視点は一つ。「ライフスタイル・ドラッグ」がキーワード。「日常生活を改善する薬」、それがライフスタイル・ドラッグである。本書が取り上げた内アルツハイマーはちょっと別だが、ハゲとインポ(これには心因性のものも含まれる)が古典的な意味で言う「病気」かということになると、なかなか難しい。だが本人が悩み苦しんでいるならそれは改善されるべきであるという考え方のもと、患者の発掘が行われているのである。「発掘」と言いはしたが、実際のところ消費者からのニーズもある。そして何より、この業界は儲かるのだ。それだけに僕らは注意しつつこれらの薬を利用する必要がある。
さて本書。まず創薬の現在について簡単に述べられる。かなりややこしい理屈のもとに作られる薬もある一方、かなり乱暴に虱潰ししていって発見される薬もある。それどころかバイアグラのように副作用が本作用になってしまうある薬もある。薬開発は「効果が先、科学は後」になることがしばしばで、その道はなかなか厳しい。だが機序が科学的に解明されているものもある。私自身の復習のためにも、ちょっと丁寧目に内容をおっていくことにしよう。
まずハゲから。
ハゲは代表的な男性ホルモン・テストステロンに関係がある。だが、テストステロンの分泌量とハゲがぴったり相関するかというとぜんぜんそんなことはなく、男性ホルモンの感受性によるらしい。ハゲが進行度合いが頭頂や後頭部でバラバラなのもそのせいらしい。だが感受性が違うからハゲの進行度合いが違うのだと言ったところで、だからどうしたという気がする。著者の言い方に寄れば「なにも説明していないにひとしい」。
じゃあ今も分かっていないのかというとそうではない。キーワードは「5アルファ還元酵素」とCMでおなじみ「毛乳頭」である。
プロペシアはもともとは前立腺肥大症の治療薬であった。前立腺肥大の原因はホルモンバランスの失調。テストステロンが酵素によって化学変化を起こしてできるジヒドロテストステロン(DHT)という物質の増大が原因である。じゃあテストステロンを減らしてしまえば良いじゃないかと誰しも思う。抗男性ホルモン薬もある。ところがテストステロンをいたずらに減らすことはインポテンス他の副作用があってなかなか難しいのである。そこで、テストステロンをDHTに変える酵素「5アルファ還元酵素」をなんとかしようという話になった。
ここで毛乳頭が登場する。毛乳頭に5アルファ還元酵素が多く存在することが分かったのだ。テストステロンは毛乳頭で5アルファ還元酵素によってDHTに変えられていたのである。そして場所によってハゲ具合が違うのは男性ホルモン受容体の量や、酵素のタイプが違うためであることも判明しした。
そしてこの酵素を阻害する薬フィナステリドは、禿げやすい前頭部に多く分布する還元酵素の働きを阻害することも分かった。こうしてフィナステリドはもともとの目的・前立腺肥大症の薬「プロスカー」としてだけではなく、飲むハゲ薬「プロスペリア」としてもFDAによって認可されたのである(日本では未認可)。この薬にもやはり精力減退という副作用はあるのだが、その辺は患者自身が判断せよということになっているらしい。アメリカらしい発想である。
なお発毛メカニズムにはまだ謎がある。たとえば「同じ男性ホルモンの影響下にありながら、なぜヒゲやワキ毛や陰毛は思春期になって短期間に生えてくるのか。一方では毛髪が薄くなるのに、なぜ一方では発毛が起こるのか」。これもまだ分かってないらしい。
本書で触れられている「ロゲイン」ことミノキシジル、日本での商品名は「リアップ」の話は一般ニュースでも取り上げられていたが省略。詳細は本をめくって下さい。
次にバイアグラ。これがもともと心臓病の薬であったことは有名だが、やはり簡単にまとめてみる。
「シルデナフィル」。バイアグラの物質名であるこの薬は、当初「心臓病の冠動脈にみられるホスホチンジエスエラーゼ(PDE)という酵素を阻害する目的でつくられていた」。試験してみたのだが、ところがこの薬、効かなかったのだ。そこで回収となった。しかし一部の試験参加患者はこの薬を手放そうとしなかった。そう、勃起不全が快復していたのである。
この作用機序はどうなっているのか。そのためにはまず心臓発作の薬として使われる、ニトログリセリンの話から始める必要がある。ニトログリセリンは、それ自体が効果を持つのではなく代謝されNO(一酸化窒素)となったあとで働く。NOは血管弛緩を起こし、さらにはcGMP(サイクリックグアノシン1リン酸)が作られるように働きかけ、筋肉を弛緩させるのである。
で、先に名前の出たPDEはcGMPを分解するように働く。つまりバイアグラはPDEの働きを阻害してcGMPの分解を止め、平滑筋をリラックス&陰茎の動脈血管を弛緩させ、勃起を維持するのだ。こういうわけである。なぜ陰茎動脈だけを弛緩させるのかというと、それはやはりPDEにもいろいろとタイプがあったからだ(だから逆に心臓病の薬としては使えなかったのである)。
さらに著者はこう付け加えている。
この作用経路の中で書き落としてならないのは、NOが放出されない限り、cGMPもつくられないということである。NOが放出されるのは、性的刺激を受けた神経の働きによるのであって、性的刺激がなければ、シルデナフィルを服用しても勃起は起こらない。ということは、塩酸パパベリンやPGE1とくらべて、自然な勃起が得られるということになる。なるほどー。バイアグラが有力な薬である理由の一つはこういうことだったわけだ。
また、海綿体と血管と平滑筋が健在であるなら、たとえ陰茎にいたる神経の回路に一部損傷があっても、性的刺激があれば勃起を起こすことは可能だということになる。(本書P.100より)
次はアルツハイマーの薬。
アルツハイマー病の本当の原因はまだ不明である。不明というより、混沌としているといった印象がある。もうちょっと違ったアプローチが出てこないと今のままではなかなか難しいのではないかと思われるのだが、実際のところはどうなのだろうか。
それはともかく「アリセプト」は、アルツハイマーの症状の原因はアセチルコリン欠乏であるという考え方のもとに開発された薬である。つまり対症療法だ。開発者は日本人、エーザイの杉本八郎。申請後わずか半年で認可されたばかりか、1998年度「薬のノーベル賞」ことガリアン賞特別賞を受賞した「ファーマドリーム」を実現した薬である。本書では波乱に富んだ15年にわたる開発の歴史が語られる。自ら痴呆症で母を亡くしたという開発者・杉本の生の声がもうちょっと聞きたかったが、著者がジャーナリストの本領をいかんなく発揮し、面白い読み物となっている。
疲れてきたのでここまで。ま、本を読んで下さい。
この著者には他に『宇宙のからくり』などの著書がある。これは非常にわかりやすい本だったが、本書を読んでの感想は「物理をわかりやすく伝えるって難しいなあ」というものだった。
いや、別に本書の内容が悪いわけじゃない。本書もかなり分かりやすいのだが(これ以上分かりやすく解説することは不可能に近いかも)、でもきっと、ダメな人はダメなんだろうなって思ってしまうのだ。
本書は「静電気の発生メカニズムにはじまって電気を説明し、電気と磁気との関係、光の正体、そして原子の構造および光の発生メカニズムを純を追って説明しています(まえがきより)」というもので、大学教養の初等レベルくらいの物理の概念をやさしく説く。だから読者対象もおそらくそういう人だろう。概念を説くものだから式は登場しない。
電場や磁場の関係、電子と光の関係、スピンなどなどがかなり分かりやすく説明されているので、数式を追っていて逆に自分が何をやっているのか分からなくなったときなどにめくり直すには良いと思うが、一度は高校物理を習った人間でなければ混乱してしまうかもしれないので注意が必要。なお念のためにもう一度繰り返し付け加えておくと、分かりやすい大学教養の講義といった感じで、特に「目新しい」内容はない。だからそういう内容を期待する人には無縁の本である。
しかしそういうものでも、こうやってちゃんとした啓蒙書になってしまうのである。逆に言えば現代の物理がそれだけ一般人から遠いということなのかも、と皮肉に感じた。
と、他人事のように言っていてはいかんのだが。他にはどんな方法があるのだろうか。真面目に考えてみなければ。
僕はひねくれ者なので、「大丈夫か?」と声だけあげても無力だと思うし、ただそれだけの本には反感を抱いてしまうのだが、本書はちょっと違った。著者の文体の中には押しつけがましさがない。ただ海が好きなんだという気持ちが嫌みなく伝わってくるエッセイに仕上がっている。こういう文章を書くのは実はかなり難しい。というわけ環境エッセイとしてはマルをつけておく。
さて、その上で。食品は物質としての特性のみならず、「摂取する生体に与える効果、すなわち『機能』によって解析されるべきであるという新しい考え方が必要になってきました」と著者は言う。新しい考え方かどうかは受け取る側の問題だと思うが、この点については著者に賛成する。だがそこで著者が言うところの「機能」が、実は○○を食うと××を予防できる可能性がある、といった程度のものであるのにはなんだか拍子抜け。世の中がそういうものを求めているのは分かるし、『発掘あるある大辞典』みたいな番組が好きな人にはこれでも良いのかもしれないが。図表も多いしね。
だが、食品は一面だけで語れるものではないことが、本書からは(意図してか無意識にかは分からないが)すっぽり抜けているように思えてならない。本当は一つ一つ挙げていこうと思ったのだが、なんだか面倒くさくなってきたのでやめ。
とは言っても、世の中ではこういう本が売れるし、また機能性食品市場もどんどん拡大していくんだろうけど。
本書が全くつまらないのかというと、そんなこともない。ごくごく普通のレベルには達していて、それなりには十分面白い。ただ、このジャンルには既に多くの先達がいる。本もいっぱいある。わざわざ値段のバカ高い本書を買う必要はないでしょう、ということだ。ネタも残念ながら「初めて聞いた!」というものはなかった。
ちょっと辛すぎるかもしれないが、以上。
さて。熱帯雨林とは「ジャングル」ではない。ジャングルとは藪のことを指し、本当に成熟した「熱帯雨林」では草やつるはそれほど生い茂っていないのだそうな。熱帯雨林とは「常緑広葉樹によって構成され、最低でも30mの高木からなり、木本性や草本性のつる植物と着生植物がひじょうに多いという特徴を持つ熱帯域にある森林」と定義されているそうだ。光の90%以上は森林の表面で吸収/反射される。本書ではまず林冠生物学の研究手法の紹介から始まる。熱帯雨林が平行状態にあるのか非平衡状態にあるのかについてもまだ議論があるのだという。
一般人にとって熱帯雨林といえば様々な植物や昆虫だ。よくTVでも太い幹にまきついたつる植物が出てくる。寄生していて楽チンじゃないかと思うかもしれないがそうではなく、水と栄養塩の不足は深刻で、葉は水を逃がさないように分厚いクチクラ層で覆われている。中には葉を組み合わせて「ため池」を作る植物もあるのだとか。
さらに面白いのが栄養塩問題の解決法である。自分の葉をできるだけ落とさず、さらに高木の落葉をキャッチするのはもちろん、中には栄養摂取型アリ植物と著者が呼ぶ植物は、アリに自らの体の中の空洞部を巣として提供し、アリが捨てる排泄物からリンや窒素を吸収するのである。
このアリと植物の共生現象は非常に面白く、被食防衛型のアリ植物というものがいるそうだ。アリに住処と餌を提供することによって、アリをガードしてやとっているのである。どういうことかというと、被食防衛型アリ植物に住むアリは非常に攻撃的で、植食性の昆虫や哺乳類から植物(つまり住処)を守るのである。さらには他の植物が害をなす──たとえばつる植物が巻き付いてくるとそれを大アゴで刈り取ってしまうのである。つまり「草刈り」をするのである。まさに、進化おそるべしである。
なぜ熱帯雨林には多くの生物が住み、さらには変わったものが多いのだろうか。著者は珍奇な生態を持つ生物が多い理由を「たくさんの生物が共存していることの効果」と推測する。生物間相互作用の多様さがその理由であろうというのだ。なかなかすっきりと分かったようには感じ取れないが、面白い話だ。
本書の著者には、できれば一度話を聞いてみたい。通読して、そのほうが面白い話が聞き出せるんじゃないだろうかと感じた。つまり、もったいないなと思ったのである。ネタは面白いんだけど料理の仕方が間違っているという感じ。損だ。
あとがきはほとんど、故・井上民二氏への献辞。
著者は、現在の研究が「物質としての脳のふるまい」中心で、本来より大きくかつ本質的な問題であると考えられる心の問題がまるで刺身のツマのように扱われていることに大きな不満を抱いているようだ。だが今のところ著者自身も心は脳の随伴現象であるという「定説」に従っており、話はそれに応じて進む。つまり、心の中にクオリアなりポインタなりが生ずるメカニズムはいったいどんなものかというわけだ。著者は「マッハの原理」のような、つまり相対的な考え方が脳と心の関係を考える上で本質的に重要だと主張する。つまり、あるニューロンの発火の意味は他のニューロンの発火との相対的な関係によって決まるというわけだ。
そんなこと当たり前じゃないかという立場に対して、著者は真っ向から反論する。すなわち、ある事物を示したときにどうニューロンが発火するかという「反応選択性」の考え方は、その対応関係を外部から観測する第三者がいて初めて成立するものである。一方わたしたちの心の中の表象は第三者による対応づけなど関係ない脳の中のニューロンの発火のみに基づいている。これこそ本質であると著者は強く主張する。
つまり発火パターンと外界の事物との対応関係を決めるという考え方は、それぞれの場合において脳がどのような情報処理をしているかという機能主義的な立場では有効であるものの、心脳問題については無意味であると言うのである。
ふーむ? というところなのだが著者は機能主義において有効な「反応選択性」と「マッハの原理」とでは本来対象としている問題領域が異なるのだと続ける。著者による具体例を引用しておこう。
具体例として、私が目の前にある薔薇の花を見て、その結果、私の心の中に、「薔薇の花」の表象が生じ、私が「薔薇の花」を認識したとしよう。このとき、私が外界にある「薔薇の花」を見て、私の心の中に「薔薇の花」の表象を生じるまでのプロセスは、次のように二つに分けて考えることができる。もうお分かりだろうが、第一段階が反応選択性概念が扱う領域、第2段階がマッハの原理が扱う領域であると著者は言い、議論を進めていく。第一段階
網膜から「薔薇の花」の光学的刺激が入力し、その結果、「薔薇の花」に反応選択制を持つニューロン(群)の発火パターンが生じる段階。
第二段階
「薔薇の花」に反応選択制を持つニューロン(群)の発火パターンが生じた結果、その随伴現象として、私の心の中に「薔薇の花」の表象が現れる段階。
さて、もう一つ重要な考え方(というより、これは事実)が本書では提示される。私たちの心の中に(クオリアでもなんでもいいが)表象を生じさせるためには有限の時間が必要である。つまり、あるものを見た「瞬間」にその物体に関するクオリアが感じられるが、実際には「瞬間」ではないということだ。ニューロンの発火が伝わる時点で生じる物理的な経過時間が心理的には一瞬に「潰れている」のである。これはなぜか。著者はこの問題を非常に重視しており、ペンローズの出した「ツイスター」という概念でこの問題が解けるのではないか、そしてそれが本質的に心脳問題に深く関わっているのではないかと考えているのだが、本書ではごく簡単にしか触れられていない。これは残念。
もう一つの本書のポイント、「ポインタ」という概念の話に移ろう。「私」という視点が生じるのはなぜかという疑問を著者は発する。すなわち主観性の問題である。本書では「両眼視野闘争」を具体例として主観性の神経生理学的な基盤の問題が論じられる。両眼視野闘争とは右目と左目の視野をどう一つにまとめるかという問題のことで、この現象そのものは立体映像の研究者らのみならず、誰もが体感していることである。その実験を通して著者は「私」が心の中にあるものを「見る」ためにはクオリアだけではダメだということに思い当たる。
著者は心脳問題を考える上で視覚的アウェアネスが重要であるという点にはクリックとコッホらに賛成しつつも、盲視(本書ではブラインドサイト)を例に視覚的アウェアネスには高次視覚野のみならずV1の活動が必要条件だと主張する。そして両者を整合させるために、私たちの心の中では「ポインタ」と「クオリア」が一つになって機能しているという考え方を提唱するのである。
その他、結合問題などについても触れられているが、本書のざっとした内容はこんなところである。丁寧めにレビューしたのは本書の内容がなかなかややこしく、自分の頭を整理するため。その分刺激的な本ではあった。ただ、まだまだ研究の端緒であるという印象は否めない。だから面白話を期待する人は、あれ?と思うことだろう。
それはおそらく、本書が普通の科学書とちょっと性格を異にすることから来ている。まず、本書は研究終了後に出てくるタイプの本、つまり「かくかくしかじかのことが分かりました」という報告書ではない。著者の問題意識や考え方が書かれている本なのだ(そういう面では先月レビューした『ミクロの社会生態学』とちょっと雰囲気が似ているかもしれない)。
つまり、研究者自身が自らの考え方を世に提示し、問うタイプの科学書である。本書の内容──著者の考え方は全て現在進行形である。著者自身の中でもまた変わる可能性もあるだろう。欧米人はこういうタイプの本も良く書くようだが、これまで日本人にはあまりいなかったように思う。だがこういう本が世に出てくるということは、日本人研究者の考え方も変わりつつあるということなのかもしれない。そう思いたいところだ。
各章ごとに要約が入っているのはありがたい(本書全体の要約も337ページにある)。でも通読してもいま一つ主張がよく分からない。言語の起源と進化という問題に挑むべきだというのは分かるけども。そんなこと当たり前じゃないかと思えてしまう。だが言語学の世界では、そう当たり前のことではなかったらしい。意識や心の問題と似たようなものか。本書にもやはり「心の理論」の話は出てくる。
というわけで、訳者あとがきによると本書は「著者の博士と天才によって初めて出現しえた書」であるそうなのだが、私にはその凄さが分かりらなかった。また本書115ページでの「脳が先か、言語が先か」という議論について著者は、言語は脳が大きくなったことの副産物としてできたという割には複雑すぎると言っているが、これなどは根拠のない思いこみであろう。脳の研究者ならおそらく全く正反対の意見を言うことだろうしね。
ただ、読み物としては言語の不思議な特徴を上げていく第一部「謎」と第2部「起源」はそれなりに面白かった。だがこのように現在使われている言語をうまく説明できるものを探す試みが本当に言語の起源や進化を探ることに繋がるのだろうか。これは僕が言語学一般に感じている疑問でもあるのだが。
本書著者は1994年7月に木星に衝突した<シューメーカー・レビー第9彗星>の発見者の一人である。1993年3月23日、「使い残しのフィルム」にそれは写っていたという。うーん、やっぱそういうのはたまらないんだろうなあ。
中身だが、もちろん科学的な記述は含まれているが、本書は基本的に彗星に関するエッセイである。いわゆるサイエンス・エッセイだ。一冊にまとめられてはいるが各章は基本的には独立しているので、バラバラでも読める。いちおう、頭から読んだほうが良いように構成されているけども。まず彗星の概略から始まり、地球誕生から現在に至るまでを追って、彗星が生命の進化や誕生において、重要な役割を果たしたと述べられている。彗星は「生命のゆりかご」であったかもしれないし、一方「悪魔のハンマー」でもあったことだろう。
具体的な内容は、彗星本体、そしてカイパーベルトやオールトの雲の話は当然として、昔は彗星が大気中の現象だと考えられていたなど、彗星の科学史などにも触れられている。この辺は面白い。あとはやっぱり衝突の話など。
また彗星のみに留まらず(というか彗星だけでは一冊にできなかったのか)例の火星由来隕石ALH84001の話も出てくる。巻末は1999年5月22日にシューメーカーレビーのような彗星が、14ヶ月後には地球と交差する軌道をまっしぐらに突き進んでいると発見されたら…という仮想の話で締めくくられている。
基本的には面白いのだが、内容には問題がある。どうやら著者は彗星には詳しいが、右左を見るほどの度量は持ち合わせていないようだ。レビーに言わせると地球の海は彗星由来であり(脱ガスだけでは絶対に足りないというのだ。当然のことながら生命の材料となる有機物も彗星由来だと言っている)、恐竜絶滅の原因も彗星(または小惑星)のみのせいなってしまう。レビーはこれらがあたかも確定した説であるかのように書いているが、地質学者は大いに反論したいところなのではなかろうか? ある分野では「定説」になったと言われることでも、ちょっと目をずらして隣接分野に話を聞くと全く違っているというのはよくある話なのだ。地球形成初期に彗星がバンバン衝突したというのは本当だろうけども(そしてその度に生物が大きな影響を受けたことも)。
自分の研究フィールドの成果のみを信じ、それのみをあたかも事実のように言い張るのは科学者達の悪い癖である。特に、この「海」の起源の話にはその傾向が強いように思う。少しはお互い、横の意見も尊重してはどうだろうか。今の段階ではそもそも議論すらしているのかどうか疑問だ。
聞くところによると、彗星の研究者というのも世間で思われているほど多くはいないそうである。ということは、一人一人の研究者の社会的責任はたぶん本人達が思っている以上に大きいということだ。いろいろと頑張って頂きたいところである。
前ふりが長くなってしまった。本書は人間の心の不思議さをこれでもかと突きつける本である。切断された四肢の感覚がいつまでも消えない幻肢、見えないのに見えている盲視、二つの視覚路と「ゾンビ」、幻覚をありありと見る人々、盲点への「書き込み」、半側無視、鏡失認、麻痺の無視、カプグラ症候群、側頭葉てんかんと神秘体験、サヴァン症候群、自然緩解と想像妊娠(心身相互作用)、多重人格について、最後にはクオリアについての考察で締めくくられる。とにかく盛りだくさんなのだ。書評屋の端くれとしては、本書を起点として色んな本を薦めたくなるタイプの本である。是非一読してもらいたい。
盲視や幻肢はこのウェブサイトでも何度も紹介したので省略する(たとえば『心にいどむ認知脳科学』『ニューロンから心をさぐる』『視覚の謎』などを見よ)。最近いろいろと話題なのが「ゾンビ」という考え方だ。我々の中には意識を持たない「ゾンビ」がいる。ゾンビは意識を持たないが複雑な行動をすることができる。いや、ゾンビの行動は「意識」に上らない、といった方が正確だろうか。我々のなかには意識に関与する知覚経路と関与しない知覚経路がある。この二つは普段は連携して働くので、我々はまったくそのことに気が付かない。だが確かにゾンビは我々の中にいる。
著者はそのことを実験で示す。同じ大きさの円盤を描く。一つは小さな円盤で囲む。もう一つはより大きな円盤で囲む。そうすると中心の円盤の大きさは、全く違っているかのように見える。よく知られた錯覚である。
これを立体で再現してみる。やはり片方が大きく、もう片方が小さく見える。ここで、真ん中の円盤を取るように指示を出す。すると我々は、どちらの円盤を取る時も全く同じだけ指を開く。つまり、「目」は錯覚を起こしているのだが、「手」は錯覚していないのだ。これは視覚経路が2種類(本書では「何」経路と「いかに」経路)に分かれていることによる。そしてその一方の経路、すなわり「ゾンビ」は騙されないのだ。
面白いのは著者がここからちょっと妄想することだ。我々は日常生活上、あまり考えず、「感じ」たほうがうまくいくことがある。特にスポーツにおいてそれは顕著だ。「クオーターバックは、フィールドの空いた地点にむかってボールを投げる。受け手が、タックルされなければどこに行くかを計算しながら投げているのだ。外野手はボールがバットにあたった音を聞いた瞬間に走り出す。頭頂葉の『いかに』経路が、聴覚入力からボールが到達しそうな地点を計算するかのようだ」。
つまり「あなたのなかにもう一つ別の存在がいて、あなたの知らないあるいは気づいていないところで、自分のすべきことをしているということを示している。そして、そういうゾンビが一つだけでなく、あなたの脳のなかにたくさん存在する。もしそうなら、自分の脳に単一の『私』あるいは『自己』が存在するというあなたの概念は単なる幻想かもしれない」。これは本書の中で繰り返される主題でもある。
著者は臨床現場で患者を診ながら、様々な実験も行っている。実験というのはある仮説を立てて行うものである。そのためか、序文を書いているサックスの本と比べるとこちらのほうがより著者自身の考えがバンバン出てくるのが特徴だ(サックスの本は淡々としている)。
他にもご紹介したいところはいっぱいある。著者の多重人格に対する考察や、神秘体験に対する考察はなかなか(いやかなり)議論を呼びそうな内容である。取りあえず、お読み頂きたい。
追伸:
本書の原題は"Phantoms in the Brain"である。養老氏は解説の中でこれは"Ghost in the Machine"をもじってつけたのだろうと言っている。だが本当にそうだろうか? たしかに、一見そんなふうにも思えるのだが、私は、これは本書の核心にも関わることだと感じている。本書でラマチャンドランは「自己」というものはなんぞやという問いに対して、Ghostのような単一のもの、実際に存在するものといった感覚のものではなく、Phantomsのようなものだと考えている、あるいは考えるべきだということを、示したかったのではなかろうか。つまり結局、"Phantoms in the Brain"とは、"Ghost in the Machine"をもじったというよりは、それに対する否定、あるいはイヤミなのではなかろうかとぼんやり思っている。
だが、著者の主張は序章と第5章「動物園・水族館はいらないか」にある。こうだ。
いま、水族館は生きている「珍しい魚」を見せるところではなく、珍しい魚の「生きているところ」を見せる場所になったといえる。動物は、いや植物も含め、自然の中でその生物独特の生き方をしてきたから生き残ったので、姿かたちも修正も生き方の中から形作られてきたのだ。10種類の生物がいたら10通りの生き方があることになる。かつてはただの見せ物で子供の遊び場だった水族館は、明らかに変わりつつある。その一方、水族館は希少動物を閉じこめ、見せ物にしている。動物園に対するそれと同じく、そんな批判がある。それに対して著者ははっきりとこう答えて本書を結んでいる。
水槽の向こう側の生物から、その生き方を引き出して観客に訴える。そして、その奥にある「生きていること」に限りなく迫る。そういった水族館があってもいいのではなかろうか。(序章「イワシの群れ」より)
…生き物に出会いたいという人間の願いを満たす場を一つでも多くつくっていく。そして、そこを伸びやかに活用できるようにすることが、いま必要ではないか。その一つに動物園・水族館があるといっていい。水族館や動物園は、作り手がどんなに思い入れをしていようと、結局は遊びに行く場所でしかないというのが大勢だろう。だがそれでも、「生」で「生きること」に出会える場所であることには変わりない。人間という動物の性(さが)そのものも、動物園・水族館には現れているように思う。小さな場に閉じ込めて申し訳ないという気持ちを持ちながらも、私は今日まで水族館を造ってきたし、水族館の中で生物と一緒に暮らしてきたのを間違いだとは思っていない。
本書はまずバブルボーイこと「デイビッド」の話から始まる。SCID(重症複合免疫不全症)だった少年である。彼は(本書に寄れば)およそ4,000あると考えられている遺伝病の中でも、特に重い病気を発症してしまっていたのだった。
続いて話は嚢胞性繊維症(CF)に移る。CFは上皮の表面を覆う粘液の粘性をうまく調整できないために、気道を空気がうまく通過できなくなるばかりか、どろどろになった粘液にバクテリアが感染してしまう。結果「CF患者の気道や肺では過度に濃厚な粘液の塊で組織の機能低下が起こっている」。それだけではなく、ありとあらゆる上皮性の管が詰まってしまうので、消化器系もうまく働かなくなり、子ども達は慢性の下痢で苦しむ。さらに病気が進行すると外分泌組織は繊維化してしまい、内分泌細胞を圧迫、インスリンの分泌も妨げられる。患者の10%は出生後ただちに腸管の詰まりを取り除く処置をする必要がある。現在では医療技術の進歩により患者の多くは30歳代まで生きることができるが、それもそろそろ「打ち止め」に近づきつつある。画期的な手法が必要なのだ。
CFの原因は単一遺伝子の欠損が原因である。突き止められたのは1989年。現在CFTR(嚢胞性繊維症輸送調節因子)と呼ばれる細胞膜上の塩素イオンの汲み出しに関わるチャンネルをコードした遺伝子だった。患者の体内ではこの遺伝子がうまく働かないために水の分泌がうまくいかなくなり、粘液の濃度が増していたのだ。この遺伝子のどこが変異しているかで患者の症状も異なる。さらに他の病気にもCFTRが関係していることも明らかになった。
こうして本書は、読者を分子レベルの生物学、そして分子医学の世界へ誘っていく。間に挟まれる説明は意外とスムーズで、読者は知識を得ながら自然に読み進めていくことができる。巻末には簡単な用語辞典もついている。
世界最初となったADA欠損症への遺伝子治療(その詳細は『遺伝子治療革命 DNAと闘った科学者たちの軌跡』などを参照)、CF、慢性関節リウマチ、循環系疾患、家族性高コレステロール、ハーラー症候群、筋萎縮性側索硬化症など、数多くの単一遺伝病に対する挑戦が続けられている。だが完治した患者はいない。それでもなお「遺伝子療法を推進するもっとも大きな力は、その背後にある魅力的な論理である」。現在は途上だが、やがて必ず成功するはずだ、という考えの下、研究が進められているのである。
大きな目標が二つある。ガンとHIVだ。レトロウィルスが遺伝子を導入するための運び屋・ベクターとして研究されていることはご存じだろう。通常のレトロウイルスはターゲットの細胞の核膜が消失している間、つまり分裂中にしか感染できない。ところがHIVは変わっていて、分裂していない細胞にもDNAを送り込むことができる。この性質を利用すれば(もちろん無毒化したあと)、神経組織に感染するウイルスの外皮蛋白質遺伝子を挿入してやるなどすれば、分裂することのない神経細胞に遺伝子を送り込むことができるわけだ。また、他のベクターとして用いられることの多いリポソーム(脂質粒子)にウイルスを閉じ込め「ウィロソーム」なるものを創る研究も進められているという。こうすると遺伝子導入率が飛躍的に上がったというのだ。もちろんリポソーム表面にウイルスが持つ標的細胞と結合する糖蛋白を埋め込む研究も進められている。こうすることで、狙ったターゲットの細胞に遺伝子を埋め込むことができるのだ。
がんへの遺伝子治療のターゲットは大きく言えば二つ。がん関連遺伝子そのものが二種類のカテゴリーに分けられるからだ。一つ目は外部からのシグナルに応じて分裂を指示するがん遺伝子である。正しく働いているときは良いのだが、シグナルが来ようが来まいが勝手に分裂指示を出し続け始めるとガンになる。もう一つはがん抑制遺伝子である。細胞分裂の抑制機構、つまり分裂をオフにするほうに関わる遺伝子だ。これはまた遺伝子の修復にも関与している。これらが壊れやすい/壊れているとがんになりやすくなる。
がんの治療法にはいくつか候補がある。アンチセンスmRNAによって突然変異を起こした遺伝子がタンパクを作ることを封じてしまう(相補的なRNA同士はハイブリタイズしてしまうことを利用しているわけだ)アンチセンス戦略、正常ながん抑制遺伝子を入れてやる方法、免疫活性を高めるインターロイキン(だが全身投与には副作用が大きい)の遺伝子を腫瘍細胞自らに作らせる「養子免疫療法」、特定の医薬品に対する感受性を高める遺伝子を導入する方法などなど。ベクターを生産する「パッケイジング細胞」という話などは実に面白い。そのアイデアに思わず唸る。がんは単一遺伝子による病気とは全く違うが、21世紀の医療がこれまでのものとは全く変わってしまう可能性があることを感じさせる。
HIVに対する戦いも同様だ。アンチセンス戦略はここでも有効である。第2の戦略はドミナント・ネガティブ戦略と呼ばれる。これは突然変異を起こしたDNAによって変異タンパクを作らせ、正常に働いている遺伝子によって作られるタンパクに結合させてその活動を妨げようというものだ。こうして予め細胞に優性転換突然変異DNAを入れておけば、HIVに感染したときにその増殖を妨げることができるのである。そのほか、HIVを自殺させたりするアプローチや、HIVそのものをベクターにしてAIDSの治療に使おうという考え方もある。
そのほか、DNAワクチン、ゲノム計画、そして倫理の問題となっている。疲れてきたので以上。日進月歩の領域だけに内容がちょっと古いのが気になる(ちょうど2年前のこの記事と同じくらい)。できれば訳者あとがきなどで最新の情報や日本の事情をまとめておいて欲しかった。
ちなみにウェブで検索すると「厚生科学審議会先端医療技術評価部会議事録」などが引っかかってくる。
当然のことながら主役はホルモンである。生殖機能で重要な働きをするホルモンは主に下垂体から放出される。マウスで3ミリ、ヒトで1センチほどの器官。ここから出る生殖腺刺激ホルモンが全てのトリガーとなり、男性ホルモンやら女性ホルモンやらが放出され、さまざまな生殖行動へと繋がる。
生殖腺刺激ホルモンは卵胞刺激ホルモンと黄体形成ホルモンの2種類に分けられる。卵胞刺激ホルモンが放出されると卵胞の発達が促され、エストロゲンが放出される。黄体形成ホルモンによって排卵が促される。これらのホルモンがバーッと周期的に放出されることにより、体の周期が訪れる。
では生殖腺刺激ホルモンそのものを放出させる、生殖腺刺激ホルモン放出ホルモンはどこから来るのか。視床下部の視索前野や中隔であることが分かっている。
面白いのが、この役割を持つ神経細胞は胎児のときには鼻の嗅粘膜になるところで生じて、移動してくるということである。匂いが生殖に大きな影響を与える理由も分かるような気がする。性周期の同調もこの辺の働きによるらしい。
話を元に戻すが、この近くにある視交叉上核によって排卵周期が作られているらしい。そのリズムはエストロゲンに影響されるらしい。つまりループがグルグル回っているわけだ。
ところが話はそう簡単ではない。ラットでは後尾刺激も排卵に影響するそうだ。性周期を人工的に遅らせても膣が刺激されることによって排卵が起こったりするそうだ。
性行動に重要な役割を果たす部位に視床下部腹内側核がある。ここにはエストロゲンの受容体が多く分布する。エストロゲンをここに送り込むとラットのロードーシスと呼ばれる行動は激しさを増す。ここはまた一般に「満腹中枢」として知られる部位でもある。両者の関連については本書ではあまり突っ込まれていないが、興味深いところだけに今後の研究を待ちたいところである。
妊娠しているときは黄体から血中に大量のプロゲステロンが放出される。するとエストロゲンが持つ発情効果がうち消されてしまう。また同時にプロゲステロンは乳汁の分泌も抑制している。つまり妊娠しているときは余計なエネルギーを使わないようにしているわけである。ところがマウスの場合、この時期にオスの匂いをかがせると妊娠がおりてしまうことがあるという(ブルース効果)。ところが、交尾したオス、つまり「父親」ではその反応は起きないという。同じネズミでもラットではこの現象は起きないそうだ。
交尾刺激と同時にパートナーの匂いが記憶となって残っているとしか考えようがない不思議な現象だが、現在このメカニズムの解明が進められている。今後に期待だ、これも。
本書後半は出産後の母性行動の話になる。何が母性行動のトリガーになるのか? どうも出産の機械的刺激や妊娠中のホルモンによるのではないらしい。出産を体験したことのないネズミでも母性行動が起きることから(ただし出産を経験したメスより時間がかかる。これもまた不思議な話だ)、どうやらそのシグナルは子供から発せられているらしい。つまり、声や匂いの刺激である。それがやはり視索前野に入り母性行動を引き起こすらしい。だがまだまだ謎が多いようだ。
最後には性そのものの話になるが、ここについてはページを繰ってもらいたい。
こういう話だとどうしても人間に引き寄せて考えたくなるが、著者はそれをしない。研究者らしい誠実な態度といえよう。だが人間の心のベースにこれらがあることを否定しているわけではない。というより、生殖のような生物として核心を占める機能では(ベースの部分は)ほとんど共通していると考えるほうが自然だろう。著者は最終章でこう書いている。
ヒトの脳の奥のほうを覗くと、ネズミの脳がある。ネズミの脳がヒトの脳に住んでいるのである。ネズミの脳を見ていくと、ヒトの脳の奥のほうを知ることができるわけである。ネズミたちはヒトにもっとからだに素直になったら、と語りかけているようでもある。
話はまずミクロネシア連邦コスラエ島から始まる。かつて日本が占領していたこともある島なのだが、この島の住人のうち約7割が肥満なのである。コスラエ島は台風の被害や外来の伝染病などの影響で遺伝的に孤立した集団となった。つまりコスラエ島の住人は遺伝的に同質なのである。その住人たちに肥満が多く見られるのである。
その理由は、彼らが「エネルギー倹約遺伝子」を持っていたことにある。そしてこういう集団は、世界中にいるのである。もともとエネルギーを使わない人々は生存に有利であった。ところが生活が向上し豊富にエネルギーを摂る食生活が到来したために肥満となってしまったのである。
といったイントロダクションから話は体重の「セットポイント」仮説、肥満遺伝子の単離、レプチンへと続く。中には肥満の「伝染」の可能性といった、ちょっと変わったものまで触れられる。この辺は、上記2冊を読んでいる人間にとっては一度読んだ部分であり、また本書が主なターゲットとしている文系読者には逆にややきついところだろう。また丁寧に説明しようとしているあまり、繰り返しが目立ち、やや中だるみする。まあ、この辺は仕方ないところだろう。それに、初めてレプチンのことを知る人にとってはやっぱり驚きの話であろうし。そもそも、脂肪が重要な内分泌器官であるという考え方そのものも目新しく感じる。脂肪は各種生理活性物質を生産し免疫にとって重要な役割を果たしているので、脂肪組織が少ないと感染症にもかかりやすくなるのだという。痩せていればいいというものでもないのだ。
また、内容にも工夫が込められていて、たとえば食べ物の好みと遺伝子といった話も出てくる。栄養素の好みが遺伝的にある程度決まっているのではないか、という話である。もちろんヒトではなかなか難しいが、マウスにおいてはサッカリンの嗜好を決めるSac遺伝子などが見つけられている。それ以外にもマウスの甘みに関する遺伝子というのは30以上も見つかっているという。また、高脂肪を好むマウスの系統などもある。
著者は、今後の肥満に関する遺伝学において、行動素因を決めている遺伝子を探すことを提案している。「行動因子を解明することは肥満の問題における、『狭義の遺伝』と『環境』との橋渡しをする」と考えられるからだ。なお著者が言う行動因子とは「遺伝素因の発現に、環境因子の関与が比較的大きいと推測されるような、摂食やエネルギー消費に関与する行動を規定する遺伝素因」のことである。
「遺伝と環境が相互に絡み合った」という表現は非常によく使われる。肥満ももちろんその中の一つである。そこに徐々に解明のメスが入りつつある。まだまだ全ての過程が解けるまでには時間がかかりそうだが、分かってきたモノは非常にクリアーな結果を出している。さらに行動に影響を与える遺伝子すら探索されている。最近の遺伝子研究がもたらす成果を象徴するような研究結果からは、今後も目が離せそうにない。
余談。「人類はだんだん丸くなっている(P.45)」には思わず笑ってしまった。
文章そのものは読みやすく決して悪い本ではないのだが、普通に科学雑誌を読んでいるような人には聞いたことのあるような話ばかりで情報量が少なく感じる。無難にまとまり過ぎているのである。
できれば(これは本書のみに言いたいことではないのだが)国内の遺伝子治療の状況や、遺伝子組み替え作物研究の実際の様子などが読みたいところである。せっかく国内の著者が書いている本なのだから、もっと日本国内の状況をレポートして欲しかったと思うのだ。
バイオ技術が進み、すぐに遺伝性疾患の素因を持っているかどうかが分かる世の中が来たら、差別問題が起きるのではないかという話がある。これは無意識のうちに「自分は関係ない」と思っているからである。だが著者はバイオ技術への応用の章で「ヒトは誰でも潜在的に障害を持っている」と言う。
いま、25万人に一人というまれな遺伝性疾患を考えてみよう。患者が生まれたということは、両親が250人に一人の割合での保因者であることを意味する。現在までに報告された遺伝性疾患の実状からすると、ヒトには5千の発病しうる遺伝性疾患があるという推察がある。そのどれもが25万人に一人というまれな遺伝性疾患であると単純にならして計算してみても、一人あたり20個もの変異遺伝子の保因者ということになる。どんなに体が丈夫に見えても、ヒトは誰でも潜在的に障害を持っているのである。
目次をご紹介しよう。
やや物足りなく感じる人もいるかもしれないが、ここのところの話がまとまっていて、便利である。
歴史と先端の話が絡み合って出てくるのが面白い。これは発生学ならではに思えるのだが如何だろうか。つまり研究初期の頃の問題意識がそのまま、あるいは形を変えつつも生き続けているのである。多くの研究者達が直観的に抱いた疑問群が、遺伝子レベルの分子メカニズムで解かれつつある。
とか言いつつ、一番目を奪われたのはGDF-8ノックアウトマウスの写真だったりして。
話は頭へ戻ってしまうのだが、僕がこれを読んだのは批判派の論調が知りたかったらでも現状を押さえようと思ったわけでもなく、今までにない切り口での遺伝子組み替え食品批判だという話を聞いたからだったのだが、僕にはそこは読みとれなかった。やっぱ他人の書評は信じちゃダメ、ということだろうか。
著者の問題意識は巻末のほう、312ページに集約されているように思う。「バイオテクノロジーが解決しようとしている問題の多くをつくりだしたのが工業型農業であることだ」。工業型農業賛成派/反対派とも、これには同意するだろう。ここの解釈の違いが推進派/批判派を分けている。
我々はどちらへ進むべきか?と問えば文章はかっこよく終われるのだが、僕には進む方向というか道は二本に分かれているようで実は一本しかないように見える(『二十世紀を騒がせた本(増補版)』の感想文中、引用箇所を参照)。問題は、その道をどう進んでいくのかということだと思うのだ。企業論理や諸々に追い立てられて進むのか、それともちゃんと前を見て進むのか。
それとも、こういう考え方は著者が言うところの「近視眼的な傲慢」だろうか?
宇宙開闢はいかにして起こったか。ビッグバンモデルでは厳密な初期値が要求される。「平坦性問題」と呼ばれるものがその一つだ。要するに宇宙はなぜこんなに一様なのかという問題である。平坦性問題はインフレーションがあったとすると消滅する、つまり逆に、平坦であるはずだという話になるのである。これがインフレーション理論のもっとも魅力的な一面である。インフレーションは宇宙がなぜこんなに一様であるかという問題を「当然の帰結」として消し去ってしまうのである。
さらにインフレーション宇宙論は広がりを見せた。「インフレーションが正しければ、銀河と銀河クラスターの複雑なパターンは初期宇宙の量子的過程の産物かもしれないということだ」。つまりインフレーションは「物質の起源、初期宇宙の平坦さ、宇宙の大スケールでの一様性」を説明するばかりか、銀河団によるグレートウォールをもうまく説明できるかもしれないのだ。
最後に著者は「実験室での宇宙創造」という遊び心まで見せてくれる。SFファンならずとも、非常に面白く読める科学的空想の世界である。
エピローグでは、インフレーション宇宙論が未だ複雑な理論であり、本書で展開されたのは仮説の一部でしかないこと、まだ修正の余地がいろいろあるかもしれないことなどなどについて触れいる。
だがその一方、著者は自信もかいま見せる。インフレーション理論は「作業仮説から一般に受け入れられた事実への道を突き進んでいる」と。
残念ながら本書には日本人はほとんど登場しない。『ニュートン』などで佐藤勝彦氏らの説くインフレーション宇宙論に胸を躍らせた人間としてはその辺が気になった。
本当はこの本はもっとちゃんとレビューしようと思ったのだが(そのほうが自分のためにもなる)ここで終わり。
ところで本書について菊地誠さんがSFオンラインの書評で「こういうスタイルの科学書は、日本人にはなかなか書きづらいものがあるのだけれど」とまとめているのが気になっている。なぜ? 是非こういうスタイルの本を書いてもらいたいんですが。
世の中の様々な科学系技術系手作り系玩具を集め、フルカラーでカタログ的に紹介した本。理屈の紹介も何もなく、ただ並べただけである。だが面白いのだな、やっぱり。
ああ懐かしいなあと思うものばかり、「無駄な時間」を費やしたいオトナが楽しむための本だが、もちろん子どもも楽しめる。でも子どもにこんなの見せると大変だよ、きっと。あれもこれもとねだられちゃうだろうから。
自らを振り返ってみても、小さい頃にこういうので遊んだ経験の有無が一生を左右すると思う。子どもにどういう道を歩ませるか。親には大きな責任がある。
それはともかく、眺めるだけでも楽しい本である。おすすめ。