カサガイは、粘液を出して移動する。これは道しるべにもなるし(彼らは遠出しても「巣」に戻る)、最近の感染を防いだりもする。それだけではなく、この粘液の中に藻類の成長を促進させる物質を混ぜ、自分の餌を「栽培」するものもいるという。食いながら移動し、移動しながら肥料をまいているのだ。
カキは岩場にいるものだ、と思いこんでいた。ところが、それは間違いなのだという。カキの主な生息域は「自然状態では干潟の泥の上なのである」。カキが干潟の上に顔を出している写真も貼付されている。これには驚いてしまった。思いこみ、知らないというのは怖いことだ。というのは、これは私の卒論──古環境復元──にも関わっていたはずの話だから。失敗した。
それはともかく、では、カキはなぜ沈まないのか。いったい何に固着しているのか。実はカキは、浮いているのである。カキの殻がごく軽いことはご存じだろう。カキの殻は方解石でできているが、スカスカなのである。そのために浮いていられるのだ。
もちろん「根」はある。死んだカキの上にどんどん新しい殻が積み重なり、一番上に顔を出して生息しているのである。こうして泥の堆積に対抗しているわけだ。この「積み重ね」方式は、進化の過程で選択された方式の一つに過ぎない。カキは他の方法も試している。その詳細は本書を。
「株」の一番下の部分は、ごくごく小さな貝殻や、小石や砂粒だという。どこへでも付くのではなく、先に着床した個体があると、そこへ集中して着床することが実験でも確かめられている。
浮遊性の貝の話も面白い。殻を捨て、「足」をひれ状に変え、それで泳ぐのである。クリオネ──ハダカカメガイも、その類である。こいつの口は先にあって、そこがぱくっと開いて捕食する。TVで放送されたこともあるのでご覧になった方も多いと思うが、その姿は、結構「驚き」である。
こいつらの仲間の中には、粘液をクモの巣状に広げ、それで餌をひっかけて食うものもいる。いやはや、本当にいろいろな奴がいるものだ。
歯を射出するイモガイの構造の精緻さも驚き。この貝の毒については有名だが、歯を使い捨てにしているのである。
またミノウミウシの仲間は、イソギンチャクやヒドロ虫を食べ、その刺胞を取り込んで「刺胞嚢」と呼ばれる特殊な細胞の中に格納してしまう。しかも刺胞の発射機能はそのまま保持されているという。こいつらの口はクチクラで覆われている。もちろん、刺胞を持った動物を無理矢理食べるためである。一体どうやったら、そんな器官が発生しうるのか。自然は偉大だ。
貝には、面白い繁殖戦略を持っているものも多い。雌雄同体の貝、雌雄が変わる貝、その辺はもちろんだが、新腹足類の多くの種では、卵を大量につくるが、その多くは成長する胚の栄養とされてしまう。1つの卵を成長させるのに、10、あるいは100以上の卵が「餌」として消費されるのである。しかも、消費されるものも受精済みの卵なのだ。途中で発生が止まり、胚が崩壊して卵黄の塊状になってしまうのだという。実に不思議だ。
まだまだ、多くのトピックスに満ちた一冊であるが、この辺でやめておく。カラー口絵4ページ付き。
細胞死の本質は、「遺伝子による遺伝子の消去」である、と著者はいう。我々の体の細胞には、二つの死のシステムが組み込まれている。アポトーシスとアポビオーシス(寿死、寿命死)である。これらの機構が発現すると、細胞は自らの遺伝子を切断して死ぬ。細胞死の原型は、有性生殖の誕生と同時に生まれたと考えられている。遺伝子のシャッフルの結果を淘汰するためだ。これを応用し、細胞社会にとって有害となる細胞を除去するために、おそらくアポトーシスは生まれたのだろう、と考えられるという。「死は、生の更新のためにある」のだ。
多細胞生物は、成体を構成する体細胞の性質から3つに分類されている。1)全身が再生系細胞からなっているもの、2)全身が非再生系細胞からなっているもの、3)再生系、非再生系細胞双方からなっているもの、の3つである。我々人間は、もちろん3)に属する。著者は、これを「2つの細胞宇宙」と呼んでいる。この二つの細胞宇宙の連動によって、我々は一つの個体として生きている。
再生系の細胞にはアポトーシスが、非再生系細胞にはアポビオーシスが組み込まれている。再生系細胞の分裂寿命はアポトーシスによって規定されている。非再生系細胞の分化寿命はアポビオーシスによって規定されている。再生系細胞の死は老化に繋がる。これは「細胞を消去する死の遺伝子」である。一方、非再生系細胞の死は寿命を決めているのだろう。「個体を消去するための死の遺伝子」である。ヒトの遺伝子のうち、約7000個(7%)が何らかの形で老化に関わっている、という説もあるそうだ。死は、厳重に決められているのだ。
「一つの生命体はたえず変成する自己完結系」であり、体の中では死と生が繰り返されている。そして、一つの個体が死ぬのは、それら体内での生と死の輪廻が閉じることであると言えるだろう。著者は、「二つの細胞宇宙」の視点から、ヒトの死の見直しを提言する。そして、自己言及する存在としての生命。自己消去能と自己増殖能を合わせ持つ生物の視点。
本書は、生まれつつある、新たな思想の本でもある。
アポトーシスの機構などについて知りたいなら、同じ著者の別の本を読むことをおすすめするが、本書からはメカニズムだけではなく、細胞死を研究してきた著者自身の思想を読み取ることができる。
最後に、ちょっと長くなるが引用しておこう(P.171)。
もう一つの問いは、「なぜ死はうまれてきたのか」という、根源的な問いである。この"Why"という本質的な問いは、究極的な要因を探るものであり、究極要因の研究の一つになる。これはおそらく永遠の問いであろう。しかし、自然の現象のすべてがそうであるように、そこには目的などというものは存在していないことを考えれば、答えは簡単である。「死は生まれるべくして生まれた」ということになる。しかし、これでは科学的な説明にはならない。これまでの科学はこの究極的な疑問に対して積極的にふれようとはしてこなかった。たしかに、科学は「なぜ」の問いに直接答を出すものではないが、科学しかそれに直接近づける道はない。その問いがある以上、問い方を少しずつずらしながら、少しずつでも答を見つけていかなければならない。このような試みから、死の科学を哲学にきちんと位置づけ包含していくことができるようになるのではないだろうか。哲学は本来、科学を包含するものであり、死の科学から新しい哲学体系を創り出す道が切り拓かれる可能性が考えられる。
神経・精神疾患に要する医療費は、4.5兆円を超えているそうだ。全医療費の実に2割にあたるという。精神医学、分子医学の分野は基礎科学としても十分面白いが、社会的な要請も、実に高いわけだ。
本書は、現在の脳科学が目指すところを表でまとめている。領域は、大きく3つに分けられている。「脳を知る」「脳を守る」「脳を創る」この3つである。自意識や認知システムの解明、脳の発達・老化システムの解明とその制御、そして意図や感情を理解するコンピュータ。これらが20年後の目標として掲げられている。
他にも、魚や鳥、昆虫といった動物の脳研究、そしてプリオンなども、極めて圧縮された形で紹介されている。現在の脳研究のやり方なども簡潔にまとめられているので、入門書、あるいはちょっとした(例えば新聞を読むとかする時の)リファレンスとして適している一冊といえる。パンフレット的ながら、とにかく見やすく内容を掴みやすい本。
どこか忘れたのだが、ある哲学を学んでいるらしい大学生のウェブサイトで、以下のようなやりとりが掲載されていた。曖昧な記憶なので(なにせURLも覚えていない!)詳細はご勘弁。
「哲学って何をやってるの?」と聞かれて、彼は「人がどうやってものを考えているか、とかどうやってものを感じているのか、考える学問だ」、と答えたらしい。そうすると、相手は「それって科学がやることじゃないの?」と言ったという。当然だ、と僕は思った。ところが。その哲学をやっている彼は愕然とした、というのである。そんなこと考えたこともなかったらしい。
もちろん、そんなことを考えてもしなかった彼の方がどうかしている、と僕は思う。現在においては、脳科学や認知に関する研究を知らずに哲学なんか語れないだろう。
前置きが長くなったが、本書は、哲学というより科学(だと僕は思っている)認知哲学を学習する上で必要とされる知識をコンパクトに吸収することのできる優れた一冊である。脳の世界表現・把握、視覚メカニズムをはじめとした感覚表現。絶えずフィードバックループする並列分散処理ネットワークとしての脳。そして人工ニューラルネットワーク、PETやMRI、MEG。失効症や知覚障害。還元性に対するネーゲルの「コウモリ」やサールらの反論。それに対する著者の反論。チューリングテストの問題点。言語。そして、新しい概念が自己概念に与える影響。この世界全般にわたって広くかつ深い考察が展開されている。
認知は不思議である。脳の視覚皮質が急激に破壊された場合、失明したことそのものに気づかないことがある。「見えない」ということを認められないのである。これら失明否認の人は、視覚皮質が破壊されてしまったせいで、入力の有無そのものを表現するシステムが消えてしまったのだ。だから「見えない」ということそのものが「分からない」。
我々は、複合された様々な認知空間の中で生きている。それを実現しているのはニューラルネットワーク、並列分散処理装置としての脳である、とチャーチランドは考えている(彼は人工知能はもちろん実現可能だと考えている。慎重な言い方ではあるが)。
「適切な感覚運動変形を遂行する能力」の中に、知性の起源はある、と著者は語る。チャーチランドは、知性はあらゆる生物の中に存在する、と考えている。「意識」の問題においても、人間と動物の間に大きな段差はないと考えている。では「意識」とはなんだろうか。彼に寄れば意識の「顕著な特徴」は以下である。
しかし、チャーチランドの最近(でもないかも)の考えは良く分かる。例えばデネットは、意識は並列分散処理装置である脳が、仮想直列機械として働くその過程そのもの、その流れが人間の意識となる、と考えているそうだが、これに対しても真っ向から反論する。こういう議論はやっぱり面白い。
最終章、神経工学の生活への影響に関しては、議論がやや乱暴。でも、ないと変だし、これだけで一冊は書けないだろうなあ。
哲学をやろうという人。脳科学について知りたいという人。我々の認知メカニズムについて知りたい人。これらの人は読んでおいて損はない。本としても面白かった。ただし、索引がいい加減なのは×。もっとしっかりした索引が欲しい。
追伸:
本文中で言及したページについて、稲葉振一郎氏からご指摘頂いた。そのページは
http://www.first.tsukuba.ac.jp/~aletheia/kuzu.html#kuzu2
であった。また、私は読み違いをしている、とのこと。
本そのものは、筒井康隆氏のピントの外れた<監修者前書き>にあるような内容ではなく(これは全くの不要。読む必要もない。だいたいなぜ筒井氏が監修者なのかも疑問)、実に面白い。
著者はインタビューを通して研究内容を端的にまとめて解説する。その分野は、科学哲学、宇宙論、進化論、複雑系、意識、人工知能など多岐に渡る。これだけ広い範囲に渡る科学の問題意識を露にしている点だけ取っても、本書には十分読む価値がある。
もちろん本書の内容はそれだけではない。著者は素朴かつ率直な疑問を科学者にぶつける。そして、いわゆる「大先生たち」の反応を見る。こうして、科学者達の思考スタイル、性格などをも生き生きと描写してみせるのである。彼は、科学者たちを、まるでマウスを見つめるかのように観察して、楽しんでいるのだ。
科学者と呼ばれる人間にも、いろいろいる。いい人もいれば、嫌な奴もいる。なかには本当に「鼻持ちならない」人もいる。この人はちょっと遠いところへ行ってしまっているな、というような人もいる。どこか世間とはずれているのだが、そのことに本人は気づいていない、という(比較的)軽症レベルの人もいる。いろいろだ。だいたい、人間の種類というのは、どこへいっても正規分布してしまうものなのだ。大御所と言われる人たちも無論例外ではない。本書をめくればそういう人間が出てくるわ出てくるわ…、で、実に楽しい。
著者は、現在の科学には「皮肉の科学」と呼ぶものが蔓延しつつある、と不安がる。一種のレトリックをコネ回す科学があふれているのではないか、多くの科学がそういうところに落ちていきつつあるのではないか、というわけである。これは、率直に言えば僕もそう感じたことがある。ひょっとして著者の不安も、「科学が終わるのでは?」ということよりも、こっちの方がメインなのではないだろうか。
しばらく「大発見」のない現在の科学が、なんとなはなしの閉塞感を感じさせている。この感覚は、科学に興味を抱いている人の多くが、なんらかの形で漠然と抱いているのではなかろうか。もちろん科学は積み重ねの学問で、そんなにバカスカ大発見があるはずはないのだが、こういった「なんとなくの不安」を、著者は科学者への質問に反映させたのではなかろうか。科学は、やることがなくなりつつあるのではなかろうか…、と。
科学の目的は、なんだろうか。真理を目指すことが、科学の目的なのだろうか。真理を突き詰めると科学は終わってしまうのだろうか。我々は真理に近づいているのか。到達する日は来るのか。だいたい真理とはなんだろうか。科学には「到達点」があるのだろうか。
「真理には到達できない」とか「真理に向かっているという証明は不可能だ」といった意見もあるだろう。だが私に言わせれば、これは「逃げ」に過ぎない。まさにレトリックというか、言葉の問題でしかない。では、科学者にはどうあって欲しいのか。
自信を持って「真理に向かって進もうとしている」と、語って欲しい。というか、自信を持って、そう語れるだけの研究をして欲しい。ある問題がある。その問題を解決しようとする方法論、あるいはその問題を解決していこうとする態度、過程、それが科学だ、と思うからだ。
また、「科学に終わりがある」ということと、「科学に到達点がある」という言葉との間には、意味の違いがある。少なくともその違いは、僕には決定的に思える。僕には、「科学の仕事」は、まだまだあるように思える。「究極の理論(そんなものがあるとしてだが)」を手に入れる日も、かなり遠く感じる。もちろん、著者もそう思っているのだろう。だが、不安にかられてしまったのだろう。それは何故なのだろうか。
本書と、「世界の知性科学を語る(日経サイエンス社)」を読み比べてみるのも、ジャーナリストを目指す人には、勉強になるかもしれない。本書のベースである「日経サイエンス(正確にはもちろんScientific American」誌の<世界の科学者>欄をまとめた本である。同じソースを違う文脈でまとめるとどうなるか、という実地のサンプルになる。
最後に、訳のことだけど。邦訳が出ている本の指摘が足らないのは、もういつものことだからしょうがないとして。それぞれの研究者達のしゃべり方の訳し方、これは難しいね。どう訳されるかでイメージが変わってきてしまう。本書の訳し方が良いのか悪いのか僕には分からないのだが、ティプラーが南部の人だからといって、「おら、アルコールもやらねえ!」はないんじゃないの?
植物は、敢えて動かないことを選択した生物である。それだけに、周囲の環境を利用することにかけては長けている。そのメカニズムを知れば知るほど驚嘆せざるを得ない。
もっとも、植物も全く動かないわけではない。周囲とのコミュニケーションも図っているのである。例えば二つの個体が接近しすぎた場合、どうなるか。なんと、植物は実際に触れあう前に近接個体を避けようとするのである。これは、フィトクロムが周囲の色を関知しているのだと考えられているという。
一方で、周囲の植物の生長を阻害する物質を植物が出していることも知られている。この作用は「アレロパシー」と呼ばれる。だから、松の下には何も生えないとか、そういうことがあるのだ。私事だが、中学生の時、僕の科学部での研究テーマはこれだった。毎日毎日ノギスで根の成長を計測していた。
閑話休題。
生息環境が擾乱されても、植物は逞しい。人間が森を切り開いても土地を人工化しても、無性生殖で増えたり、倍数体が増えたり、雑種を作ったりして生き延びる。
果実の話も、何度読んでもやっぱり面白い。どこからどこまでが果実なのか、どれが種子なのか。この手の本で「豆知識」を仕入れると、ついついそんなことを考えながら果物を食べてしまう。本書にはそのための刺激剤もたっぷり含まれている。単純な博物学の楽しみ・喜びにも満ちている。
冬の木の芽を向いてみたことはあるだろうか。中には緑の芽が入っている。周囲の「皮」のような部分が中の芽を保温して守っているのだと僕は思っていた。ところが、周囲の鱗片葉の役割は、実はそれだけではなかったのだ。気温が氷点下に下がりすぎてしまうと、いくら周囲を覆われていても、凍ってしまう。凍ると、水分が細胞組織を破壊する。それを防ぐために、中の芽は水分を全て外の鱗片葉に排出し、ドライフラワー状態になって耐えるのだという。春が来たら、再び中の芽に水分を戻すわけだ。鱗片葉は、貯水場だったのだ。
高緯度地方には針葉樹の大森林が多い。なぜ針葉樹なのか。針葉樹の仮道管の方が、被子植物の道管より凍結に強いためだという。どういう理由なのか。それについては本書をめくって欲しい。
植物は見れば見るほど驚かされることが多く、興味は尽きないものだ。いったんその魅力にとりつかれると、もう抗えないといってもいい。(P.174より)
超々高層建築と大深度地下利用。この二つの言葉、バブルの頃には良く聞いた。本書が描くビジョンはその残滓に見えるかもしれない。だが、どちらにせよ、この方向に推進されることは間違いないだろう。既に技術はあり、ニーズもあるのだから。平面に広がった都市から、立体都市への変貌である。
超々高層建築は、ビルではない。都市である。都市の建築計画なのだ。高さ千メートル、収容人工30万人のビルを東京の拠点に何本か建て、ノードとして利用しようというわけだ。それほど途方もない計画とは思えない。数万人を収容するビルは既にあちこちにあるわけだし、その延長上にあるものとして容易に想像できるからである。
とはいっても、これはやはり「ビル」とは根本的に違う建築物である。この「都市」は、絶えず建築され続け、補修され続ける。耐用年数は1千年以上。準備期間は最低20年。工期は10年以上。建設費は最低でも5兆円。500万〜600万トンの鋼材が必要になる(日本の年間粗鋼生産量の5-6%に相当)。そして、この技術を大きな需要のあるアジアへ輸出すれば一挙両得、というわけだ。なぜ高さが千メートルなのかというと、頂部と基盤部が同じ面積の場合は、このくらいの高さが限界なのだという。エピローグでは建築の夢として「東京バベルタワー」という1万メートルの建築物の構想が描かれている。
こういうのを建て、それによって空き空間を作りだし、ヒートアイランド・ダストドームを分断、緑地などゆとりある都市を作ろう、という計画である。本書で描き出すビジョンはバラ色だが、これを鵜呑みにできる人はいないだろう。これまで数多くの都市計画の類の失敗を実感しているからである。その辺をもうちょっと踏まえて欲しいような気もした。が、この手の本はこれで良いのかもしれない。ビジョンの提案が主題なのだから。
文章は一見固いが、実に読みやすい。多くの報告書などを書き慣れた人の文章であろうと感じた(著者は日本建築学会会長)。理路整然としている。本書のように2、3のセンテンスで改行を入れるのも報告書や企画書では常識だが、この「文章技法」を知らない人が多い。見習って欲しい。
ここではついでなので、私自身の考える未来の東京について、ちょっと書いておく。
未来の東京はおそらく、じわじわと巨大な建築物の中に呑み込まれて行くだろう。高層化を続ける建築物は、やがて、横へ広がり、一つの巨大な建築物になる。そして、人の溢れる空間になる。人々は「都市の人」と「都市以外の人」に、2極分化していく。都市に生きる人は、都市で生まれ、育ち、生活し、死んでいく。中国を思い描いて頂ければ、その姿を想像して頂けるだろうか。都市と都市以外の場所の違いはどんどん広がっていくだろう。
現在でも既に「東京から出られない人」がいる。そういう人は、東京がスタンダードだと思っている。実際には東京は、日本であって日本ではない。特殊な空間である。
正直いって、デネットが何を言いたいのか、何が彼の主張の本質か、読みとれなかった。言語に重きを置いていること以外は…。「最新脳科学論 心と意識のハード・プロブレム」に掲載されたインタビューの方がまだしも分かりやすい。「哲学的な意味における『志向性』とは、『なにかについてであること』である」。一部分だけ抜くと、余計なんだか分からないなあ。彼の書き方とは相性が悪いらしい。
この本に関しては、「訳者あとがき」にある以上のことを言えない。だから、もしこの本を買おうかどうしようか迷っているなら、「訳者あとがき」と読んで判断して頂きたい。デネットら哲学者の「役割」などに関する私の意見は訳者と同じだ。問題提起、つまり「問いかけ」をより鋭いものに研ぎすますことである。
この辺で勘弁して下さい、って感じの本でした、僕には。そのうち再トライしてみるかもしれないけど…。
パッチワーク、モザイク状になっているニューロン同士の「同期」による創発によって思考は生まれる、とカルヴィンは言う。そしてそれらニューロンの活動パターンは「ダーウィン的プロセス」によって絶えずダイナミックに変動する、という。脳の中の様々なニューロンの発火パターンが自分たちのコピーを作ったり、変異体をつくったりする。それらは競合し、絶えず選択される。
熱湯の中で絶え間なく生まれて消える渦のようなパターン。それらが思考である、というのだ。
彼はこう言っている。「心は、ある大脳コードがつぎつぎとクローンをつくり、他の大脳コードとテリトリーを争い、そして新しい変異をつくりだすなかから出現したのだろう」。
「最大のコーラスを奏で、出力経路に選ばれようとして優劣を競う、コピー競争」──これが「意識のモデル」である、と。最終章では、この考え方に基づいた人工知能がやがて創られるだろう、という予測を展開している。
彼は論理構成能力や言語が知性を生み出した、という考え方には反対している(この本をデネットのあとに持ってくるとは、このシリーズは、やはりなかなかやる(笑))。だが文法は、ある種自然に発生する、といい、そういう意味でチョムスキーに賛成している。文はみずから正しい文法を選んでいくというのだが、彼がここで持ち出してきた自然発生的な文法、というのは言語学から見るとどうなのだろうか。僕にはどうにも判断できない。そこまで言うなら、そういう機械を作ってくれとしか言いようがないな、と思うのだが…。
本書のペンローズとハメロフへの攻撃はすさまじい。本書の中で、何か恨みがあるのかと不思議になるほど、繰り返し繰り返し攻撃している。「私は、量子力学がある地下2階から、意識という最上階のの部屋へ飛び上がろうとするこの試みを『掃除人の夢』と呼ぶ」こんな調子である。
別にペンローズの肩を持つわけではないが、ここまでいうか、じゃあ自分は社長にでもなったつもりなのだろうか、と思わず考えてしまった。ただ、私自身もどちらに味方するか、と言われたら神経生理の人たちの方を持ちたい。
「意識を探求するうえで適切な着目点は、おそらく知覚や計画のレベルのすぐ下のレベルにある。つまり(私の考えでは)大脳皮質の回路と、切手サイズの皮質領域群がおりなす発火パターンの、ダイナミックな自己組織化のレベルが問題なのである」との意見に基本的に賛成だからである。ただ、「発火パターンの自己組織化」が本当に核心なのだろうか。読了したあとも、ここにはどうも納得がいかない(あるいは理解できない?)。
還元主義だと言われるかもしれないが、認知や知覚、感情など、「意識」なる曖昧な言葉で認識されている状態、これらが一体どのようなサブシステムから成り立っているシステムなのか、そこを丹念に詰めることが結局一番の近道であるように思われてならない。
というわけで、最初読む前は頭から最後まで、ひたすらコラムの話ではないかと勝手に考えていたのだが、そうではなかった。前半は二元論と一元論の話から入るのである。脳科学者としての二元論への反論から一つ一つ始められている。心や魂、自由意志の問題を研究史や哲学史を挙げながら触れていく丁寧な構成に、ちょっと驚いてしまった。ここの部分はコンパクトにまとまった二元論への反論の、一つの見本といえる。
<動物の心>の問題への意見も明快である。「私たちヒトの連合野と相同な連合野を持たない動物は、私たちと「相同な心・意識」を持たないことになるのである。そして私たちと相同な心・意識こそが、私たちがふつうにいうところの(あるいは、私たちが共通して持っているところの)心・意識とみなすべきなのだ」。なるほど、分かりやすい。その通りかもしれない(まあ、問題はその先にあるのだが)。ただ、進化の結果、相似的に別の脳領域が同じような働きを持つことは著者も否定しない。その場合は、機能的には似ていても、その根本原理は違うはずだという。
この考えに賛成かどうかは別にして、著者の考え方は実にはっきりしていて分かりやすい。これは本書全体にいえることだが、とにかく著者の立場は明快で、そういう面では実に読みやすい本である。
さて本題に入る。
認知科学では、モジュール性と階層性が心のシステムの特徴ではないかと考えられている。脳が心の器官であるという前提を認めるならば、それは、大脳新皮質がそのような階層性とモジュール性を持っているからだと考えられる。実際、脳科学の成果もこの考え方を指示している。つまり「心」は、物理的にモジュール性と階層性を持った器官の機能によるのだから、当然モジュール性と階層性を持つはずだ、というわけだ。
前頭葉にある前頭連合野。そのコラム群の動作・プロセス。それが自我である、と著者は推測する。著者は「自我モデュールは『中枢実行系』としての自己制御モデュールと『情報バッファ』としての自己意識モデュールから成っている」と主張する。
著者は自己意識とはワーキングメモリの特殊な状態の一つであるという。情報をオンラインにのせつつ、操作統合することによって自己意識が生まれる、という。
ボクには、ここがわからない。なぜその過程によって自己意識が生まれるのか。それがわからない。脳の中の物理的過程として、情報の入出力やメモリへのアクセス、処理の過程などが行われていることは当然として理解できる。ではなぜ、それが自己意識へと繋がるのか。絶えずフィードバックする情報処理の中で、どうしてそれが自己意識となるのか。これが理解できない。
当然、その情報処理の過程の何かに、秘密はあるはずだ。心とはどのようなプロセスなのだろうか。僕はそれが知りたい。
著者は(「言い過ぎ」だとしながら)「哲学者や思想家というのはつくづく『暇』だと思う」とまで言っている。哲学者の人たちは、どう考えるのだろうか?
のっけからこういうことを書いてしまったことから察して頂けると思うが、本書は地学事典片手でないと読めないタイプの本である。本文中の説明のみならず、図や写真も不足していて、とにかく分かりづらい。分かる人にしか分からないタイプの本である。というわけで、地学系の学生以外にはおすすめしない。少なくとも本書を読む前に、あれこれ地学系の本を読んでおかないと、この本は全く読めないだろう。
著者は深海探査艇で深海に潜り、海溝や海底地滑りなど、普通人には全く見ることのできない海底の様子を自分の目で観察している数少ない人物の一人である。それだけに、本書の(分かりづらい)内容は、残念である。とは言いつつ、私は本書のあちこちに印を付けながら読んでしまったのではあるが。うーん、もっと分かりやすく書けると思うなあ、この本は。
最後に本書の内容そのものにも簡単に触れておく。言葉の解説はしない。
本書の最後、著者は「日本列島礫岩論」なる言葉を挙げて、日本列島の構造をまとめている。「日本列島は沈み込みと付加、衝突によってできた巨大礫岩体である」と。また、島弧-海溝系の3つの区分を提案する。日本海のような「テクトニックエロージョンタイプ」、マリアナ海溝のような「蛇紋岩ダイアピルタイプ」、南海トラフのような「付加体タイプ」の3つである。なるほど、これは分かったような気になる。
これまで、陸の地質の研究と海の地質の研究はバラバラに為されてきたようなところがあった。今後、双方の成果が融合し、トータルとしての地質の理解が進むことを望む。
「のぞきみたいもの」としての人体。人の体内は隠されている。普通の人は、事故風景などを目撃しない限り、中身がぶちまけられるのを見ることはない。その隠された情景の開陳が公然と認められているのが手術の場である。
絵を描いていたころ、人を解剖したくなった(実際やってしまった)ダヴィンチの気持ちがなんとなく分かった、というのは昔も書いた通りで、私自身、人間の中を見てみたいという気持ちは今でもある。誰でも多かれ少なかれその気持ちはあるのではないか?肉体、ものとしての人体は、一体どのようになっているのだろうか?腱はどのように骨に繋がっているのだろうか。血管はどのように分岐しているのだろうか。脂肪はどのように肉を覆っているのだろうか。
それの開陳が、本来一般人には閉ざされた場である手術室で行われている出来事であるならば、なおさら覗き見根性は煽られる。我々は、知識としてはカラダの中にも肉が詰まっており、腸がうねくり心臓が脈打ちしていることを知っている。だが、実際に「中身」を見たことがある人はそんなにはいない。リアルな実感として、骨があり、内臓があり、血管があり、神経があることを「知っている」人は結局医者たちだけなのだ。「背中の空洞に脊椎があると頭でわかってはいたが、それを実際に見るとなると、まったく話が違う」のである。
著者は、脊椎を見てこう綴っている。
「わたしは自分が、これまでに見たもっとも親密で、もっともか弱く、もっとも非暴力的なものとともにあるのを感じた。脊椎はこれまで光を浴びたことはなく、浴びるはずもなく、しかしこの瞬間には光につつまれているのだ。最初の衝動は、唾をはくことだったと告白せねばならない。なんとか冒涜したいという衝動。自分のレベルまで引きずりおろしたい。もちろんそんなことはしなかったが、しかし、非常に貴重で、驚異的で、強力で、純粋で、耐え難い強烈さを持つモノと共にある感覚はぬぐえなかった」私は、これと似た感情を脳を初めて目の当たりにした時に抱いた。「これが人間なのか」と思うと同時に、「いったい『これ』は何なのだろうか」と思った。そこには、人間の尊厳なるものも、魂なるものもなかった。人を切り刻んでも魂は見あたらない。が、どこかにあるのではないか。より「内部」を覗けば、魂に近づけるのではないか。そんな気持ちがどこかにある。
それぞれの被写体は、それぞれの歴史を持って手術台の上に現れる。写真家はそれを撮る。切除された病巣さえも、それぞれの人体の一部である。切り取られたあとも自らの由来を語り、見るものに歴史を語る。ただのモノでありながら、ただのモノではない。まるで「人の残像」が、そこに残って焼き付いているかのように、何かを語り続けている。
本書の写真群を見て、あなたは何を感じるだろうか。著者は、肉体や我々自身、そして死を考えるためにテキストとなることをねらったという。
著者は、半ば自嘲、半ば本気(だろう)で、このように語っている。
写真家として、わたしはごくわずかな人しか興味を持たないような、あることさえ認めたがらないようなものを見てきた。わたしがもっとも好きなのは、暗い面なのだ。
バラは、牧畜や戦争の為に焼き払われてしまった荒れ地に繁殖していたと考えられるそうだ。その繁栄の初めから、バラは人間と関わってきたのである。そしてその芳香と油が、ギリシャ時代、ローマ時代に関心が持たれることによって、より深く関わってきたという。ローマ時代、バラは貴族にもてはやされた。皇帝ネロは部屋どころか、浜辺までバラで埋め尽くしたという。
やがて時代が過ぎ、ルネッサンスに至り、バラの多様性に目が集まった。様々なバラが作られ、鑑賞され、記録され始めた。その詳細は、本書にある。
内容は極めて専門的で、私のような門外漢にはあまり関心も持てなかったが、このような本は知らないことばかりなので、それなりに面白かった。
最後に。
著者はなぜか、ブルガリアのバラについて全く触れていない。ブルガリアは香水用香料の原料として、バラを大量に生産しているのである。その量は世界需要の7割を占める。まあ、園芸としてのバラ利用ではないが、栽培されているバラも改良されて作り出されたモノなのだから、少しは触れて欲しかった。断っておくが、別に僕はブルガリア大使館から何かをもらっているわけではない(笑)。
「確率モデルとは、いろいろなイベント(事柄)が、ある確率でランダムに起こるとして考えたもの」だ。ある複雑な、例えば多くの粒子が相互作用を及ぼしあっているような、その総体としての協同現象。そのような<現象まるごと>を把握することに視点を置く「粗視化の研究」には、このような「モデル」の考え方が必須である。細部は「繰り込んで」、全体を見るのである。
それぞれの粒子の構成要素は取りあえず無視し、粒子一つ一つにパラメーターを与え、その相互作用もパラメーターとして表してしまう。そうすると、システム全体の挙動が見えてくる。それぞれの要素そのものではなく、要素間同士の相互作用のみを見るわけだ。ここで、不思議なことが同時に見えてくる。一見何の関係もないシステムと思えたモノ同士が、同じようなモデルで表されることが分かってくるのだ。──磁石のモデルと森林生態系のモデル、伝染病伝播と侵透のパーコレーションモデル、これらが等価に扱えるのである。まるで関係なかったモノ同士が同じような挙動を示している──確率モデルの普遍性と不思議さ、そしてその明快さに、読んでいて胸がすくような快感さえ感じた。感動モノである。
「自然界には物事の詳細に依存せず、普遍的な振る舞いをする特別な状況というのが存在する」。上記が第一の普遍性であるとすれば、「臨界点のユニバーサリティー」が、確率モデルの第二の普遍性である。相転移における臨界点では、構成要素はフラクタルな構造を取る。構成要素は、部分を拡大しても、全体と同じような、自己相似形になっている。「自己組織化臨界現象」という言葉も、これまた良く聞くが、一体何を示している言葉なのか知りたい人は本書を読むべし。
抽象化と一般化、普遍化という方法を通して自然界を見る、というのが物理の醍醐味だろうと思う。それを一般人でも味わえる一冊。ただ、やっぱりこの手の本は横書きの方が読みやすいな、と思った(もちろん、比較的安価なブルーバックスで出してくれたことは有り難い)。
高校を卒業したばかりで大学入学間近という人、あるいは、大学に入ってわけが分からない物理の教科書を前に悩んでいる人、そういう人は本書を広げて熟読玩味しましょう。
「笑うカイチュウ」などよりも内容は専門的。寄生虫がどうやって宿主の免疫をかいくぐって生きているか、ということを知りたいなら、この本だけではちょっと理解は難しい。
ヒトのカラダの中にいる奴らは、寄生であって共生ではない、という主張に著者は、「良い」「悪い」は流動的であって、一意に決められないといい、とにかく「共に棲むこと」を指して共生と呼ぶべきだ、と提唱している。
この辺になってくると、どういう文脈で物事を捉えるか、という話になってくる。生物はある意味、周囲の環境の中でみんな勝手に生きているわけで、「共生」という言葉は嫌いだ、という研究者もいるわけだし。もっとも、生物学の場合、どういう「視点」を持つかが極めて重要だったりするのだが。
結局一番印象に残ったのは、本書冒頭、1966年、著者がフィラリア調査隊の一員として奄美大島にわたったときの話だった。その加計呂島にいた住人2万人の内、3分の1がフィラリアにかかっていたという。人々は象のように太くなった足をひきずり畑を耕し、家に隠れて大島紬を織っていたという。陰嚢腫大がひどくなり、働けなくなった人は「電気のない山奥の一軒家に追いやられ」ていたという。
1966年の時の、日本での話である。こういう話を聞くと、「ヒトとして」どうのこうの、というより、やはり「人として」どうしたこうしたという話の方が、ずっと説得力があるなあ。
内容に関しては目次のタイトルをご紹介しよう。
地球の外は空虚な真空ではなく、太陽が支配する世界である。荒れ狂う太陽が放つ高エネルギー粒子は地球磁場をも突き破る。宇宙時代の現在を支える人工衛星はもろにその影響を受ける。太陽フレアが発生するたび──正確にはその8分後──地球の高層大気は激しく擾乱される。その気温は通常の3倍に達し、大気は膨張する。その結果、低軌道を飛行する人工衛星は激しい空気抵抗を受け、寿命の低下や異常な動作に繋がる。これは太陽活動11年周期の極大期に起こる。
一方、活動が少し停滞した途端、地球の気候は激変する。過去2000年間のうち、太陽が不活発だった時代は3分の1に及ぶことが判明している。そのたびに飢餓が世界中を襲った。現在は温暖化が心配されているが、1940〜1970年頃には気温が低下し、氷河期到来が心配された。地球の気象と気候にこれから何が起こるのか? 答えは太陽だけが知っている。