「その事実を強引にまとめるなら、ニューロンとその回路網は、機能的にも構造的にも変化に富むということである。そしてその変化が、セル・アセンブリというニューロン集団による情報表現と、ハードウェアとソフトウェアが一体化した脳独特の柔軟な情報処理方式を生み、それが心の柔軟性と多様性と変動性を生みだすのではないか、というのが本書のエッセンスである」ポイントは<セル・アセンブリ>という考え方にある。これはニューロン間の活動相関は<構造的結合>によるのではなく、「特定の結合を選択的に賦活すること、つまり、ニューロン間の機能的結合により生じる」という考え方だ。
ニューロン集団が情報を表現しているらしいことは、これまでの実験結果からほぼ明らかだ。だが、それはいったいどのような集団であるかは分からない。<セル・アセンブリ>は一つの考え方である。これ(ニューロンの機能的結合)によって著者は様々な脳の機能──記憶情報の変容や、幻覚や幻肢なども説明できるかもしれないと説明する。ここはこれからの実験結果待ちだろうが、なかなか面白い。
著者は、「ニューロンとは、化学装置としての性能に依存した電気装置である」という。ニューロンと回路網はどこまで柔軟なのか。いまさらだが、今後の脳研究には大注目だ。
たとえば霊長類の群の規模は、新皮質の相対的な大きさに関係があるという。いや、霊長類に限らず、複雑な社会生活、他者との関係を持つ動物は、相対的に大きな新皮質を持っているという。全哺乳類に共通する傾向だというのがダンバーの考え方だ。大きな群れは単に「大きい」だけではない。大きな群れでは「相反する利害関係のバランスを維持」する必要がある。これが新皮質の大きさ(知能)と群れの規模の関わりの持ち方ではないか。著者はこう考えている。
では「人類についてはどうだろうか。我々も霊長類であることには、まったく変わりがない」。人類の新皮質の大きさから群れを予想すると、規模はおよそ150人になる。社会的な関わりを持つ集団は、150人程度の規模に制限されているらしいというのである。
このように本書は、いわゆる社会学をやっている人にもヒトの心の進化(心の持つ、世界を理論化して他者を理解する能力がどのように進化したのか)を考えている人にも、実に興味深い内容が満載された本だ。もっとも、タイトルにもなっている「ことばの起源」──ダンバーは言語は社会的な「毛づくろい行為」だと考えている──そのものの仮説は、あまり説得力がないように思う。だが前半は、とにかく無茶苦茶面白い本だった。
睡眠の科学は、脳科学の一側面として捉えられるべきものだ。だが、日本の研究の成果は一般にはほとんど出てこない。本としてまとまっていて、なおかつ最新の成果を盛り込んだものは、僕が知る限り、lisa増刊「眠りのバイオロジー」くらいしかない。多くの研究者が書いている本書には期待していたのに、残念だ。
著者は工業デザイナー。だが、イラストは冒頭カラーページのいくつかしかない。中身は技術デザインエッセイである。安定した文体と内容の、こじゃれた本。こういう本はえてしてエッセイ本文に内容が0でつまらないことが多いのだが、これはけっこう面白かった。「ダ・ヴィンチさん、いかがでしょう」は言い過ぎだと思うが。
中でも面白かったのが、表面工学の話。既に一部の航空機では空気を表面の小さな穴から噴きだして、表面の空気の流れを制御しているのだという。逆に空気を吸い込んで制御する技術もある。これらは「境界層制御」と呼ばれているそうだ。
この先には、極小センサーとアクチュエーターで乱流を制御しようという技術がある。コンマ数ミリの突起や穴、極小機械に覆われた<スマート・スキン>が潜水艦や飛行機、あるいはリニアモーターカーを覆う日は意外と近いのかもしれない。
超過密ダイヤで運行されている山の手線の訓練センターでは「減速度は尻で感じろ」と教えている、という話も面白かった。そうなるとデザイナーは「むやみにホールドのいい椅子をデザインするわけにもいかない」。
設計者がノイズ、あるいはほとんど無視している類のものが、現場では重要な情報が含まれていることはよくある。おそらく、どんな職場のどんな人でも体験しているのではなかろうか。著者は続ける。「これまでのテクノロジーはそういう人の能力を測り間違うというミスを何度も犯してきた」。
これはVRやマイクロサージェリーの話の中で出てくる話題なのだが、工業デザイン全般に言える問題だ。一方的に人間はこういうものだ、と決めてかかって失敗した製品は数知れないのだから。
著者は他に『人と技術のスケッチブック』というシリーズを太平社から出している。これは文章はサイエンスライターの赤池学氏(『ちょっとHな生物学』などの著者として僕は記憶している)が書き、イラストは著者ともう一人、『パトレイバー』や『アキラ』、『逆襲のシャア』などの原画を描いていた佐藤千春氏とが組んで描いているとのこと。なかなか面白い組み合わせだ。
本書は「精神病」というタイトルながら、主に精神分裂病についてのみ扱われている。分裂病の原因は器質的原因でもなければ、心理的・環境的原因で起こるものとも違うようだという。既に前世紀から「内因性」という言葉がその原因として使われてきたそうだ。
いま風にこの言葉を解釈すると、ハードの上にのっかっているシステムソフトが、走っているときにコンフリクトを起こす、あるいはおかしな方向に創発することがある、ということにでもなるのだろうか。ソフトそのものが動作する中で起こるシステムエラーのようなものが分裂病なのかもしれない(これは僕の勝手な解釈である。念のため)。
分裂病の特徴は、社会性と呼ばれているものをなくすことにあるようだ。人間はふだん他者とやりとりをするため他者の心を推し量る能力を持っているし、社会から見てある行動が適切かどうかを常に判断しながら暮らしている。ところが、分裂病になるとそれらが解体してしまう。それどころか、言葉や、その概念そのものも解体してしまう。会話がなりたたなくなる。幻覚や幻想といった症状が起こり、他者と自分の境界が崩壊する。感情も解体していき、突然笑ったり泣いたりということが起こる。そうして「人格」が解体していく。
「人間の心という高次の構造体が解体していくとき、どういうことがその過程でおこるかを目の当たりにすることでき」る。それが分裂病である。
この病気は、一直線に悪くなるのではなく、「発病──小康状態──再発──小康状態──再発」といった「波状経過型」をとるという。だが必ずしも治らない病気ではなく、治癒へと向かう人もいる。完全に治癒しないまでも、自分の中に妄想を抱えたままでも日常を送ることができるようになる人もいる。ところが中には、どんどん症状が悪化していくタイプもあるらしい。
だが一番不思議なことは、非常に重い症状を呈している患者が、ふっと正気を取り戻すことがある、ということだ。著者は「ミクロの症状」の反対、微小寛解ではないかという。だが、ほとんど回復不能なまでに崩壊した精神の中で、なぜそんなことが起こるのか。不思議だ。
まるで関係ないのかもしれないが、ほとんど完全にボケてしまったと思える痴呆老人も、ふっと「元へ戻る」ことがある。これまた不思議だ。なぜ元へ戻るのか。分からない。ここには、人間の「人格」、あるいは「意識」と呼ばれるものの根本的なメカニズムの秘密が隠されているような気がしてしょうがないのだが…。
今年、患者の社会復帰を助ける精神科ケースワーカーに「精神保健福祉士」という名前が国家資格として与えられたそうだ。精神病の様子を少しでも知りたい人は読むべし。
内容は、相対論、ニュートリノ、中性子星、青色ダイオード、そして核分裂。まあ、だいたいいつもの話だ。アインシュタインから始まって、パウリの話とか、ベルの話とか。
青色ダイオードの話が一番面白いかな。ただ、内容は分かりやすいとは言えないなあ。資料としてはいいけど…。余談だが、本書にも出てくる青色ダイオード信号機は徐々にお目見えしつつある。だが、これまでのものの数倍も高くつくらしい。いまのところは。
話は変わるのだが、最近僕は、科学史的な手法で物理を教えることに懐疑的になりつつある。確かに初学者の理解の仕方や順序が科学史をなぞることが多いということは否定しないし、僕も実感している。でも、こういう方法では面白くないんじゃないか。今の子供に、最近の物理の進歩を紹介しきれないのではないか。一番面白いところを伝えられないのではないか。そんな気がしている。実際本書でも、最近の成果はまるで付け足しみたいになってしまっている。何か新しい方法がないものか。うーむ。
著者によると、わけのわからない宣伝文句によって「食物や栄養が健康や病気に与える影響を過大に信じたり評価すること」を「フードファディズム」と呼ぶそうだ。重要なことは、やたらとある食品を体に悪いと毛嫌いすることも、効果を過信することもよくない、ということだ。「食べ物は食べ物」なのだ。もちろん、中には薬理作用があるものもある。だが、何事も過ぎたるは及ばざるがごとし。過信はいけない。
本書では、食って栄養になるとはどういうことかといったことから始まり、様々な宣伝文句と共に売り出されている食料品をチェックし、不安情報もチェックしていく。けなされる食品の風聞も、ほめられる食品の噂も、かなりのものが間違っていることを明らかにしていく。
出る結論は当たり前のことだ。効能主義に変に期待せず、バランスよく食べること。これが一番だ。
「フードファディズム」の弊害には、有用なものまで見逃されてしまう、ということもある。これは避けたい。だが、健康なのに「健康以上」になろうとする必要はない。健康に対する情報が溢れ、過敏になってしまいがちな今日この頃。だけど、ときどき冷静に自分の食い物観を見直すことも必要だ。それは、自分自身の身体観を見直す作業でもあるのだから。
本書で扱われるプログラム、<アーロン>が何を成し遂げられるかということは、極めて明白だ。アーロンは、絵を描くことができる。単なる線分の集まり、「絵のようなもの」ではないし、コンピュータ「で」描いた絵でもない。コンピュータ「が」、絵を描くのである。黙っていれば、アーロンの描いた絵はコンピュータ・プログラムが描いたモノだとは思われないだろう。
本書は自分の仕事に対して極めて自覚的である芸術家でありプログラマーであるハロルド・コーエンと、彼が産み出したプログラム・アーロンの成長の物語である。その過程は、我々自身の世界認識を問い直すものであり、「知識の表象」という人工知能の難題を考えるものでもあった。
なぜ絵を描かせることが「知識の表象」や認知のモデルを考えることに有効だったのか。
コーエンは絵画を教えてきた経験を含めてこう言っている。
人間の認知のシステムは外部化のモードを拡大していくだけではなく、ものを取り込んでいかなければならない。この世界に関する事柄を知らなければならないんだ。確かにわれわれは外界を見ている。確かに外界にある事物のことを知っている。そして、それにもかかわらず、われわれが絵を生み出すときには、あるモデルを目の前に捉え、その表象を生み出しているのだと思う。つまり、モデルとはいっても、われわれが表象しているのは内的モデルであって、外界のものではないんだ。アーロンは、最初は単なるいたずら描きをする程度のものでしかなかった。それが大きく変わったのは、コーエンが「幼い子供たちが描画の技術を発達させる方法について深く考えたとき」だったという。単なるいたずら描きが「絵」になるとき──つまり単なる線が、表象的、形象的なものへと変わる瞬間、それは「われわれは世界を操作しているのではない。われわれが操作しているのは、頭の中にある、世界を表しているものなんだ」。その概念が初めて抱かれた瞬間なのではないか。コーエンはそう考えたのである。コーエンは、アーロンに簡単な「知識」を与え、それを「概念のコア」として動物の絵を描かせてみた。驚くべきことにそれらは、動物のように見えた。何かある事物の絵を描くというのは、その内的モデルの妥当性を検証するためにそうしているのだと思う。心の中にあるものを他人に伝えるために描くんじゃない。心の中に何があるかを見出すために描くんだよ。
コーエンが与えたのはごくわずかな知識でしかなかった。なのにそれらは「リアル」なものに見えたのである。これは一つのことを示している。つまり、芸術家が妥当な表象を産み出すために知っておくべき知識はそれほど多くない、ということである。
「視覚的表象とは何か」。アーロンが突きつけている問題は、つまりこういうことなのだ。鑑賞者はいったい何を見ているのか。いったいどのような過程が、心の中でイメージを喚起しているのか。芸術とは何か。人間はどのように世界を認識しているのか。そして、知るとはどういうことか。
アーロンの絵は、これらのことを教えてくれるのだ。
そしてプラグラム・コードであるアーロンそのものもまた、人間の知識の表象に他ならない。芸術家がいったいどのようにして作品を生み出すのか、ということの表象、それがアーロンなのだ。
原書が描かれたのは1990年。だが、今度の邦訳により<追記>が、アーロンをプログラムしたコーエン自身によって付け足されている。原書が出たときには、アーロンは着色できなかった。だが今は、ペインティングマシンによって着色も「自ら」行っているという。
アーロンはこれからどこまで成長するのか。そして、どんな問題を我々に突きつけてくるのだろうか。ややダラダラしているところもあるが、エキサイティングな一冊だった。
さて、このウェブページは現役の研究者の人も読んでくれているみたいなので、この機会に納税者から一言。
本書で取り上げられている程度のことは、たとえ他分野のことでも知っておいて欲しい。よく<科学の細分化>がどうしたこうしたということを言っている人がいるが、そう言う人に限って、新聞やニュースも見ていなかったりするように思う。せめて一般の新聞が取り上げることくらい知っておいても損はないと思うのだが、どうだろうか。
ついでなのでもう一つ。他分野の研究者がやっていることには、「まず反論」ではなく、「まず敬意」をもって望むべきではないだろうか。反論は取りあえず一通り話を聞いてからでも遅くはないはずだ。
よって、取りあえず高校生向けという点はおいといて、この本の話をしよう。著者は分化誘導因子・アクチビンの発見者として有名だし、よくTVなどにも登場しているのでご存じの方も多いだろう。その著者が、自分の研究の歴史と現在を描く。
…と言いたいところだが、本当にごくごく最近の話はあまり触れられていないような気がするなあ。発生学は驀進している研究領域なので、数年前の話だともう古く感じてしまう。また、著者が想定読者に合わせて書くことに苦労したのか、冒頭のあたりの文章はひどい。編集者は手を入れるべきだったろう。後ろのほうになってくると開き直ったのか馴れてきたのか(これはよくあることだ)、だいぶ読みやすくなってくるのだが。
減点箇所をあげつらうのはここまでにして、本書の読みどころをご紹介する。ごくごく最近の話はない(ような気がする)といっても、発生の話はもともと面白いし、十分興味深い話が含まれていることには変わりない。
たとえば、アニマルキャップをアクチビンで処理するとどうなるか。アクチビンの濃度に応じてさまざまな組織や器官を作ることができるのだ。低濃度だと血球、体腔上皮、間充織などができる。中濃度では筋肉や神経が、そして高濃度では心臓ができる。未分化細胞塊から、アクチビン処理によって拍動する心臓ができるのである。
さらに、アクチビン処理したアニマルキャップと、未処理のアニマルキャップをうまい具合に組み合わせると、アニマルキャップのみから頭だけとか体だけの個体を作ることができる。さらにうまく組み合わせると「オタマジャクシ様」の個体を作ることもできるのだ。信じられないような話だが、できてしまうのだから驚く他はない。言葉ではそのインパクトはいま一つ伝わらないと思うが、写真を見れば誰もが驚くこと間違いない代物である。この機会に、一度書店で手にとってご覧になることをオススメする。
さて問題は、アクチビンは、いったいどのように細胞内でシグナル伝達されるのか、どうしていろいろな組織や器官が濃度依存で分化してくるのか、ということである。これらはまだ分かっていないらしい。これからの研究成果を待ちたい。
というのが本書の前半。残りは、ホメオボックスの話、左右遺伝子の話、カドヘリンの話、イモリのガンの話(イモリは血栓を作って皮膚ガンを殺したり、ガン細胞を正常細胞に再分化することができるらしい)、ヒトガンの話、と続く。後半はやや突っ込みがもの足らないような気がした。こんなことを言うと、最初に「高校生向きじゃない!」と言ったことと矛盾していると思われるかもしれない。だが後半を読んでいる頃には、そんなことは間違いなく関係なくなっている(高校生向けでは全くない)ので、そんなことはどうでもいいのである。
というわけで、ぜんぜん高校生向けではないが、発生学の一ジャンル、試験管の中で現在どんなものを作ることができるか知りたい人にはオススメする。
というか、こういうことはみんな知っておくべきだと思う…。
本書を読んでも、その答えはない。そんなことはもちろん分かっていたが、せめてもうすこし考察して欲しかった。本書で扱われるのは気楽にしていれば副交感神経優位になって免疫系がよく働く、といった程度のことでしかない。もちろん、心と体、神経と免疫の関係を解き明かすにはその辺りから始めるしかないことだし、一昔前にはまるで無関係だと捉えられていたことを考えると、それでも進歩であることは変わりないのだが…。
でも、本にするんだったらもう少し内容を濃くして欲しかったなあ。笑っているとNK細胞が増えると言われても、それは単なる現象でしかない。もうちょっと突っ込んで考察してもらえれば良かったのに…。
内容は目次をご覧頂きたい。以下。
示された数々の症例はどれも非常に興味深いのだが、中で思わず戦慄したのは反復視の話である。
反復視とは目の前で見えていたものがなくなっても、あるいは目を転じて視野から外しても像が見え続けるという現象である。たとえば、あるテーブルを見たあとに別の場所に目を転じる。するとそこにもまた全く同じテーブルが見えたりする。また、多視と呼ばれる見え方もある。これは知覚したオブジェクト像が、いくつにも見えたりする現象である。一本しかない鉛筆がいくつもあるように見えたり、バナナがいくつも見えたりする。
反復視とはこのような現象なのだが、非常に興味深い特徴を持っていることにすぐ気づくだろう。特定の「物体」が再現されるということである。つまり脳は(少なくともある過程では)、それぞれの物体一つ一つを視対象として背景から切り出して処理している、ということになる(もっとも、これができないと、ある物体を別の角度から見た場合、同じものだと認識できないだろう。実際そのような障害も存在し「統覚型失認」と呼ばれている。本書では7章で扱われている)。
また著者は、反復視は直感像と何らかの関係があると考えているようだ。確かに、両者の間にはどこか似たものが感じられる。もちろん「感じられる」だけではだめで、メカニズムを突き止めなければならないのだが、そこはまだ闇の中らしい。
さて、私自身がこの反復視のいったい何に戦慄したのかというと…。
この反復視という現象では、実像と虚像が統合されてしまうことがあるそうなのだ。つまり「実際目の前にあるものが、反復視によって見えるものになりかわって見えてしまうことがある」というのである。
具体的な症例の話をしたほうが分かりやすい。
患者が、5分間ほどテレビを見ていた。すると「画面の人物の顔が、室内にいた人たちの顔の上に移動して見えた」。周囲にいた人たちみんなの顔が、TVの中の人物の顔になっていたというのである。
周りにいる人の顔がみんな同じ顔に見える…人間の知覚とは、なんと不思議なものか。
なおこの反復視は、意識障害やけいれんなどの前兆現象として現れることが多いそうだ。てんかんの前兆現象にデジャブがあるという話を読んだことがあるが、それと何か関係があるのだろうか…?
言葉を失う失語症。患者は「聞く」「話す」「読む」「書く」といったコミュニケーションの手段を失うだけではない。外界の表象を言語にすることもできず、自らの思考をまとめることすらできなくなる。そしてその症例は、言語とはいったいどんなものか示唆してくれる。
発音ははっきりしているのだが意味をなさない「言語」を喋る患者もいれば、その逆もいる。単語ごと間違う患者もいれば、文字単位で間違う患者もいる。カナは書けないが漢字は書ける患者も多い。これらの症例から、音韻から意味を判断する言語と、音韻に戻す必要のない言語があることなどが分かっている。これらが別々の情報処理機能であることも推測されている。だが言語の場合、視覚障害などと違って「測る」のはかなり難しいらしい。そこらへんのことは本書を読めば分かる。
また、補償、つまり回復の問題もある。いったいどんな過程で、なぜ回復するのか。本書はその性格上、あまり脳機能についての突っ込んだ考察はないのだが、回復についてはこんな風に書かれていた。
失語症は脳血管障害によることが多いのだが、完全に壊死してしまう領域の周辺には、死滅してはいないが神経が神経として機能しなくなっている領域がある。つまり半死半生状態になっているわけだが、ここを復活させることは可能であるらしい。また、病巣領域と「密接なシナプス結合を持っている」領域も機能低下することがあるそうだ。それは、回復する可能性がある。これが回復の本体であるらしい。
でも、本当にこれだけなのだろうか?どうも気になるなあ。
他にも本書には気になるところがあった。チンパンジーに利き手はないとか。これは違うでしょう。まあそんなことは本書の趣旨上どうでも良いのだが、発音のフィードバックがどうなっているのかについて記述がないのは本当に気になった。
本書は、
結論からいうと、買って損はない。なにより面白いし、知見も整理されて書かれている。<脳・心・ことば>の3者間に関する著者の思想も反映されているし。値段も安いし。『脳が言葉を取り戻すとき』よりは、こちらのほうが当ウェブページの読者にはおすすめできる。
しかし失語症というのは本当に不思議だ。全失語になった患者──聞いたことばを理解することもなく、喋ることも全くできない、最も重篤な状態──の人でさえ、本当に全てのことばを理解しないわけではないそうだ。具体的にいうと、「目を閉じて!」と言ったときと「おはよう」といった時とで、患者の反応が異なるというのである。
彼らはことばを理解していないから、もちろん正しい反応を取れるわけではない。だが、運動を要求することばと、挨拶の違いは感じているらしいという。さらに、英語で話かけたときと日本語で話しかけたときとの反応もまた違うらしい。つまり、「全失語症者はことばの記号的意味は理解できないが、記号周辺的な意味、あるいはことば全体が運ぶ輪郭的意味とでも呼ぶべきものは受け取ることができるのである」。プロソディ(音調)から意味を読み取っているのだろうか?おそらくそういうことでもないのだろう。不思議だ。
失語症の障害の様態は非常に複雑で、ややこしい。私自身、どこかでいったん頭を整理しないといかんな、と思う今日このごろである。だったらここでやれば良いのだが、本書には(そう多くはないが)図表などもあるので、そちらを見て下さい。ということでごまかしてしまう。
本書を読みながら思い出されたのが反響言語の話。これは精神分裂病の症状の一つで、かけられたことばを、そのまま繰り返す現象である。一方、失語症の中には、復唱する機能がブッ壊れてしまうものもあるし、逆に復唱は可能なのだが意味はまるで理解されていない、という症例もある。言語の意味生成を行う部分と構音素を組み立てる部分は、全然違うらしい。もちろん復唱機能の障害には様々な理由があり単純ではないのだが、思わず色々なことを考えずにはいられなかった。
あとがきにはこうあった。
本書の内容は化学と生物についての基礎的な知識のみでわかるように、なるべく平易な表現にしました。しかしながら、タンパク質の基本構造のみならず最近明らかになった高度な知見も盛り込まれており、化学、生物学、医学、薬学などの基礎の教科書として、あるいは一般の人々の教養的な読み物として、広く利用していただけるものと期待しております。分担執筆なのでばらつきはあるが、内容は実際、だいたいこのとおりである。大判で図版も多く、解説は丁寧。しかもタンパクが絡んだことを幅広く扱っているので、ちょっと記憶を確認したいときとか、なにか別の本を読む前に予備知識を仕入れるとか、そういう読み方をするには十分役に立つ本だ。
しかしどっちも「いのちを支える」という言葉を使っているのがおかしい。タンパク質やっている人達の気持ちはこうなんだろう。20種のアミノ酸でできた、らせんのαヘリックスとシート状のβストランドを、ターンとループで折り曲げたタンパク質。複雑に折り畳まれた極小の分子機械が生命を支える。というか、こいつらの「振る舞い」こそが「生命」なのだ、と。
内容的には『タンパク質ものがたり』と、ほとんどかぶっている。構造の話から始まって、消化や合成、運搬や分子ふるい、免疫など。だいたいのところは総ざらえ。違いは、こちらは一人で書いているということと、間に軽口が多いことと、多くのステレオ画像が含まれていること。それと、ちょっとこっちのほうがレベルは高め。
昔は、アミノ酸の配列さえ分かれば折り畳み構造も分かると考えられていた。配列の中に構造は織り込まれているのではないか。そう考えられていた。おそらく、誰もが最初はそう考えたと思う。ところが折り畳みは勝手に放っておけばいいわけではないこと、いろいろな「手助け」が必要であることが、続々と分かってきた。
最近、いろいろな分子機械同士の相関はそれなりにわかってきつつあるようだ。だが、どうしてこんな複雑なものができあがってきたのだろう。実際の生体内でこれほどうまく働いているかどうかは分からない。でも分子機械には、機械としての美しさがある。聞けば聞くほど「自然ってどうしてこんなによくできているのだろう」と思う。実際にはデキの悪い所もあるんだけど。
本書ではココヤシがどういう植物かを紹介し、その利用法を紹介する。うーむ。いかに有用な植物かということを連呼されてもなあ(ココヤシの油はラウリン酸が主成分で、いろいろな用途がある。それが本書後半)。いま一つ興味を惹かれなかった。もうちょっと細かく、植物としてのココヤシを丁寧に解説してもらいたかった。
ロボットは人間が命令を与えれば決まり切ったことをすることはできる。だが、これまでのロボットは基本的に、命令しなければ動かない。これでは到底人間らしいロボットとは言えないし、実験室以外の環境で動作することはできない。つまり、一つ一つ系統的にプログラムしていくという形では決して人間に近づくことはできない。
一方、自閉症児はどうか。これまでは、以下のように考えられてきたと著者は言う。
自閉症児の情報処理能力は限られている。一方この世は複雑だ。そのため自閉症児へは「単純なことから複雑なことへ、一歩一歩」という「効率的」に発達を促す「訓練」を行うべきだ。
著者は、果たしてこの手法で「あいまいで複雑な日常」という最終目標にまで辿り着けるのだろうか、と疑問を抱いたのだという。
こういう疑問を抱いたときに、ロボット工学の世界が先に挙げたような問題につきあたっていたことを知り、衝撃を受けた。たとえば自閉症児には、教室や訓練で学んだことを応用することができないという「般化困難」という問題がある。これはまさに「人間らしいロボット」ができない理由と同じではないか。一歩一歩確実な発達をという教育方針は、やりたいことを一つ一つプログラムさせているロボットと変わらない、と。
著者が衝撃を受けた理由はそれだけではない。ロボット工学の世界では新しい考え方で研究が進められようとしていると知ったからである。
たとえば最近は、自分で歩き方を見つけさせたりするロボット、いわば単純な原理だけを与え、複雑な動作は自分に獲得させようというアプローチが盛んである。「絶対確実」といったものではなく、多少間違えてもいいから、取りあえずやってみて、何とかなるようにしてしまうロボットの開発だ。
どうやら著者はそれらを見て「人間らしいとはどういうことか?」という問題について、ロボット工学のほうがより深く考えているのではないかと思ったらしい。そして人間の知能の柔軟性とは「誤りを犯すかもしれない」という代償を払うことによって初めて可能になるのではないかと考えた。
そして、人の命令どおりにしか動かない「鉄人28号」のようなロボットではなく、自分の意志を持ち自ら活動する「鉄腕アトム」のように子どもを育てたい、と。
第2部では、既存の障害児教育に疑問を感じ「はじめから、あいまいで複雑な環境の中で試行錯誤しながら、ときには誤りを犯しながら、何とかうまくやっていく」という教育方針を選んだ「晋平君のお母さん」の話になる。この第2部については特に言うことはない。「晋平君」が成長していくさまは確かに目を見張るものがある。
さて。
自閉症児の問題がある種のコミュニケーション不全にあることは良く知られている。ある仮説によれば彼らは他者の心の中を類推する、いわゆる「心の理論」を持たないのだという。本書での著者は自覚していないようだが(そのため本書のみに対しては「だからなんだ」的な感想を抱かざるを得ない)、著者のロボットとの類似性の指摘は、ここのところに深く関係しているのだと思う。