閑話休題。
本書は、そういう毒を持つムシや、フグなどその他の生き物、そしてその毒──神経毒そのものについてのエッセイ。著者はこの道の専門家。
内容全体の印象は、あんまり良くない。全体に散漫で、中途半端の感がある。どうでもいいような内輪の話がだらだら続いたり、枝葉末節的な話が続いたり。素人向けなのに中途半端な説明のついた小難しい話があったり。もうちょっと、構成・要素を練ったら、多分もっと面白い本になっただろうな、という気がする。せっかく興味を引きやすい題材なのに、残念。
この本を読んでいると、例の、ベストセラーになった寄生虫の本が良く書けているのが分かる。
この本、最初はただの過誤治療や誤診に関する医学史本かな、と思っていたのだが、そういう本ではなかった。確かに前半部はそういう面も強いのだが、内容、そして示唆するところは極めて現代的。繰り返されてきた人間の浅知恵の失敗、そして<医者>と呼ばれてきた人々の所行の数々を挙げ、断罪する。
前半部分は輸血失敗談など、過去の話、といった感のあるトピックスばかりが挙げられているので(でも意外と最近のことでもあるのだが)、さほどの緊張感はない。それが、時代が間近になるにつれ、こんなことがごくごく最近まで行われていたのか、と愕然とする。挙げられているトピックスはどれも有名なものなのだが、著者の筆がうまいのだろう、実に「面白く」読める。
ナチの話題を筆頭にして、「片手にアイスピック、片手にハンマーを振りかざして」大量の患者の脳を治療の名のもとに破壊しロボトミーしたフリーマン、女性のクリトリスをハサミで切ってまわったベイカー-ブラウン、根拠もなく宗教のように自分の考えをかざしたフロイト、などなどなどなど。
医者といえども人間だ、という言葉はよく出る。まあ、それはその通りだ。みんな名誉欲や「手術欲」にかられて、「俺は正しい」と思いこんでやったのだろう。恐ろしいのは、人間の本性。思いこんでしまえば、どんなことでもできてしまう人間の本性だ。しかも、今となっては身体損壊や殺人としか思えない、そういった行為が、社会的に認知されてしまうこと、これが往々にして、あるということ。
こんなことを考えさせられる本だった。
蛇足だが、最後の「人間冷凍」の話はまさに蛇足のように感じた。
彼は、いまが、火星に行くチャンスだ、と語る。世界が閉塞感に鬱ぎきってしまう前、この今に。そして本書で、火星とは如何なる星であるのか、我々はどうやってそこへ行くべきなのか、如何にしてそこを植民し、第二の地球と化せば良いのか、説き、そして「それらは全て可能なのだ」と歌い上げる。
私は、こういう内容の本は大好きだ。文句なしで。磁場のない火星の地表で本当に人間が生活できるのだろうか、と思ったり、やっぱりコストは大問題だよな、と思ったりもする。が、私は、火星に行きたい。そして、火星で暮らしたい。火星をテラフォーミングする一員となりたい。
著者は、最後にこう語る。
「歴史を作るということはスポーツを観戦することではない。こんどはあなたが打席に立つ番である」
火星由来の隕石・ALH84001の中で発見された、生命の痕跡の可能性。これが、現在の地球外生命ブーム(そんなもの起こっていない、という声もあるかもしれないが)の始まりである。
火星には、かつて海があったと考えられており、35億年前、つまり地球上で生命が誕生したと考えられている時代(40億年)以降まで、その海は持続していたらしい。だから、火星では生命がいてもおかしくない、と考えられているわけである。
地球外生命の研究には、どんな意味があるのか。
「生命とは何なのか」、その普遍的なものを突き詰める問いかけとしての意味がある。
それはどういう意味なのか。
私たちは、地球の生命しか知らない。地球の生命は、全てDNAを遺伝暗号として使っている、一様な生命体である。見かけの、外見上の多様性はあるが、中身は全て一様である。我々は、液体-固体系の相を持っている、「我々のような生き物」しか知らないのだ。しかし、生命、というものは液体相のものしか考えられないわけではない。また、DNAを遺伝暗号として選んだことに何か必然性を発見しているのか、というと、それはないのだから、それ以外の可能性を否定できない。
著者は言う。
「そこでまず重要になってくるのは、「生命とは何か」という問題である。地球型の生命に関する知識に囚われず、生命の条件や可能性をあらかじめ考えることは、ET探しということに、直接関わってくる話である。生命論というと、ともすれば形而上的な論議と思われかねないが、それは違うのである」
だからこそ、私たちは、地球外生命について考えようと思うならば「他の生命の可能性」を考察しなければならないし、それは、<生命>の本質についての解答を求めることにも繋がる。
また、私たちは地球の生命についてさえ、よく知らないのである。生命がどのように誕生したのか知らない。なぜDNAが遺伝物質として選ばれたのか知らない。進化のメカニズムについて知らない。なぜ、我々人類が、いま、ここにこうしてあるのか知らない。知性とは何なのか知らない。
分子生物学の発展は、生命の本質を分子の相互作用の中に探し求める方向で発展した。その結果、生命と非生命との境界は曖昧になり、生命とは何なのか、新たな疑問を提出することとなった。
再び著者は言う。
「『生命にはこんな形もありうる』と考えていけば、その可能性は限りがない。そして、生命と非生命の境界線は消滅していき、悲観的な気持ちにさえなってくる」
だが、こここそが面白い点なのだ。
生命に、ありとあらゆる可能性がある。生命と物質との境界が不鮮明。なんと楽しいことか。
本書後半に出てくる強い人間宇宙論などにはちょっと、うーんと思ってしまうが、それ以外は(表紙から受ける怪しい雰囲気とは違って)至って普通の本だった。こういう本がこの夏にはいっぱい出てきて欲しい、と<楽しい科学>の好きな私などは、つとに思うのである。
「なぜ生物界に死が存在するのであろうか。いつから存在するようになったのであろうか。死は生物にとってほんとうになくてはならないものであろうか。死は避けることができるものであろうか」これがこの本の始点である。
哺乳類のアポトーシスは、腫瘍壊死因子(TNF)の発見がきっかけだった。細胞膜上のTNFレセプターにTNFが結合する。それが細胞への死刑判決である。実際の死刑執行は、ICE(interleukin-1 β converting enzyme)という名を持つ、タンパク質分解酵素が行う。こいつが、DNA分解酵素や細胞骨格を破壊するのだ。そして、破壊されたタンパクがさらに別のタンパクを破壊する、という風に玉突き的に細胞が破壊されていく、という。
こういう、細胞レベルの死や、テロメアといった生物学的な話が主だが、本書の特徴は、やっぱり別のところにあると思う。この著者の本のいつもの特徴だが、全体の視点、そして文章が、なんだか「優しい」のだ。一朝一夕では真似のできるものではないが、こういう文章が書けるようになりたいものだ…。
いまこの時代になってしまっては、動物愛護団体の人が読んだら怒り狂いそうな所もあるが、書き方は実にユーモラスで、まるでマンガを読むようだ。ゾウの内臓をみんなで悪戦苦闘しながら樽に押し込む話など、本当に笑える。
基本的にこういう本はみんな同じ様な構成を取っている。科学史的な話から入り、宇宙の年齢や、宇宙拡大の話へ行き、宇宙背景放射やCOBEによる「宇宙のしわ」、宇宙のバブル構造の発見などへ行って、ダークマターやインフレーション宇宙論へ行く。だいたいみんな、こういう構成だ。
この本もそうなのだが、全体的に言って、対象がどういうところにあるのかあんまり分からなかった。別に内容的には悪くないのだけれども、誉めるところもない。そんな本。
海がなんでもかんでも飲み込んでくれるわけではないし、いくらでもなんでも出てくるドラえもんのポケットではないことは、言うまでもない。この本の内容は以上なのだが、著者の文章の書き方は独特な印象。回想ドキュメンタリー・スタイルを貫き、フラッシュのように描かれる著者の心象風景の描写などが、映像的。
海中の植物は、水深871フィートの海山の上、光が海上の太陽光のおよそ0.0005%しかないところにも生えている、という。生命、その逞しさを、水中に著者は見続けてきたのだろう。
病気の実体への無知は、治療法の無知に直結する。身近な無意識にやっている習慣が実はアトピーの原因であったりする場合もある。
また、アトピー性皮膚炎を悪化させている理由の一つが、間違った治療にある、と著者は言う。皮膚は、一人一人違った個性を持っている。その個性に合った治療法が必要になる。つまり、患者一人づつ、適した治療法は違う。
アトピーの治療法の一つに食事制限があるが、著者はこれに反対する。食事制限をし低栄養状態になると体力が落ちる。それによって皮膚の症状が隠れてしまっているだけだ、という。
優れた皮膚科医は、皮膚を見て、内臓の様子も含めた患者の様々な病態を推測することができるという。逆に言えば、皮膚はそれだけ体各所の異常に敏感に反応する器官である、ということだ。皮膚は、全身と密接な関係を持っているのだ。
皮膚には10数種を超える常在菌が住み、pHは5前後に保たれている。つまり菌によるバリアーが作られているのだ。それをやたらめったら「スキンケア」してしまうと、逆に病原菌に入り込まれてしまうことになる。
人間が複雑な共生体であることが良く分かる事例だが、そういうコンセプトで、網羅的にしっかり書き込んだ本を誰か書いてくれないかな?
ペンローズは、実在論者である。どういうことかというと彼は、数学的世界、プラトン的世界、こういったものが、単なる道具、思弁的なものではなく、確固として実在している、と考えている。実在論者にとっては、理論とは純粋数学的なものではなく「実在」なのである。この辺りの違いについては、ペンローズとは対照的に実証論者であるホーキングとの対談形式の本「ホーキングとペンローズが語る 時空の本質」をご覧頂くか、本書をお読み頂きたい。これがペンローズの論の核心の一つなのだ。イメージだけでも捉えることが必須である。
もう一つの核心は、ゲーデルの不完全性定理である。不完全性定理とは、一言でいってしまえば、あるアルゴリズムには真理を決定できない命題が必ず存在する、というものだ。これについても、本書あるいは適当な本を読んで欲しい。彼は不完全性定理をもって、計算機には人間のシミュレーション(AI)は不可能である、と言った。コンピュータは計算可能なプロセスしか実行できないが、意識には計算不可能なプロセスが実行できる、と彼は言ったのである。詳しいことは本書。
ここまでも問題なのだが、ここからが問題なのである。人間の知性・意識が計算不可能な要素を持つ、ということは、そのメカニズムの中に、計算不可能な要素がないとおかしい、ということになる。彼は、波動関数の収縮を記述するには、量子重力論という新しい理論が必要である、と説く。蛇足だが私は、本書を読んで彼がなぜそういうことを言っていたか、ようやく分かった。というか、量子重力なるものが、なんのことを言っているのかも分かっていなかったのだが。量子力学でいう重ね合わせの状態、その重ね合わせ→自己収縮の過程、それを記述する理論が必要である、とペンローズは言っている、らしい(間違っていたら誰か教えて)。彼の考えでは、その収縮の時、重力が大きな役割を果たす、という。
さて、それが意識の問題にどう絡んでくるのか。彼はいま、麻酔医のハメロフによって刺激され、神経細胞中の細胞骨格を構成するマイクロチューブルがマクロなレベルで量子力学的状態になり、それが意識において重要な役割を果たす、と言っている(それを「調節された客観的状態収縮」とペンローズは呼んでいる)この点に関しては、はっきりいって根拠薄弱。この辺がどうなるかは分からない。
二人の訳者/解説者の文章には好き嫌いが出そうで、これが良いか悪いかの判断は人によるだろう。だが、その部分をさっ引いても、この本は読む価値がある。ペンローズが、どんな背景を持って例の本を書いたのか大体の所は分かるし、それに対してどういう反論がなされているのか(サイキ誌の議論など)、そしてペンローズがどう再反論しているのか、コンパクトに分かるからだ。
ただ、反論者たちの持つ背景についてはちょっと分かりにくい。それに対しては別の本がある。次回は、その本について書評する。ご期待を。
おまけ、本書に名が挙げられている本で、邦訳が出ていることに気づいた本が2冊ある。挙げておく。モラヴェック「電脳生物たち」岩波書店、ドレイファス(本書ではドリュフスと表記)「コンピュータには何ができないか」産業図書。
なお、本書は徳間書店Nature eye Scienceシリーズの一冊。徳間は最近科学書にも力を入れているようだ。
というわけで、予告どおり、ペンローズやチャルマーズらの意見提示によって始まった議論を扱った本、その2である。この本を読めば、それぞれの研究者がどういう視点でペンローズの意見に接しているか、一目瞭然である。収録されているインタビューはどれも読みごたえがある。以下の通りだが、これを見ればこの本がどういう本であるか、すぐに分かるだろう。目次からまるごと。
ノーム・チョムスキー、ダニエル・デネット、ヴォルフ・ジンガー、スチュワート・ハメロフ、デビッド・チャルマーズ、澤口俊之、アルウィン・スコット、津田一郎、ロジャー・ペンローズ、デビッド・ヒューベル、アントニオ・ダマシオ、J・アラン・ホブソン、メラニー・ミッチェル、新井康允、三上章允、瀬戸口烈司ほか。
国外の研究者の面々の名前が特に凄い。まさに錚々たる面々である。これだけの面子のインタビューがまとめて読めるのだから、この本は安い。
内容のことをあまり触れていないな。要するに、意識とはどうやって生まれるのか?といういわゆる「ハード・プロブレム」、そしてペンローズ / ハメロフらが提唱するところの量子脳理論に対する、それぞれの研究者の考え方を聞きだしたものである。いちいちまとめていくのは面倒なので(そのうちヒマになったらやるかも)、本書を読んで欲しい。
ただし、読むのはかなりしんどい、かもしれない(笑)。
僕もちまちま読んでいたのだけれども、一向に進まなくて困った。でも、読んで損はないよ。
虫でも昆虫でもなく、ムシ、としたのは、本書には昆虫以外のいわゆるムシについても触れられているから。英語のバグというのは、日本語のムシに近いそうだ。なるほど。
本書で取り扱われているのは、我々日本人の周囲の環境にもごく身近にいるものばかり(都会だと、必ずしもそうでもないかもしれないが)。チョウ、カ、テントウムシ、クモ、ブユ、ミツバチ、アメンボ、シミ、トンボ、ガ、キリギリス、アブ、カマドウマ。どれもごく普通の昆虫達だ。著者は、このごく普通の昆虫達の世界を「見る」ことを教えてくれる。
当たり前だが、「当たり前」に存在している生き物などは存在しない。どの生き物も歴史を持ち、この世の中で周囲と関わり合って生きている。陸・海(!)・空に進出している昆虫も、もちろん例外ではない。その進化史はもちろん、生活史も生態も良く分かっていないムシがいっぱいいるのである。しかも私たちの身近に。見方をほんのちょっと変える、いやちょっとだけ良く見るようにすれば、連中の不思議な姿が見えてくる。
チョウは5000万年前〜1億年前程度に、ガとの共通祖先から派生した。まさに当たり前に私たちの周囲にチョウという生き物はいる。だが、チョウとはどういう生き物なのか、端的に一言で言え、というと答えは見つからない。
昆虫の中には、ある時、多形性を発現させて普段は羽根のない種が羽根を持ったり、形態や色が変わったりする奴がいる。こいつらがどうしてそういうふうになっているのか、これも、結局のところの答えは良く分かってはいない。
変態は昆虫の一つの特徴だが、本書で紹介されているブユの幼虫・蛹の姿は驚きだ。イラストしか本書では紹介されていないが、その姿はほとんど宇宙的。アメンボを「ジーザス・バグ(キリストのムシ)」と名付けた奴は、なかなかのユーモアのセンスと観察力がある。シミは4億年前程度から形態を変えていない。「マイマイガ戦争」の話は、バグもののホラー映画そのものだ。
まあ、この本はいろんなことをあんまり考えずに、気楽にパラパラめくるのが一番合っている。
内容はほぼ副題どおり。ペンギンはやっぱり水中を「飛んでいる」のだ、といった著者の考えから始まり、ペンギン豆事典、生態、オスのディスプレイ、子育てと子どもの戦略、卵の「蹴り出し」行動、ペンギンの黒白コントラストの模様は何の役に立っているのか、頭の斑紋、ヒゲはなぜあるのか、そしてペンギンの進化について(ニュージーランドに4600万年前に出現した、という)、となっている。
それぞれの章の中で紹介される説には、ところどころ良く分からないところもあるが(特にペンギンの体の模様について)、概して楽しく読めた。
こういう形、自然にある様々な形──生物の形、空の雲、地形などなど──、その「形」が何故生まれるのか、何故その形になっているのか、そういう事を、「そのようになっているんです」と一言で片づけるのではなく、きちんと問わねばならない、という考えがある。これが形の科学である。
我々一般人の素朴な疑問でもある「かたち」。これを問う、というのはごく基本的な知識への欲求であると思う。(昔から問われてはいたが)発足したばかりだから当たり前だが、かたちの科学はまだまだ未発展。例えば、花がどのようにつぼみの中に折りたたまれているのか、こんなことも良く分かっていない。まあ、長く、ごく素朴な一般人の興味を引いてきた課題に、ようやく科学が挑めるようになってきた、とも言えるのかもしれないが。
さて、本書。著者は、「人間の感性」は「数理的な考察や自然の観察から形成され」、その基本には形の科学が横たわっている、と語る。で、その形の科学は、4つの分野──デザイン・造形、形態形成の機構、空間の性質、形態の計測──からなっている、という。
難しく言えばそういうことになるのだろうが、要するに「かたち」というキーワードで身近な謎をひっくるめて捉えましょう、という試みである、と私は理解している。本書は、その「形の科学」の入門書としては、かなりイケてる方だと思います。
私はこれまで「東京人」という雑誌は好きでも嫌いでもなかった。だが今回のこの記事を読んで印象が変わった。この雑誌は衒学趣味的な「知識人」と称する類の人々の為の雑誌であるのだろうか、と感じたのである。
私がこの記事の存在を知ったのは「SCIaS」誌・7/4号の「編集部から」を読んで、だった。ちなみに「サイアス」誌は本記事でボロクソに書かれている。「サイアス」誌の「編集部から」の一部を引用しよう。以下。
「合評諸氏は、科学誌を非常に狭義に理解されているようだ。『サイアス』は、表紙にうたうように「科学ニュース誌」であって、論文を第三者が厳しく評価するレフェリー側のもとで速さを競う学会専門誌ではない。新聞社の雑誌として、”時代の気分”を科学の視点で映し出す速報性を模索しているのだ。(中略)『東京人』編集部にも、この程度の認識と、他を切るときの緊張感を求めたい」
以上を読み、なんだなんだ?と思って早速目を通した次第。
できれば、まず当該記事を読んで欲しい。
が、取りあえず自分の感想はここに書いておく。繰り返しになるが、できればまず、記事を読んでから、以下を読んで欲しい。
まず、科学雑誌をあまり読んでいないと認めている人々を呼んで座談会をやる趣旨が良く分からない。まあ、別にそれでもいいのかもしれないが、それなら、そういう前提の上で座談会の方向性も持っていくべきだろう。
だいたい僕は「送られてくるもの」しか読まないような人の言うことは、はっきり言って全然信用できない。その程度で科学を取り巻く現状が理解できるとは到底思えない。実際、この座談会の出席者は一般の人の科学離れがどれだけ進んでいるのか、全く理解していないのではなかろうか。
それよりも何よりも、この記事で一番気に入らない点は、科学雑誌は一般読者・普通の読者対象というより「学際的な科学者の雑誌」というところに焦点を絞って作っていったらどうなのかといっているところ。これは岩波「科学」に対する提言なのだが(なお「科学」についての、対象が明確でないからあまり面白くない、という意見には賛成できる)、僕には、どうも彼らは他誌についても同様に思っているのではなかろうか、と感じられたのである。その理由の一つが、以下のような発言。
「だから、いわゆる科学雑誌も、大学などの図書館にあって、科学者が専門外のものをちょっと読もうとするには便利ですかれど、科学者以外で科学雑誌を読もうという人は、限りなくゼロに近いのではないかと思っています」
おいこらちょっと待ってくれと思うのは私だけか? 私は素人で科学者でもなんでもないが、中学生のころから科学雑誌を定期購読していた。そういう人のことを、この座談会出席者はまっっったく考えていないのか?
科学雑誌とは、サイアス編集部が言うように科学界のみを対象としているのではない。研究者のみが対象ではないのだ。なのに本座談会の出席者はその辺のことを全く理解していないようだ。ところが、記事冒頭では「非専門家に科学を伝える啓蒙の役割が欠かせない」とある。支離滅裂である。この座談会の出席者は、本当の「一般の人々」と接しているのだろうか? この点、大いに疑問を持たざるを得ない。
最後に、この座談会は日本の科学ジャーナリズムの質が低い、という。
無責任に「科学雑誌の健闘を祈りましょう」といった<まとめ>にするのではなく、だから自分たちも頑張ろうと思います、と、せめて言って欲しいね。そうは思いませんか?>皆様。
血管が運ぶのは、もちろん血液。そして血液は体中の細胞に栄養と酸素を送り届けている。だから、血管がないところでは、細胞は増殖できない。だから、ガン細胞は増殖する時は血管を「呼び込む」。そして、栄養をとって、増殖するのである。だから、逆に言えばその「呼び込み」を阻害してしまえば、ガンは増殖できない。
もう一つの血管を巡る話は、動脈硬化。その辺は、興味がある人が読めばいいとおもう。
本書のタイトルは、おそらく編集者が考えたものではなかろうか。内容を、端的に表して「いない」のだ。まあ、言いたいことは分かるけど。
あ、あと、それぞれの章ごとの見出しのレイアウトが「エヴァ」入ってる(笑)。このデザイン、僕も好きだから、別に良いんだけど(笑)。