「霊長類の知能ははたして、生態環境への進化的適応なのか、それとも社会的な問題解決に対する進化的適応なのか」と著者は問う。つまり知能は、食うため、食料を得るために進化したのか、それとも社会的相互作用の結果として生じる問題、社会問題を解決するためのもの(著者はこれを「マキャヴェリ的知能」と呼ぶ)として進化してきたのか、ということだ。著者は「マキャヴェリ的知能」仮説に立っている。
この問いに対する答えは、多分「男の凶暴性はどこからきたか」にあるように、食性が生んだ社会構造によって類人猿の知能は生まれた、といったところなのではなかろうか。別に根拠はないのだが、そう考えるのが一番自然に思える。
イルカや鯨を過大評価しているように思えるのが気になるが、類人猿学、認知科学、心の進化の問題などに興味を持つ人に。
この本の場合、訳者あとがきに付け加えることはほとんどない。未来、SF、科学などに興味を持つ方は読みましょう。必読とは言わないが。本書を直接手に取って吟味できない方の為に申し上げておくと、「科学の未来」のみを扱った本ではない(本書原題は「想像された世界」)。また、帯のアオリは的外れである。
ENIACは世界最初のデジタルコンピュータではない。その前にイギリスにはコロッサスというコンピュータがあったのだ。これは軍事機密によって秘密にされていたから起こった誤解だが、「…の父」という人物はだいたい複数いる(笑)。卑近な例で恐縮だが、私が放送局にいたころ、「○○って番組知ってるだろ、アレは俺が作ったんだよ」というオジサンがいっぱいいた。だいたい、人気番組だと「俺が作った」と称する人が20人はいるらしい、と笑っていたものだ。発明でも基本的にこれと同じ事が言えるようだ。ケネディがいうように「成功には多くの父がいる」わけだ。
もちろんこの言葉には皮肉な意味だけが込められているわけではない。複合的な技術としてモノが作られる現在、それは実際に真理でもある。
科学史上の間違いというか「思いこみ」が、どのように生まれるかを説いた本でもあるが、「ちょっとおかしい」と思われていた人たちが実際に発明家として機能していた頃の話がいっぱいで、なんだか不思議なノスタルジーに浸れてしまう本でした。
本書の内容にはいろいろ議論があるだろうことは明々白々である。バンデグラフ起電機の上に時計をのっける「実験」など遊びの類に至るモノから極めて真面目と思われるものまで、ごたまぜにされているからだ。
一つ確かに言えることがある。著者が繰り返し主張しているように、これらいまだ「非科学」に留まっているものを、「科学」へと押し上げる努力を、それぞれの専門家はもっとやるべきだ、ということだ。現在前兆現象と認められているものでも、最初は全てが「宏観現象」だったのである。その中から何が有意で何が無意味なものなのか、まだまだ研究の余地はあるように思える。
本書を読むと、宏観現象を電磁現象と見る説の中にも、いろいろと考え方の違いがあることが分かる。ふむふむ。実際のところはどうなのだろうか。多くの研究者がもうちょっと真面目にこの問題に取り組めば、もう少し何か分かるような気がしなくもないのだが。
本書の欠点の一つは(宏観現象が「ある」として)人間がなぜ宏観現象を感じないか、という点にほとんど触れていない点である。はっきりいって、本書が出している動物異常行動の実験の記述はちょっとついていけないものを感じた。宏観現象に、まだ研究の余地があることには異論はないのだが。
ゴリラはなわばりを作らず、戦争をしない。彼らは目で話すそうだ。著者らは、ゴリラといえばキングコングというイメージを持っている人が今でもいる、というが、そうかなー?そりゃあ、いるにはいるだろうけど、ゴリラといえば「気が優しくて力持ち」のイメージが強いのではなかろうか。
もちろん、このイメージが生まれ広がるまでには、多くのゴリラの犠牲と、研究者たちの努力があったのである。本書は誰でも読める、至って楽しい、しかも研究者の手になる「ゴリラなんでも本」だが、この点についてだけは重い。
ただ、ここまではツールというか基礎の基礎に過ぎず、本来の複雑系研究はここから先なのではなかろうか、と思うのだが。ここから先が読みたい。
本書に寄れば寄生する昆虫は11万5千種もいるそうだ。ありとあらゆる寄生昆虫が存在するのだが、それに対抗するほうも、あの手この手を使っている。
ハキリアリにはノミバエが寄生する。ハキリアリのワーカーは、ご存じ通り大顎を使って葉を運ぶ。ノミバエはそこを狙う。ハキリアリは荷物があるため自分では防ぐことができない。ところが、運ばれる葉っぱの上に、普通のワーカーの3分の1くらいの大きさの小型ワーカーがのっかっていることが多いという。この小型ワーカーが、寄生ハエを追い払うのだ。つまり、こいつは「護衛兵」なのである。いやはや、驚きだ。
しかし、青くない幼虫を青虫と訳すのはやめてほしい。
ぬか床の乳酸菌の話とか、朝霧のような微小環境でのカビの話、酵母の多様性維持など、面白い話題も含まれているのに、残念、といったところか。
専門でやっている人には面白く読めるのだろうか?聞いてみたい。
例えば、原子炉の炉心にしかないはずの物質を子供が砂遊びに使っていたら?あなたが暮らしている建物の建材の中に放射性物質が混ざっていたら?これは「もし」の話ではなく、実際に起こった事件なのだ。
この手の本の常として、全体の印象としてはセンセーショナルに過ぎる部分もあるように思う。だが知らないよりは知っておいた方が良い、確実に。
でも、短い章立てがいくつも続く本って疲れるなあ。なぜだろう。
本書で展開されている様々な科学・科学者評は、内部の科学者から見ると「けっ、そんなことは言われなくても分かってんだよ!」ってことばっかりかもしれない。だがそこで、もう一度胸に手を当てて考えてみても良いのでは。好む好まざるに関わらず、外から貼られるレッテルから逃げることはできないのだから。
「外野」が見た科学。科学が世の中でどう捉えられてきたか。そして今はどんなイメージをもたれているのか。科学は、多様な個性を持つ個々の科学者の営みだが、総体としての科学が抱えるイメージは、それらの合計ではない。これは仕方ないことだと思うのだが、そのことは意外と「科学者」と呼ばれる人には理解されていない気がする。
例えば「マスコミ」という集団がある。この「マスコミ」も、個々の人間から構成されているものである。その働きや性格は極めて属人的であり、ひとくくりにして語れるようなものではない。「科学」と同じだ。だがそのことは外部からはあんまり理解されていない。「マスコミは…」と、ある<イメージ>を持って語られている。
「科学者」達でさえ「マスコミは…」と一括りにして語る。自分たちは世間から「科学者って…」と一括されて語られるのを嫌うくせに、だ。結局「科学者」も、ある集団は突き詰めれば個から構成されていることを心の底からは理解していないのだ。
つまり人間は、ある集団を一括りにしてイメージするのが好きな動物なのである。そこから抜け出ることは多分できない。こうして科学のイメージ・虚像は、実像と付かず離れず廻り続ける。
本書で紹介・説明されている失語症の症例には、ほんとしみじみ、ため息が出てしまう。人間の言語とは、こころの機能とは、なぜこうまで不思議なものなのだろうか。本書を一読すれば「言語運用」と「言語能力」の違い、「言語の使用」と「言語の知識」の違い、そして「文法」と脳機能の不思議な関係に、誰でも気が付くだろう。
中でも不思議というか驚異としか言いようがない障害として「特異性言語障害」というものが紹介されている。時制、格、人称、数といった文法の特定の側面の能力だけが障害されるもので、しかもある家系に集中して現れているというのである。つまり、文法能力の障害が遺伝するというのだから、これはまさに言語能力の少なくともある側面は遺伝子によってコードされているという例の一つとしか言いようがない。これらの研究は現在熱い注目を浴びており、読字障害のうち音素認識に関する遺伝子は第6染色体に、実在語の音読には第15染色体が関わっているということまで分かっているという。
ただ本書トータルの感想は一言で言うと「ふーむ…?」といったところだろうか。多分僕が勉強不足だからなんだろうけど、言語学の理屈って「それは作業仮説に過ぎないんじゃないですか?」と言いたくなるものが多いように思う。もちろん、科学理論なんてものは結局は永遠に作業仮説でしかないわけだけど、どうも言語学の理論というのは聞いても腑に落ちないように感じてしまうのである。
それと、本書でいう「普遍文法=Universal Grammar」の意味合いというか使い方は、僕が人から聞いている意味合いとずれているような気がする。この言葉、本当は一体どういう意味なのだろうか?あるいは研究現場ではどういう言葉として使われているのだろうか?どなたか教えて下さい。
とはいうものの、それなりに(というか、かなり)面白い本です。ちょっと岩波科学ライブラリーの紙幅では厳しかったか?でもこの内容でこれ以上長いと、読むのがツライかも。
『皇帝の新しい心』はもちろん、ペンローズの数学あるいは「プラトン的世界」に対する考え方は『ホーキングとペンローズが語る 時空の本質 ブラックホールから量子宇宙論へ』などで示されているし、心を考えるために量子重力がなぜ必要なのか(とペンローズが考える理由)も『ペンローズの量子脳理論 21世紀を動かす心とコンピュータのサイエンス』などで示されている通りである。一語一語噛み締めながら読む必要のある本書は、それらを相互補完しあうものでしかないが、同じ様な内容の本を繰り返し読むことは私のような門外漢にとっては必要なことなのだ。
本書の第2部──3人の科学者による批評──で、(おそらく誰にでも)一番分かりやすいのはホーキングによる痛烈かつ手厳しい批判。たった4ページしかないが、ここにはペンローズへ向けられている疑念の根本的なものが全て詰まっている。
それに対するペンローズの答えは「それでも地球は回る」というもの。いやそりゃ、回っているのは分かっているんだけど、問題はどうして回っているかの方なんだよなあ…。
しかし誰でもいいから、ペンローズの主張のいくつかを、フンと鼻で笑うだけではなく真面目に批判(or肯定)検証してくれないものだろうか。生物屋さんなり、超伝導屋さんなり、如何ですか?
それぞれのエピソードも、ツボを押さえつつコンパクトにまとまっている。監訳者の三井洋司氏も書いているが、ドリー誕生へ至るまでの科学研究の経緯を知りたい人はもちろん、人間ドラマに興味を持つ人にも十分面白く読めるだろう。訳のカタカナ表記のいくつかが気になるが、文章、構成ともに巧い。「なるほど、この手の話はこう書けば良いのだな」と個人的にも大いに勉強になった。おすすめの一冊である。
著者は(明言はしていないが)科学者のほとんどは、自分のやっていることの哲学的意義を理解していない、と語る。つまり、自分の研究が歴史的・世間的にどういうインパクトを与えるものか、良くも悪くも科学者は理解していない、というのである。ウィルムット博士はトランスジェニック羊の量産だけを目的とし、ドリーを作った。それは確かに良くも悪くもその通りなのだろうが、彼(というより科学者集団全体)はおそらく、それがどのようなインパクトを与えるか、あまり理解していなかった、というのが著者の主張なのである。
この他、科学界を「サーキット」と揶揄するなど、科学者あるいは科学界への批評・皮肉も舌鋒鋭く、私にはなかなか面白かった。
しかしそうか、シュペーマンの頃から「自我」の問題は発生学につきまとっていたのだなー。僕はシュペーマンの本を手に取ったことはあるのだが、ドイツ語で書かれていたそれは、全く読めなかったのだ(^_^;)。
追:
CNN、Science、そしてnatureが取り上げたドリーの疑惑は、いったいどうなるのだろうか。
個人的にちょっとだけ面白かったのは、堀越弘毅氏の(いつもの)微生物の話と、菅野卓雄氏の量子エレクトロニクスや単電子エレクトロニクスの話くらい。まあ、普通の人は別に買わなくても良いでしょう。もともとそういう性質の本じゃないし。
ワニのペニスが縮んだり、オスの貝がメスのようになったりといった報道をよく聞く。つい先日も、日本の若者の精子数は34人に一人しかWHOの基準値に達していないと発表があった。精子が減っているのだ。乳ガンや前立腺ガンも増えているという。ご存じの方も多かろう。いわゆる「環境ホルモン」という化学物質の仕業だとされているものである。
環境ホルモンとは日本の造語だが、つまり身体の外にある化学物質で、身体の中に入るとホルモンのように働き、身体内のバランスを崩してしまう物質のことである。じゃあ、ホルモンって何だろう?ホルモンとは、身体内で情報伝達に携わっている分子の総称である。身体はホルモンを使って情報をやりとりしている。ここへ外から、姿形は一見似ているが全く違った情報を伝える物質がやってきたらどうなるか。身体は本来あるべき状態を見失い混乱する。会社の伝令が嘘つきだったら、社内は混乱してしまう。小さいウソでも積み重なれば大変な事態へと繋がっていく。それと同じ事が、どうやら身体の中で起こっているらしい、というのが環境ホルモン問題だ。
本書は、環境ホルモンなるものが発見・注目されはじめてから現在に至るまでの状況を、時系列に沿ってまとめたもの。綿密なインタビュー取材による構成は分かりやすく、迫力がある。物語は1920年代、人類が動物の生殖線から薬物を合成しはじめた頃にまで遡って始まる。本書の主役はエストロゲン(女性ホルモン)である。エストロゲンはごく微量で生殖や成長を制御する、体内にもともとある物質。妊娠中のホルモンバランスを取り戻せるとして、600万人の妊婦と胎児に合成エストロゲンが投与された。数年後、子宮や膣や卵管がゆがんだ子ども達が生まれた。男性器の奇形も多かった。正常に見えても、胎児のとき合成エストロゲンにさらされた人達は極めてガンにかかりやすかった。つまり、無害だと思われていた物質に毒性──内分泌の撹乱と発生の阻害──が潜んでいたのである。特に胎児期・発達期に環境ホルモン物質に曝されると正常な発育が妨げられ、生殖能力や免疫機能、発ガン性などに影響が出るらしい。
そして、あろうことか多くの化学物質、例えばフタル酸化合物(DBP、DOP)などが弱いエストロゲンの働きをすることが分かっていく。それらは、ごく身近なプラスチックや農薬の中の物質だった。ラップやプラスチックの瓶のフタに有害な物質が含まれているとすれば、いったいどうやって防げば良いというのか?著者は大地にも大気にも拡散している「汚染物質」から逃れるすべは既にないと言い「今こそ、私たちは教訓を学ぶべきなのだ」と警告する。証拠を集める段階は終わった、環境ホルモンは「クロ」だという立場である。だが、この問題はなかなか難しい。農薬やら工業物質やらが犯人として槍玉に挙げられることが多いが、別に人工物質だけが環境ホルモンとして働くわけではない。天然の物質の中にも環境ホルモンはある。問題は、身体の中に入った時にどういう作用を起こすか、ということなのだ。
本書を読むと環境ホルモン問題は昔からある問題なのだと気づく。公害問題が騒ぎになった頃、ダイオキシンやサリドマイドの危険性が指摘された頃から何も変わっていないのだ。ダイオキシンやPCBなど明らかに有害なことが一度判明したものは分かりやすい。だが多くの化学物質に対して無害だ有害だと言っても、しょせん短期的視点での浅知恵でしかない。我々は「化学物質の宇宙」で暮らしている。身体に何がどう関わってくるのか、誰にも分からない。環境ホルモンを危険視する側の声はますます高まり、誤解や曲解をも含んだまま「なんか危ないらしいぜ」という雰囲気は広がりつつある。だが毒性が完全に証明されたわけではないし、何もかも禁止することは不可能だ。例えば本書では大豆の中のイソフラボンもエストロゲン様の作用を持つから子どもには食べさせるなとある。これには豆腐を食い続けてきた日本人は大いに反論したくなるだろう。もちろん、分かってからでは遅かったではすまない問題であり、だから灰色でも禁止せよ、というのが多くの論者の立場であろう。まず必要なのは情報を得ることだ。どう判断するか、そこから先は各読者にまかされている。
環境ホルモンに関するサイト
植物とはどんな生き方をしている生き物か。著者は植物への思い入れたっぷりに「植物たちのつぶやき」を代弁する。3部に別れて構成されている。第一部は「植物が動きまわる必要のないしくみ」。第2部は「植物が『時』と『場所』を知るしくみ」。第3部は「植物が花を咲かせるしくみ」。各章は数ページとごく短く、いちおう一冊として連続してるが、植物をネタにしたエッセイ集としても読める。
本書を通読したあと、植物を見る目が少し変わるかもしれない。