本書は農業品種としてのアブラナ、そしてその品種改良の技術・手段の研究を紹介したもの。前半は非常に軽い話なのだが、後半は品種改良の分子レベルでの物質的基盤の話になるので、それなりに心して読む必要がある。
菜の花では自己の花粉では花粉管が侵入できない(ことが多い)。これを自家不和合性を持っているという。植物は花粉と乳頭細胞のあいだで自己・非自己の認識を行っているわけだが、本書のおよそ半分を占める、菜の花の自家不和合性の研究の話は面白かった。開花に近づくと乳頭細胞に出現するSLGタンパクがそれをやっているらしいが、例によって例のごとく、事はそう簡単ではない。SLGを持たないものも存在するというのだ。また、花粉側ではどんな物質がそれをやっているのか分かっていないという。
植物は、それぞれ違った物質を使って自家不和合性を実現しているらしいという。同形花型の植物の方は研究が進んでいるが、異形花型のほうはまだまだだというから、面白いことがいろいろ見つかるかもしれない。植物が自家不和合性を進化させたのは数千万年前程度からだというのも意外だった。植物はやはり面白い。色々と勉強になる本だった。
人体がどんな解剖学的な特徴を持っているかということを、ただ図解で羅列するだけでは面白くも何ともない。だがそこに進化という時間軸を持ってくると、各器官や組織がいまなぜどうやってここにあるのか、それを少しは考えることができるようになる。中学や高校の教科書も、こうあるべきだと思っている僕としては、この本は理科の先生たちに読んでもらいたい。進化を持ち込むことにはともすればトンデモ的な誤解を招く危険性もあるのだが、我々、そしていまを生きる全ての生物が歴史性を持っていることは、もっと考えられるべきなのだ。
バクテリアのべん毛が回転モーターであることは、既に数年来、多くの科学メディアで報道されているのでご存じだろう。初めて見たときは、そのあまりに「機械的な」、まるで人間が作った機械のような姿に驚愕したものだ。既に、50以上のモーターを作る遺伝子群も明らかになっている。だがその回転原理は未だに明らかでない。
べん毛モーターは明らかに回っている。既に多くの観察例があり、それは明らかだ。バクテリアはその回転モーターで元気に泳いでいる。だが、なぜ回っているのか分からないのだ。
ここでは結論だけ言うが、いまのところ、ブラウン運動が元になっている可能性が非常に高いという。著者はこうまとめている。「今まで回転のエネルギーと見なされてきたプロトン駆動力は、ランダムなブラウン運動を一方向に制御するのに使われていると考えられる。現在の課題は、ブラウン運動を一方向に制御するためのラチェット機構を探し出すことだ」。うーむ。この辺は『講座:生物物理』などとの併読をオススメしておく。
話は当然、回転効率の話にも触れられる。効率とブラウン運動の問題がやはりキーワードであることは、非常に興味深い。
ここでちょっと話はずれるのだが、本書の中でATP合成酵素の回転の話が出てくる。その様子を撮像した木下一彦氏へ話を伺ったときにも全く同じ話題が出た。マクロな熱力学の世界とミクロの世界の接点、分子レベルで動く機械の世界では、いったい何が効いてくるのか。これは、やはり問題の核心なのだ。もっともその時の私はあまりに勉強不足で、話を理解できなかったのだが…。いや、今もよく分からないけど。
そう、共通していると言えば、回転は普遍的なものなのではなかろうか、という考え方も共通している。もっともこちらは、細胞膜内にあって外界と情報をやりとりしているものは回転を中心としているのではないか(そして仕事をさせるようになったものがべん毛モーターではないか)、という考え方であるが。個人的には非常にむむむ、と感じた話であった。
閑話(じゃないけど)休題。もう一つ面白い話を。
べん毛繊維の中央には2nmの穴が空いていて、べん毛を構成するフラジェリンはここを通って先端まで輸送され、中から構築されていくらしい。これが、病原性外毒素の輸送と同じ機構らしいという。
サルモネラ菌の病原性外毒素の輸送機構と、べん毛の組立機構が同じだというのは確かに非常に面白いが、本書では、ちょっと過剰に意味づけされているのではないかと感じた。いろいろな部品が使い回されるのは生物の中では当たり前のことだと思うからだ。とはいえ、やはり面白い話ではある。これからもイモヅル式にざくざくと、面白いことが分かってきそうな気配がある。
一般の人は、研究者とは『なぜ』という問いに対して常に邁進していると思うかもしれない。だが、実際にはそうではない。そんな答えのないことを問うていても日々の研究者は進まないからだ。だが、その問いを失ってしまうと、どこか本質的なものをも失いかねない。
著者は「なぜ」という問いに対してこう言っている。
何年間も毎日毎日、「べん毛は『どうやって』作られ、『どうやって』回転しているのか」など、べん毛の『どうやって』ばかりを問うてきた人間としては、それだけではどうも索漠たる想いがするのですよ。科学者といえど、たったひとりの弱い存在である。やはりたまには『なぜ』を問わないと、心が狭くなったような気がしてしまう。ジッと座して人生の意味を問うばかりがが思索ではないと思うのだ、日々の研究生活の中に『なぜ』と『どうやって』が同居したっていいはずではないか。バクテリアが普段生きている環境では、べん毛を持って動き回らなくても十分生きていけるのである。ところが、多くのバクテリアはべん毛を持ち、動き回る。これはなぜか。おそらく、この答えは見つからないだろう。だが、この「なぜ」を失ってしまっては面白くもなんともない。またこの「なぜ」は、部品としてのべん毛モーターから、生物としてのバクテリアへと視点をシフトさせるとき、総体としてのバクテリアを捉える上でなくしてはならない疑問であろう。
最後にちょっとした苦言を。
電子顕微鏡写真が全く含まれていないことは不満だった。せめて、Cリングの写真くらい入れてもよかったのではないか。私は筆者から直接写真を見せてもらったことがあるのだが、見れば誰もがあっと思う写真であるだけに惜しい。また、話が細かくなるところ(つまり本質に近づくところ)では、もっと細かい図が欲しかった。
著者の他著に『原子が生命に転じるとき』光文社カッパブックスもある。こちらも面白い本なので、まだ手にはいるようなら併読をオススメする。
さて。
蒸気爆発とは、平たく言ってしまえば、煮立った油の中に水滴を落としたときに起こる現象のことである。その時水滴は瞬時に沸騰し、気体になる。水は気体になると体積が1,600倍に増加する。そして、爆発するわけだ。
蒸気爆発の過程は以下のようなものであるという(本書P.77より)。
(1)は要するに、低温の液体の中に高温の液体が入り込んだ状態である。高温の液体に接触した低温の液体は瞬時に沸騰し、それは蒸気膜となって低温液を包み込む。これを通常の沸騰・核沸騰と対比して膜沸騰と呼ぶが、この状態によって逆に急激に熱が伝播することはなくなる。
だがこの膜が何らかの理由によって破れた場合(2)、その現象そのものが衝撃波を生んだりして膜は次々と破壊されていき、低温液体と高温液体は直接接触する。そのとき低温液体の蒸発などによって高温液体が細粒化すると(3)、飛躍的に接触面積が増えることに伴って、より急速な熱伝達が起こる。
そして、これが連続的に発生すると爆発に繋がる、というわけだ。
問題は、これらの現象の素過程が見えていないことにある。もちろん研究はいろいろと進んでいるわけだが。ポイントは以下の5つだという(P.80より)。
高温液体の細粒化は、実際にはどのように起こっているのか良く分かってないという。いろいろな仮説はあって、本書でも説明されているのだが、結局のところは分かっていないらしい。
本書で一番面白いのは当然この爆発過程の考え方のところなのだが、その前後を火山の爆発や原子炉の話で挟んだ形の構成になっている。火山の話はそれなりに面白いのだが、わざわざ本書で扱う必要があったのだろうか?なんだかちょっと、ちぐはぐしているような気がした。もともと個性のある爆発現象。その例として挙げるには、あまりに多様性に富みすぎているように思ったのだが。
伝熱工学という学問があることを初めて知ったこと、これが一番の成果かも。
この本では、まず、世間が男性にどんな男らしさを求めているか、また、男性自身が、なにを理想の男性像とみなしているかを検討してみました。その結果、男性に期待される役割が限定的で、男性にふさわしとされる生き方の幅が狭く、その限られたコースから逸脱しないよう、男性には大きなプレッシャーがかかっていることがわかりました。というわけで、男性というのは「男らしさ」なるものにこだわりすぎ、そのせいで非常に窮屈な生活を強いられており、その弊害があちこちに出ているのが現状なのだ、というのが本書の主張である。
さらに、男性が男らしさにこだわりすぎて、競争心が過剰だったり感情表現を抑制しすぎたりすると、その男性自身にとってマイナスに働き、周囲の人を困らせることが少なくないこともわかりました。
(<まとめにかえて>より)
本書前半、男らしさ、女らしさなどの要素を、単語を使って拾い出し、軸の上にプロットしていく過程は、なるほど、こういう調査法を取るのかという興味も手伝って、それなりに面白い。呈示されている図を肴に、わいわいやるのには楽しそうだ。
だが、男のほうが「男らしさ」に縛られている、女性は男性ほど社会的イメージと自己の理想イメージが合致することはない、「女らしさ」は「男らしさ」より複雑、という主張には、どうにも納得できなかった。はっきり言ってしまえば、単なる主観にしか思えなかったのである。いやもちろん、こう思うのは僕の偏見かもしれないのだが。
何が頷けなかったかというと、例えば「美と繊細さ」という特性は「作動性」や「共同性」という特性ほど、男性に期待されていないというのだが、これがどうにも良く分からない。どういう質問を投げかけたかによって、こういうデータの拾い出しは大きく変わるはずだ。例えば、料理人や画家に男性が比較的多いことや、いわゆる一匹狼的な人間のことを想起させるような質問があれば、どうにでもなってしまうのではないか。実際には、そんなことはないのかもしれない。僕には分からない。だが、そんな疑問を抱いてしまったのである。そもそも、特性を3つに分けるというのが僕にはどうにも納得できなった。
本書で呈示されたデータで一番面白いのは、「配偶者のいない男性のほうが短命」というもの。これそのものは本当らしい。これに対する分析が100ページ以降で行われるのだが、ここで配偶者との死別による生活の変化のグラフが示されている。一番男女の差があるものは、「日常生活が不自由になった」というもの。ちなみに2番目は「家事が負担になった」というものである。
こんな曖昧なキーワードで、何が分かるというのだろう。むろん毎日の生活にストレスが加わることは分かるけど、そんなことは当たり前じゃないのか。もっとうまい切り出し方はないのか。
ちなみにこのグラフで僕の目を一番引いたものは、男性の12,3%が挙げている「性生活が不自由になった」という項目である。なぜ目に留まったかというと、女性の値はなんと0なのである。
「生きる」ということは、動物としての過程である。僕としては「家事」や「日常生活」といった曖昧で何を指しているのか良く分からない項目よりは、こちらのほうがよっぽど気になった。もっと、「食って出して寝る」という動物としての人間に着目した方が良いのではないか。そんな風に感じたのである。
本書には直接関係ないのだが、なんだか面白いと思ったのは著者の経歴だった。著者はお茶大の心理学科を出たあと、国立小児病院の先天異常研究部を出ている。現在は「アンカップリング研究会」なるところで離婚や男女問題を中心に活動している、とのこと。先天異常などを研究していた人がこういう研究を行うようになったのは何故だろうか。
本書の内容は、訳者が<あとがき>で触れているように、かつてTV番組『素敵な宇宙船地球号』でも扱われたことがある(その感想をちょろっと書いた日記はここ)。毒素を出して魚を攻撃、その肉を溶かして自らの栄養とする、フィエステリアという渦鞭毛虫を巡るドキュメントである。
フィエステリアの研究の過程を、ジョアン・バークホルダー博士を主人公として、彼女の視点から追っていく本書は、科学書というよりフィエステリア騒動記といった方が良い。本書を読んでもフィエステリアの基本的な生活環すら分からないが、最初は共同研究者だったはずの科学者同士の確執、他の研究機関との協力、腹の探り合い、争い、地元企業との衝突、役人たちの官僚ぶりのひどさなどが描かれている。
本書の核は基本的にこの部分、つまり「政治的な」ところにある。これはこれで良いのだが(実際、科学者同士の争いの様子の激しさは、もし本書に描かれているとおりだとしたら信じがたいほどのもので、非常に衝撃的)、もうちょっとフィエステリアがどういう生き物なのか、描き出して欲しかった。
なにせこのフィエステリアの毒はエアロゾル化し、人間をも襲う代物だというのである。バークホルダー博士自身も記憶障害や意識障害を覚えるようになる。そして、有能だった博士の助手は、単なる記憶障害に留まらず、自制心、集中力を失いすっかりおかしくなってしまった。その後だいぶ回復したとのことだが。またフィエステリアは哺乳類の血球も好むらしい。
フィエステリアが被害をもたらすようになった理由として、バークホルダーは富栄養化に伴う生態系の変動、という理由を挙げている。まあ、それはそうなんだろうけど、彼女の研究そのものについては本書からは何とも言えない。そういう面からも、もっと科学的側面の記述が欲しかった。
でもこういう内容なら絶対縦書きのほうが良いと思うんですけど。なぜ横書きなんだろう?
本書の山場はウェルナー症候群を扱う、「第6章 老化遺伝子」の章であろう。ウェルナー症候群は早老症──文字通り急速に老化して死に至る──の一つで、なんと患者の75%が日本人という症例である。この病気は、第8染色体の短腕部にあるWRN遺伝子の突然変異によることが分かっている。たった一つの遺伝子がおかしくなっただけで、20才で白髪が目立ち、30才で皮膚が硬化、ほぼ全員が白内障になり、その他糖尿病や骨粗鬆症、動脈硬化、ガンなどになって40才あまりで死んでしまうのである。
WRN遺伝子はDNAヘリカーゼをコードしている遺伝子の一つである。160kb以上、35個のエクソンからなる大きな遺伝子だ。DNAヘリカーゼとは、二重らせんの水素結合をジョキジョキちょんぎって、DNAを「巻き戻す」酵素である。平たくいえば二重鎖を一本にするわけだが、この酵素は、DNAが間違って組み替えを起こしてしまうことを防いだり、DNA修復にも重要な役割を果たしていると考えられている。ウェルナーヘリカーゼもその一つであるらしい。遺伝子の突然変異によって異常な組み替えを正しく修復できないこと、それによる細胞機能の阻害が、早老症の原因になっているのではないかという。
だがこれだけでは、具体的に何がどうなって、それが個体の老化という現象にまで及んでしまうのか、さっぱり分からない。結局、ここの部分はいまだ研究中であり、未解明のままである。
だが(うまくはないが)非常に丁寧に書かれているので、読み物としては十分面白い。
ウェルナー症候群は両親からのWRN遺伝子がどちらも欠損していると発症する。著者らは、健常人の細胞でもヘテロの場合、ウェルナーヘリカーゼの発現量が健常者の半分で、また「全く変異を持たないヒトよりも、化学物質に対する感受性が高く、DNA上に何らかの障害を受ける可能性が高い」という実験結果を出している。この保因者は100万人以上と推定されている(日経サイエンス99年1月号広告欄、116ページ)。ちなみに日本人では少なくとも200人に一人が欠損遺伝子を持っているという。この意味は極めて重い。
だが老化に関与する遺伝子はこれだけではない。多種多様で、まるで無関係の遺伝子が別々に老化に関与していることもまた間違いないのだ。マウスや線虫など多くの実験動物で老化や寿命に関する遺伝子が見つかっているが、それらの間にはほとんど関連がないことがその理由の一つである。
なお老化過程が(発生・発達過程に比べて)非常に多様な理由は本書前半とエピローグで考察されている。そしてこの老化の多様さこそが研究を難しく、そして研究を面白くさせているのである。
老化に興味ある方は、是非ご一読を。
本書はその推進者の一人の手になる本なのだが、一般読者向け、という雰囲気ではない。著者はそのつもりで書いたようなのだが。要するに、『すばる』を作る上で工夫・苦労したことや望遠鏡の歴史を綴るのが本書の主眼であり、肝心の(と僕は思う)、『すばる』で何をやるの?という点が、今ひとつ分かりにくいことがその理由。もちろん、やることは上掲の通りなのだが、具体的にはどうなのか、ということが僕は知りたかったのだ。
まあ、それは始まってしまえば分かることかも知れないが。
特に惑星系の発見は、意外と早いんじゃないかと期待している。
でも、『すばる』を作る上での苦労話なら、もっともっと面白く書けるんじゃないかな。誰か書いてくれないかなあ。
ビデオのほうは、まあ、こんなもんなのかなあ、といったところ。たるいけどね。ちなみに尺は64分で、制作したのはNHKソフトウェアになってました。
冊子のほうは、期待していたより内容が薄くてがっかり。ビデオで落とした内容も含まれているのかなと思ったのだが…。これじゃあ紙媒体の意味がないよ。どーんとインタビュー起こしをのせるくらいじゃなきゃあ。ただ、各天文台やプラネタリウムなどのホームページのURL一覧を載せてくれているのは、ちょっとだけ嬉しい。
でもねえ。なぜ日本で出す本なのに、日本の研究者への(マウナケアでの)インタビューが二本しかないんだろう。せっかく『すばる』のことも扱っているわけだから、日本人もバンバン出せばいいじゃんか。日本の天文学者が何をやっているか、もっと知りたいと思っている人は多いはず。NHKはちょっと外人偏重なんだよな。
と、英語ができない僕は思ったのでありました。
いやー、本当にこれ以上言うことないなあ。むちゃくちゃ面白くもないし、かといってつまらなくもない、スタートレックで生物学が学べるわけでもないが、最近の生物学のネタも入っている。なんとも言いにくい本なのだ。
もちろん、トレッカーな人は買っちゃうだろうけど。
顔はいかがわしい、と精神科医の著者は言う。我々は思わず、「顔」に意味を見出さずにはいられない。たとえ「無表情」であっても、その裏にあるものを探ってしまう。要するに顔は「押しつけがましい」のだ。それでいて妙にとらえ所がない。単なる個人識別の記号以上の何か、表情や造作全てがないまぜになった以上の何かが、「顔」にはある。
顔は内面を反映するものであると同時に、仮面でもある。また、顔は個人そのものであるといってもいい。パーソナリティーの表象、シンボルとしての顔。顔はしばしば、人格、人間性の記号としても使われる。
顔はグロテスクでもある。
いかん、考えがまるでまとまっていない。断章みたいになっちゃいそうなので、ここらでやめ。つまり、顔の持つ独特の「意味」、そして「実在性」の論考である。内容は面白いので、読みましょう。一カ所だけ引用しておく。
まったくのところ、顔というものの特別さは、特定の表情を浮かべていればそれが意味するとおりの(ときにはその正反対の)、また眠っていたり死んでいたりすればその無防備な表情の向こうにあるものを我々が読み取らずにはいられないといった、まさに「意味」のもたらす押しつけがましさへと帰するに違いない。(中略)著者は、顔の実在性の前にはありとあらゆる論はかすんでしまう、でも語らずにはいられない、と本書を締めくくっている。まったく同感である。
顔は、ただそこにあるだけで我々の心を波立たせる。あまりにも過剰な存在として作用してしまうのである。
以下は本書の核心ではないが興味を引いたところの話。
本書ではいくつか精神障害の症例も紹介されている。身近な人を偽物と思いこむカプグラ症候群やドッペルゲンガーなどだ。ドッペルゲンガーとは「そっくりさん」を目撃する症例のことだが、この場合の「そっくりさん」は、客観的には「そっくり」でなくても構わない。似てないモノを見ても、「そっくり」だと思ってしまうのがこの症状の特徴であるという(ここなど参照)。
これらの症例は、認知の上のどこかに、これは外界の事物に対して「本物である」とか、「自分である」とかいった、「意味」を付加するところがあることを示している。「クオリア(質感)」と言ってもいいかもしれない。そういう感覚が連続的に発生しているからこそ、我々はこうして普通に生活できるわけだが、もしそこが壊れると…。
ちなみに視覚障害の中には相貌失認というのがある。顔だけが特異的に認知できなくなるという症例で、具体的に何がどうなって起こる障害なのかは分かっていない(詳しくは『視覚の謎 症例が明かす<見るしくみ>』などを参照)。こういったことからも、顔は人間にとって独特の意味を持っているらしいことが分かる。
ミステリの世界ではまさに「影の主役」として活躍するのが科学鑑定だ。弾き出したその結果は、決定的な力を持つのかと思っていた。ところが、現実はまるで違うらしい。世の中ってそんなもんだよなと思ってはいたが、やっぱりそうなのか。
そういや科学鑑定本も何故かまとまって何冊か出ているなあ。なぜだ。
体細胞クローン羊・ドリーの成功は、細胞分化の程度よりも細胞周期の同調こそが本質ではないかと考えたことによってもたらされた。ドリー誕生に携わった一人、キャンベル博士がもともと細胞周期の研究を行っていたことが良かったらしい。その後、胎子線維芽細胞をドナー核とした、血液凝固第「因子を作るトランスジェニック動物のクローンであるポリーが生まれたことは記憶に新しい。
なぜクローン技術の開発が行われるのか。理由は簡単で、『雌雄産み分けを可能にし、能力証明済みの家畜を増やすことができるからである』。畜産分野にとって、まさに「夢の技術」、それがクローン技術なのだ。一般の人間がすぐ人間への応用を考える(どころか、途中まで実行されてしまったが)のは無理からぬことだ。だが研究者のほとんどはそんなことは意外なほど何にも考えていないのである。それが良いか悪いかは別にして。
遺伝子を導入したトランスジェニック動物の目指すところは「動物製薬工場」である。有用成分を含んだ乳を出す牛や、免疫問題を解決した臓器移植用ブタなどが低コストで作られるようになれば、病に悩み苦しむ人々にとって福音の一つとなることは間違いない。
本書はこれらの内容を一つ一つ解説し、クローン技術の現状と将来目標を示す。こういう内容をちゃんと知りたいと思ったら、これはもう読むしかない。
なお内容は若干高度であり、馴れない部外者がすらすら読む、というわけにはいかない。僕自身、ときどき『バイオのことば小辞典』講談社などをめくりながら読書した。それだけ勉強になった。
5部構成になっている。第一章はザリガニを素材として、社会での位置づけ、「社会的境遇」が脳の中のシナプスにどういう変化・影響を与えるのか(そしてそれがどう行動に反映されるのか)考える。第2章は生殖、性に関する脳の差異の話。本書がちょっと類書と違うのは、単に差異をリストアップするだけではなく、脳が違うから差異が生じるのか、それとも逆に先に行動が違って、それが脳に影響を与えるのかという視点を持っている点にある。第3章はストレス、ドラッグ、そしていわゆる環境ホルモンが発育にどういう影響をもたらすか考える。第四章は『母の愛が脳を変える』と題され、幼児期の育てられ方と脳の老化速度ととの関係を考える。第5章はアルツハイマー病の話。
個人的な印象だと、一番面白かったのは第二章。
本書の核心は要するにこういうことである。
こうしたさまざまな精神的変化は、脳の構造と働きの変化によってもたらされ、その変化は一つ一つのニューロンでの生化学的反応によって、応々にして新たな遺伝子の読み出しすら伴って進行するのである。個々のニューロンが経験によってどう変容するのか、そのときどの遺伝子が活動するのか、といった問題こそ、これからの脳科学が解明しなければならない中心的な課題と言えよう。(P.63より)いやもう、まさにそのとおり。まさにこういう研究をやっている著者からの「勧誘」メッセージだろう、これは。研究者の皆さん、頑張って下さい。
ではなぜ内生菌は抗生物効果のある物質を分泌するのだろうか。おそらく元来の理由は他の菌の繁殖を抑え、自分が反映するためだったのだろう。というか、内生菌からみた場合、その役割はいまもそのままだろう。だがそれは宿主にも利益をもたらしうるものだった。それで多くの植物が内生菌を持つようになった、ということらしい。
一方、菌糸が細胞の中に侵入しないタイプの菌根を形成するものを外生菌根菌という。要するにキノコを想像すればいいらしい。外生菌根菌は樹木に依存し、その光合成産物を横取りして生きている。どのくらいかというと、およそ15%もの量が菌に回っているという。驚くべき量を取られているわけだが、これが単なる寄生に過ぎないのかというとそうでもないらしい。
と、いうのは新しく芽生えてきた稚樹へ、光合成産物を渡すのに、外生菌根菌が大きな役割を果たしているらしいというのだ。大木は林冠を作り、そこでは盛んに光合成が行われる。だが林床にある稚樹はほとんど光を受けることができない。その橋渡しのような役割を外生菌根菌がしているらしいというのだ。外生菌根菌の菌糸ネットワークは樹種を超えて繋がっている。そこで炭水化物がやりとりされているらしい。
ほか、昆虫の大量発生のコントロールなど、菌類にまつわる話を収録している。地味だが、なかなか面白い話もある。興味のある方は読んでもいいのでは。
率直に言えば、あまり面白い本ではない。細菌があっちにもこっちにも(手洗い洗浄液の中にまでも)、といった内容で清潔志向を煽るような前半部はなんだかなあと思うし、狂牛病の話などについても『死の病原体プリオン』などを読んだあとでは、プリオンが病原体だと決めてかかっているような記述には、いささか首をひねらざるをえない。
面白かったというか重要な指摘だと感じたのは、「日本はハシカの輸出大国」となっているという話。最近はハシカのワクチンを打たない人が増えてきたが、そういう人が米国などにいって、ハシカを感染しているというのだ。これは確かに問題だなあ。
と、いうわけで取りあえずご紹介。