で、肝心の内容だが、今ひとつパッとしない本だった、というに尽きる。入門書ということもあるのだが、その辺があまりに意識されすぎていて、あまりに当たり前のことしか書かれていない。彼自身の発見に関する部分を除けば、どうにも面白くなかった。残念である。
一応内容をメモしておこう。
彼は、生命の発生──少なくとも今日の生命の起源──は、隕石の爆撃がおさまった、39億年頃に遡ると考えている。34億6500万年前の最古の化石はシアノバクテリアであると考えているようだ。
この時期の化石には全く違う解釈もある。詳細は「生命と地球の歴史」を参照して頂きたいが、これは極めて重大な問題だ。要するに、酸素発生が35億年前に始まったのか、それとも27億年前から始まったのか、という問題なのである。なお、当時の地球環境は当然の事ながら今と全く違い、大陸地殻も(少なくとも)今のような大きさのものはなかった。海洋の深さがどのくらいあったかといった問題とも考えあわせながら、今後も慎重に古環境──堆積環境と生息環境──を復元していく必要があるだろう。
さて内容は「化学装置としての脳と心」リチャード・M・レスタックに一番近い。実際、本書の序文はレスタックが書いている。一言で言えば、精神薬理学の発展を中心におき、心理療法との対比を行いながら、精神医学の発展の歴史と現在を描いた本である。ページ数も本文160ページと少なく、図版も多いので誰でもさらさらと読める。
うーむ。書きたいことは「化学装置としての脳と心」とか、今までの精神薬理本の感想で書いたような気がする。というわけでそっちを見て下さい。買っても損はないです。
ただし、「詩的表現」といっても結構難しい。実をいえば『細胞の分子生物学』と比べてどちらが分かりやすいかというと、やや疑問なのだ。というのは、この手の表現手法というのは、結局、実際のことをある程度理解している人にしか通じないからだ。本書は、豊富なイラストがあるとはいえ、やや中途半端な印象がある。
また、訳文も読みやすいとは言い難い。どの文章も丁寧に訳されているとは思うのだが、はっきりいって単調なのである。読んでいて飽きがくる。原書は結構工夫されているのではないかと思えるだけに、残念である。
アインシュタインが生きた時代は、科学者であろうとなんであろうと世の中の動きと否応なく関わらざるを得ない日々が続いた。自分の信念や友情を試されることもあった。科学者が政治に、政治が科学に口を出す時代だった。
本書は、アインシュタインの生涯を関係者へのインタビューや当時の新聞、書簡、メモ、他の伝記資料などにより再構成しようと試みた1冊。よって彼が脚光を浴び始めてからの出来事は極めて詳細に描かれているが、それ以前──幼少期など──は簡単にしか触れられていない。その点は残念だったが、主に残存している資料を再構成して書かれており、至って淡々と綴られている。伝記本にありがちな、思い入れたっぷりの描写はあまり見られない。この点は評価が分かれそうだ。
最近はアインシュタインを一人の人間として描き直す試みが多くなされている。本書でもいくつかのエピソードが引かれている。里子に出されて行方の知れぬ娘リーザール、精神を病んだ息子エドゥアルト。幾多の女性。アインシュタインが家庭の問題を抱えていたことは、多くの伝記で明らかにされた。だが本書には非難するような態度はない。淡々と一人の人生を見つめようとしている。
アインシュタインは、多忙を極めていたが、ヴェリコフスキーなどいわゆるトンデモの人の話にも耳を傾ける器量の持ち主だった。隣人の息子や娘の宿題を見てやりもした。普通の老人でもあった。当たり前のことだが。
死後、彼の脳と眼球が摘出された。まるで聖体のように、死後40年を経た現在も保存されている。
彼が好んで使ったのはこういう表現だったという。
「いや、違う。それほど簡単ではない」
ミツバチはダンスによって気流の変化を起こし、いまだ人間の知らぬ情報を伝える。コオロギに寄生するハエは宿主の100倍の聴覚を持つ。多くの魚は電気でメッセージを伝え、他の魚が近寄ると周波数を反射的に変化させて同調を防ぐ。サルの鳴き声は単なる感情の発露ではなく、情報を含んでいる。etc., etc...
本書にはもう一つ底を流れるテーマがある。「言語」を持つのはどうやら人間だけらしい。だが多くの生き物がコミュニケーションの手法を持っている。では人間の言語は他の動物のコミュニケーション手法とはどう違うのか。その差は質的なものなのか、それとも量的な違いに過ぎないのか。これが本書のもう一つのテーマである。
犬や猫を飼ったことのある人なら、彼らとコミュニケーションが取れることそのものに疑問はないだろう。彼らは身振りや手振りを理解しているように見えるし、こちらもある程度相手の意図を読むことができる。これがコミュニケーションである。では「言語」はその延長上にあるものなのだろうか?
チンパンジーに手話や図形言語を教える試みが現在続けられている理由の一つはここにある。それらの実験、そしてその解釈に対しては、今でも評価がはっきり分かれている。どうやら著者は否定的、監修者は肯定的であるようだ(この辺は、というかこの辺こそ、本来<監修者のことば>でちゃんと解説すべきところだと思う)。
私はチンパンジーと長く接したことはないし、彼らとなんらかのコミュニケーションをとったこともない。だからなんとも分からないのだが。
一つ言えるのは、別に人間の言葉を喋らなくても、彼らは彼ら同士でコミュニケーションしているということ。あまりにも当たり前のことなのだが、やっぱり根本的にはそこの研究が大事だし、結局、一番面白いんじゃないかと思う。
私の一番のお気に入りは第2章、『小さな吸血鬼』と題されたヒルの章だ。ウエールズで5万匹の医療用ヒル(そう、ヒルは医療に使われているのだ)を飼っているロイ・ソーヤーなる人物がこの章の主人公。妻に「ヒルと一緒に生まれてきた」と言われる彼のヒル生活と、人々に忌み嫌われるヒルの生態、そして近年の研究ベクトルが描かれる。抱腹絶倒だけでなく、極めてまともな本でもある本書の性質を、端的に表す章である。
他、本書にご登場の生き物達は以下の通り。ハエ、イカ、アリ、トンボ、クモ、ダニ、オサムシ、ミミズ、カ、ガ、メクラウナギ。以下は、素っ気ないけど内容を表している帯の文句を引用し、ご紹介しよう。「飛ぶ、跳ねる、踊る、這い廻る、おのれの身体的特性を大胆に発達させ、ジャングルや深海、砂漠など、過酷な環境に適応してきた、その驚異の生態に肉薄。」
要するに、あの、ぬめぬめした、毛むくじゃらで、なにやら汚らしい顔をした生き物達を愛する人々は必読です、ってこと。
著者は「ナショナル・ジオグラフィック」のライターほか、「ディスカバリー・チャンネル」なども手がけるTVプロデューサーでもあるそうだ。なるほど、さすがです。
でも、日本でこういう文体のサイエンスライターってあんまりいないな。翻訳ではよく見かけるけど…。いないわけじゃないだろうが、なぜあんまり目立たないのだろう?
もう一つおまけ。著者は「日本では(ミミズを)パイの成分に用いているのだ」と書いている。これ、いったい何の話?
視覚はもっとも解明の進んでいる機能であり、「見る」ことを考えることは、心の働きを理解するのに大変分かりやすい例となる。著者は「見る」ことには3つの性質があるという。以下の3つである。引用する。
第1性質:「見る」ことは、世界をシンプルな原理で積極的に構成することです。
第2性質:「見る」ことはおぎない、予測することです。
第3性質:「見る」ことは意味づけることです。
これだけ引っ張っても分かりにくいかもしれないが、視覚を通じて心が世界をどのように知覚するか、よく表している。
うむー。実にまとまりのない文章で申し訳ないが、とにかく本書はすぐれた入門書であると同時に、単なる入門書に留まらない内容の本である。是非一読をお薦めする。
ドロバチがこねて作り上げる多様な壺。土管、煙突、トックリ…。この壺の形の多様性は、そのまま巣作り道具の多様さである。つまり、それぞれの蜂が体のどこをどう使って作るかによっているのだ。
巣盤が何層も積み上げられて構成されているスズメバチの巣は、紙でできたいわば「パルプの家」である。最大規模の巣では1万を超える育房を持つ。そこには幼虫が詰まっている。スズメバチは餌がないときには幼虫を餌として食う。
本書に収録された写真の中でもずば抜けて美しいのがミツバチの巣である。本書にはこうある。
「重力に逆らわずにゆるやかな放物線を描く造形は、ガウディの放物線を使った構造実験=フニクラによる有機的な建築を彷彿させる」
幾何学的な6角形から構成されながら、全体としては溶け流れるような、自在かつ有機的なかたち。「開放型空中建築」とはよくいったものだ。
この形は機能の結果として存在する形である。素晴らしいのはもちろん形だけではない。厚さ0.07-0.09ミリの巣室。ねじれを利用した耐振動構造。防水、空調システムなどなど。
エッセイには東西のミツバチ観なども収録されている。
基本的には、分子生物学の成果を受けた人類学の本である。だが本書はそれだけの内容に留まらず、広く分子生物学とそれに対する<かたちの進化>、個体の変化に対する考え方を著したものである。人類学の現在の成果をざっと学ぶことができると同時に、優れた科学の入門書でもある。
分子レベルの変化と個体レベル、形レベルの変化は1:1で対応するものではない。「遺伝的には大きな差異があるのに、形はみなよく似ているという例も」よくあるのだ。ヒトとチンパンジーの遺伝子はよく似ている。だが形や行動はずいぶん違う。だから逆に、その差異はどこにあるのか研究するには非常に面白い対象となる。
「個体発生に伴って生物の形がどのような要因のもとに発達したり退化したりするのかを、われわれはほとんど知らない」。「環境条件によってどのように遺伝子の発現に影響があるのか、などの問題が解決されなければなりません」。まったくもってその通りである。現在、発生学の人達がこのような問題に手を出していると聞く。今後に大いに期待したい。
科学は「いかにして」には答えてくれるが「なぜ」には答えてくれない、といわれることがある。だが「なぜ」を底に持っていない「いかにして」は貧しい。本書は「なぜ」を考え続ける研究者が少なくともここにいることを教えてくれた。
そういえば、ムシ入りチーズの熟成原理ってどうなってんだろう。解明されているんだろうけど、知らないなあ。誰か教えて下さい。
湯川秀樹は「生物は積み木細工ですね」と言ったという。著者はそれに対して、ルース・カップリング説といったものを出し、生物が単なる機械でなくなる点を模索した。いわゆる”ゆらぎ”の考え方である。分子機械は機械だが、我々の作る力学的機械とは少々違う統計力学的機械であり、それが生命らしさへと繋がる、というわけだ。また、タンパク質分子はある種の「状態」を取ることができる、と著者は言う。タンパク質分子は環境に応じて多様な構造と状態を取ることができる、というのだ。
だが、それもやはり機械であるには違いない。生物物理の基本的な考え方は、生物全体を分子機械シリーズの集合体としてみる、というものだ。
生命はどの階層から発生するのか。タンパク質分子を積み重ねると、質の違う機能が生まれる、という人もいる。単なる積み木細工はではない、というわけだ。だがそれも別の人に言わせれば、見方の違いに過ぎない。どうもそういう見方では、生命の生命らしさは探せそうにないように思う。
生物物理の世界の楽しさは、分子機械の構造・機能の発見そのものと、生物の生物らしさがどのような物理的実体の構成によって生まれるのか、ということを実際の生物に探し求めている点にある。細胞の中で起こっていることは高分子溶液の反応論だし、タンパクの機能や構造の探し求め方や考え方は上述の通りだ。
本書はその世界を覗きこんでみたい人にも、ちょっと(いや、かなりかも)真面目に生命現象を物理の言葉で考えてみたいという人にも、そして生命論全般に興味を持つ人にもお薦めである。
読後、ページを閉じ、表紙の写真を改めて眺めた。つくづく、「トキを愛し、トキと共に生き、トキを命がけで守ろうとした男たちがいた」という帯の文句が胸に染みる本だった。本書は、小説スタイルのノンフィクション。社会的苦難にもめげず、トキを守ろうと文字通り心血を注いだ佐藤春雄氏を主役に据え、朱鷺保護の歴史を、朱鷺という鳥たちを愛した人々の人間ドラマ、そして人間と自然のドラマとして描く。重厚な、骨太のドキュメントである。
つまり、いわゆる「科学書」ではない。だが、この本は是非ともご紹介したい、そう感じたのである。
種を構成する個体数が100を切ると、その種の生存は危ういという。だから日本の朱鷺は、保護政策などが打ち出される以前から既に「絶滅」していたのだ、という人もいる。また、種の生存というのは環境とセットである。だから環境が破壊され、固有の生態が崩壊した時点で「絶滅」なのだ、という言い方をする人もいる。
だが、どうせ絶滅するのだから(あるいは、もう「絶滅」しているのだから)といって、何もしないというのは正しい態度なのか。それは違うだろう。じゃあ、なぜ正しくないのか。なぜ、「何かしたい」と思うのか。この問いにほとんどの人は「可哀想だから」と答えるだろう。ところが、この答えを鼻で笑う人もいる。そんなことを言ってなんになる、と。そういう人にかかると、主張すべき事はそんな感情論じゃない、ということになる。
本書を読むと、寝食をなげうって愛する鳥のことばかり考えていた人々にとっての「保護」と、いわゆる「自然保護」というものの間との「ズレ」を感じる。朱鷺をひたすらに愛し、実際に膨大な観察を続けた人の意識は、「稀少だから保護すべきだ」とか「種を絶やしてはいかん」とかいったものとは、一見似てはいるが、実はずいぶんと距離のあるものであったようだ。
ある生き物を保護する、というのはどういうことなのか。「種を保護する」という言葉と「生き物を保護する」という言葉は、イコールであるようでイコールでない。かといって全く違うのかというとそうではないから紛らわしい。
本書に登場する朱鷺を守ろうとしていた人は、別になにも「朱鷺」という「種」を守ろうとか、そんなことを第一義にしていたわけではなかったのである。その保護の心は単純に、生き物を愛する心から出ていたものだったのである。
一言で言えばそれは、ヒューマニズムである。ヒューマニズム、「人間の心」で、彼らは朱鷺を愛した。だからこそ、生態解明もされないままの捕獲飼育、人工繁殖には反対し、キンを捕獲した宇治金太郎氏は自らのことを「世界一の裏切り者」と呼んだのである。
朱鷺にとって、どちらが良かったとか悪かったとかは言えない。だが、なついた朱鷺を、守るためとはいえ捕獲した己を「裏切り者」と呼ぶ言葉と、「稀少動物保護」のかけ声の間には、やはり温度差がある。
つまり結局はきっとこうなのだ。「このままだと絶滅だ。いやもう絶滅状態なのかもしれない。もともと人間の環境破壊のせいでこういう事態になったのだ。人間は責任を取らなければならない。都合で他の種を滅ぼして良いはずはない」などなどと言われるより、「俺は、あいつのことが好きなんだ。だから守りたい」と言われた方が、感情的にはよっぽど納得できるのである。
それは、生き物を慈しむ、ごく自然な感情が僕らにあるからだろう。その延長上にあるはずの「保護」が、どこか遠い所へ行ってしまった──それが、朱鷺のケースだったのかもしれない。本書を読んでいると、そんな気になってくる。
そうだとすれば、ここにこそ真の「自然保護(僕はこの言葉は好きじゃないけど)」への鍵がある。つまり、「生き物を慈しむ心」をできるだけ大勢が持つこと。当たり前だが、これがすっぽり欠けているのが現状だろう。斯くして「保護」は、一般人からは到底納得できない理由で説明され続ける…。
現在、朱鷺は、中国では順調に増えつつあるそうだ。日本での失敗を他山の石とし、自然繁殖を中心としているという。だが、それらを日本に借りてきても日本では生きられない。朱鷺が生きられる環境がないからだ。その環境を回復させようとする時が、いつか来るかもしれない。もしそれが可能になるならば、根本的な原動力となるのは「種の回復」といった言葉ではなく、「生き物を愛する」といった、ごく素朴な感情だろう。
ん〜。実際にはこれだけピュアに思ったわけではなく、他にもいろんなことを考えたのですが、あんまりうまく書けないのでここまで。
精神、心の状態が体の状態と深く相関していることは大分知られるようになった。心は体から一方的にフィードバックを受けているだけではなく、体に影響を及ぼすこともあるらしい。神経系と免疫系は、お互い相互に影響を及ぼし合っている。最初この話を聞いたとき、つくづく体は良くできている、そう思った。このテーマの本はブルーバックス他にも何冊かあるので、本書で物足りない人は、そちらでも読むといいだろう。
というのは、本書は、あくまで心身が相関していることを指摘しているくらいの本だから。これは多分、日本とアメリカそれぞれの国情の違いを反映しているのだろう。全体的に、これはアメリカ人むけの本だな、と思わせられるところが多い本だった。というわけで、つまんないわけではないが、あんまりお薦めもしない。
長く連れ添った伴侶が亡くなった数日後、息を引き取る人がいる。友達の励ましは病に効果がある。動物療法、音楽療法、美術療法などの評判も悪くない。少なくとも害はない。心から笑うことそのものも、体に良いようだ。医療にこれらを組み込むことは、プラスになりこそすれマイナスになることはない。
心が体に影響を与えている、それは間違いない。極端にいえば、医療はそれで良い。では、その生化学的実体は何か。その辺を突き止めることが、科学者のこれからの仕事だ。
リニアに対してはいろんなこと言われているけど、純粋に技術だけ取り出すと、これが凄い技術であることは確かだ。リニアモーターカーは、これまでの鉄道よりも急勾配を登ることができる。これにより、将来営業線を検討する時にルート設定の自由度が大きくなり、建設コストを削減できるという。
また、リニアとガイドウェイである側壁との間は8センチ。そこを時速500キロの速度で走るのである。いったいどんな空気の流れが起き、どういう影響があるのか。シミュレーションによる検討の結果、生まれたのがあの流れるボディラインなのだという。
リニアにはパンタグラフはない。時速500キロにもたないからだ。ではどうやって照明、空調の電力をまかなうか。これが実に巧妙というか当然というか、電磁誘導なのである。つまり、浮上ガイド用のコイルを集電にも利用しているのだ。これは、さすがさすが。
理屈は結構単純でも、実際に作るとなるとそう簡単にはいかないのが技術の世界。リニアでも超伝導状態が突然壊れるクエンチという現象が起こったりした。設計のやりなおしを何度も経て、すり合わせた結果が今の実験車両なのである。問題は、いつ実用線ができるんでしょうか、ということですね。他にもいろいろあるけど、まあ、取りあえずこれだけにしておこう。
おっと、忘れるところだったが、本書にはCD-ROMのおまけが付いている。これがなかなか面白い。リニアがガーッと走るいつもの映像が入っているだけかと思っていたら、そうじゃなくて、CGによる簡単な技術解説や、インタビューが収録されている。これはなかなか面白かった。
むかつくことに、いくら食っても太らない奴もいる。「むかつく」というのは、僕は明らかに太りやすい体質だからだ。会社に入って4年の間に20キロも体重が増加した。今も一向に減少する気配を見せない。一方、まさに「やせの大食い」、メシを一緒に食うと明らかに僕の方が食い負けているのに痩せている奴もいる。このように、肥満する・しないには個人差、体質がある。この「体質」には育ち方も含まれるのだが、もう一つ重要な要素がある。遺伝子である。
体重のセットポイント説というのがあるのだそうな。つまり、体は摂食エネルギーと消費エネルギーのバランスを「見る」ことによって自分の体重を知っており、それに応じて摂食行動をとったりとらなかったりといったことが起こるというのだ。
で、規定の体重・セットポイントに現在の体重が達していないとなると、バクバク食うように中枢が指示するわけである。その体重が高めに設定されているとどうなるか。当然、太ってしまうのである。これが、体重を減らしてもすぐリバウンドが起こる本当の理由だという。じゃあ何によって体重が決められているかというと、それは遺伝子なのである。
非常にざっくり言えばこういうこと。あと本書のメインテーマはニュースでも大いに話題になった脂肪細胞が出すホルモン、レプチン。このレプチンは「末梢からの飽食シグナルを中枢に伝達するもっとも重要なホルモン」である。
このレプチンを作れないと、脂肪が溜まっているよ〜ということを伝えられなくてデブになる。また何らかの障害でレプチンが脳関門を突破できないと、やっぱりデブになる。さらに、レプチンのレセプターがブッ壊れてて、信号を出せないとまたデブになる。
このレプチンのレセプターには色々と型があり、何をしているのか今ひとつ分からないものもあるという。今後、おそらく面白いことが分かってくるのだろう。
もともと、代謝などの話は非常に面白いものである。現在の内分泌と肥満の関係の最新の話題が読めるのは大変嬉しい。ちょっと分かりにくいところもあるけど、こういう本を頼みますよ>ブルーバックスさん。
つまり「野生の生物としての生育と繁殖に必要な環境」を維持することが生態を保全するということなのである。種は、<生態>というシステムの中でのみ存続し続けることができる。これはどんな生き物でも──人間でも──同じである。レッドデータ植物を花壇に植えて維持したり、希少動物を檻の中で飼っていても、それは種を保全していることにはならないのである。
生物はただそれだけで生きているわけではない。だから、ある「種」を保全しようと考えた場合、その種を取り巻くシステム全体、環境まるごとを保護する必要がある。それぞれの種は独自の多様性を持っている。その維持には周囲の環境との相互作用が必須だ。それを理解しようとする学問が、保全生態学である。
ややこしいことを言わなくても、例えば受粉のためにはそれぞれの種に対応した昆虫が必要だし、ある植物が生えるためには周囲の光環境──他の植物など──の影響を考慮することが必要であることは分かるだろう。要するに、そういうことだ。生物は複雑なシステムの一部分であり、部分だけ取り出してあーだこーだ言うことはできないのだ。著者は「適応進化と生物間相互作用の理解こそ保全生態学の基礎である」と言う。
言うまでもなく、サクラソウは一つのシンボルである。一つの種に着目し、じっくりと観察・研究を行うことで初めて具体的に、ある種・個体群がどのように周囲の環境と関わり合って生息しているか、知ることが出来るのである。現状では、どの要素が全体にどう影響しあっているか知ることは、ほとんど不可能に近いようだ。
だが一方、自然も残って欲しいと思うが、リニアが走るのも見たいし、飛行機に乗らずにいることはできない。車にも乗れば電車にも乗る。だが、やはり生態系、多様性も残したい、というか残さなくてはいけないのも「理解」できる。これを、どうやれば誰もが納得いくように伝えることができるのか。いや、どうすれば己自身が納得できるのだろうか。残念ながら、本書からその明確なヒントを得ることはできなかった。まあ本書を読むような人は、最初から生態保全の必要なんかは分かっているだろうから、別にいいんだろうけど。
『朱鷺の遺言』を読んだせいなのだろうが、結局は、自然への「愛」、ヒューマニズムに頼るのが、一番いいような気がしてきた。
「絶対音感」とは、一言で言えば、聞いただけで音の高さが分かる能力である。普通の人の音感は相対音感、つまり前後の音との比較をしなければピッチは分からない。だが絶対音感の持ち主は、ある音を聞いただけで音の高さ、つまり周波数を聞き取ることができる。これが世に言う絶対音感である。
ちなみにこの種の能力は聴覚だけに限定されたものではない。本書には出てこないが「絶対味覚」というものもある。これは例えば、ちょろっと味わっただけで糖度が分かる、というものである。これも、普通の人は相対味覚しか持ってない。
つまり、「人間」という生き物には、そういう能力を発揮するだけの<性能>が備わっているわけだ。ただ、成人時に誰もがその能力を持ち合わせているわけではない。その有無は遺伝によるというよりは、発達時の学習過程の差によるらしい。
本書は「絶対音感」をキーワードにし、音楽という<感性>が支配する領域に「絶対」を探し求めたドキュメントである。インタビュー対象は音楽家や科学者、音楽教育家など。
本書はおそらく、音楽教育ママ達に売れているのだろう。彼らは、絶対音感こそが、我が子を優れた「天才」音楽家にしてくれる道だと考えている。だが、実際には違う。絶対音感があるからといって優れた音楽家になれるとは限らない。そんなことは本書を読まずとも分かる。音感は音感に過ぎない。演奏の能力とは全く別物である。とはいうものの、持っている人と持っていない人とでは大きな差があるようだ。少なくとも、全く違う認知世界であることは間違いないようだ。
「絶対音感」は認知科学の対象としても非常に興味深い。
何より不思議なことは「人間になぜそんな能力があるのか」ということである。ある周波数を機械のように聞き取る能力。そんなものが、どうしてヒトという生き物にあるのか。僕はまず、これが不思議でならない。
次に、「なぜその能力が、ある年齢を超えた時点で(普通の人は)なくなるのか」。つまり発達過程で訓練を行わなければ、失われる能力なのである。聴覚情報処理には、言語も含めてそういう側面がある。バイリンガルになれる年齢は6才くらいまで。絶対音感を身につけられる上限も同じくらい。絶対音感を持っている人の中には、音がドレミで聞こえるという人もいる。これを見て、聴覚情報処理全般に共通の秘密があるのではないか、と考えることは妥当であろう。現在の研究も、その方向で行われているという。
また、音声情報の処理のうちかなりの部分は、下意識で行われている。ここから先は私の全くの空想であることをまずお断りしておく。近年、伊藤正男氏らは、小脳が運動だけではなく、ある種の記憶、特に「体で覚える」タイプの記憶処理に関わっていることを示差している。ひょっとすると、聴覚の処理、特に絶対音感のようなタイプの情報処理が、「体で覚える」タイプの情報処理同様に小脳で処理されている可能性はないのか?本書を読んでいると、そんな空想をしてしまった。
関係ない話を一つ。
僕が「昔の音楽家は凄い」と思ったのは、シーケンス・ソフトを見たときだった。オーケストラのいくつものパート。それを一斉に鳴らすことのできる音源。それは、楽譜を見て脳に音を鳴らすことのできない凡人でも、その気になれば作曲ができるようになった瞬間であった。なにせ、実際に音を鳴らして何度も何度も試すことができるのだから。ところが、昔はそんなものはない。その瞬間、僕は昔の作曲家達の偉大さに、突然気が付いたのだった。
本書は、普通の音楽ギョーカイ・ノンフィクションと読むこともできるし、このような空想に浸れる本でもある。僕の脳ミソは、十分刺激された。