インフルエンザはウイルスが侵入して発症まで24時間程度しかかからない。しかも奴らは細胞の中で増える。血中には入らないので通常の免疫系にあんまりひっかからない。ワクチンが効果覿面といかない理由の一つはこれだ。もう一つの理由は、いわずとしれたインフルエンザウイルスの特徴、抗原変異である。
抗原変異には2種類あり、<シフト>と<ドリフト>と呼ばれている。シフトは全く新しい抗原を持つウイルスが出現すること。他の動物からウイルスがやってくるか、動物のウイルスと人間のウイルスが交雑して新種が生まれるらしい。ドリフトとはHA遺伝子の突然変異により、ウイルス表面の糖鎖の抗原性が変化すること。要するに、細胞へ侵入するための「かたち」が変わることだ。本書には、つきとめられつつあるHA分子のアミノ酸の変異の仕方などが記されていて、この辺は面白い(難しいけど)。
なおHAとは血球凝集素タンパク質という糖タンパクのことである。これは血球表面の糖鎖末端にあるシアル酸に結合し、血球を凝集させる働きを持つ。もう一つ重要なのがNA(ノイラミニターゼタンパク質)。こちらは糖鎖からシアル酸を切り離す役割を持つ。この二つがウイルスのエンベロープ(膜)の外に突き出し、ウイルスの型、いわゆる抗原性を決めている。双方の糖タンパクの働きによってウイルスは巧みに生物に感染していくのである。 そしてこいつらは、先に述べたように型が変化する。それによって毒性や感染力が変わってくるのだ。
ウイルスは、違うタイプのウイルスが一つの細胞の中に入ると、お互いの遺伝子が混ざった雑種が誕生する。「遺伝子再集合」と呼ばれる現象である。これが新種が出てくる一番大きなメカニズムだという。いやはや、何度聞いても不思議だ。いったい、こいつらは何なんだ。生物とは何なのか。不思議だ。
ただ不思議がっていても始まらない。100ナノメートル(1万分の1)しかないウイルスと人類との戦いは続く。最近は、新しいタイプのワクチンも開発されているそうだ。注射ではなく、噴霧器タイプで吸引するだけでいいという。ほほう。
本書は、花成ホルモンを追い求めてきた著者による研究の歴史と現状の報告である。内容は時折著者自身の苦労話などが入るものの極めて淡々としており、仮説と検証実験とその結果、そしてそれぞれの解釈(「…よって、この実験によって花成ホルモンがあるとは言えない」といったもの)が、つらつらと書かれている。
興味のない人には退屈かもしれないが、著者の科学者としての冷静な態度と、探せども探せども見つからない花成ホルモンへの思いが行間からにじみ出ており、私は非常に好感を持った。
諦めた者もいる。花成ホルモンといった単一物質はなく、複数の代謝物質の濃度やバランスによって花芽が形成されるのだという者もいる。世界中の科学者が今も花成ホルモンを探している。最近は花芽形成時期のおかしくなったミュータントも研究対象となっており、遺伝子を使った研究も進められている。発見は間近だという声もある(なお著者は悲観的であるようだ。これも長年の研究経験からか)。
追い求めるが掴めない。単離・精製どころか抽出もできない。どのような物質であるかすら確信が持てない。なぜか。実験方法を変えてみる。仮説を変えてみる。やはり見つからない。だが、花成ホルモンが「ある」と考えた方が理屈が通る。ならば必ずあるに違いない。だがやはり見つからない…。今後、どうなるのだろうか。
著者は「分子レベルの研究を行うためには、まず現象の解析が必要」という。生物学は個体としての生物を扱うことに意味がある、と考えているのだろう。
神経細胞内の化学過程や遺伝子の役割、そして「自意識」の問題。これらが主に付け加わっているところ。著者はいう。「運動は手足を動かし、行動は運動を組織するが、思考は観念や概念を動かし、要素的な思考を組織する。その原理は類似している」。つまり、思考の脳内メカニズムも、運動の脳内メカニズムから類推可能であるということだ。また、著者は思考のうち無意識的な部分は小脳が担当していると考えている。
「こころのより深い理解」。これが得られるのはいつの日なのか。そんなことを思いつつページを繰った。
「生物としての人間」と「文化としての人間」。文化と人間の共生。遺伝子と文化遺伝子ミームとの共生。この視点がこれからは必要になるし、どのみちそういう時代が来てしまっていると著者はいう。同感。
最後に著者は、現代は「SALTの時代」だという。SALTとは、著者にとって身近な言葉──Science, Art, Life and Technology──の頭文字を取ったものだそうな。ここでいうArtというのは、いわゆる芸術のことだけではない。うまく言えないが、技芸としての学問、科学とでも言えば良いのだろうか。Science & Technologyの視点だけではなく、これからはArt & Scienceの視点も必要とされてくるだろう。
本書はちょっと残念な本である。最終章、土壌微生物をやってきた著者自身の研究と考え方が述べられているのだが、そこのところは面白いのだ。残念ながら仄めかしに留まっているので、面白そうだというべきか。
微生物の生態は、グロスでは調べられているが、一個体づつのかれらの「住まい」や「活動の場」についてはまだよく分かっていないらしい。微生物の生態系は、まだよく分かっていないらしいのだ。例えば「自然環境では生きているが培養できない状態の細菌が存在する」らしい。要するに、自然環境で細菌が実際どのように生きているのか、まだまだ分かっていないそうなのだ。
土壌微生物の場合、土そのものの団粒構造が彼らの生活にとって大きな意味を持っているらしい。団粒の中と外で、微生物の生態が違うそうだ。著者は「微生物たち全体にとって、増殖することはきわめてめずらしい、個々の微生物にとってはむしろ偶然的なできごとに近い」と考えるようになったという。コロニー形成や自然環境から分離した細菌株の絶滅などを、研究を通して、こう考えるようになったそうだ。この意味するところは極めて重大だと思える。増えることが至上命令ではなく、極めてまれなことだというのだから。前半の研究史より、個人的にはこっちが読みたかったなあ。
本書とは関係ない話だが、ある種のバクテリアコロニーの増殖の様子は実に面白い。ビデオで撮影されたものを早送りしてみると、コロニー全体が脈動してみえるのだ。増殖も、とにかくバアーッと増えていくのではなく、定期的に脈動して増えるのである。初めて見た時、あっと思った。こういう風に見えるのは、もちろん個別のバクテリアの増殖過程が、なんらかの手段で調節されており、その刺激が連鎖的に伝えられているから、そう見えるのだろう。それが試験管の中での特殊なものに過ぎないのか、それとも自然環境でも起こるものなのか、僕は知らないのだが、実に不思議な、思わずいろいろなことを考えてしまう映像であった。余談でした。
恐竜は、誰も見たことがない。だが確かに実在した動物である。自然界の象徴として人間に立ち向かい、奢れる人々に鉄槌を下してくるときもあれば、滅んでしまった悲しい動物として人類に警告を与える存在とて現れることもある。著者が言うように、恐竜は、実在と空想の狭間にいる存在なのだ。だから恐竜は怪獣とは違うメッセージを発し続ける。いや、人間はそのようなトワイライトな存在として恐竜を見るのだ。
奴らの何よりの特徴はでかいことだ。大きさは、イラストやCGでは実感できない。実際に骨を見るたびに僕は不思議に思う。「本当にこんなでかい動物がいたのだろうか?」。これは格好をつけているわけではなく、本当にそう思うのである。理性では、化石が出ているのだからいたに決まっていることは理解している。当時の環境も含めて、それなりに分かっているつもりだ。だがそのたびにこう思うのだ。「我々は、本当に心の底からは、この生き物がいたことを信じていないのではなかろうか?」
人間は動物がものを喰うのを見るのを好む動物だという。また、動くものをとにかく好むらしい。だから恐竜は多くの映像メディアに登場し、口をがっと開き、人間を追いかけ、観客を魅了してきた。これからもグロテスクな美しさを見せ、多くのメディアに登場し続けてくれるように1恐竜ファンとしては思うのである。
古生物や進化が一般の人にどう捉えられているのか、元編集者だという著者はさすがに良く理解している。本書は「外野席からときどき飛ぶ野次のようなもの」だという。いわゆる科学書でもなんでもなく、なんとなく楽しむタイプの恐竜エッセイのような本なのだが、まさに野次そのものである本ウェブページにはぴったりだと考え、取り上げてみた。
ミームとは何かなんてことは解説しない。もし知らないという人がいたらリチャード・ドーキンスの本を読んで下さい。あるいは本書でもいいでしょう。複数の人の定義を引っ張ってきてますから。
ミームは、文化やら非生物やら、とにかく「概念」を持つものを、情報の適応進化という形でまとめて議論できる、非常に便利な概念である。ミームというミームは非常に良いミームだったようで、現在、再評価が高まりつつあるようだ。ミーム学の電子ジャーナルもある。
「考えが伝染する」「文化が伝播する」というのは昔からあった考え方だと思う。それに<ミーム>というレッテル(これもミーム)を与えたドーキンスは、やっぱり名キャッチコピー屋だ。しかもミームを導入することで、生物学の手法で捉えることが可能になった。「考えが心に巣くう」=「『心』にミームが感染した」と捉えられるようになったのだ。しかもこのミームという奴はウイルスのように複製し、変化(進化)しながら広がっていく。
で、このミームを平易な言葉で概説したのが本書。ミームという概念でもって世の中を眺めてみると、あら不思議、あれもミーム、これもミーム、それもミーム、実に色々なものがミームで横断できてしまう、というわけだ。ミームが注目されている理由も結局はここにある。認知心理だとか、言語学だとか、進化学だとか、違う分野で使われていた曖昧な概念に<ミーム>という共通語を与えて横断的に捉え直せるようにしたこと。これはやっぱり面白い。
本書は、ミーム=マインド・ウイルスだ、ミームの視点を持てば自分たちの心を捉え直しやすくなる、良いミームを選択して自分の心に埋め込むようにしたまえ、と語る(というミームを広げようとする)のだが、これはまあご愛敬の範囲だ。普通の人にとってみればミームの概念を持つことで得られる御利益ってそういうものかもしれないし(しかし、こういう帯をつけた編集者はどうかと思う)。まあ、読んで下さい。
ここから先、ミームが、ただのお話からどう科学の世界で使われていくのか(もう色々研究は行われているみたいだから)、この本の後はどういう本が刊行されるのか、ミームの進化を見守っていきたい。
微小化石の記録から、植物が上陸したのは古生代オルドビス紀4億7000万年前〜シルル紀4億5000万年前くらいの頃と考えられている。それ以来植物は、変化し続ける地球環境、そして重力と乾燥に対抗しながら多様化し、生息域を広げてきた。動物種同様、現生の植物は、その進化の歴史の中で生き残ったものが、その後さらに多様化したものである。多様性の一つとして生き残ってきたものなのだ。だから化石植物は現在の植物群に収まらないものも多い。それを無理矢理枠に入れようとしたり結びつけようとすると、人為的な分類群になってしまう。気をつけなければいけないが、ここが一番面白いところでもあろう。「化石が面白いのは、予想することや地層から出てくるものが”浮き世離れ”しているからである」のだから。
木が誕生したのは上陸後3000万〜4000万年後らしい。驚くべきスピードで植物は多様化していったことになる。デボン紀のことだという。この時代の地層からは良く分からない化石も出ているそうだ。巨大な菌類か藻類の塊のような化石、地衣類らしい化石などが発見されているのだ。どんな光景だったのだろうか。うーん、見てみたい。
樹のような幹を持ちながら胞子繁殖する前裸子植物。茎のような葉「葉態枝」を持つ化石植物だ。名前の通りシダと裸子植物両方の特徴を持つ植物である。種子を持つシダ、シダ種子植物。こういう植物たちが過去には存在したのだ。僕も化石を見せてもらったことがあるのだが、初めてみた時は思わず「あっ」と声を上げてしまった。
植物の進化は、基本的に内陸への進出に伴う乾燥への対抗や、昆虫の食害を防ぐ方向、子孫を作るための胚を保護する方向へ進んだ(方向とか言うと怒られそうだけど、そういう意味じゃありませんので)。その結果、植物の一部は胚珠を作り裸子植物となり、さらに囲んで保護していって被子植物が生まれた。植物進化の歴史はたゆまなく続く、種の繁栄方法の進化の歴史なのだ。
植物の多様な生殖方法は、多様な環境への多様な方法での適応の結果だ。そして植生の多様性は、生物界全体、地球全体の多様性の重要なファクター。その事を植物化石の研究成果を通して、4億年の歴史から描き出して見せる一冊である。
本書では上記のようなことを、サルや類人猿を主とした数々のエピソードを多数紹介しながら論述する。「道徳性」を持つための能力を分解し、それぞれの「道徳性」の萌芽を探す観察研究エピソードは読み物としては実に面白い。ただ、これらに対しては別の読み方もあるのではなかろうか、という気もする。もっとも私自身は、道徳性や自意識といったものがヒト固有のものだとは全く思ってないので、著者の主張に納得しつつ読んだ。
<道徳>とはなんだろうか。「広辞苑」によればこうだ。
「人のふみ行うべき道。ある社会で、その成員の社会に対する、あるいは成員相互間の行為の善悪を判断する基準として、一般に承認されている規範の総体。法律のような外面的強制力を伴うものではなく、個人の内面的な原理。(後略)」
一行目は「道徳を持っているのは人間だけだ」という勝手な思いこみを示しているわけだが、2行目は分かりやすい定義だと思う。動物個体が、単独ではなくなんらかの形で他個体と関わりを持ちながら生き始めたとき、<道徳>を持った方が群れなり社会生活なりを営む上で有利だったのだろう。だから道徳性や社会の共通概念としての善悪と生き残ってきたのだろう。そういう行動がどうやって神経系にコードされて伝わっていくようになったのか、そこが知りたいところだが、今後の研究に期待する。
3行目は本書にもある通り、成長に伴う外界の認識と規範の内面化を表していて興味深い。広辞苑もバカにしたもんじゃないね。
本書の原本には参考文献リストや図表が多数ついていたそうだ。だが、邦訳からはばっさり削られている。これは残念だ。せめて本文中で引っ張られている本の情報くらいつけるべきではなかったか。それと、やっぱり索引が欲しい。
アニマル・ライトに関する著者の主張は納得できる。
遺伝か環境か。この問いは不毛で意味がない。どこまでが遺伝で、どこまでが環境なのか、と問うことも無意味だ。パーソナリティに遺伝が影響を持っているのは確からしい。だが、どこからどこまでとか、どのくらいの割合なのか、という疑問に答えられるような形ではない。遺伝因子と環境因子は相互に絡み合う。だが、何らかの生来の「気質」や「傾向」のようなものはあるらしい。「ない」という研究者もいるが、彼らが「ない」と言っているのは、人間の場合、「ない」と考える方がいろいろと有用だし「遺伝子神話」のような誤解を招かないですむから、ということなのではなかろうか。
「人々の興味をひくのは、自分という人間に遺伝子が、どれだけではなくどのように影響するかという点だ」と著者は語る。その通りだろう。著者は続ける。「…問われるべきは『これこれの特性および障害を決定する遺伝子はなにか?』ではなく、『行動の基礎をなす神経化学に、多様な遺伝子はどう共同作業しているか?』だろう。遺伝子そのものが思考や感情や行動を生むわけではない」。その通りだ。この辺の理解があまりになされていない現状では、声高に遺伝、遺伝と言わない方が良いのかもしれない。だがそれでは、「『私』の自己はどうやって構成されているのか」という疑問に答えることはできない。それは残念だ。
ある種の気質は、自ら、ある種の経験や環境を「選ぶ」傾向があるという。もし気質なるものがあるとすれば、確かにその通りかもしれない。こうして人間は、遺伝的素質と後天的に獲得した要素が絡み合い、人格を形成する。そうして「私」はここに在る。絡み合った神経系のシナプス、脳の中の化学物質、体中を巡るホルモンのバランス、この袋の中の化学的な作用の過程、それが私、そして今、こうして考え、目で見、肌で感じている存在、それも私。「私」なる存在が身体から不可分である限り、遺伝と環境の問題は、どこからどこまでという問い方はできない。どのように、と問うことはできても…。
なぜ私は「私」なのか。この疑問を持ったことのない人は、いない。究極の問いかけだ。「私」というものの定義は難しい。著者は、こう定義している。「生来の傾向と獲得された経験から生み出され、つねに動き変化しながら記憶の中に存在する巨大システム」。やや冗長だし、記憶の「中に」存在するというのはちょっと違うような気もするのだが、「私」という存在が「つねに動き変化」している「過程のシステム」であることは間違いない。何が「原因」で何が「結果」なのかは分からない。
最後には精神薬理学の進歩に伴う危惧──「美容整形風精神薬理学」と著者が揶揄するものへの考察も示されている。この分野は、これからさらに進行していくだろうことは容易に想像できる。
いまひとつ納得のいかないところが多かったり、実証的でなかったり、一方結構面白いところもあったりと、なんだか勿体ない本だったのがちょっと残念。
4部構成。1)脳波とサーカディアンリズム、2)夢(、3)眠るとはどういうことか、レム睡眠、睡眠のメカニズム、4)睡眠時無呼吸症やナルコレプシーなど睡眠障害。
睡眠はなんのためにあるのか。ラットを断眠させるとどうなるか。なんと死んでしまうのだ。ところがほとんど眠らなくてすむ人も世の中にはいるのである。なぜ人は眠るのだろうか。結局この謎の答えはまだ出ていない。なぜ夢を見るのかという問いに対しても同様だ。著者は言う。これからは覚醒時の脳の研究だけではなく、睡眠時の脳の研究も当然行われるようになるだろう、と。
脳幹の橋によってコントロールされているレム睡眠は、なんの為にあるのか。レム睡眠時は末梢からの連絡が絶たれ、体温や血中ガス濃度に対する調整機能が「オフ」になる。脳の消費エネルギーは増大する。いったい脳は何をしているのか。レム睡眠を持たない人もいるのだ。だがレム睡眠を妨げると、その後の眠りではレム睡眠が大量に観察される。著者は、レム睡眠は短い眠りと眠りをくっつける接着剤のようなものとして生まれたのではないかと推測している。我々の眠りは一日にまとめて睡眠をとる「単睡眠相」だが、新生児や動物は細切れの眠りと覚醒を繰り返す「多睡眠相」なのである。その多睡眠相が、単睡眠相へと変化する過程で必然的なものとして生じたものなのではないか、というわけだ。その他のレム睡眠の機能として推測されているもの──「本能的行動に関する神経回路のチェック、記憶の定着、脳活性の調節、夢の創出」──これらはレム睡眠の「本来の目的」ではないのではないか、と著者はいう。
本書ではメラトニンについては触れられているが、他の睡眠を誘発する物質に関してはあまり触れられていない。だが、どのページも面白く、睡眠研究の実際をかいま見せてくれる良い本だった。日本の若い研究者も、こういう本を書いてくれれば良いのに。
脳は、「古い脳」旧皮質や古皮質の上に、「新しい脳」つまり新皮質がのっかっている構造をしている。著者によれば、情動や本能を司る古い脳には生物学的な性差があるが、新皮質の性差は後天的な環境や教育によるもので生まれつきではない。本書は、この<脳の性差>に関する現時点での研究結果を解説しようとしたものである。
脳梁部の膨大、視交差上核のかたちの違いなど、男女の脳に構造的な性差があるのは、ほぼ明らかなようだ。これらは良く知られているように、胎児の時に脳が男性ホルモンのシャワーをあびたときの<形成作用>による。だが、構造が違うからといって機能が違うとは、一概に断定できない。ここが難しいところである。また、実験動物であるラットでの違いが、そのまま人間に適応できるかと言えば必ずしもそうでもないところが更に問題を難しくしている。
著者は行動の統計などを挙げつつも、それに対して内分泌学の立場から情動や本能レベルでの脳の性差を一つ一つ明らかにしていく。いわゆる俗な興味──帯にある、甘いものを女性が好むというのは本当か、といったものなど──をホルモンの働きで解説するこの辺は、なかなか面白い。ただ、なめてかかると、「ホルモンの本」に付きもののややこしさに、かるーくノックアウトされるので、気合いを入れて読んだ方がいいかも。全般的にいって、この分野はまだまだ知見が蓄積される必要があるようだと感じた。
ネオテニーの話が最後に出てくるのだが、これは蛇足のような気がしないでもない。この話より、著者自身の研究を詳述するとかの方が面白かったような気がする。男女がどういう社会を築いていくべきか、著者の主張が述べられるあとがきには当然賛成。
「からだの知恵」と聞くとやっぱりキャノンの本を思い出してしまう。当然、本書でもホメオスタシスは重要な意味を持つ。著者の職業である医者は、緊急時に対応しようとする身体の反応を日々もっとも実感するだろう職だろう。その職に就いている著者の描写は実に巧みだし、素人にも実感を持って迫ってくる。なお、文章は非常に読みやすい。展開される知識は高校の生物程度なので、知識のみを求める人にはもの足らないかもしれない。だがそれでも、本書の巧みな構成はなかなか読ませるし、手術の描写は他の追随を許さない迫力だ。何より生命・人体のバランスへの驚きを、これほど分かりやすく、素直に鮮やかに訴える本は、あんまりない。そういう意味では、貴重な本だ。
著者はこう語る。
治療の目的はつねに病気に抵抗して、自然のバランスを取り戻すことである。回復できるのは、それが患者自身の組織の勢いと力から生まれたときにかぎる。医師の役割はボクシングのセコンドと同じ──裂傷を縫合し、鎮静剤を塗ってやり、選手を励まして、その特定の能力を使うようにし、正しい助言をする──であって、身体を連打され、体力の衰えてきた現実の闘士を力づけるのである。医師として、われわれは最善をつくして治癒の障害を取りのぞき、器官や細胞がその天与の力を使って打ち勝つように励ますのである。30年以上、生死と人体を見つめ続けてきた外科医の実感だ。
本書を読んでいると、身体と心はまさに不可分なのだと改めて感じる。精神は身体だし、身体が精神なのだ。当たり前のことだが、全てがそうなのである。身体の変化は精神に常に影響を及ぼすし、逆もまた然り。心と体は別、なんてことはあり得ない。私の私たるところは、「ここ」にある。
植生は、山を構成する地質や地形、そこに流れる気流などの影響を受ける。だから、地質を知っていると植物分布の理由が分かったりする。また、地形そのものは、まさに地質そのものである。なぜこんな地形になっているのか、という理由が分かると、いきなり世界が様子を変えて見える。2次元、あるいは3次元の広がりでしかなかった山や地質図が、いきなり4次元の広がりを持つことがはっきり分かってくるのだ。地形や植生の持つ、歴史性がいきなり見えてくるのである。
著者のあとがきにもあるが、こういう自然科学的視点をもっと導入した書籍は、もっともっとあっていいと思う。ただただ美しさだけを愛でるのではなく、「なぜ」の視点に答える本だ。縞枯れ現象や構造土、アバランチ・シュートなどを示したカラー口絵4ページ付き。
人間の暴力性はどこからきたのか。それはなぜなのか。ちょっと前に、そんなものに生物学的な起源があるといったら、大変なことになっていたと思う。だが、様子が変わりはじめている。生物学的な気質は、やはりあるらしい。もちろん、文化的な側面もある。だが、それと同様に、生物学的側面もあるのだ。というのが本書の半分の内容。残りは、それがどこから来たのか、という問題への議論。ヒトとチンパンジーだけが、オスが結束して集団間で闘い、集団内では権力争いをする、という。それはなぜか。
本書は、チンパンジーとヒトの共通祖先がいた時代に遡り、起源を求める。暴力性の起源の一つは、知能にあるという。なぜなら、ある特定個体を狙って殺しを実行するためには、互いの個性を記憶するための知能が最低限必要だからだ。だがこれはもちろん、必要条件に過ぎない。
暴力性を生み出すことになった淘汰圧は、食性と、それに伴って生じる社会構造にあるという。著者は我々を「パーティ・ギャング種」と呼ぶ。要するに、ある大きさの集団を形成し、隣接する集団を排除しようとする種だということだ。
<集団形成コスト説>によれば、霊長類は、生態的なコストがなければ無限に集団を大きくしていくという。だがもちろん、実際には食料事情や集団規模に伴う移動範囲などなどのコストは存在するわけで、集団の大きさは制限されている。
チンパンジーやヒトは、ある季節には豊富にあるが、別の季節には数が激減する、果実や種子のような食料、また栄養価が非常に高いが、なかなか見つからないような食物に依存している。この、食料の増減が<集団形成コスト>を変え、パーティの規模の変動を引き起こす。こうして類人猿は、多様な食料事情に適応することができた。が同時に、オスの連合的結束、集団同士の反発などが起こったという。それが殺しにメリット・リスクを生み、暴力性へと繋がったというのだ。
本書で最後に出てくるのがボノボである。ボノボは「異性間、オス間、集団間の関係いずれにおいても、暴力的な傾向を減少させてきた」種である、と著者は言う。ボノボの社会ではオスとメスは対等であり、メスは連合してオスと対抗する。オス同士は頂点を激しく競い合ったりせず、集団同士が出会っても殺戮は起こらない。いまのところ、ボノボは実に平和的な種である、らしい。我々が「人間性」と呼ぶところの性質をもっとも持っているのがボノボであるというのだ。
ここは、ひたすらヒトやチンパンジーの暴力性を訴えてこられたあとだけに、なんだかホントかよと思ってしまうのだが、一応これが、ボノボという種に対する共通認識であるらしい。ボノボが平和的である理由は、著者によるとやはり食性の違いそれがもたらす社会構造の変化である。つまり、共通祖先が持っていた暴力性も、社会構造の変化によって乗り越えることができるのだと言いたいらしい(断定はしてないが)。
本書は、類人猿に興味のない人でも十分楽しめるだろう。一方、考古学や人類学、人間の進化的理解を深めたい研究者や学生には必読の一冊かもしれない。人間、そして男の暴力性はどこから来たのか?本書で示されたのは一つの、だが興味深い考え方であった。
これは別にけなしているのではなく、そういう部分は、もっとばっさり切り分けてしまっても良かったのではないか、ということだ。ミツバチやカイコ、カイガラムシなど昆虫の「家畜」化、クスリとしての昆虫利用、マラリアなど病原菌の媒介など、昆虫が人間に深く関わってきたのは確かだが、それは科学史的な章立てを別にかっちり立ててそちらで詳述した方が良かったのではないか。どうも中途半端に終わっているような気がするのが残念である。
とはいうものの、面白い本であることには変わりない。博物学的な興味は、存分に満たしてくれるだろう。原題の「Bug」からおわかり頂けると思うが、本書で扱われているのはいわゆる昆虫だけではなく、クモなども含まれている。著者の博学さ──昆虫の研究者に共通するものかもしれない──は呆れるほどで、おそらくもっとも適応力に富んだグループである虫たちの多様な生態について知ることができる。メスを縛りつけておいて精子をくるんだ精包を押し込むシミや、社会性行動を10回以上進化させたハチ目など、披露されるエピソードを追うだけで気軽に楽しめるだろう。
セルラーゼを自分で作るシロアリがいるとは知らなかった。こいつらの遺伝子の研究は進んでいるのだろうか?どなたかご教授頂ければ幸いである。