「分かりにくい」と言ったのは、トランジスタの仕組みを描いた第3章。まあ、絶対的な分かりにくさというより相対的なわかりにくさではあるのだが、他のところと比べると、バサッと本質を描いたような形ではない。他のところがそういうスタイルであるだけに、残念だった。
ボース粒子とフェルミ粒子の存在・その違いを中学生にも教えるべきだ、という著者の主張には僕もちょっと同感。概念だけならこれほど単純な話もないのだから、さっさと教えておいたほうが、あとから何かと助かるのではないか。概念ってそんなもんでしょう。教えられてしばらくしてからの方が身に染みてくるものだ。
なお、スピンの強さが半整数で基本的な物質粒子であるのがフェルミ粒子、一方、スピンが整数で力を伝達する粒子がボース粒子である。「場の量子論」ではフェルミ粒子が相互作用するときはボース粒子をお互いに交換すると考える。またフェルミ粒子は同じ状態に二つ以上の粒子は入れない。だがボース粒子はいくつも入ることができる。こういう考え方だ。
実際、本書を読めば、中学生にも教えることは十分可能だと思える。つまり本書が、その程度に分かりやすい本だということでもある。かえすがえすもトランジスタの項がちょっと残念だったなあ。まあ、(繰り返すけど)比較の問題なのだが。最近のこのシリーズのなかでは出色の出来だと思う。
ミツバチは社会性昆虫の代表、といっても過言ではない。コロニーは協調して働く一つの社会を形成している。それらはいったいどのように構成・維持されているのか。機能的組織構成の秘密はどこにあるのか。それを探すのがコロニーの社会生理学だ。
ミツバチコロニーには計画中枢の類はない。中枢神経のようなものはない。各個体は別の個体から受け取った信号──尻振りダンス、身震いダンス、振動信号、食餌のタンパク、他個体発見の時間などなどに反応しているだけである。だがそれだけで、コロニーは見事なまでに内外の環境変動に適応する。
その様子を子細に観察するミツバチ研究者の記録。それが本書であるとも言える。
役立たずになると「リストラ」されてしまうハキリアリ、口も肛門もないチューブワーム、1000万匹が住むシロアリのアリ塚、4億匹のプレーリードッグが住む推定総面積6万1440平方キロ(四国+九州よりも大きい)巨大地下都市、哺乳類なのに社会性動物であるハダカデバネズミ、卵を育てるために力つきて死んでしまうタコなどなど。1ページに一つは面白い話題を詰め込んでいる。博学な著者の筆はいつも通り軽快だ。
でも金子隆一さん、これって手、抜いてませんか?
僕は読みながら大量に印をつけたのだが、面倒なので各章タイトルを紹介しよう。
余談だがこの目次が細かくてまた良い。
生殖技術を巡る問題のフロントが、ここに全て集結している。必読書の一つである。
インタビューのやり方も、そういう感じだ。「そういう」って何だよ、って言われそうだけど、要するにインタビュアーが「おお、それには感銘を受けます」と、やたらと答えるわけだ。
インタビューというのは基本的に質問であって、イエスマンになってはならない(特にTVだと、頷ける話でも聞き返したりする)。偉い人同士の対談やインタビューだと、こういう表現がやたらと多くなるのはなんとかして欲しいな。それと、最初から答えを予期した質問が多すぎる。この辺は自戒を込めて、書いておく。
一般読者を見下した表現がちらほら見えるのも気になる。多分、著者自身は全く気が付いてない、悪意のないものだろうけど…。
いうものの、インタビューを読むのが好きなら、それなりに楽しめるとは思う。インタビューの良いところは、相手の人柄やしゃべり方、そしてその下敷きとなっている考え方まで透けてみえることだ。その辺が好きな人は、読んでもいいと思う。
なお僕は「この人達はおめでたいなあ」と思う反面、これが科学の古く美しい姿かもしれないなあ、という気がした。世の中のこととか、一般学生のこととか、おそらくこの人達は実態をほとんど知らないだろう。それでもまあ、こういう人達が研究を進めているのも確かに本当なのだ。
でも、これで本になっちゃうのか、という気がしなくもないなあ。本書にはインタビュー相手の顔写真すらないのだ。
どうしようもないほどつまらなくもないのだが、面白いわけではなく、不満もいろいろある。なんとも言えない本。
「けれども、そのうちのほんのわずかな一部分──たとえば、動物と機械の境界や自然と人工の境界──に疑いがもたれるだけでも、わたしたちが日常の世界で扱い、互いに共有している理念上・実践上の区別の体系に大きな示唆を与えることになる」
原書が書かれたのが94年ということを考えれば、原書にはそれなりの意味があったのだろう。でも、今年になって邦訳された意味はよく分からない。今頃、哲学を語られてもなあ。通読した感想を率直に言えば、読んでも読まなくてもいい本、という気がした。
僕は、もっとはっきりした成果のほうに興味がある。人工生命が生命であるかないかとか、生物学にどんなインパクトを与えるかとか、計算するとはどういうことか、といったことは、その後についてくるものだろう。そんなことを知りたいなら、SFを読んだほうがよっぽど示唆に富んでいる。
もう「かけ声」は結構。もっと具体的な内容を伝えて欲しい。
著者がいうところの日本的自然観には何の根拠もないように思うし、「ネオ科学」や「土着科学」といった、著者の造語にもなんだかついていけないものを感じた。なんにでもかんにでも「科学」をつけて、「科学の相対化」という土俵の上にあげても意味はないと思うのだが。
率直に言って僕には得るものがなかったので以上。
著者は、生命体というシステムはハードウェアとソフトウエアから成り立っているといい、そして「生命体のソフトウェアを理解することこそ生命工学の基本問題である」という。そして生命体のアルゴリズムを解明し、そのデータベースを構築、「ものづくりのヒントを提供すること」が生命工学者のやるべきことだという。
この主張は、それなりに納得できるものだ。実際に、そういう形で新しいものづくりが始まっている。著者らも、コンピュータ上に<ヴァーチャル細菌>を作り、そのアルゴリズムを(化学的に構築するのはいまのところ不可能なので)ロボットに移し替えたりといった研究を行っているそうだ。
著者は「生命体のソフトウェアに学び、生命体とは違う手段によって組み立てられる生命体システム」を「人工生命体」と名付けている。生命体のふるまいをアルゴリズムにし、ソフトとして利用したものだ。
いわゆる<人工生命>とは違うもので、ややこしい。著者はいわゆる<人工生命>をこう批判する。
「人工生命」への関心が薄れた原因の一つには、生命科学の進歩に逆行するかのように生命体の仕組みをブラックボックスとしたまま理解しようとしたことが考えられます。生命体をシステムとして分子のレベルから描くことができる時代を迎えたにもかかわらず「人工生命」ではその知識はほとんど活かされなかったように思われます。少し厳しい言い方になりますが、生命体を外から眺めただけで進化や適応などという現象を表面的に真似てみたに過ぎなかったようです。この後、最適探索法の一つとしての遺伝的アルゴリズムの実用化を評価し、さらにコンピュータアートやゲームなどへの貢献は期待されている、と続けている。フォローに過ぎないのは明白。逆に言えば、遺伝的アルゴリズムを評価する以外は、特に成果を挙げていない、と言っているわけだ。痛烈な批判である。
では、著者らはどういう成果を出してくるのか。ここからが問題だ。
もう一つ、<あとがき>からも引用しておこう。
生命科学者が説く生命体の不思議さや面白さとエンジニアが組み立てなければならない方法と手順の間に存在するギャップが大きすぎるのです。工学系の人と、理学系の人のベクトルの差がよく現れている。そこらへんに興味があれば、一読してもいいかもしれない。内容はこんな感じです。
あるいは、一つだけを取り上げて、じっくり描き込むか。本書の場合、そのほうが正解だったのではないかという気もする。科学書は(本書が科学書かどうかは取りあえずおいといて)細かいほうが面白い。おそらく多くの研究者自身が自覚しているよりもずっと、研究の細部は外部から見ると面白いのだ。
さて本書だが。<講談社選書メチエ>は、表紙にその本の内容が簡単にまとめてある。本書の場合だとこうだ。
骨は情報の宝庫である。「平和の民」縄文人に残る戦闘の証。古墳時代の結核大流行。娼婦の八割を襲った江戸の梅毒。骨に刻まれた病気を読みとき、日本の社会構造を明らかにする。実に見事な要約だ。本書はまさにこういう内容の本である(江戸の梅毒の被害は娼婦だけに限定されないし、社会構造云々はちょっと違うような気もするけど)。
読後、印象に残ったところも、まさにこのとおり。実際の骨の写真も多数収録されている。どれも思わず息を呑むほど、はっきりとしたものばかり。日本がどんな時代を通り過ぎてきたのか、その点に興味がある人になら文句なくおすすめできる。一考の材料となるだろう。
問題は「では、それ以上の本だったか?」ということである。本書の場合、やや判断に迷う。著者は本文のあちこち、例えば<あとがき>では、こう言っている。
古病理学は単に古きよきレトロな時代のレトロな病気の懐古趣味を満たすものではない。それは、私たちが今日目指そうとする健康と疾病のあり方に直接提言していく知恵袋である。それは、江戸時代の梅毒の猖獗を今日のエイズに置き換えて今一度、考えることのできる教科書であり、日本人の高齢化社会で、今、何が起きているのか、病気を防ぐための手立ては何かを、骨の老化の時代的変遷を通じて、提示しうる指導書でもあるのである。なるほど、確かにそれが古病理学の目的なのだろう。なんとなくなら、分からなくもない。
その点が残念。もうちょっと、どこかをどうにかすれば分かりそうな気がするので、そのぶん余計に残念である。
きっとこういう本は、高校を卒業した子が大学に入る前に読むと良いのではないか。ちょうどその中間くらいの難易度だと思う。予めこちらが内容を予想しているからかもしれないが…。
表面、界面という言葉は誰もが知っている。この「表面」は、エネルギーを持っている。要するに不安定なのだ。その結果、いろいろな事が起こる。たとえば水の表面では水分子が空中に飛び出し、また戻ってきたりしている。著者の計算によると、水分子1個が表面に滞留できる時間は10^-7秒だという。
そのまた水の中では、水分子はクラスターを作っている。水が0℃から100℃までという広い温度領域で存在できるのは、このような構造を持っているから、というかこういう構造を取れるからだ。クラスター構造は10^-12秒で生成・消滅しているという。
このように物質は、マクロからミクロへ、ミクロからマクロへと交互に視点を転じてやると、実に面白い性質を持っていることが分かる。表面は、そのイベントが起こっている場所である。そのほか本書で扱われているテーマは、固体の表面、ぬれ、吸着、界面活性剤、コロイド、エマルション、洗浄など。
特に先端の話などが含まれているわけではないが、こういう本で基礎知識を復習するのも悪くない。
というか、解剖かくあるべしという哲学を説いた本、といったほうがいいかもしれない。解剖学がいまどんな学問になっているかは『解剖学者が語る 人体の世界』をお読みになって頂いたほうが分かると思う。
また、誰に対して書いているのかが、いま一つ分かりにくかった。一般への理解を求める本なのか、それとも大学生向けなのか、その対象が著者の中でもあまり整理されていないのではなかろうか。
解剖の歴史などに興味がなければ、特に読む必要はない。本書を読んでも、解剖とは何かなんてことは分からない。解剖を見せてもらえるわけでもないしね。
タイトルにもなっているエピソードはこうだ。
ハチクイの父親鳥は、成鳥になりつがいを作った子供に出会うと、新婚家庭を何度も訪問して巣作りを邪魔し、入り口に居座って、巣に戻るのを邪魔する。そして尾を震わし、くちばしをならし、優しい声で、「親しみと仲間意識」を示す行動をとる。そうすると子供は「約40パーセントの確率で」実家に戻って、新たに生まれた自分の兄妹たちの世話をする。
信じがたい行動だが、これだけではない。残された花嫁は、ただ座して待つわけではなく、卵が生まれていた場合、その卵を義理の両親の巣に紛れ込ませるというのである。
本書にはこういった驚くべき鳥の生態、最新の研究成果が多く含まれている。監修者曰く「日本では、あまり知られていないことも書かれている」そうだ。研究者から見てもこう読める本というのは珍しいのではないか。
その他にはシラサギのヒナ殺し(逆にカナリヤは末っ子をえこひいきしているらしい)、鳥の知能(鳥は3歩歩いたらなんでも忘れる「鳥頭」ではないというわけ。ただ、ここはちょっと誇張が多いような気がした)、マフィアのようなカッコウの托卵(托卵された卵を捨てると、ヒナが殺される)、ヒナの産み分けのできる鳥、磁場を実際に「見て」いるらしいメジロなどなど、ただ面白いだけではなく、生物学一般において広く問題として捉えられるべき話題が満載されている。
例えば、コガラの海馬は、毎年古い脳細胞が死に、新しい細胞がとってかわることが知られている。囀る小鳥はだいたいそうらしい。そうして新しい歌を覚え、餌探しの技術となわばりの地図記憶を更新していくらしい。
この話は、一つの疑問を抱かせる。すなわち「記憶の単位はどこにあるのか?」ということである。普通、「記憶の単位」はシナプスにあると考えられている。ではなぜ、小鳥たちはシナプスを繋ぎ変えるだけですませるのではなく、わざわざ神経細胞をまるごと取り替えるのか?分からない。
とにかく本書には「分からない」ことがいっぱいなのだ。
後半1/3は環境問題。例えば、ひとたび油にまみれたペリカンは、油を落としてケアしても、6ヶ月後には半数以上が死んでしまうとか。この問題の難しさを感じさせる。
意外な拾いもの──そんな本だった。
アフリカ最大の湖、ビクトリア湖には300種のシグリッドがいる。巻き貝を食べるもの、別の同類を食うもの、死んだまねをするもの、頭が右に曲がっているもの、左に曲がっているものなどなど多種多様。だが、ビクトリア湖が出来たのは、1万2000年前でしかない。シグリットを調べると遺伝子の差異は2,3しかないことが分かった。遺伝子はちょっとしか違わないのに、表現型が大きく異なっているのだ。かくしてビクトリア湖は「進化の玉手箱」と呼ばれるようになった。
また別の調査によると、シグリットは単系であるらしい。1億2000万年ほど前に、その起源は遡ることができるという。まるで「自分たちで場所と生態的地位を作りだしているよう」なこの生き物は、進化の研究上、注目を集めている。
他にも面白い特徴がシグリットにはある。「大きな縄張りを持ち、他のオスを寄せ付けない攻撃的なオスは、社会的勢力を持たないおとなしいオスに比べて、生殖に関わる視床下部の脳細胞が六〜八倍も大きいことが明らかになった」という。
しかも勢力争いに負けると、脳の大きさは急速に変化し、縮んでしまうのだという(本文ではニューロンの大きさとなっているが、これは間違いだろう)。そうして、繁殖能力や生殖欲求そのものも変わってしまうのだという。面白い。
その他、収録されている話題は深海、海の多様性の話など。
表題になっているグッピーの恋のかけひきとは、オスは、求愛に失敗したオスと群れる傾向がある、つまり自分を少しでもましに見せるように、自分より駄目なオスを連れ合う仲間に選ぶ傾向があるという話。
本当かよ。
現在の生物学は「地球生物学」の範囲に留まっている。だがもしSETIが成功し、宇宙に他の生命が存在すると分かればどうなるか。生物学は地球生物を相対化する視点を得る。「宇宙生物学」として、その範疇を一気に広げることになるのだ。もちろん、その衝撃は学問だけに留まらない。著者はヒトの歴史は「それ以前とそれ以降に否応なく分割してしまうに違いない」という。その通りである。
現在まで、予算と闘いながらも様々なSETIの試みが為されてきた。ここまでやったら、もうやることはあまりない、というところまで試みられている。だからこそ今日「それ」が起こってもおかしくないと言えるのである。だが未だETIの徴候は掴めていない。なぜか。ETIはいないのだというのが一方の人々の結論だ。 SF作家の中にも、ETIはいないのだと考える人がいる。たとえばバクスターは「我々こそが最初の知的生命体なのだ」と言っていた。だからこそ我々は宇宙に出ていくべきだというのである。SETIを考えることは、我々・地球に住む人々がこれからどう生きていくかを考えることに直結しているのだ。
本書にはない情報をいくつか追加しておこう。太陽系内地球外生命の可能性として注目を浴びているのがエウロパである。木星の氷の衛星だが中までカチコチに凍っているわけではなく、液体の水、つまり海が存在するらしいことが分かっている。なぜエウロパが内部凝固していないかについては、本書にあるように木星とイオの潮汐力も理由の一つだが、半径1569キロという大きさがもたらした僥倖にもよることが数値計算によって弾き出されている。とにかく各種の条件が揃うことにより、エウロパの氷の地殻の下には地熱によって暖められた液体の海が広がっていると考えられているのだ。これらは生命の可能性を夢みさせるのに十分だ。既に一部の研究者は実際にエウロパに探査機を降ろして調査する計画を立案している。それどころか、実際にエウロパに潜水艇を降ろそうと言っている連中までいる。詳細はWWW(http://occult.mit.edu/europa/)をご覧頂こう。もっともエウロパの生命は、仮にいたとしても「知的」ではないだろうが…。
SETI@home(http://www.vacia.is.tohoku.ac.jp/~s-yamane/articles/setiathome/home_japanese.html)というプロジェクトもある。インターネットを使い、各自のパソコンをシェアして、少しずつ計算をやらせようというものだ。そう、地球外知的生命体探査にあなたも参加できるのだ。
しかし文春新書、創刊・第一回配本にこんな本を持ってきて大丈夫か(笑)? 今後にも期待していいのだろうか。
なんのこと?って方々は、本書を買って読むように。僕からはとても言えませんので(笑)。
本書はジュゴンの観察ではもっとも進んでいる(?)鳥羽水族館の飼育記録。著者独特のユーモラスな言葉遣いと描写で、抱腹絶倒の一冊となっている。冒頭の話から始まって、やたらと絶倫の「ジュンイチ」君の「ダッチジュゴン」や夜這い騒動、スタッフの「危ない指戯」で放尿する乙女ジュゴンなど、下ネタ、品のない話も満載だ(笑)。
ジュゴンの生態は全くと言って良いほど分かっていないのだという。驚いたことに鳥羽水族館にジュゴンが来たときには、雌雄の区別法も食べ物さえ分からなかった。飼育係はいろいろと考え、試し、自分で食ってみたりもしながら、ようやくジュゴンの食べ物を見つけだした。
彼は「飼育技術者として最も大切なものは何か」という問いかけに、迷わず、「カン」と「自分で考えること」の二つを挙げたそうだ。著者はこれを評して「聞くは一時の納得、信じるは一生の勘違い」といっている。次々と問題が起こる現場では、これが一番大切だ、というわけだ。
一読すれば話のネタが増えること受けあい。もちろん笑える話のベースには、飼育係やバックアップの方々の苦労がある。
「人魚のモデル」と言ったが、彼らにとってジュゴンは「人魚そのもの」なのかもしれない。科学という面から見ると内容の踏み込みはちょっと甘く物足りない感じもするが、良い本だ。
98.11.09追記
…と書いていると、著者に見つかってメールを頂いた。ウェブからもこのようにリンクされている。
ときどき、いわゆる「大進化」に限定された考え方だと勘違いしている人がいるが、そうではなく、小進化にも断続平衡が見られるというのが断続平衡説論者の考え方である。彼らの根拠は化石記だ。化石では、確かに種は安定しているように見える。
本書はドーキンスらを「還元主義者」の「ウルトラ・ダーウィニスト」として敵視する著者が、その主張をねちっこく展開した一冊だ。著者は「静止」を進化パターンの核心だと考え、「静止」を成立させているものは「種選択」と呼ぶ過程によると言っている。これは「新たな種の生残率における偏り」を説明するためのもので、ややこしいのだが要するにこういうことらしい。「その生物が受け入れうる生息場所を見つけ続ける限り、自然選択は種を安定させるよう作用する」。
「種とは何か」という議論にもかなりの紙幅を割かれている。種の定義は生物の教科書に出ているほど単純ではなく、研究者によってバラバラで、中には種なんて実在しないという研究者もいるからだ(かなりいる)。エルドリッジは種は実在する、と断言している。こうだ。
私たちナチュラリスト、とりわけ化石の研究で経歴を積んできたナチュラリストは、種が現実のものであることを完全に確信している。種は「時空間的に限界をもつ歴史的な実体」である。種には始まりがあり、歴史があり、そして終わりがある。「限界」をどこに引くかもまた難しい問題なのだが…。僕個人は、たとえどのようなものであれ、「種」という概念が議論や研究を進める上で役に立つのなら、その間は使っていればいいのではないかと思う。この問題は非常にややこしく、僕ごときがなんだかんだ言える話ではない。要するに研究というモノは、「何」を研究しているのかということを常に頭に置きながら進めなければいけないわけで…、と、こんなことを言い出すときりがないのでこの辺でやめておく。
議論はあちこちに寄り道しながら進んでいく。中にはかなり面白い問題提起もある。「空いた生態学的地位がどのようにして種の分断化を誘導するのか、私にはどうしても理解できない」とか。
種の変化──進化がどう起こるのか。単にモノの見方の違いに過ぎないんじゃないかと思ってしまう人も大勢いると思う。だがその見方が研究者たちにとっては何より重大な問題なのだ。
でも個人的には(本書ではちょっと攻撃されている)分子生物学/発生学のほうに期待してしまうなあ。進化の話は、ホメオクラスターがどう組変わってきたのかとか、そういうところに中心が移りつつあるように思う。もちろん実際の歴史である化石は重要であり、そういうことを踏まえての話だが。
近い将来、やがて「話が見えてくる」のではないかと思うのだ。そのとき、断続平衡的に進化が見える理由も解き明かされるのではなかろうか、と期待している。
本としては非常にねちっこいしこの値段なので、パッとは薦められない。だが『利己的な遺伝子』などと対にして読むと、研究者としての著者の考え方の違いがはっきり分かり、非常に面白いかも。
以下は書評というより僕の独り言である。これまでウェブで書いてきたことの焼き直しになっているだろうとは思うが、一応ここにもまた書いておく。
人間に限らず、生物は代謝を行う。つまり環境に何らかのダメージを与えずに生きていくことは不可能である。だが、どこかで線引きをして「持続可能な社会」を作り上げなければならない。これまでの成長し続ける文明を維持すること、つまり拡大し続けることは不可能なのだから、というのが多くの環境論者の意見である。
これはつまり、「我慢」して生きなければならないということである。ところが人間は我慢が嫌いな生き物だ。一度知った贅沢はなかなかやめられない。「だがやめなければならない」そう言う研究者は多い。だが学術研究などはある意味で究極の贅沢だろう。それをやめられるのだろうか?
人間は矛盾の塊だ。その矛盾を抱えたまま、人口爆発によって自滅して散ってしまう。それもある意味では「是」なのではないか。自分だけは他の何を犠牲にしても生き残りたい。そう思って最後まであがきながら、でもやっぱり散っていく。その方が人間らしいのではないか。そう思うこともある。
でも「自然」を巻き添えにするのはいけない、そういう人もいる。だが自然はもともと何も感じない。人間が絶滅したところで、地球にとっては何の関係もない。進化が止まるわけでもなければ生物が絶滅するわけでもない。人間だって生き物の一つに過ぎない。だからいわゆる環境問題は、人類文明にとっての問題でしかないのである。そして文明が与えるダメージは、どんなに少なくしたところで0になるわけはない。人間はそのことに気が付いてしまった。
人間は、それでも生きていくための「何らかの理屈」を必要としている。文明の倫理といってもいい。
人間を守り続けてきた自然。その自然を利用し続け、文明を維持し発展させていくこと──僕には発展していかない文明を維持するという行為の意味が見いだせない──その方法は見つかっていない。僕は、この問題に対してはスタンスを決めかねている。そのスタンスを決めるために何か役に立てばと思ったのだが、残念ながらその答えは本書ならびにその延長線上にはなかった。
もっとも、一冊の本に解答を求めるのは無理なのだ、おそらく。「みんなで考えましょう」というのが本書を初めとする多くの本の著者の考え方なのだろう。だが本気で文明の未来を考えるならば、単に今までの生き方・あり方を否定して、問題を指摘するだけではダメだ。そんな時代はもう終わった。環境問題なるものが存在し、人類文明の未来を占うカギ(の一つ)がそこにあることは、みんな分かっている。
紙とインク、膨大なエネルギーが一冊の本にも費やされている。資源を節約せよと言いながら、それを言うためにもまた資源を使っているのだ。具体的提言をして欲しい。これからの本にはそう望む。
ま、基本的にはパラパラとめくって楽しむ類の本です。ヒグマに頭を囓られた漁師の話とか(この人は存命です、念のため)、全長110ミリもあるオオカミキリ、なーんにも人工物のないツンドラの風景とかは凄い。紫に染まったチョコト海の夕暮れなんて、一度でいいから直接この目で見てみたい。でも一度行ったら「もういい」って言い出すような気もする(笑)。
さて、科学書評を掲げる本ウェブとしては触れずにはいられない内容が、本書にもあった。
マンモスの話だ。93年、natureに「ヴランゲリ島のマンモスは、体高1m80cm、体重2tに小型化して、少なくとも3700年前まで生きていた」とする論文が出た。その続報があるのだ。なんでも、新たに発見したコビトマンモスの分析によると「卑弥呼の時代が終わり、大和朝廷が全国統一した後も、ヴランゲリ島で生き延びていたことになる」という。つまり、7世紀くらいまでマンモスは生き延びていたらしいのだ。正式な発表はまだらしいが、これは面白いニュースだ。
これまでの道路は、基本的に1930年代にドイツで建設されたアウトバーンをベースとし、その延長上にある。だが変革が求められていると著者らは言う。つまり「より速く走ること」を目的とした時代は終焉を迎え、これからはその時代が残した負の遺産──交通事故、渋滞、排ガスの問題を解決するための道路、知能道路と知能車が必要とされるだろうというのが本書の主張であり、ITSの理念である。
既に既存の車でもCPUが数十個積まれ、様々な制御に使われている。車は「タイヤをつけたコンピュータ」になりつつある。これからは、スタンドアローンのコンピュータがネットワークに接続されることでその役割やありようを全く変えたように、車と車、車と道路、車とさまざまな情報システムなどが接続されるようになる。
AHSはその基幹技術、概念の一つだが、安全走行、自動走行の二つが将来目標である。現在、路側に埋め込まれたLCX(漏洩同軸ケーブル)、路面に埋め込まれた磁気ネイルなどと、やはり様々なセンサーを積んだ車との間で、路車間通信を含め、様々な実道実験が行われている。
ITSは必ずしも遠い未来技術ではない。たとえば渋滞や交通規制などをリアルタイムにカーナビに表示するVICS(Vehicle Information and Communication System=道路交通情報通信システム)は、その一つである。
また、もうすっかり身近になってしまったエアバッグや急制動時のタイヤのロックを防ぐABSなどは、ASV(Advanced Safety Vehicle=先進安全自動車)プロジェクトの成果である。これらは既に実用化され、効果を発揮している。
ただ、本書でもたびたび言及されるTDM(Traffic Demand Managemnet=交通需要マネージメント)などを中心とした渋滞対策については、いささか効果のほどを疑わざるを得ない。ETCの普及などが多少の渋滞を解消することには繋がるにしても、結局のところ渋滞の根本原因は、車が多すぎることにあるからである。本書の著者らもITSによるバラ色の未来を歌いつつも、その辺は当然理解していると見えて、非常に微妙な書き方をしている。
まあ、どっちにせよこの方向には進んでいくのだろうが、いまのままの車社会では、どちらにせよ何も変わり様がないような気がする。