一言でベジタリアンと言っても、実に多くのバリエーションがある。野菜しか食べない人=ベジタリアンではないのだ。ベジタリアンとは植物性食品を中心に取る人のことを指し、本当に植物性食品しか取らないベジタリアンはビーガンと呼ばれる。
植物性食品中心の食事の特徴は、低脂肪と高食物繊維。脂肪量と飽和脂肪酸が少なく、生活習慣病やガンなどの原因を作りにくい。ちなみに植物性食品にはコレステロールは含まれていない。野菜の多くにはビタミンなどばかりではなく、多くのファイトケミカルと呼ばれる様々な薬効を持つ物質が含まれている。イソフラボンやカロチノイドなどだ。これらは骨粗鬆症を防いだり、ガンを防いだりするという。一方、動物性タンパク質の摂取量が多くなると、骨折の割合が増えるという。
ベジタリアンフード中心の食事生活を送ると、ビタミンB12が不足しがちになるので、これはサプリメントなどで補うほうが良いらしい。ところが、日本ではB12が含まれているサプリメントは、極めて限定されているという。
日本では、ベジタリアンは外食もできない。多くのベジタリアンは改善を望むところだろう。この気持ちは理解できる。
でも僕は、ベジタリアンにはなれそうもないなあ。なぜ多くの人が肉を食うのか考えてみると、それはおそらく、肉がうまいからに他ならないと思うのだ。僕にとって食は喜びの一つである。その喜びを削ることは、やっぱり苦痛なのだ。たとえ病気になる可能性が高くても。
追伸:
この本を読みながら浮かんできた疑問がある。なぜヒトは肉食を好むのか、ということである。そこで人類生態の研究者・中澤港氏に質問したところ、一つのお答えを頂いた。なるほど。
売り文句ほど新しい話ばかりではないのだが、さすがに目配りは良い。感覚、情動、記憶、言語、発達、リズム、睡眠、性差、夢、意識をテーマにしたサイエンスエッセイ集である。気軽に読めて、なおかつ結構面白い。知らない話もけっこう含まれていた。
値段が結構高めなので、お気軽にどうぞ、とはなかなか言えないのが残念。
しかしこれくらいのレベルのものが普通に新聞で読めるアメリカ人は幸せかも。いかにもアメリカ的な話だと思ったのが「トラウマは、脳を実際に傷つける」。PTSDのように強いストレスを受けるとコルチゾールが大量に分泌され、神経細胞の樹状突起が縮小、特に影響を受ける海馬が縮小するというものだ。いっぽうで逆さまの結果(コルチゾールの分泌量が少ない)を出している研究者もいるようなので、まだなんとも言えないのだろうが。これに関する話は山元大輔『脳が変わる!? 環境と遺伝子をめぐる驚きの事実』の第4章の最後のほうにも、ちらっと出てくる。
内容は、高校の生物の延長上にある。構成も教科書に似ている。きっと、生物学科を目指す学生が合格決定後の春休みとかに希望に燃えながら読むと良いんだろうな。
ポリフェノールは抗酸化作用を持つ。だから、ポリフェノールをより多く含んでいる赤ワインのほうが、白ワインよりも長持ちする。様々な種類のポリフェノールがワインには含まれているが、その中で薬効をもつ候補としては、プロアントシアニジンという物質ではないかと考えられているそうだ。
また、リスベラトールという物質も候補の一つとして注目されているそうだ。これはもともと、「植物が自己をカビの病気から守るために生成する抗菌性物質で、女性ホルモンであるエストロゲン活性を持つことでも知られています」といった物質だそうな。なるほどなー。もっとも、これは微量しか含まれていないため、赤ワインの薬効成分であるかどうかは疑問らしい。
本書はワインの歴史やブドウの科学をざっと紹介した一冊。そんなに面白くもなければつまらなくもない。まあ、こんなもんかな、こういう本は。
5000年前の日本にもブドウ酒があった、というのは面白かった。ブドウは1億4000万年前くらいに登場した植物だとのこと。でもその時代にはT-rexはまだいないのだよ>著者。こんなこと書いているくらいだから、この辺りはあんまり信用できないのだが、現在のブドウに近いものが出現したのは6000万年前くらいだとのこと。
私自身は酒を飲まない(飲めない)ので、ワインも料理にしか使わない。だからいくら薬効を説かれたところで、ふーんとしか言いようがないのが残念なところではある。
本書は妊娠のしくみから始まって、不妊症の実態、体外受精、そして環境ホルモンと子宮内膜症の関連性などを考え、さらに内視鏡や腹腔鏡を使った手術、そして出生前診断や着床前診断の可能性や問題などを取り上げている。
前半はある意味「家庭の医学」的内容。これはこれで良いと思う。ただ、後半、環境ホルモンの話がなんだか唐突に出てくるのはどうだろうか。また、(普通の人を読者対象としているのに)「環境ホルモン」という呼称と、「ダイオキシン」などのような具体的な実体の名前がぽっと出てくるのも気になった。これでは何も知らない人は両者が同じレベルの言葉だと考えてしまうのではないか。
本書の中心テーマの一つ、子宮内膜症の説明も、今ひとつ中途半端。著者が専門としているせいで、逆に分かりにくくなっているような気がした。
こういう本がいっぱい出ることには基本的に賛成なのだが、本書はややごちゃごちゃしすぎていて、一冊の本としては、いまいち、というところか。
ふむ。内容はなんだか普通かなあ。著者ら自身が直接間接に関わっている研究の話──ミトコンドリア核、ミトコンドリア、葉緑体の分裂装置──などはさすがに面白いので、それを真っ直ぐ太い柱にして、肉付けしていったほうが正解だったのではなかろうか。本書の構成だと、読者はちょっと混乱すると思う。しかしこの<高校生に贈る生物学>シリーズの編集者って、本当に今の高校生と接触したことあるのかなあ。大いに疑問。
著者が発見したミトコンドリアの「分裂装置」は、現象としては以下のようなものであるという。
細胞が分裂期に入ると、ミトコンドリアも分裂を開始する。まずミトコンドリアの赤道面に沿って、ミトコンドリアの外包膜の外側、すなわち細胞質側にリングが現れ、このリングが収縮することによって、ミトコンドリアは分裂する。現在、高等な動植物で探索中であるが、次章で述べる色素体の分裂装置と同様に、ミトコンドリア分裂装置は下等な体制の生物では明瞭な構造として現れても、進化とともに単純化していっているため、高等な生物になるほど観察されにくい。ミトコンドリアの分裂装置を形成するタンパク質の遺伝子は、細胞核にコードされている可能性が高いことから、細胞核が分裂装置を作り、ミトコンドリアの分裂をコントロールしているのではないかと考えている。もうちょっと面白く書けたんじゃないかな、と繰り返し思う。もったいない。
(本書P.83)
脂肪細胞が出す信号、レプチン。このホルモンは食欲を抑制し、エネルギー消費を増大させる働きを持つ。つまりこのホルモンによって脂肪の量がある程度コントロールされているというのだ。ところがレプチンを作る遺伝子が壊れていると、たとえ体には脂肪がついていても、脳は脂肪がないと判断してしまう。その結果、食欲が増す一方でエネルギー消費が抑えられ、結果として肥満になるというわけだ。
このレプチン、単に脂肪量をコントロールするだけではなく実に様々な働きを持っているという。性腺の成熟に関わり、さらに胃の内壁からもレプチンは分泌される。発生にもなんらかの役割を果たしているらしく、さらには免疫機能にも関わりがあるようだ。
じゃあレプチンを注射か何かで入れてやれば肥満対策になるんじゃないか。誰しもがそう考える。実際、臨床試験も行われているところだという。ところがヒトの肥満の主な原因はレプチンの分泌不足ではなく、レプチンのシグナルを伝達する機構の方に異常があることが多いという。何らかの理由で、レプチンが効きにくくなっていることが肥満の原因があるというのだ。
ではどこに問題があるのか。おそらくはレセプター、あるいはその先の細胞内シグナル伝達のどこか、ということになる。おそらく例によって例のごとくで、Gタンパクがどうしたこうしたという話になるのだろうが、その辺りは、これからが面白いところだろう。
ここまでが本書前半。中盤はレプチン・レセプターが多く分布する視床下部で働く多くの分子の話。ニューロンペプチドY、POMC、アグーチ関連ペプチド、CARTといった名前が並ぶ。これらの分子がレプチンが運んできたシグナルを伝え、食欲を促進したり抑制したりするらしい。これらの分子も抗肥満薬のターゲットとして注目されているという。おそらく、まだまだ多くのシグナル伝達分子が発見されるのだろう。
後半は、ヒトの熱生産、代謝の話である。ここがまた面白い。同じモノを同じだけ食べても太るヒトと太らないヒトがいるように、消費エネルギー量には個人差がある。エネルギー消費には3種類あるという。基礎代謝、食事誘導性熱産生、活動代謝である。問題となるのは基礎代謝である。生まれつき、エネルギーを節約するヒトがいるらしい。
ここで登場するのが最近各種バラエティでも登場する褐色脂肪細胞である。熱を作りだしているという脂肪細胞だ。では褐色脂肪細胞はどうやって熱を作るのか。褐色脂肪細胞のミトコンドリアの内膜にはUCPという膜タンパクがある。このタンパクが、熱を作るのである。
冬眠動物などに比べると、人間には褐色脂肪細胞が少ない。よってこのUCPの役割には長年議論があったが、褐色脂肪細胞以外の細胞からもUCPが見つかり、現在再び注目を集めているそうだ。レプチンとの関係はもちろん、これまた抗肥満薬のターゲットとなっているという。
これらの研究は、まだまだこれから、の分野であるようだ。だがおそらく、今後の進展は速いのではなかろうか。多分、肥満そのものには関係ないことも付随して成果が弾き出されてくることだろう。面白そうなジャンルである。
内容とは全く関係ないのだが、読んでいるとふと「英文の翻訳のようだな」と思える箇所がところどころあった。あたかも最初英語で書かれたものを日本語に翻訳しているような、つまり翻訳書を読んでいるような気がしたのである。別にだからどうこう、というわけではなく、ただそんな気がした、というだけのことだが。アメリカで生活している著者が書いた本だからであろうか。
著者がプロローグでまとめている項目の選定基準がなかなか面白い。これは僕が普段思っている事とも通じるので、引用させてもらう。
つまり「未解決問題」とは、最先端で起きていることであると同時に、普遍的、根元的な問題であり、同時に面白く、今後を示唆するものだというのである。ときどきこのホームページへの意見として、「科学書の定義は何か?」と質問してくる方がいるのだが、だいたい上記のどこかに触れているものを科学書として僕は取り上げている。
同時に著者はこう綴っている。
「物理学者である私が驚いたのは、現代科学における最も面白く、人の心をとらえる最前線の問題が、物理学でもなく、宇宙論でもなく、じつは生物学であるということである。(中略)私の予想をはるかに超えて、新しい生物学は非常に深く、かつ広く拡大し、新しい発見がたいへんな勢いで実用化され、分子生物学以外の広い領域に大きなインパクトをあたえてきた」。
刊行される本にも、生物学関連のものが多い。これは上記のような理由によるものであり、時代の流れでもあるから仕方のないことではある。だが書評する方としては困るんだよなあ。もうちょっと色んなジャンルから本が出てくれないと。
著者は自分自身治療者である。だから薬が効くことも理解している。だがどういうわけか、自分自身は薬なしでも大丈夫だと結論づけてしまい、苦しむ。内科の病気でありながら、他の臓器の病気との違いはここにある。
躁鬱病は遺伝子による病であるらしい。遺伝傾向もある。彼女も、子どもを持つことについて考え、こう結論している。
不思議なことだが、躁うつ病だから子どもを持たないという考えがわたしの心に浮かんだことはただの一度もなかった。もっともひどいうつ病のときでさえ、わたしは自分が生まれてきたことをけっして悔やまなかった。死にたかったのはほんとうだ。しかし、それは生まれてきたことを後悔することとはどこか違う。言いようもないほど、わたしは生まれてきたことに大きな喜びを感じ、人生に感謝していた。人生をだれかに引き継ぐことを望まないなんて想像もできなかった。すべてを考え合わせて、たとえ荒れ狂い、ときには最悪であろうとも、わたしは素晴らしい人生を与えられた。単に精神の病の様相を描くだけに留まらない、一人の人間の生き方を描き出した一冊である。
トピックスはパラパラとまぶされているのである。たとえば仙台平野は過去3000年間に約800年の間隔で巨大津波に襲われているとか、サザエ個体の成長が4年目に低下する理由は個体密度を一定にするためらしいとか。
なのに、なぜか面白くないのだ。要するに散漫なのかもしれない、と再読しながら思った。サザエならサザエに集中して、サザエで一本筋を通して書いて欲しかった。ところが本書のサザエそのものについての記述は事実の羅列的であり、読んでいて一本のストーリーが感じられない。ストーリーを重視したタイトルなのに、である。生物進化の一般的な話なら、他の本のほうが面白いし。
ううん。1900円(+消費税)分、損したかも。
化石が発見される度に右へ左へと大きく揺れる人類進化関係は取りあえずおいといて(それだけどの話も面白いとも言えるし、眉唾だとも言える)、トピックスを。
特に面白かったのは昆虫の話だ。昆虫の多様性出現は、以前は多様な被子植物の出現後だと考えられていたという。ところが実際には花の出現以前に既に昆虫は様々な科に分かれていた。例えば、ミツバチの祖先種──現在のミツバチと変わらない巣を作っていた──は既に2億2000万年前には出現していた。ところが花が出現したのはそれよりも1億年以上あとのことなのだ。
本書収録の話の中には僕が聞いていたこととはまるで違う内容のものも多いのだが、どっちが正しいのかさえも良く分からない。古生物の世界はまさに日進月歩であるが、新しい情報や解釈=正しいとは限らないのだ。ただ化石という形の、事実があるだけなのである。
私は、この手の本の場合、著者自身が、なぜ取り上げる問題に興味を抱いたかという「取材動機の描写」が必須だと思っているのだが、本書には最後までそれが出てこない。つまり、そもそも何故に外因性内分泌撹乱物質の取材を始めたのか、という部分が欠落しているのである。また、内容が章立てごとにバラバラで、それぞれの繋がりがやや不鮮明だ。
このように感じてしまった理由の一つには冒頭からの構成・演出上の問題がある。ド頭に事件の象徴的なシーンを入れるのは確かに常套だが、科学的なドキュメントの場合、本来そういうシーンは淡々と冷静に描くべきではないか。ところが本書では著者が冒頭からヒートアップしており、これはなんだか滑稽。もちろん本を書く上での演出なのだろうが、正直言って白けた。ドキュメントとしての迫真性が薄れてしまうのはもちろんだが、著者が暗黙の上に大前提としていることがなかなか見えてこないため、いきなり仮説(問題は環境ホルモンだ!といったもの)が立ってしまっているように見える。この辺り、『メス化する自然』等と比べるとその差は歴然としている。以上のような理由により、科学本としてのデキは今ひとつと言わざるを得ない。
さて、そのような、かなり大きな欠点のある本書だが一方、本書ならではの特徴もある。なにせ、まだ研究者たちが取材すらされたことのなかった頃から、著者は研究者達の間を回っていたのだから。海外の話も半分を占めているが、やはり面白いのは日本の研究者たちがお互いの研究ともども繋がりを深めていく過程である。キーマンを一人ずつ見つけていく過程は、できればもっと克明に描いてもらいたいところであった。
そして本書は、科学史、あるいはCSS、STSなどの研究者達にとっても興味深い資料と言えるのではないか。冒頭に挙げたとおり、(異説はあるにしろ)「環境ホルモン」という言葉を作ったのは著者らであり、その経緯も描かれているからである。著者は「環境ホルモン汚染問題について知っている科学者は恐らくは20人足らずだったろう」という当時を振り返り、こう綴っている。
当時、つまり1997年前半、日本における環境ホルモン問題の最大のネックは、「問題の重大性を語るための適切なキーワードが欠如している」ことだったのである。これははっきり言って致命的であった。そして私たちが至った結論は、問題の大きさをわかりやすく伝えるための適切なキーワードが必要なのではないか、ということであった。そして考えられたのが「環境ホルモン」という言葉だった、というわけである。
今となっては、このミームが大成功を収めたことは誰の目にも明かである。逆に状況を混乱させているのではないかという批判も出てくるほどだ。だが統一的な視点を欠き、単なる事実の集積がバラバラに散らかっていた状態に、一つの言葉が果たした意味は大きい。この単語が出てきたおかげで、環境に放出された化学物質が内分泌を撹乱しているのではないかという一本のストーリーができあがり、散らかった一つ一つの事例を一つの文脈で語ることができるようになったのだから。
著者が本書中で絶えずキーワード、キーワードと言っているのはこのことなのだ。様々な現象を統一的に捉えるためのキーワードが欠けていたというのである。
ただ、いわゆる環境ホルモン問題に関して、私は未だに態度を決めかねている。一つ一つの事象はなるほど分かった、そして危険性が証明されていない=安全というわけでもないのも至極当然である。
だが、今ひとつ納得がいかないのである。環境ホルモン出現以前の生物データがとにかく少なすぎるのだ。そのため、何が標準で何が変異なのか、良く分からない。また変異が現れているにしても、それが即、化学物質と結びつくのかどうか。たとえ相関が見えたところで、安易に結論を選んで良いのか。どうも僕にはその辺が良く分からない。エストロゲン様の作用を持つ物質についても、研究者の間でも意見が分かれているらしいことは何冊か本を読めば分かる。例えば海外の研究者の中には大豆のイソフラボンにも警告を発するが、日本の研究者でそういうことを言っている人はあまりいない。それどころか大豆のように植物由来のものとは長い付き合いだから体の方に影響が出ないような仕組みがあるのではないかといったことを言っている研究者もいる。僕には単なる思いこみでものを言っているようにしか聞こえない。またエストロゲン様の働きを多くの人工化学物質が持つのならば、例えば女性の老化を遅らせているといった効果も見られるはずではないのだろうか。女性の寿命が延びているのは環境ホルモンのせいだといった論法も成り立つはずなのだが、そういう話は聞かない。
どうにも良く分からない、というのが率直なところなのだ。これは書評でもなんでもなく、個人的考えに過ぎないのだが。著者からすれば「分からないことこそ問題だ」、だから禁止だ、となるのだろうが、これだけ科学技術文明の恩恵を受けてきて、あっさりそう言い切ってしまえないところが僕にはあるのだ。また、元々生物は化学物質の海の中で暮らしている。何がどう影響しあっているのか──その解明にはまだまだ時間がかかる。そして現実的には、許容量──acceptable riskが分からないことが問題なのではなかろうか。もちろんここでいうacceptable riskは、シングルヒットの可能性や低濃度の影響なども加味したものでなければならない。
閑話休題。
本書で一番面白かったのは、東京都監察医務院の遺体の精巣の話であった。監察医務院には50年分のデータが残っている。そこから精巣に変化があるか読み取る試みが行われた。すると、精巣がここ10年ほど、体重比で見ると軽くなっているというのである。ごくわずかであり、断言できるかどうかは微妙なところだというが、今後の研究成果を待ちたい。
本書には、子ども達がキレるのは環境ホルモンのせいだといったわけのわからない記述はさすがにない。今ひとつ分かりにくい点もあるし、環境ホルモンの何が問題なのかという点に関して知りたいのであれば類書でも良いと思う。だが日本の研究者達が「環境ホルモン」という言葉ができるまで、そしてできてからこの2年間、いったい何をしてきたのか知りたいという方にとっては、一読に値する本だろう。
いちおう内容をご紹介すると、科学史的な視点で人類の火星へのまなざしの変遷を述べた後、惑星探査機による直接調査以前と以後に火星についての知識がどう変わったか、そして最近の火星探査の成果のおさらい、最後にテラフォーミングとズブリンらの考えの紹介、となっている。
要するに無難すぎるんだよね。著者独自の考えが、今ひとつ見えなかった。
さて本書だが。私のような科学の現場にもいず、科学を研究対象ともしていない人間にとっては、あまり興味を惹かれない内容であった。また、収められている論考だが、部外者には著者の立場がさっぱり分からないため、まずどういうコンテキストで自分の主張を展開しようとしているのかを読み取るのに時間がかかってしまった。よって本書の読み方だが、各論考を読むためには冒頭を読んだら、つぎにいきなりその著者の結論なりまとめなりを読む。その後で中身を読む。これが正しい。というか、こうでないと読めない。
で、中身はどうなのかな。この手の本の良い読み手ではない僕にはさっぱり分からない。要するに、「ふむふむなるほど。で、それがどうしたんですか?」という感想が率直なところなのだった。
もちろん本書が現場の人間に対して、何らかの役に立つのであれば良いのだが。役に立つのかな? というわけで現場の人はこういう本をどう読んでいるのか、ますます知りたくなってしまったのだった。
なお、オマケ的に以下の人々へのインタビューが収録されている。
写真はある意味紹介のしようがない、というか他のウェブサイトなどでも見ることが出来るので、ここでは省略。知っている人は知っている内容だけど、集めてもらうと非常に便利なのはいつもどおり。
近年、観測技術の進歩で改めて脚光を浴びているのが星の誕生過程だ。わし星雲の「星のタマゴ」の写真は、その華麗さとあいまって、皆をあっと言わせた。
星は分子雲の収縮によって生まれるが、最近の研究成果によって、星がたくさん誕生しているような場所では、早産のようなケースがあることが分かってきたという。つまり収縮を始めていても、近くに先に星が生まれてしまうと、その星の強烈な放射によって、分子雲を吹き飛ばされてしまうことがあるというのだ。そうやって分子雲を吹き飛ばされている様子は<コメタリー(彗星状の)グロビュール>とよばれ、実際に見事な写真が撮影されている。なるほど、面白い。
その他もろもろ、やや値段が高いのと、この著者(というより、この手の宇宙モノの本)の特徴なのだが、若干内容が散漫かつ紋切り型であることを除けば、まあまあの本と言える。
人間の人間らしさは、他の動物とどう違うのか? コンピュータなど工学的産物として同じ様なものを作ることはできるのか? これが大問題であることは論をまたない。著者は脳のしくみや動物行動から始まり、人工知能や哲学、ペンローズらの主張を順繰りかつ丁寧に追って、この問題を考える。そして、一つの結論を出す。脳は物理系だが工学的産物としては作ることが出来ない、そして意識とは創発によって生まれてくる、と。コンピュータは知能を持つであろうが、それは人間の知能とは別の種類の知能であると。
だがこの結論ははっきり言って説得力に欠ける。訳者があとがきで指摘しているとおりである。この結論に達するまでは著者は非常に丁寧に問題を扱っているのに、結論は十分に議論がなされないまま呈示されているように思う。ハードプロブレムは相変わらずハードプロブレムなのだった。
だがこの問題──意識に関する問題のポイントをざっと見渡すには良い本だと言える。読むには十分値する。
最後に一カ所引用しておこう。
「私」の実在性に関する核心の事実は、私の頭の内部のどこかから世界を眺めている「私」がいることを私が自覚しているということにある、と私は信じている。私の脳の働きやニューロンの発火についてどれだけくわしい説明がなされようと同じことである。みずからの実在性に関するこの核心の結論に私がいかにして達するのかが説明されないかぎり、意識の問題を解決したことにはならない。ましてや、意識など存在しないと否定することによって問題が解決されるものではない。著者はこう言ってデネットを斬って捨てるのだが、この問題意識については同感である。
内容は挙げたとおりなので、いくつかトピックスを拾い出して紹介しよう。
体をバラバラにすると、死体の身元が分からなくなる。四肢は性別すら分からなくなることも多いという。最近のように男もマニキュアやペディキュアを塗る時代ならなおさらだろう。だがこれを区別する方法があるのだ。著者によればこうである。
…骨からの性別の根拠となる上腕骨と大腿骨の捻転角を測定することにした。男と女では骨の長軸に対する骨頭部分の捻り角度が違うからである。両手の掌を向かい合わせて、両手を真上に伸ばした場合、女性は肘関節で前腕が外側に曲がるが、男性は曲がらないので真っ直ぐに伸びる。また正座して座った場合、女性や小児は両足をお尻のわきに出すことができるが、男性はできない。というわけで、捻転角に女性と男性とでは差が出るそうだ。もちろん比較の問題なので、中には難しい死体もあるのだろうけど。
もう一カ所、引用してご紹介したいところがある。精液の話だ。ついこのあいだ日記に書いたばかりの話なのだが、たまたま同じ事が本書に書かれていたので、やはりここは専門家においで頂こう。
精液は精子と精巣上体、精管、精嚢、前立腺、尿道球腺などからの分泌液からの混合物であるが、大部分は前立腺と精嚢の分泌液である。精液は射精されると、はじめゆるく凝固するが、数分で溶解して液状になる。液状部分は精漿と呼ばれ、特有の臭いがあり、pHは七.五前後でアルカリ性、蛍光を発する。はじめに射精されてくる精液は漿液性の前立腺の分泌液で、後から射精されてくる精液はゲル状の粘っこい精嚢の分泌液である。この間に精子が混在しており、均一ではないが、凝固が溶解するとやがて精子の分布が均一となる。現在、精液の検出には酸性フォスファターゼ試験という方法が使われている。
先にも書いたが、1924年生まれの著者の驚くべき記憶力と経験に支えられた本書は、読み物としてなかなか面白い。冷静な観察眼と推測手法には学ぶところも多い。だが扱われているのはどれも犯罪の犠牲者であり、単に「面白い」で済まされるものではない。中でも特に、後ろ二章の告発は重い。どういう内容かは、是非ご自分でお読み頂きたい。今更ながら、この国の官憲が信用できないことが良く分かる。
でも、これを手放しで誰にでもおすすめできるかというと、そうもいかないのが物理の本の難しいところ。物理の場合、高校レベルから現在やっている研究までの距離がありすぎる。本書でもたとえばマクスウェル方程式がどうのこうの、という話が出てくるところがあるのだが、普通の人ならここでパタンと本を棚に戻してしまうだろう。だが本書が、かなりよくできた一般書であることもまた事実なのだ。
どうすれば, 分かりやすく, かつ誰でも読める物理の本ができるのだろうか? そんなことを改めて考えてしまった。
紹介されているものは微小なセンサーやアクチュエイターはもちろん、微小部品を作り組み立てるための微小工場<マイクロファクトリ>(これは99年10月に開かれたマイクロマシン展で公開された)。胴体直径5ミリ程度の配管検査を行うための微小ロボット。微小手術を可能にするカテーテル。
サイエンスとしても面白い。マイクロマシンくらいのサイズになると重力よりも静電気力や粘性が効いてくる。表面張力なども問題だ。潤滑油なども使えなくなる。これをどうクリア、あるいは逆に利用するかがマイクロマシンを実際に機能させるかが課題となる。
エネルギー供給もまた問題である。有線で供給するという手もあるが、マイクロマシンにとってはケーブルの弾性力もまた大問題となる。非常に固い棒をひきずって歩くような形になってしまうのだ。そのため光やマイクロ波を使った無線エネルギー供給や、温度差や磁気、機械的振動を使ったエネルギー獲得手段が検討されている。
マイクロマシンは様々な可能性を持っている。先に挙げたようなものはもちろん、たとえば惑星探査などにもこれからは使われることになるだろう。現在の惑星探査機械はミッション成功のために2重3重の冗長構成が取られているが、マイクロマシン技術で微小な探査機を多数作れば、一台一台のシステム冗長性はもっと低くても良い。また当たり前だが様々な電子機械にも適用されることになる。マイクロファクトリ・システムを使って店頭でオーダーメイドでモノを作るということもできるようになるかもしれない。
しかしマイクロマシン技術は紙の上ではなかなかその驚きは分からない。実際にモノを見ると、その小ささに本当に驚く。またそのアセンブリされた各技術それぞれが、技術や工夫の結晶なのだ。たとえば配管検査用ロボットからの画像転送は、ピントが合っている部分だけを送り、それを合成して一つの絵にすることにより、ビットレートでも画質でも得をするといった工夫がなされている。本書を読んだら、できれば実際にモノを見てマイクロマシンの驚きを少しでも感じて欲しいと思う。