本書の主張は、人間は生まれたときから、ある程度プリセットされた能力を持って生まれてくる、ということ。まあ、ある意味それは当然で、でないと周囲の空間をそもそも認知できないし、危険を避けることもできない。空間把握の能力、認知の仕方、言語の獲得のための基本的能力、そういうことが、如何にして科学的に確かめられてきたか、それらについては具体的・教科書的に学ぶことができる。
ふむふむー、と思ったのは、人間は予め同類(つまり人間)を認知できるらしい、ということ。これは結構驚くべき事だと思うのだが。
認知科学という学問は、その方法論を巡ってずいぶん紆余曲折がある。実際それはまだ続いているわけだが、その辺の議論も、なんとなく見える。認知科学プロパーの人にとっては多分旧聞に属する話ばかりだと思うのだが、人工知能の人たちには面白いかもしれない。
不死の細胞として有名な「HeLa細胞」の話は何度読んでも興味深い。「1951年に培養を開始された個々のHeLa細胞は、理論上はそれぞれ2の1万5000乗個以上の子孫細胞を生産した結果になる」。つまり彼女のDNAはそれだけ増えて大成功しているわけで、我々が地球上にいる意義は何なのかとふと思ってしまう。もちろんDNAはDNAに過ぎないし、細胞は細胞でしかないのだが、DNAにしてみれば自分たちが増えれば良いわけで…。こういうものの見方をしてしまうのがダメなところだ。
そのほか、凍結したアルテミア被嚢の話や脳死状態から出産した女性の話などは、何度聞いても不思議というか驚くというか、「生物であること」の不思議さをつくづく感じさせてくれる。「生命」なるもの、その状態、その本質はどこにあるのか、あるいは一体なんなのか、軽妙な語り口ながら考えさせてくれる一冊。
「包含関係」と「新機能の付加」、この二つの関係を見いだしつつ生物の階層性に注目すると、生物進化の過程が、より理解しやすくなるのではないか。これが著者の基本的考え方にあるのだと思う。この視点は確かに非常に重要で、一見似たように見える生物間に潜む階層性を発見していく作業は、科学としての基本的方法論でもあり、もっともっと一般的にも認知されて良い生物の見方だと思う。
細胞共生に関しては、著者の新説──本体細胞が原ミトコンドリア細胞を酸素のはけ口にするために、それと接着していたというもの──が紹介されている。こうして、徐々に共生に至ったのではないか、というものだ。これも細胞間の接着などを階層性の視点から見ていて考えついたことなのだろうと推察する。実際のところ、どうなのかは分からないが。
本書一冊だけだと「で、実際ところはどうなの?」という気持ちが、フラストレーションとして溜まってしまいそうな気がする。分かりやすいのは良いのだが、ちょっと物語的にすぎるような気がするのだ。
内容はところどころ大きく飛躍して、ほとんどトンデモに近くなるが、本書の指摘そのものには、重要な真実がある。なぜ、人間には皮下脂肪がありながら体毛がないのか、なぜ人間には髪の毛などという特殊な毛があるのか、唇や耳たぶはなぜあるのか、これらの疑問に満足できる答えを与えてくれる説はないのである。筆者らが主張する「アクア説」は時々浮上してくるが、これも物的な根拠がないという致命的な弱点がある。だが、謎ははっきりと存在しているのだ。
人類進化論の物語に無意識の内に女性の視点が欠けており男性側に偏っていた、というのもある程度本当だろう。manという言葉に「人間」以外の意味、つまり「男」という意味にかなりのウェイトが置かれていたことは、時代背景を考えても、真実に近いと思う。
筆者の語る新しい物語は突飛すぎ、時として非論理的で、全くついていけないところも多い。だが、これらの指摘にまで目をつぶることはない。
とはいうものの、内容というか描き方は、あんまり一般向けではない。別に難しい言葉が使ってあるわけではないのだが、いま一つ、業界のことを知らない一般人が読むには演出不足かなあ、と。まあ、そこそこのできではあるのだが。一般書としては今ひとつ、ということだ。
しかしながら、1960年代から始まった計画の紆余曲折、セグメント自動組立ロボット開発物語、「マヨネーズ層」と呼ばれた軟弱層掘削、突如起こった湧水事件などがやっぱり読ませることには変わりない。もうちょっと時間をかけて本にしてくれれば良かったと思うんだけど。その点だけが残念。
入り交じっている、というのは、本書の内容がそれだけではないからだ。アルフレッド・ウォーレスの足跡を追いかける科学史の本でもあり、実際にあちこちを歩き回った著者自身によるネイチャー・ライティングでもあり(文章スタイルは完全にこれ)、生物地理学や生態学という学問がどのようにできあがったかをインタビューを交えて語っている本でもあるからだ。
これらの内容が、網の目のように複雑に入り組んで相互作用しあっているのが本書である。もちろん、普通の本の著者も、これらのことから発想して本を書いているのだろう。だが本書の著者は、その結果をカテゴライズせずに、そのまま出してしまったのだ。まるで分割を拒むかのように。
そのせいで、読中、どこへ連れていかれるのか思わず不安になってしまうこともあった。これは本書の欠点だ。だが一方で、ウォーレスの「マレー群島」を片手に、コモドドラゴンを追いかけたり、E・O・ウィルソンと談笑したり、アボリジニーの歴史を追ったりと、世界中を駆けめぐる著者の記憶を追体験できる、というメリットもある。不可分の、綴れ織りの編み目のような生態系を巡る物語。
著者の、「島の生物地理学」からの自然保護への主張はこうだ。
現在、世界各地で自然が分断され、人工の「島」が生まれつつある。島と同じ状況が大陸上でも起きているのだ。生息地が分断された種は絶滅する可能性が非常に高くなる。切り刻まれた自然保護区、孤立した小規模の自然保護区、人工の陸橋しか持たないような自然保護区は、生物種にとって極めて危険だ。生物の多様性保護のためには、ある程度の「面積」が根本的に重要である。「箱庭」を維持することは不可能なのだ。
個体群最小限界規模はどのくらいか?それはまだまだ分からないことが多い。だが、島の生物地理学が端的に示している結果を無視した自然保護は成立しない。著者らは、各自然保護区を緩衝地帯で結ぶことを提案している(これと似た観点は、ずっと小規模なものだが「ぼくの東京昆虫記 高層ビルの空の下で」にも記されていた)。
「種」を保全することの難しさを感じる。
コヒーレントな状態を乱してインコヒーレントにすること。これが「観測」の本質であり、そのことを念頭におけば、シュレディンガーの猫は半死半生になったまま箱詰めにされているわけではないこと、月は誰も見てなくてもそこにあることなど、巨視的な事象に量子の重ね合わせ状態が出現しないことは理解できるはずだ、と著者は語る。つまり、宇宙全体の全ての成分が相関しあい、影響を及ぼしあって絶えず脱コヒーレンスな状態を保っている、それがこの現在の宇宙の有様である、というのである。当然のことながらそこには人間の存在も意識も必要とされていない。なるほど、これそのものは分かりやすい説明だ。
でもねえ、やっぱり不思議でしょうがないんです。重ね合わせとは何かと問うことに意味はないといわれても、どうして我々は実在を実在として感じているのか、やっぱり不思議でしょうがない。
本書の解説も一つの解釈。これで納得できる人はそれで良いのだろうけど、どうやら私には、量子論は「実在」とはなんぞや、という問題をこれからも投げかけ続けてくれそうだ。ボーアには怒られてしまうだろうけど。
マグマオーシャンとして生まれた固体地球46億年は基本的に冷却による分化過程の歴史だが、一直線にただただ冷えていたわけではない。熱いコーヒーにミルクを入れると実に様々な動きを見せる。あるいはみそ汁を観察してもいい。最初複雑だった対流はやがてゆるやかになり、まとまってくる。だんだん大きな対流が形作られてくることが分かる。地球でも基本的にはこれと同じ事が現在進行中である。
著者らは、マントル対流は当初2層であり、27億年前に、上部マントル最下部に蓄積された低温物質の崩落によって起こったマントルオーバーターンをきっかけとして全マントル対流へと変化したと考えている。そして崩落物質は外核表面をスポット的に冷却、外核の対流は激しくなった。その結果、地球磁場が強くなった、という。
大陸地殻があるのは地球だけである。原始海洋が形成されたのは約40億年前だが、それによって大気中の二酸化炭素は吸収され、地球表面温度は急激に低下し、プレートテクトニクスが始まった。玄武岩質のプレートは海水中で含水鉱物を形成して沈み込むときに溶融、上昇し花崗岩を作るのである。当初小さかった大陸地殻はだんだん成長する。それに伴い塩類が海洋に溶け込んだ。
19億年前には最初の超大陸ヌーナが出現した。その後も大陸は離合集散を繰り返しロディニア、ゴンドワナ、パンゲアという超大陸を作っては離れ、作っては離れた。超大陸が生まれる度にその下では、落ち込んだプレートのスラブによってスーパーコールドプルームが生まれた。巨大な下降流はマントルを攪拌し、巨大な上昇流を生む。そして再び大陸は割れ、プレートは動きを早めるのだ。
生物は海ができたあと、すぐに誕生した。そのメカニズムは未解明だが、生物の硬組織の獲得、大量絶滅などには、それぞれ対応する地質現象があったことが分かっている。生物は、大陸の離合集散に伴って右往左往しつつも、環境の変化に対応し、ときには環境そのものにも影響を与えつつ、今日に至っている。本書の著者らはこれを「生命と地球の共進化」と呼んでいる。この表現そのものは、正直どうかと思うのだが、生命と地球の歴史の統一的理解への試みは実に魅力的だ。
なお、著者らのグループの仕事や観点の理解には、岩波「地球を丸ごと考える」シリーズや同「地球惑星科学」シリーズなどが役に立つ。川上紳一「縞縞学(東京大学出版会)」などもめくってみると、より面白いだろう。なお著者らの考え方には異論も提出されており、今後の議論の進展を見守りたい。
地球科学は、この惑星のありとあらゆるものが歴史性を持っており、それらが相互に関連し合っていることを教えてくれる研究分野だ。実に濃い内容のこの本を一読して、その事を感じて欲しい。