だがその一方で、本書には人間との共存という枠組みでソニーのAIBOが写真まで掲載されていながら、ホンダのP2,P3に関しては一言も、本当に一言も触れられていない。これは研究者ではない一読者からすると非常に違和感を感じる。もちろん「知らんもんは書けない」ということもあるだろうが、それよりも何よりもやはり、著者らの距離感のようなものが現れているように思えた。僕としては、そこが知りたいのだけど。なぜ何も語ってくれないのだろうか。ホンダのあれが、大きなインパクトを与えたことは誰の目にも明かなのだから。
ヒューマノイド・ロボットを目標として掲げ、作っているのは日本だけである。ホンダのあれは2003年(アトムの生まれた年)には市販することを目指しているという。そのとき、あるいはそのあとでもいいが、ヒューマノイド・ロボット通史のようなものは書けるのだろうか。いまはまだ、そこまで至っていないのだなあ、というのが僕の本書通読後の感想。いま残しておかねば、消えていくものも多いのだが。「思い」のようなものは特にそうだ。
また、本書をつーっと読んでいくと、著者らの研究プロジェクトのベクトルが、モビリティから情緒表現へと移っていく様子がなんとなく感じられる。もちろん早稲田ではWABOT-2という演奏ロボットを早くから(1984)作っていた。だから最初から情緒表現を重視していた、というのもまた分かるのだが。
巻末には座談会つき。ここでも人間とのインタラクションやコミュニケーションが重視されている。
ともあれ僕としては、はやくいろんな研究が一つにまとまり、ものとしてヒューマノイドが出てくることを待ちわびるのみである。本そのものについてはほとんど触れてませんが、以上。
ただ、学校で教えている進化の話は地質学関連の過去の生物についてが主だ、というのは著者の思いこみ。実際には進化についてなど、ほとんど教えられていないといったほうがいいし、そこらへんにいる人に「進化って何学だと思う?」って聞いてごらんなさい。10中8,9、「生物学」って答えるよ。だいたい「歴史的な記述はついつい退屈になりがち」とは何事か。こういう態度だから古生物学と生物学がぜんぜんかみ合わないんだよ。本書でも引用されているドブジャンスキー曰く「進化を考えに入れない限り、生物学のどんな現象も意味を持たない」という言葉の意味を、もう一度考え直してはどうか。もっとも本書でも、このあと「しかし、古生物学や分類学は、進化をきちんと学ぶためには非常に重要な分野です」と続けられているんだけどね。どうもとってつけたみたいな感じだよなあ。
あれ、書いていたら辛口になっちゃった。そう悪くはない本なんだけど。
プレートテクトニクスは非常に強力なドグマで、そこからはあまりに単純明解に各種の現象・事象が説明される。僕は、なぜこれら当たり前に思える事柄がまるで神棚にまつるがごとき様子で教科書に仰々しく書かれているのか、不思議に思っていたものだ。だがもちろん、昔は何も分かっていなかったのである。そして、それらが明らかになったのは、本当にまだつい最近のことだったのだ。通読してつくづく実感した。
著者が必ずしも「正しい」説の側の人間ではなかったことが本書を面白くしている。つまり、自らの間違いをつぎつぎと実証されて自説を撤回せざるを得なくなる立場の人間だったのだ。たとえば彼はプレートテクトニクスを信じていなかった。トランスフォーム断層の論文を読んだときは怒りのあまり最後まで読めなかったという。ところが彼は間違っていたのである。しかもそれが眼前で証明されていく。悔しがる著者の姿が自らの手で語られるのだ。
本書は1983年に廃船になったグローマー・チャレンジャーの活躍をえがいたものであり、内容は確かに若干古い。また著者自身の筆致は軽妙なのだが、地学の知識がまったくない人にはたぶん、かなり読みにくい本だと思う。だが、地球科学が猛烈な勢いで進み始めた当時の息吹のようなものを感じさせてくれる一冊である。
著者はエピローグで、本書執筆の理由をこう語っている。
しかし私はODPの活動が報道機関によって全然報道されていないことに気づいた。(中略)海洋掘削は現在ジョイデス・レゾリューション号に引き継がれ、白亜紀-第四紀境界層を掘り当てるなど、一般の興味をひく成果も挙げているし、間もなく新しい段階に突入しようとしている。その辺のざっとしたことは<ポピュラー・サイエンス・ノード>に書いたので、そちらをご覧頂けると嬉しい。
地球科学の活気がなくなったので、もはや大見出しにはならないのだろうか?
いや、私にはそうとは思わない。恐竜を殺し、大量絶滅を引き起こし、生物進化のコースに影響を及ぼした地球外原因による大変動の発見は、ODP掘削の10年間に大見出しとなった。地球環境変動、気候史、そして自然界の大変動は毎日の大見出しになっている。地球科学はこれまで以上に今日的問題にかかわりを持っている。だが、海洋掘削では何が起こっているのだろうか?
というわけでそういう本。著者は最近日本のTV番組にも出演しているので、見たことある人も多いのではなかろうか。現在彼はアメリカに亡命している。著者は西側亡命後、生物兵器に対するあまりの無警戒ぶりに愕然としたという。それが本書を書いた理由だ、というわけである。
当時もちろん生物兵器は禁止されていたし、ソ連も条約に調印していた。だがその一方、生物兵器は開発されつづけていた。炭疽菌、ペスト菌、ツラレミア菌、天然痘ウイルス、フィロウイルスなどが製造されつづけていたのである。そして開発施設で起こったバイオハザードは「汚染肉」によるものとして隠蔽されたという。
また開発者だった著者自身も障害をおっている。大量に投与された数多くのワクチン類が、彼に後遺症を与えたのだ。彼には嗅覚がない。また数々の食品に対してアレルギーがあり、毎日抗アレルギー剤を飲んでいる。皮膚はぼろぼろだという。
全般的に二見書房は相変わらずだなあ、という印象のある本なのだが、著者がいうとおりだとすると、これは本当に大変なことである。しかも現在、当時研究開発を行ったいた人間が、第三国にどんどん流出している、というのである。もちろんバイオテクノロジーの技術者としてではない。生物兵器の開発者として、だ。
著者は医者である。当然、命を尊重せよという教育を受けていた。だが彼が実際にやることになった仕事は大量虐殺兵器の開発と培養だった。人間はやはりなんでもやってしまうのである。
また本書には実験のみではなく、科学関連情報も一緒に掲載されている。宇宙ステーション、700系新幹線、すばる、恐竜、VRなど。この内容がさすが日経サイエンス編集というだけあって、けっこうしっかりしているのだ。僕も知らないネタがあって(「ヴァーチャル乗馬」とか)、なんだか得した気分。またその他「科学おすすめ情報」として、科学館・博物館ガイドなどもついていて、この夏に行われるイベントガイドにもなっている。
というわけでお子さんのいる親御さんなどにはオススメできる。眺めるだけでも楽しい本となっていて、全体的に好感度高し。
さて後半、著者は性が生じた理由はオルガネラにあったのではないかという説を提唱する。これってどうなんでしょう。どうも本書だけからは何とも話を掴みそこねている僕。そのうちもう一度読み直して考えてみようと思っているのだけど、誰か教えて下さい。
その後、共生説の現在の展開(宿主は独立栄養生物で、共生体は水素排出性細菌で従属栄養生物であったとする説が紹介されている。こう考えることでなぜ共生したのかという肝心の部分と共生体から宿主への遺伝子転移を説明できる)に触れて本書はまとめられている。ここは面白かった。
巻末には用語解説つき。この解説で分かる人なら解説いらないと思うのだが、ないよりはましだし、こういう取り組みは歓迎していきたい。
ただし、中で扱われているエピソード、特に臨床の視点でのエピソードは興味深いものだ。たとえば著者は患者と話している時の話しとして、「どうしてかは分からないが、現実感を取り戻すことと、眠くなることは不即不離の関係にある」と書いている。これは、どの程度一般的な感覚なのだろう>臨床家の方々。以前、僕も患者を取りあえず眠らせる、みたいな話を聞いたことがあって、その時に「眠りというのが快復に対して何か積極的な役割を果たすということはあり得るのか?」と質問してみたのだが、「そんなことはない」と言われた。だがこの著者の言っていることをそのまま真に受けると、そこに何かがあるのではないかという気がしてくる。睡眠時の脳の研究は、これからますます盛んに行われるだろうし…。
本書半ば以降の辺縁系の話、記憶と情動は一体のものではないかという話はかなりの人がそう思っていて、現在、そういう視点での研究がもう一度行われている、あるいは行われようとしているところだと思う。この辺から記憶の本質がおぼろげながら浮かび上がってくると面白いのだが。
そのほか補遺としてアフォーダンスやクオリアなどについて触れられている。
まず最初は、ダニの観察から始まる。ハダニは歩きながら糸を吐き、それが網となるのだが、その機能はいったい何かということを、著者は観察と定量的な分析で明らかにしていく。またハダニには網と排出物の排泄の関係から様々な生活型が出てくるのだという。さらにはダニの姿形と生活型の多様さとの間にも関連性があるのだという。ここの辺りは、ほんと素直に、ただただ書かれている内容が面白い。ちょいちょいは聞いていても、ダニの生活がこれほどまでに面白いものだとは思わなかった。まさに神は細部に宿るで、話が細かくなればなるほど面白いのだが、ここではそこらは割愛するので、読んで下さい。ハダニの営巣の電子顕微鏡写真には思わず「あっ」と思ってしまった。ダニがこんな(亜)社会性を持っているとは。
そう、著者はハダニが、亜社会性を持つことを発見したのである。ハダニは捕食者から子供を守って反撃するのだという。しかもオス同士が共同して。これらの現象の謎を血縁度の推定や社会生物学の手法で解いていくのが本書後半である。ハダニは著者によると、社会性の進化を研究する上で、このうえない材料なのだという。
ハダニはオスがnでメスが2nの単数倍数性の動物である。えーっと、細かいところは僕が書くとウソになってしまいそうなので省略させてもらう(何せ長文を割いて説明されている本文中ですら既にややこしい)が、要するに、単数倍数性の動物には不妊メスが現れやすく、それが不妊カースト(ワーカー)に繋がるという。またダニは運動性が低く、その結果として血縁度が濃い。これらが相互作用して結果的に、単数倍数性の動物は独特の変異蓄積パターンを持つことになる。その結果、社会が生まれるのだ、という。
本書後半はとにかくややこしく、話もいったりきたりで重複していて意味が取りにくいのだが、なんかこう、わくわくしてくる本である。誰にでも諸手をあげてオススメ、とはいかないが、こういう本は結構好きかも。
ただ、イエローバンドの石は見たければヒマラヤに行け、という著者の態度は理解できない、というか分かろうと思えば分からなくもないが、間違っていると思う。誰もが行けるわけではない、というのは著者も分かっているはずだ。苦労して見に行くから意味がある、とか言い出したら、この世から博物館はなくなってしまうではないか。
また、この本は自費出版だそうなので文句を言う筋合いではないのかもしれないが、もし一冊の本として完成させるなら、日本に運びこんでから博物館で組み上げる様子も描くべきである。でないと片手落ちであろう。苦労したのは、運び出した人だけではないはずである。また、せっかくの本なのだから、もうちょっと地質関連のことも書き込んで欲しかった。
もっとも、そもそも何もアウトプットしない研究者が多い中、こういう本を出してくれたことそのものを喜ぶべきなのかもしれない。
さて本書。内容は基礎編、研究編、未来編と分けられているが内容のバランスとつながり方がよく、たぶん誰でもさらさら読める。
先日、とある人に「老化と寿命って違うんですね」と言われた。最近、またいろんなTV番組でもやってたのでもういい加減普及しているかと思ったのだが、まだやっぱ意外な視点であるらしい。本書でもまずそこら辺から説明が行われる。ゾウリムシの話から始まって、テロメアの話に入り、血管内皮細胞の話に入る。
血管の話は『考える血管』などに詳しいのだが、こちらでもちょっと書いておこう。血管はただのパイプではない。それが端的に現れているのがエンドセリンだ。エンドセリンは「ある程度多量に分泌されると血圧を上昇させるけれども、正常状態ではほんの少し分泌されているときは逆に血管を広げて血圧を下げる働き」をしている。つまり分泌される量によって働きを変えるのである。
そして著者らは「若い人の血管ではエンドセリンがわずかだけ分泌されていて、高齢者では分泌量が上昇していること」を見つけた。つまり「若い細胞ではエンドセリンの性質を生かして、ふだんは血圧を下げ、危機に際しては血圧を上げて対処しているのですが、細胞が老化するとこのしくみがうまく働かなくなります。分泌が過剰となり、高血圧の一因となるのかもしれません」ということなのである。
このように、細胞の老化は器官の老化へとつながり、引いては個体の生命に関わってくる。で、話は本題に入る。ガン細胞には寿命はないが、正常な細胞には分裂限界がある。テロメアの話は現象である。細胞の寿命のあるなしは何で決まっているのだろうか? モータリンという遺伝子が大きな役割を担っていると考えられている。モータリンはモータル、つまり「死すべきもの」であることを細胞に教える遺伝子である。老化した細胞に、モータリンタンパクの働きを阻害する抗体を入れると、老化細胞は分裂を再開した。つまり、一時的にモータルであることを忘れ、イモータルになったのである。つまりモータリンは「有限寿命性のスイッチ」だろうと考えられている。
非常にクリアーな結果である。ところが、細胞内のどこにモータリンタンパクがあるか調べたところ、寿命のない細胞にもモータリンタンパクが見つかった。これはどういうことか。だが違いはやはりあった。正常細胞のモータリンタンパクは細胞全体に広がって分布しているのだが、不死化細胞では核の周囲に局在していた。そして構造も違った(それぞれモータリン1、2と名付けられた)。この構造の違いが、細胞を不死にするかしないかに関わっていたのである。著者は不死化した細胞で働いているモータリンがテロメアを延長するテロメレースのオン・オフに関わっているのだろうという。
では、何がモータリン1と2のスイッチを切り替えているのだろうか。細胞を不死化するモータリン2を正常細胞に導入しても、寿命は延びても不死化しないのだという。これからの課題である。
もし細胞を不死化でき、なおかつガンにならないように、分化をコントロールできれば…。と誰でも考える。それが本書の第三部になる。不老不死とまでいかなくても、大きな可能性があることは誰の目にも明かである。また、著者はヒトの寿命には2型あるのではないかという。普通の人の寿命は100才に届かないくらいなんだけど、120才くらいまで生きるヒトは、長寿命ミュータントなのではないかというのである。この辺の研究も非常に興味深い。とにかく老化と寿命の研究は面白い。
なお本書には(いきなり本文をぶったぎる感じで)研究室紹介というのが入っている。研究内容と連絡先は当然だが、面白いのは「特典」というのが入っていること。
本書はその概説書だが、紙幅のかなりの部分、3/4くらいは脳の話である。情動とは何かといった定義や、人の性格と遺伝の関係の話などがかなりの量を占め、肝心の精神と免疫の関係は、あちこちで織り込まれはするのだが、なかなか出てこない。だがこれはこれで面白い。遺伝と環境の関係にしても、遺伝が決める環境もあるという話は、なんとなく頷ける話ではある。
さて、本題のこころと体の対話だが、それについては本文146ページ以降をめくって頂きたい。まとめようと思ったけどめんどくさいのやめ。化学物質名の山が読者を待つ。だが実際にはこれほど「単純」ではなかろう、ということは私のような素人にも見当がつく。これからどんなことが分かってくるのか楽しみにしていよう。インターフェロンが鬱に繋がる、というのは初めて知った。
脳内免疫系やAIDS脳症の話を経て、最後は、精神免疫学の問いかけているもの、すなわち、医療において、「こころを支える」ことの重要性が説かれてまとめられている。ここらへんは、頭にも書いたけど感動的。騙されているのかもしれないけど。
マダガスカルになぜ固有種が多く住むかというと、第一には早いうち(ジュラ紀中期後期ごろ、1億6000万年前くらい)に当時のゴンドワナ大陸から離れたからだ。その結果マダガスカルには数多くの珍しい生き物が住むことになった。およそ一万種の生物の植物のうち、実に8割が固有種。動物も、魚類、両生類、爬虫類の9割以上、哺乳類でも8割以上が固有種なのだ。羽を持つ鳥でさえ、5割以上が固有種である。小さなカメレオンもいれば、巨大なダンゴ虫もいる。
また気候の多様さ──気温の変動、降水量の季節変化が大きいといったことも多様化に加速をかけたのだろう。
本書ではその結果である動物達が紹介されているわけだが、残念だったのが化石生物、すなわち絶滅してしまった生き物達があまり紹介されていないこと。マダガスカルには、かつて体重が200キロもあった原猿もいたというし、(これは図版が出ているが)エピオルニスという巨大な飛べない鳥もいた。甲羅が120cmもある巨大陸亀もいたという。
それほど大昔の話ではない、1500年〜1000年くらい前にはまだ多くの生物がいたのである。その頃何が起こったかというと、例によって例のごとくで、進化したサル、ヒトがやってきたのである。
つまりマダガスカルの生物たちは、1)大陸移動による隔離、2)適応放散、3)人類による絶滅、という路線を辿っているわけである。マダガスカルといえばバオバブが有名だが、あれは、実はヒトが利用しやすい木を切っていった結果、バオバブだけが残った、ということなのだそうな(と、TVでやっていた)。これは本書かrだが、人類が来るまでは8割は原生林におおわれていたのだが、現在では熱帯雨林は7%になってしまっているという。かくして遅ればせながら、現在各種保護活動が行われている。
ところで、本書は『マダガスカルの動物』だが、『マダガスカルの植物』は刊行されないのだろうか? バオバブなど、乾燥に適応したマダガスカルの植物もまた非常に変わっていることで有名である。動物だけで植物についてあまり触れないのは、ちょっともの足りなかった。あと『マダガスカルの昆虫』も読んでみたいような気がする。
もう一つついでながら付け加えると、写真集も一緒に出せばよかったのに、というのは贅沢に過ぎるだろうか。でもこういう形式の本なら、カラーの百科事典形式のほうが良かったような気がする。
匂いの実験では、濃度を薄めるために「無臭気体」というのを使うのだそうだ。何を持って無臭とするか。完全に無臭のものというのはできるはずもないので、嗅神経の活動電位が出てこないものを指して「生理的無臭気体」とするのだそうだ。こういうこと一つとっても面白い。
著者はずいぶんいろいろな動物を素材にして研究している。サル、カエル、カメ、ハト、フンコロガシ、イヌ、ハゲワシ。ハゲワシの話は面白かった。これは寺田寅彦の例のエッセイ『トンビとあぶらあげ』から発想した研究だったそうで、最終的には猛禽類はやはり目もいいが、嗅覚も相当に良い、という結果が出たというものだ。
しかし匂いのメカニズム解明、本質的なところの解明は、『においを操る遺伝子』や、『におい』を見ると、なんだか結構先のことのような気がする、というのが僕の印象だったのだが、本書を見ると意外と頑張ってはいるのだな、という気がしてくるから不思議だ。書き方の違い、ということだろうか。匂いを識別しているのは最終的には前頭葉の嗅覚野だと考えられているそうだが、やっぱり嗅覚の神経経路もよく分かってないそうだ。また、周囲の細胞群への影響が情動の変化に影響があるのだろうと考えられているが、やっぱりそれがなぜなのかも分かっていないそうである。やっぱ道のりは遠い。
また<ネットサイエンス・インタビュー・メール>を読んで頂いている方へ。先頃までインタビューを配信していた神崎亮平氏が若き日の「ゴルフがうまい丸顔の学生」として本書の最後のほうに登場する。合わせて読んでいただけると編集人としては嬉しいところ。
食物のカス、遺骸などがあった場所では一般に土壌中のリン酸塩濃度が高い。こうして人間の人間の居住跡を探すことができる。面白かったのがトウモロコシを人間が食べ始めた時期が骨に含まれる炭素同位体の含有量から分かるどいう話。トウモロコシはC4植物なので炭素13を多く含む。食料としてそれを摂取すると、その結果が骨に残る、というわけだ。こうして熱帯植物であるトウモロコシをいつ頃どのくらい栽培し始め、どのくらい食べていたか分かるというのである。なるほどなるほど。
その他、岩石、土壌、陶磁器、色、ガラス、有機物、金属などなどの文責手法や歴史がさらさらと書かれている。ちょっと値段が高すぎるかな。
恐竜に関する一般の知識といのはバブルの頃にやたらと催された恐竜展、それに付随して刊行されまくった書籍やTV番組などに影響されているところが多々ある。つまり、10年ほど前の知識やイメージが一般に普及してしまっており、かなり興味を持つ人であってもその多くは、当時の知識から恐竜観が形づくられているのだ。具体的に言えばバッカーが描いた激しい恐竜達や、ホーナーによるマイアサウラの子育てなどのことである。もっとも、恐竜温血説をそのまま真に受けている人はさすがにもういないとは思うが。
本書は「恐竜研究の最新の成果を紹介しつつ、現時点で考えうる最も合理的な解釈によって、とくに竜脚類などの巨大恐竜の実像に迫ろうと試みた」本である。地質学の手法や爬虫類の特徴を述べながら触れる「恐竜とは」といった話から始まり、当時の地球環境の解説を経て、恐竜、特に竜脚類の生態を考察する。しばしば言われていたことではあるが、竜脚類は首をあげることは骨格上からもできず、またその首は下を向いており、頭頂にあるように見える鼻の穴は正面を向いていただろうとする。
しばしばこのウェブでも書いてきたことだが、当時の地球環境まで含めて恐竜を考察した本は意外と少ない。だからこういう本はありがたい限りである。ただ僕はやっぱりカメの話の方が面白かったような気がする。というか、当時の地球環境を振り返るには、別に恐竜だけを考察する必要はないのである。当たり前だが中世代といえども恐竜しかいなかったわけではない。おそらく著者が他の爬虫類たちの話などを入れたのも、その辺の考えがあったのだろう。
後半は『恐竜の力学』(地人書館)っぽい話になるが、著者の解釈はそれとは違う(あの本古いし)。どちらかというと『恐竜学』(東大出版会)などにも寄稿している山崎信寿氏らの研究をベースにして、竜脚類を復元していく。恐竜のファンなら聞いたことのあるような話ではあると思うが、けっこう面白く読めた。これは本書の全体的な印象でもある。
ただ、恐竜から鳥類への進化の話などについては、肝心の部分と(僕には)思われる代謝変化のメカニズムなどについてほとんど触れられておらず、なんだか物足りない。状況証拠からただ恒温動物だったと考えられる、だから鳥類と見なして考えるべきだ、なんて言われても、ちっとも面白くない。そのとき彼らの体内ではいったいどんな変化が起こっていたと考えられるのか? 代謝というのは実は非常にややこしいらしいのだが(いわゆる外温性の動物でも、ただ純粋に外温にまかせているわけではない)、その辺、もっと突っ込んで考察して欲しかった。いったい何がどうなって、生理が変化したのか知りたい。
また、恐竜が「社会性」を持っていたか・いなかったかという点についても、本書の見解には少々疑問がある。著者は卵化石の産状や変温動物としての特性などから恐竜が子育てを行っていたとは到底考えられないと結論しているのだが、そう断言できるだろうか? 社会性、すなわち親が子供をどのくらい面倒みるかとか、群れがどう構成されていたかとかいうのは、動物の認知や知能ほかに関係せず、どちらかというと、どういう暮らしをどういう場所でしていたかということによるのではなかろうか。昆虫を始めとして系統を問わず群れや子育てが見られることからすると、社会性なんてものは、ある種のローカルルールが発達するような状況さえあれば意外と簡単に発生するのではないかと思う。もちろん、それと知能や感情とは全くリンクしないわけだが。
逆に言えば恐竜がもし子育てをしたとか言うのであれば、どういう淘汰圧がかかってそういう状況──つまりその方がエネルギーコスト上、有利だという状況が発生したのかまで言及しないと、無意味だろうと思う。そういう面では著者に全く同意する。
もう一つ。
著者は「おわりに」で「恐竜を異常なまでに特別視する人」を激しく批判している。気持ちは分かるが、なぜ著者がここまで激しくなじっているのかが分かりにくい。言葉が足りないのだ。
恐竜は恐竜という生き物であって怪獣ではない、彼らの生きた中生代は現代とは全く違った世界であった、なんてことは、一般読者だってバカじゃないのだから分かっているだろう。中生代の地球環境下では恐竜という生き物がたまたま「はまって」いただけのことだ、という著者の主張はわかりやすいし、当然のことだ。なにせ本書はそれを説くための本なのだから。でしょ?
だから、書き方っていうものがあるんじゃないか、ということである。巻末でやられると、はっきり言って気分が悪い。せめて巻頭でしょう、これは。怒りをぶちまけるのは結構だが、本をずーっと読んできた一般読者に対してする必要はない。学会でやって下さい。繰り返すけど、一般読者はそれほど阿呆じゃないのだ。
最後に付け加えておくと、僕はやっぱり著者の手になるカメの系統進化の話が読みたい。というわけで今後に期待する。
ただ気になるのがいくつかの事象がやはり他人事的に挙げられているようなところ。まあこれは紙幅の都合もあるのかな。と、本書には好意的に解釈しておきたい。都合によりここまで。あ、ソーカル事件の話や、相対主義との対立的な話もちらっと入ってますのでその筋の方はどうぞ。
紀田順一郎はどうもフロイトを評価しているようだが、僕は彼はただのトンデモな人だったに過ぎないと思う。確かに、フロイトが仮定した無意識の概念を適用することにより臨床的に効果があったということも、あったのだろう。だが「無意識」なるいったい何を指しているのか分からないものがあたかも実在するように多くの人に吹き込んでしまった彼の罪は大きいように思うのだが。意識に上らない情報処理があるのは確かだろう。だが今日、フロイトが言ったような「意識」とは全く別のものとして実在する無意識というものを語るのであれば、その生物学的根拠を語る必要があるだろう。でないと科学とは言えない。
ルイセンコのもたらした「害」は誰の目にも明かだが、日本ではほとんどその反省が見られないままであると著者は指摘する。この項に関してはほとんどそのとおりなので、僕が改めて付け加えることは何もない。現在、農学やバイオに従事している人々の考えを聞きたいところだ。
『沈黙の春』は内分泌攪乱物質がらみで最近また注目されている。紀田はこうまとめている。
(「私たちは分かれ道にいる」という『沈黙の春』最終章を受けて)四半世紀前、カーソンはその分岐点のところに立って警鐘を鳴らした。しかし、いま必要なことはつぎのように考えてみることだろう。──もともと道は分かれてなどいなかったのではなかろうか。人類の運命に選択肢なんかあり得なかったのではなかろうか、と。カーソンを継承する道は、ここから始まるであろう。これからを考えるのであれば、ただ様々な問題群を挙げ「どんな道があるのだろうか」と指摘するだけではダメだ、ということだろう。
その他に挙げられている本をリストしておく。オーウェル『1984年』、ヒトラー『わが闘争』、ロレンス『チャタレイ夫人の恋人』、ミッチェル『風と共に去りぬ』、アンネ・フランク『アンネの日記』、ボーヴォワール『第二の性』、ソルジェニーツィン『イワン・デニーソヴィチの一日』、毛沢東『毛沢東語録』、ラシュディ『悪魔の詩』。
上には科学関係の本を挙げたが、個人的に一番印象に残ったのは、やはり『アンネの日記』だった。
後半は宗谷線、ブラキスト線、渡瀬線、そしてフォッサ・マグナなど境界線による生物相の観点からの日本のおなじみのカエルの話。ガマの油つまりヒキガエル毒の有効成分は「塩酸エピレナミン、ブファリン、デスアセチール、ブファタリンなど。塩酸エピレナミンは血管収縮作用があり、出血や充血を抑える。ブファリンにはコカインの90倍という強力な麻酔作用があって、傷口に塗れば痛みが止まる。デスアセチールブフォタリンには強心効果がある。これらの作用で傷薬としてよく効いたのであろう」とのこと。また最近ブファリンには抗ガン作用があるという報告もあって研究されているそうだ。
そのほか、イモリなど他の両生類についても触れられている。まあ、その手のものが好きな方はほっといても買うでしょう。
邪推するに、現在『サイアス』で著者が連載している記事のための下調べを一冊にまとめ直したものではなかろうか。ものごとを調べる上でまとめるというのは非常に大事な作業で、こういう形にしていくことで何が分かっていて何が分かっていないか、今後何を調べていくべきかということが分かってくるのである。
閑話休題。
著者は日本は技術立国ではなく、ただの製造立国であるという。ものを作る、創造するということは単に大量生産することではない。これからは技術開発の実力を持たなければいけないと説く。そして航空宇宙産業はその典型であるというのだ。そして衛星投入のシーケンスや、情報収集衛星、宇宙ステーション計画をめぐる各国の思惑を解説する。
宇宙開発については興味を持つ人がどんどん減っている一方、残っている人には非常に濃い人が多い。だからこういう本がどのくらい読者を得られるのかというのはなかなか難しいと思うが、ざっとした知識をいれるためには良いのではなかろうか。