倣、教育、美意識などなど。帯には「『人間らしさ』といわれるものは進化の中でどう生まれたのか?」とあるが、その通りの内容となっている。霊長類学の研究を一望できるという面でもおすすめ。
今まで読んだ遺伝子組み換え植物、遺伝子組み換え食品に関する本の中でもっとも「科学的な」内容の本。淡々と書かれた論文集なのだが、非常によくまとめられており面白かった。植物への遺伝子導入にはどういう手法があるか、遺伝子組み換え植物にはどのようなものがあり、どのように作られているのか、どのような安全性試験が行われているのかといったことが分かる。図表など資料も多い。感情的な好き嫌いならば何を言っても構わないが、遺伝子組み換え植物の科学面について語りたければ、心情的な賛否はおいといて、まず本書を読むべきだ。
本書のタイトルは「遺伝子組換え植物」である。組換え食品ではない。遺伝子組み換え植物といっても、そのままダイレクトに食品になるものは少ないからだ。もともと、1996年に作られた「地球環境変動に対応する植物バイオテクノロジー第160委員会」というグループが中心になっているので基本的には必要だというスタンスで書かれている。また「光と影」というタイトルにはなっているものの、主に描かれているのは光であって影ではない。だがそれでも本書は極めて公正な態度で書かれているように思う。少なくとも研究者達がどう考えて研究を進めているか、そしてどのように批判を受け止めているか分かる。万々歳イケイケだけで書かれているわけではない。
目次を引用しておく。
遺伝子組み換え植物が粗放栽培、粗放農業を目指しているというのは、意外な話だった。それだけが目標ではないだろうし、実際にそれができるかどうかはまた別問題だろうが。
遺伝子組み換え植物の技術は、決して食料生産の商業化のみのものではない。これからは「代謝工学」と呼ばれる技術を使った第二世代の遺伝子組み換え植物が登場してくる。「既存の代謝経路の分断、分岐、強化、あるいは新規経路の作出」がターゲットになる。モンサントが作り出した生分解性プラスチックを作るナタネなどはその始まりだろう。これからは、どんなものが登場してくるのだろうか? 期待と不安が入り交じるが、まず情報が必要だ。
中身は…、読む前から思想的なところは当然かなりあるだろうなと思っていたのだが、ここまで科学と思想が入り交じっているとは思わなかった。だからなんとも両者の区別がつかない、というか、区別することに意味はないと考えている著者の姿勢はよく分かった。だがそれ以上は、僕にはオーバーフロー。本書の評価はペンディングにしておく。
<終章 生物と人間を結ぶ世界観の構築>から本書の主題をもっとも表しているだろう部分を引用しておく。
育種家として、これまで私は「生とは何か」を問うてきたが、生の理解、というよりは生がなぜ生き続けるのかを理解するには、分子生物学者たちが追っている化学的物質的な基礎とともに、生物の地球上への広がりという地域性からのアプローチが、車の両輪のように不可欠であることを学んだ。バクテリアの世界では分子レベルでの役割は大きいが、真核生物ではその分子をどのように用いていくかというシステムがより重要である。地域における生物の多様化が進むと生物間の認め合いのシステムが大きな意義を、場合によっては支配的な重要性を持ってくる。しかもそれは地域により、系譜により独自なシステムである。という本。読んでみたいと思う人は読みましょう。
イネの系統がDNAを使って辿ることができるのは、現生イネのデータが取られているからである。比較になるバックグラウンドデータがないと分析はできない。主に使われているのは葉緑体のDNAで、中でもよく使われているのがrpl16という遺伝子とrpl14という遺伝子に挟まれた「PS-ID」と呼ばれる500塩基対ほどの領域が、品種群の変異を見るのには良いのだという。ここはDNAの中でも情報が書き込まれていない部分なので突然変異のあとがそのまま蓄積されていっているのだ。
で、それを使うといろいろなことが分かる。たとえば温帯ジャポニカが出るに決まっていると思っていた環濠集落あとから熱帯ジャポニカが出てきたりする。世の中「常識」どおりにはいかない。そこがまた謎を産み、面白さへと繋がる。
その他、三内丸山遺跡のクリ栽培の話、漆の話、礎板や建築材のDNA分析の話、プラントオパールからのDNA採取の話など。巻末には佐原真(国立歴史民俗博物館館長)との対談。こちらのほうが本文よりも分かりやすい箇所もある。
ユカタン半島には円形の重力異常地帯がある。中心にある村にちなんでチチュラブ・クレーターと呼ばれるそれは、恐竜を滅ぼした可能性のある隕石衝突痕として知られている。推定直径は200キロ〜300キロ。こう大きいと「でかい」というくらいにしか感じられないのだが、この推定値の差はエネルギーになおすと一桁も違うのだという。一桁違うと地球への擾乱という観点で見ると影響力が全く変わってくる。だからここらへんは議論の焦点のひとつになっている。
以前は、クレーターは衝突の角度によらず円形になると考えられていた。とあるTV番組でも研究者の実験Vを含めて、そう紹介していたのを僕は見たことがある。だが現在では、衝突角度が水平面に対して15度以下になると、衝撃で撒き散らされる破片(イジェクタ)は、チョウの羽のように広がると考えられている(まったくの余談だが、最近ではロシアのツングースで爆発した彗星だか隕石だかがそういう類のものであったと考えられているようだ)。その割合は、月や火星のクレーターで見ると、全体の10%程度だという。
で、ブラウン大学のピート・シュルツは、重力異常の図を見て、ダイノソアキラーの隕石は南から北へ斜めにぶつかったのではないか、という考え方を示した。となると破片は東西に広がっている可能性がある。それを探るためには地震波で探査するとか、地質調査でクレーターの構造を明らかにしなければならない。けっきょく、いまのところ結論は出ていないようだが、その過程で著者はフィールドを訪問することになる。西側(メキシコ、アメリカ)はアメリカの研究者たちが既に調べている。だが東側──キューバにはアメリカの研究者は入れない。だからまだK-T境界層を調べているものは誰もいない。ここから先が後半になる。
頭にも書いたが、理論の人である著者がフィールドの露頭で脱水構造やホモジェナイトと呼ばれる津波による堆積層を見、感じた驚きがそのまま語られている。こういう本は書き慣れているし話も馴れている著者だけあって、実にうまい。これは多分、地質の人には逆に書けないかもしれない(ていうか、大学の研究者がこういう本を書かないから教育現場から地質が廃れていくのだと思う)。
あとは津波のシミュレーションや、地球環境への影響などへの考察。科学という営みが具体的にはどのように行われているかということを紹介するのが本書の目的だと著者は語っているが、自らの専門と専門外を織り交ぜて率直に語ることで、その試みは成功している。
こういう本はネタとその展開の仕方が勝負なのだが、本書はなるほど確かに面白い。タン・ショーと呼ばれる舌を出すしぐさは、もともと「ほっといてくれ」というシグナルだったという話。地平線近くにある月が大きく見える理由は単なる錯覚ではなく、脳の中の処理にその理由があるという話。コーヒーに粉ミルクを加えていくと、カップの縁でする音の高さが変わっていくという話。「ボールペンのボールぐらいの大きさ」のハチの脳がなしうる幾何級数計算。電灯が一瞬消えただけで気になるのに10分の3秒も目をさえぎる「まばたき」があまり気にならない理由。オスの蚊などが群れを作る理由。鳥がV字編隊で飛ぶ理由。隣に人がいると小便が出るまでの時間が有意に長くなる理由。あくびには脅迫の意味があった。などなどなど。
雪の結晶の話もあるが、ここでは中谷宇吉郎にも触れられている。最近は中谷宇吉郎って誰、って人も増えているかもしれないが、海外のライターでさえ名前を挙げる人物なのだ、できれば知っていてもらいたい。著者は日本版へのまえがきで日本の科学技術の将来を憂えている。日本の教育は、どこかバランスを欠いていると思っているのかもしれない。
髪の毛に文字が書けるレーザー技術、超音波化学反応(ソノケミストリー)、イソギンチャクのように反応する刺激応答性高分子、さらに軽くて強くを目指す繊維強化アルミニウム、分子一個への記録、高速・高密度記録を目指すフォトン・モード記録材料、超薄型ディスプレイを実現する有機エレクトロ・ルミネッセンス・ディスプレイ、微生物を利用するバイオリメディエーション浄化システム、環境調和型プラスチック、光ファイバによる材料損傷検出技術などなど。
どっか引っかかった人はどうぞ。
液体窒素の中で冷やした超伝導体の上に磁石を浮かべる実験がある。「超伝導体を冷やすと磁場を排除するんだよね。マイスナー効果でしょ、知ってるよ」というあなたは、著者の術中にはまっている。著者は言う。「あれはマイスナー効果ではありません。ピン止め効果です」。
超伝導体には第一種超伝導体と第2種超伝導体がある。浮き上がるのは第2種のほうである。超伝導体は磁場を嫌うのだが、第一種は磁場を中に入れない。第2種は量子化磁束という形で一部の磁場を侵入させ、磁場に妥協する。もうちょっと言うと、超伝導体に入り込んだ磁力線が、超伝導でない部分に捉えられるのである。その結果、磁束が固定され、物体はピンで止められたように動かなくなる。そのため「ピン止め効果」と呼ぶのである。
これは、それぞれその状態のほうが安定だから、超伝導と磁場が共存するとエンタルピーが大きくなりすぎて自由エネルギーが高くなりすぎる、つまり不安定なのだということを、本書ではそれを熱力学を通して説明していく。その過程が実に丁寧で、分かりやすい。分かっている人にはまどろこしいかもしれないが、そういう人は飛ばせばいいだろう。
おっと少し先走りすぎた。もちろん超伝導のもっとも目立つ特徴、抵抗0の秘密も分かりやすく説明されている。本書を参考にしつつ、一度ここでまとめておこう。
電気抵抗の本質は原子の運動、つまり格子振動である。格子振動はプラスの電荷濃度が局所的に変化することである。格子振動とマイナスの電荷を持つ電子の相互作用が電気抵抗になる。温度が下がっていくと格子振動は小さくなっていく。だがそうなると逆に電子が通過することでプラスの電荷を持つ格子振動が影響を受け振動してしまう。これでは電気抵抗はなくならない。
ところが、ここで電子が2個ペアを組んでいると考えよう。まず一つ目の電子が近づくと格子が引き寄せられる。その結果電子はエネルギーを失う。ところが局所的にプラス電荷が高まったことで二つ目の電子は加速される。つまり二つでプラスマイナス0になるのである。電子がペアを組むということが重要だったのだ。これはバーディーン、クーパー、シュリーファー3人の頭文字を取り、BCS理論と呼ばれている。
ついでなので、もうちょっと付け加えておこう。電子は半整数、つまり2分の1の奇数倍のスピンを持つ。つまりフェルミ粒子と呼ばれるものだが、ペアを組むことで二つのスピンが足し合わされる。二つの電子はスピンが逆向きの形でペアを組むので足し会わせてゼロになり、ボーズ粒子になる。フェルミ粒子はパウリの排他律によって2個以上の粒子は同じ状態に入れないが、ボーズ粒子は複数の粒子が一つの状態に入ることができる。つまり何個もの粒子が同じ状態になることが許されるのである。その結果、ペアを作った電子は位相のそろった波として振る舞うようになり、超伝導体全体はあたかも巨大な原子のような状態になる。その結果、磁束の量子化といった不思議な現象が起こる。
ややこしいと思うが仕方がない。超伝導の仕組みを解き明かすには、科学者達でさえ50年かかったのだから。
で、様々な用途に使われているのは第2種超伝導体のほうだ。これは部分的に常電導の部分が意識的に作られている。それによって全体としての自由エネルギーを最小化、つまり安定させている。
では実際には超伝導体とはどんなものなのか。超伝導を起こすためには格子と電子が強く相互作用するものでなければならない。通常の状態ではそういうものは電気を流さない。つまり絶縁体である。そこで絶縁体に電子が少々余るようにドープしてやる。たとえば3価の元素を5価の元素に置換してやった化合物などを作る。すると電子がちょっと余るので、超伝導が起きるかもしれない。という考え方で高温超伝導体が探索され、現在ではBCS理論で考えられていた限界温度、絶対温度40度を遙かに超えた130度のものが出来ている。
つまり、BCS理論でいうところの格子振動だけが超伝導の本質ではなかったということなのだ。本質は、とにかく電子がペアを作れば良かったのである。高温超伝導体では自制が関係しているという説が現在有力であるという。
反強磁性絶縁体というものがある。これは電子のスピンが交互に並んだものである。そこに正孔を導入する。すると周囲のスピンはみな同じ向きになってしまって不安定になる。その結果正孔はスピンと位置を交換しながら移動する。そのとき、単独で移動するよりもペアを組んだほうがエネルギー的には特になるのである。こうして超伝導が起こっていると考えられている。なお本書ではこの辺は図で説明されている。ぜひ図を見て頂きたい。
あとは超伝導の応用という話になる。ここはちょっと付け足し的な印象をうけるが、これはこれでいいのかもしれない。なお本書でたびたび引用されている『ゲージ場を見る 電子波が拓くミクロの世界』というのはこの本のことである。上記の説明は一部『ゲージ場を見る』の内容も足しあわせたことをお断りしておく。
カイコの糸はフィブロインという三角形の断面を持つタンパクでできている。これは直径0.5〜1マイクロメートルほどのフィブリルという線維の束からできている。さらにフィブリルは直径0.01マイクロメートルほどのミクロフィブリルからなり、さらにこのミクロフィブリルは大きさ数オングストローム〜数十オングストロームほどの間隙を持つ、結晶領域と非結晶領域からなっているという。
著者は細かくカイコが糸を作る仕組みを追っていく(もっともこれは『シルクへの招待』サイエンスハウスという本がネタモトであるらしい)。著者曰く、カイコの体は「ハイテク・シルク工場」である。そしてその作り方は、現代技術の光ファイバー製造技術と非常によく似ていると指摘する。この辺は図版も多く含まれている本書をめくって頂きたい。
さらに著者の観察の目は、実際にカイコがまゆを作る様子へと向けられる。モスラの影響でカイコは糸を吐くと思っている人が多いが、実際のカイコは糸は吐かない。むかし、教育TVをよく見ていた人なら知っているかもしれないが、いまどきはあまりカイコの番組もなくなってしまった。知らない人も多いことだろう。実際にカイコがどうするのかというのもまた本書をめくってみよう。
まゆを作ったカイコは、そのままほっておけばやがて羽化する。マユの外へ出るときカイコはどうするか。口からコクナーゼという酵素を含んだ液体を出し、マユを溶かすのだという。確かに、たいしたものである。
そのあとはクモの話になるが、こちらはカイコのおまけみたいな感じになっていて、ちょっと損をしている。だが、クモの糸が縦糸横糸だけでなく、網の部分に応じて強度や弾力性を持たせるために様々な種類の糸──撚縄(よりなわ)状のものもあれば、コイル状のものもあるのだ──から構成されていることを示す写真を見るだけでもその「ハイテク」ぶりに驚けるし、楽しい。
本としてはややまとまりにかけるのだが、パラパラめくる分には楽しい本である。
やはり日本人の研究者、湯川秀樹(1949年物理学賞)、朝永振一郎(1965年物理学賞)、江崎玲於奈(1973年物理学賞)、福井謙一(1981年化学賞)らの人生が、どうしても身近で興味深く感じられる。
ざーっと全体を読むと、科学関連賞受賞者には特に共通点は見あたらない。また「教育機関としての出身大学には、多くの人が思っているほど大きな意義はない」。だが「研究機関や実施機関」としての大学には確かに偏りがある。
敢えて共通点を挙げれば著者も指摘するように、子育て上もっとも長時間子どもに接することが多い母親の影響がかなりあるらしいということくらいである。これだけのノーベル賞受賞者の人生をまとめて通読すると、確かにそんなものがあるような感じがする。また一般的に言っても小さい頃にどう情操教育されるかということで、その後の方向性が決まるということはあるかもしれない。最近は、子どものそばで本を読んでやるような親も少なくなっているそうだが(だから子供向け本の売り上げも大幅に下がっている)。
一方、文学賞に関しては確かに家庭環境がかなり影響しているのかもしれないなと感じさせられるものがある。特殊な家庭に育った人が多いのである。しかも、あまり幸福とは言えない環境に。逆境にも負けない精神力の持ち主だったからこそ、ノーベル賞を受賞できたのかもしれない。
以前読んだ何かの本に「天才とは常人ができない努力ができる人のことである」という一節があった。これはいわば、常人には不可能なほどの集中力の持ち主こそが天才なのだとも言い換えることができるだろう。しばしば、成功か失敗かは運次第と言われるが、その集中力こそが目の前を通過する「運」を掴み取らせたのだろう。
内容に関しては、僕には第2部以外は「だからなんなんだ」としか思えなかった。認識論というものには性が合わないみたい。「総合人間学」なる概念については賛成する。ただし、そういうものが重要だということはみんな分かっていて、これまでにもずっとそういう試みが行われ続け、どれも成功してないように思えるので、新しい何かが必要であるという点を除けば。
副題の「斜面の原理」とは、要するに山は斜めに登ったほうが楽チンだということである。そのほうがエネルギー的に得だからだ。同じように、刃物も引くように使ったほうが、刃角が鋭くなり、より切れる。これが斜面の原理である。ただそれだけのことである。日本刀は比較的、刃角が大きいのだそうである。だから激しく引かないと切れないのだという。またネジ山とネジ山の間、いわゆるピッチを小さくするとより楽に回せるのも同じ理屈だ。
最後は櫨こぎの話や魚の推進法の話になるが、『イルカに学ぶ流体力学』に比べると物足りない。僕からはあまりおすすめできない。
話は絞って欲しかったと書いたが、文中で図版入りで触れられている江戸時代の試し切りの話は凄い。ここは面白かった。
構成は光の性質の解説、色素分子について、機能材料としての色素分子、実際の技術応用となっている。説明は非常に丁寧である。発光ダイオードの説明一つとっても、ダイオードの説明からしてくれるので、初心者でも気楽に読める。ただ、やや散漫なので、読み物としての面白さにはかけている。ここらへんが個人的に残念であった。このテーマならきっと、もっと面白く書けると思うからだ。
とはいうものの、資料としてはやはり便利である。第4世代の太陽電池、色素増感系といわれる太陽電池用光電気変換色素材料の最先端はもちろん、光メモリへの応用が期待されるフォトクロミック色素(光があたると色が変わるサングラスなどに使われている)の基礎、自己発光型有機ELディスプレイなどなど。印刷の話などには僕はあまり興味なかったが、色素材料という話だけに留まらず、ニアフィールド光といった話も丁寧に解説されているので、ネタ本としてはいいかも。
オプトエレクトロニクスの世界は、いわばいかに光、そして電子を制御するかという話である。科学としても非常に面白いし、わくわくする世界だ。しかも日常生活に非常に密着している。これからに期待したい。
さてそのテキストだが。前半分は「ロボットの現在と将来を歴史を辿りながら」振り返るロボットの話だが、もう半分はVRの話という内容構成になっている。もっとも著者らが推進する「テレイグジスタンス」や、ネットワークを通じたテレイグジスタンスである「アールキューブ」の考え方の中では両者の融合は必然必須なので当然と言えば当然である。
素人が見てもほほうと思うだけの様々なモノが具体的に出てきている今、哲学が語られている部分はあまり代わり映えせず面白くないという印象を受ける。もっとも腕の動的制御やサイバネティクスなどについての技術発展の歴史がまとめられているので、これはこれで便利かもしれない。インピーダンス制御や視覚代行システムといったものの名前を聞いたこともないという人も大勢いるだろうし。もっとも、そのためにはもうちょっと図解が欲しかったがところである。
また各種研究が紹介されているのだが、中には著者が直接携わっているのではないものもある。そういうものはちゃんと出典を明記すべきではなかったか。
第五回の講義『ヴァーチャルリアリティとは何か』で、バーチャルとは「虚構」や「仮想」という意味ではないと繰り返し強調している。著者によればヴァーチャルリアリティとは、みかけや形はそうではないが実質上、効果としてはは同じであるもの、すなわち「現実のエッセンス」であって、虚構や仮想といった言葉とは正反対の概念であるという。だから仮想現実という形で日本語に訳するのではなく敢えてカタカナ表記のままがベターであると。しかし「ヴァーチャルリアリティ」とはつくづく難しい言葉であると思う。考え出すときりがないのでやめておくが。
このあと本書は、VR実現のための要素技術の話になる。視覚の話も興味深くはあるが、特に触覚を再現するための装置の話が面白い。触覚の技術は開発が遅れているが、人間の現実感の閾値は触覚に関してはかなり甘いらしい。意外とリアルに再現できるようになる日は近いのかもしれない。
なお神経再生型電極の話のところで(P.56)、幻肢は「腕や手から脳に至る神経系が残っているために起こることによる」と書いているが、これはラマチャンドラン『脳のなかの幽霊』を一読した人であれば間違いであると気づくだろう。
また後ろの方で相互テレイグジスタンスのための要素技術として紹介されている、再帰性反射材を塗ったものをハーフミラーを通して見るという技術は、10/26-29まで東京ビッグサイトで開催されている国際ロボット展でデモンストレーションが行われていた。見たい人は見に行くといい。
こういうとあまり良くない本みたいだが、そうではない。さらさらと、そつなくまとめられているということだ。だから逆に「特徴」がなくなっているのである。まあ考えてみれば当たり前で、これはおそらく、僕らは著者らが書くものが日本のサイエンス・エッセイだと思って育った世代だからだろう。
何も例を挙げないのは寂しいので一つだけ。「揚力は空気の遠心力によって生まれる」という説明は、「ああ、なるほど」と思わされるものだった。流体力学の先生が言った言葉だそうなのだが、著者自身も「なぜ、過去にこうした理屈づけがなかったのか不思議になる」と書いているほど「ああ、なるほど」と感じる言葉であった。
科学の話をいろいろ聞いていて感じる喜びは、この「ああ、なるほど」に集約されているとも言える。「ああ、なるほど」体験をしたいからこそ、科学をやるのである。
とはいうものの、本書の核心はそういうところにはない。また図版が多いことは嬉しい。本書は繊維、特にハイテクで作られた高機能高性能繊維の話である。繊維いろいろを知りたい人は必読かもしれない。
著者はとにかくバイオミメティクス、つまり「自然に学ぶ」ことの必要性を強調する。合繊は高性能の繊維だが、天然繊維は高機能の繊維という違いがある。そこをなんとかまねして高機能高性能を目指そうということである。
当然、本書でも『生物の超技術』にもあったカイコ、すなわち絹の話には大きく紙幅を割かれている。おもしろいのが、人間の髪の毛が伸びていく過程も重合紡糸(重合成形)として捉えて論じているところだ。なるほど、繊維として捉えるとそういうことになるのか。
無知で何にも知らなかったのだが、最近の高次元材料としての繊維は、断面の形が実に多種多様なのだ。これは写真を見てもらいたいのだが、海島構造、米型分割構造、多相構造、ミカン型分割方式などなど、実に変わった形をしているのである。こういうふうに繊維に加工することで、様々な機能を持たせているのだ。
誰もが知っている例として「透けない水着」がある。あれは、なぜ透けないのか。繊維の中に光の透過率を下げるための芯が入っているからなのだが、重要なのは、その形が8角形の星形をしていることにある。アルデンテのスパゲティみたいに、ただ芯があるだけではダメなのだ。この構造によって、どの方向から光が来ても乱反射させて透けないようにしているのである。
一方、濡れると模様が浮き出る水着というのもある。これは浮き出る模様部に撥水加工を施しておくことにより、柄を浮き上がらせるものだ。もともとは競泳用水着で使っていた技術を応用したものだという。
またモルフォチョウの羽根で有名な構造色というものがある。表面にある複雑な構造が光を干渉させ、それによって七色に輝いて見えるというものである。玉虫の羽根も同じしくみで輝いている(もっとも最近は「玉虫色」というのは良い意味には使われないようだが)。これを人工の繊維でまねた構造性発色繊維というものもある。また羊毛をまねて作った捲縮繊維、綿にまなんだ中空繊維、絹鳴りのする合繊、中には魚のうろこをまねた撥水加工を施した水着など、さまざまな生物模倣材料が登場している。生物材料の持つ「複合構造、異型構造、表面構造、形態美、触媒機能」に学ぼうという動きが盛んなのだ。
繊維は、最小材料最大強度が必要なところにもまた力を発揮する。航空宇宙材料のほか防護材やタイヤなどに使われている繊維強化複合材料の類は、軽く、上部で、変形しにくい材料には最適なのだ。本書ではケブラー、テクノーラ、ベクトランなどが紹介されている。
この商品名ベクトランとはポリアリレートという繊維で、火星探査機マーズパスファインダーが火星に着陸するときのエアバッグとなった非常に丈夫なスーパー繊維である。
これからの繊維は、インテリジェントな機能が要求され、それに応えるようになるという。外的な刺激に反応し、応答する繊維、インテリジェント繊維が登場してくるという。最後はリサイクルの話でまとめられている。
繰り返しになるが、もうちょっと手をいれればよりよい本になったろうに。残念だ。
そのくらい有名な人でありながら、名前はあまり知られていない。だがヴェサリウスこそ人体構造の知識を解剖と観察のみから得るべきだと提唱した人物なのだ。冒頭、ヴェサリウス以前、13世紀〜15世紀の頃の解剖図のあまりの稚拙さにただただ驚くばかりである。見て頂くほかはないのだが、本当にびっくりする。まるで子どもの落書きで、本気で人体がこうなっていると思っていたのだろうかと思うほどだ。ガレノス説を盲信し、中世的な解剖書から講義を行うだけだった医者が多かった当時、彼の苦労は察するにあまりある。だが若者達からは大いに支持されたという。いつの世も同じらしい。近代医学は解剖学から始まった。つまり近代医学はヴェサリウスから始まったのであると著者はいう。
レオナルド・ダ・ビンチは天才とされる人物だが、彼でさえ虚心坦懐に観察するという域には達していなかった。そのためレオナルドの解剖学は「後世に影響を与えることなく埋もれて」しまった。ヴェサリウスのほうは医学という体系を作り上げることになった。その違いはどこにあったのか。著者は「学識」の差にあったという。正規の学校教育をしっかり受けたヴェサリウスとそうでないダヴィンチの差であると。その結果、ダ・ヴィンチは「つまみ食いのいいとこ取り」に留まったが、ヴェサリウスは枚挙網羅主義で人体のすべてを扱うに至った。そしてそれが体系、枠組みへと繋がった。
著者は「体系」を重視している。「体系は、新しい発見や発明を生みだし、その進歩がまた体系そのものを育てていく」。つまりひとたび体系、ある種の枠組みをつくってしまえば、それが自ら成長していくきっかけとなるのだと。ダ・ヴィンチの解剖学が後世の医学に影響を残さなかったという話をされると、たしかにそうかもしれない、と思わされてしまう。一人の天才がぽっと何かをするだけではだめなのかもしれない。
本書は内容的には重複が多く文章もくどく、あまりおすすめはできないのだが、科学史に興味を持つ人なら買ってもいいかもしれない。他に類書がありそうでないからだ。
著者は解剖というものについてこう語っている。
医学部における人体解剖とは、人間の生き方を変えてしまう、強烈な、そして教育的な体験である。その体験は、現在では医学生の教育の中の重要な要素となっている。人体の構造を3次元的に理解するというだけではない。自分と対等な一人の人間の身体をメスで切り刻むという行為の重さを、全身で感じ取るのである。最近はその「重み」とやらを全く感じていない奴もいっぱいいるみたいだが、解剖は、一度体験してみたいものの一つである。
月面基地の建築構法には円筒型モジュールを利用するもの、風船を膨らまして空間を作るインフレータブル構造を使うもの、コンクリートを使ったモジュールのもの、ドーム状のものなど様々なものが検討されている。そのどれを使うにしても月に降り注ぐ宇宙線や隕石らの防護のため、月面基地はレゴリスによって被覆されることになる。コンクリートは月で作ることができると考えられている。月のレゴリスにはイルメナイトや灰長石が含まれているが、これらの鉱物は酸素、鉄、セメントなどの原材料とすることができるのである。またもちろん月にはヘリウム3がある。将来、重水素−ヘリウム3の核融合が実現できれば貴重な資源となる。
月で作業する建設機械(もちろん探査のためのローバーなども同様だが)は、高真空という厳しい条件で動作することが要求される。高真空だと何が困るのか。まずエンジンが使えない。モーターを使わないといけないが廃熱もまた問題になる。可動部分には普通グリースなどが塗られているが、それも蒸発してしまって使えない。そのため固体潤滑方式というものが使われているという。またレゴリスは帯電していてまとわりついてくる。それがギヤなどに入り込んでくるのを防ぐ必要がある。
著者の一人は楽観的に21世紀の前半には基地ができているだろうと語っている。そう願いたい。
私はいまだに覚えているのだが、昔はたいへん学識のある人には、知られていることをすべて知ることが可能だった、と子どものころに聞かされた。そして、今日では、知られていることがあまりにも多すぎるので、たとえ生涯をかけても、その小さな一部分しか知ることはできないのだ、と。私は後の方の話にびっくりし、がっかりした。実際、私はそれを信じようとしなかった。本書はこんなふうに始まる。
この考え方はあまりに突拍子もないとされ、今でも「正統派」ではない。だが完全に無視されているような、いわゆる「トンデモ」でもない。一方、やはり「考慮に値しない」と断言するものもいる。この辺については『量子論の宿題は解けるか 31人の研究者に聞く最前線』講談社ブルーバックスあたりをめくって頂きたい。ドイッチュも冒頭でインタビューされている。また『もう一つの宇宙 量子力学と相対論から出てきた並行宇宙の考え方』講談社ブルーバックスという本もある。
なお正統派の解釈は「コペンハーゲン解釈」と呼ばれているが、ドイッチュによれば「コペンハーゲン解釈」とは「実在の本性に対する量子論の含意を回避しやすくするためのアイデア」でしかない。これは各章末についている用語解説からの引用だが、まるで『悪魔の辞典』である(笑)。
なお東大の和田純夫氏によれば、この「解釈」問題を考えている研究者の間では、広い意味での多世界解釈のほうが「本流」であるという。つまり私が「突拍子もない」と書いているのは間違いで、なおかつコペンハーゲン解釈は実用上多くの研究者がなんとなく採用している考え方といった言葉のほうがふさわしいとのこと。
結局のところ、物理学者の中でも「解釈」の問題をいろいろ考えている人間はそれほど多くはおらず、ほとんどの人は実用上多世界だろうがなんだろうが関係がないと思っているが、量子論の解釈問題を真面目に考える人の間で多くの注目を集めているのは多世界解釈だということらしい。つまり「突拍子もない」かどうかは立場の違いによって全く変わってくるということらしい。追記しておく。
さて、その彼が世界の見方、世界観をつらつらと書いたのが本書である。ドイッチュは全てを理解するための「万物の理論」を求めている。彼が言う「万物の理論」とは統一論のような還元主義的なものではない。かといって全体論のようなものでもない。彼が「実在の織物」と呼ぶ世界全体を把握し理解するための、ひとまとめの理論である。
彼によればそれは以下の4つから構成されている。量子物理学、認識論、計算理論、進化論。この4つが深いところで相互に結びつき、4本の撚り糸をなし「実在の織物」を為している。その結びつきはあまりに深いため、4つをひとまとめにして理解しなければ「実在の織物」つまり世界は理解できないというのが彼の立場だ。話は平行宇宙の考え方からうヴァーチャルリアリティー、計算論、生命の意義、量子コンピュータ、プラトン的数学観について、時間論(ドイッチュによれば時間は流れるものではなく「他の時間とは他の宇宙の特別な場合に過ぎない」)、タイムトラベル、最後は「知識」は基本的な意義を持っていると語り、ティプラーのオメガ点仮説の話にまで至る。
わけわかんねえ。そんな言葉がぴったりの本だった。
私はもともと認識論とは相性が悪いのである。たぶんそのためだと思うが。
本書をめくると、ドイッチュは「実在(=世界)は了解(理解)可能である」という信念を持っていることが分かる。そしておそらく、これが第一の、そして唯一の主張であろう。
ただ…、これは私のカンでしかないのだが、どうもドイッチュは「計算とは何か」という話から、生命そのものが、ある種の量子コンピュータだと言いたかったのではないか。はっきり書かれてはいないので単なる当て推量なのだが、どうだろう。
なおこれは、脳が量子コンピュータだと言っているわけではない(彼は脳は古典的コンピュータだと思うと語っている)のでそのつもりで。どうもそんな気がしてならないのだが、誰か直接聞いて欲しいものだ。
この本、これだけ幅広い話題を扱っているのに索引がない。不便だ。