私は、統計あるいは熱力学、その中でも特に「可逆と不可逆」ということについて、どうも理解できていないことに今更ながらつらつらと気づきつつある今日このごろといった状態なので、プリコジンの言っていることをこういう薄い本でかけらでも理解しようというのは甘いのだ、と改めて認識させられた(笑)。僕は多分、この本の内容をほとんど理解していない。
ただ、大ざっぱにプリゴジンの考えを掴むだけならば本書で十分かもしれない。プリゴジンは「確率的な記述こそがむしろ実体である」と考え、不可逆性は粗視化による近似ではなく、熱力学的な系──示量性を持つ系──が必然的に持つ性質だと考えた。そしてそれによって時間の矢が生じると考えた。そしてそれこそがこの世界の本質であると。
彼はこれを延々50年間考えた。現代思想などに与えた影響は大きい。だが先にも書いたように、その考えの本質を僕は多分、全く理解していない。だから何とも言えない、というのが正直なところ。やっぱり真面目にみすず書房などから出ている彼自身の本を読まないとダメかも。
さて、本書の前半はプリゴジンの教育方針について書かれている。ここについてなら僕もある程度のことが言える。プリゴジンは、若い研究者──大学院生くらいにも、「本を書け」と言ったという。特に大部の本を。これは著者によると、「大きな流れ」、大きな視点で研究を捉えさせ、先を見据える視点を身につけさせようとしていたらしいという。そういう視点を、若い頃から身につけて、研究を行うことが必要だというのだ。僕は外野の人間だが、それは確かにそうだと思う。
そうは言っても…という人も多いと思う。著者はこう言っている。
研究することと本を書くこととはどちらかというと矛盾するところがある。最先端を走っているときには、論文を書くことに精いっぱいで、本にまとめるような余裕はない。論文と違って、特に本を書くということは、過去の仕事をまとめるだけでなく、十年先を見据えた思想がなければ読者には訴えない。名著というものは、むしろ論文では表現できなかった著者の哲学が語られているものである。(P.32より)僕がポピュラーサイエンスの本を読む理由も、ここに書かれている。全く同感である。
おそらく著者の狙いは、情報化社会の基盤を担う技術でありながら地味と考えられているところにスポットを当てたいということもあって、こういうタイトルをつけたのだろうが、この内容では逆効果かもしれない。資料としては使えるんだけど、大学生用かなあ、やっぱり。
本書の最後の方でちらと触れられる量子細線や量子箱の話は、物理的にも色々と面白いと聞いている。その辺をもうちょっと重たくする、という構成もあり得たのではないか。
さて本書は、遺伝子操作のモラルとエシックス──日本語で倫理と呼ばれているもの──を個別かつ総ざらいして問い直す本である。内容はごく基本的なところから始まり、論理的かつ丁寧に段階を踏んで論が展開する。ポイントはきっちり押さえられているし、しかも(この手の本にありがちな)嫌みくさいところがない。それどころか痛快と言えるくらいに明解で、実に快調に読めた。
先に挙げたようなモラルとエシックスの違いもそうだが、遺伝子操作が抱える問題を内在性と外在性に分けて論じるところなど、指摘や分析も非常に的確で、単なる知識だけではなく「論の進め方」や「問題の本質の指摘」といった事を学ぶ上でも勉強になる。遺伝子操作の倫理問題を論じたいのであれば、文句なしで必読の一冊である。引用してご紹介したいところもいっぱいあるのだが、ありすぎるのでやめておく。
ただ、通読しつつ感じたことなのだが、著者ら二人は基本的に遺伝子操作に賛成なのだ。もちろん彼らは、その事自体にも自覚的であるのだが(というより自覚的であろうとするために本書を書いたのだろう)、やはり基本的には一方的な論理展開であることが気になった。
僕自身、基本的に賛成の立場だし、科学者達がエシックスで遺伝子操作を論じたがる気持ちは分かる。だが『遺伝子組み換え食品は安全か?』の時にも書いたとおりで、要は理屈じゃないのだ。つまり本書で言うところの「モラル」に関わるところであり、問題は「エシックス」にあるわけではない。いや、モラル以前の問題かもしれない。倫理問題の難しいところは結局ここなのである。論理は通っていなければならない。当然だ。同時に、人の気持ちにどう沿わせるか、という問題もあるのだ。人の気持ちに合っていないもの、人が望まないものなど本当の意味で合理とは言えないだろう。
では人は何を望んでいるのか? これもまたややこしい。倫理というのは基本的に大ざっぱに合意された「従うべき道」のことだから、乱暴に言ってしまえば、その時々の人々の気持ちで、いくらでも変更することが可能である。人は何を望むのか? 遺伝子組み換えを巡る議論は結局、ここを問う議論でもある。
私はそれなりに遺伝子組み替えの是非をめぐる本を読んできたつもりだ。賛成派のものも反対派のものも読んだが、読む度に感じていた疑問が一つある。「科学者たちはなぜこういう本を書くのか?」ということだ。思うに「あなたのやっていることは間違っていません」「私のやっていることは正しい」という一種の自己証明が欲しいのではないか。本書ではそれが特に強烈に感じられた。こうして、絶えず個別に自己検証していくことが必要な研究、それが遺伝子操作研究なのだろう。
ああ、なんか普通に書いてしまった。やだなあ、こういうの。こういう議論は、もっと泥臭くやらなくちゃいけないはずなのに。本書そのものは良い本です。
ただ僕個人は『生物改造時代がくる』に続けて読んだせいもあって、なかなか興味深かった。お互いの議論がかみ合わない理由がわかったという意味において。おそらく本書著者からすれば、『生物改造時代がくる』での特許の話などは詭弁にしか聞こえないだろう。ただ、遺伝子操作をめぐる問題や議論について知りたいという人に対してどちらを薦めるか?と聞かれたら、僕は『生物改造時代がくる』のほうに軍配をあげる。そちらのほうが論点がよく整理されているからだ。ただ、本書のような意見があることも忘れてはならないと僕は思っている。
巻末、著者はこう結んで本書を終えている。
バイオテクノロジー革命は、われわれが心から信奉している価値観を鏡に映しだすようにと迫り、生存の目的と意味という究極の問題を深く考えさせる。このことがバイオテクノロジー革命の最も重要な貢献ということになるかもしれない。最も重要かどうかは別にして、この意見に反対する人はいないだろう。我々は滑りやすい坂をゆっくり上っている。注意深く足を運ばないと、何かの拍子に滑り落ちてしまうかもしれない。バイオテクノロジーは、注意すべきポイントの一つである。
公正を期すために、もう一カ所引用してご紹介しておく。
強調しておくべき点は、問題がテクノロジーそのものにイエスあるいはノーと言うことではないし、ずっとそうではなかったということだ。もっとも、科学界の主流派の多くは好んでこの問題をそういうふうにとらえ、特定のテクノロジーの展望に反対する人は反テクノロジー派だという印象を与えている。この意味で、彼らのテクノロジーに関する立場は科学に関する立場をそのまま映しだしている。いずれの場合も、未来に通じる「真の道」は一つしかないという原理主義的な考えをとるのである。
そうではなく、問題はバイオテクノロジーの世紀において、われわれはどのような種類のバイオテクノロジーを選ぶかということなのだ。(P.316)
ここで著者は、自分自身の科学者集団に対するステロタイプな見方、さらに科学者をグロスで捉える短絡を露呈してしまっているのだが、彼が言っていること自体は確かに正論である。
余談。著者はどうやら、現在の情報学メタファー、コンピュータメタファーで自然を捉える考え方や手法そのものが我慢ならないらしい。この辺りもそれなりに興味深いものだった。
でも山根一眞氏的におもしろい話がいっぱい詰まった本書みたいな本を見ていると、ボクなんかは残念で仕方ないのですよ。もっとおもしろく、人を惹きつけられるネタなのに、と思ってしまう。だから、その筋の人のネタ本としては良いんじゃないでしょうか。あるいは専門の方々が暇つぶしに読むとか。普通の読者にはすすめられない。
脳外科の手術や治療が、具体的に何をするのかということは本書で分かるが、それ以上の収穫は特になし。でもまあ、こういう本は、こういうものかも。
さて、本書の結論的な言葉を抜き出せば、サル、しかも類人猿ではなくいわゆる原猿と言われているようなサルにも「外界の事象と音声を結びつける能力があるし、随意的な発声によって群れの仲間とのコンタクトをとっている。またそこには、それぞれの種がおかれている環境の影響が色濃く現れている」ということになる。
著者によればワオキツネザルは、自種の警戒音を聞き分けるだけではなく、他種(シファカ)の警戒音をも聞き分けているという。どういうことかというと、シファカの対猛禽類警戒音を聞いたワオキツネザルは、空を見上げて警戒し、対肉食獣警戒音を聞いたものは木に駆け上るのだそうだ。群れて暮らすサルが、自分と同種の鳴き声を聞き分けるのはなんとなくそりゃそうだろうという気がするが、他の種が出す鳴き声をも聞き分け、活用している(敵から逃げる)というのは非常に興味深い話だった。本文では他のサルの音声研究の紹介もされているが、やはりそのような聞き分け能力を示す種類は多いらしい。このような他種の鳴き声の聞き分け能力は、熱帯雨林では別々の種の群れが集まって混群を形成することが多いことから監視役の役割分担が発生し、その結果として生まれたのではないかと考えられているという。
警戒音の進化については社会生物学的な考え方で説明されている。また音声そのものについては伝達の効率や生理的な発声がもともとのベースにあって、形作られていったのではないかという。そりゃそうだろうな。で、音声コミュニケーションはなぜ行われるのかという考察に入るという構成になっている。いわゆるコミュニケーションとは、(狭い意味での)情報伝達のみから成り立っているわけではない。
「テレプレゼンス」という考え方があるが、私は、その始まりはヒトが言語を手に入れたことがであったと考えている(『デザイン哲学としてのテレプレゼンス 』参照)。そのテレプレゼンスを実現する上で一番重要なことは、ある種の「雰囲気」のようなもの、現場の空気のようなものを伝達することである。つまり、いわゆるコミュニケーションという言葉の中で抜け落ちてしまうものを伝達することこそが、本当は重要なのだ。
なぜこんな、一見サルとは全く関係ないような話をするのか、第6章「音声による交わり」そして第7章「コミュニケーションと心」まで読了した方にはお分かり頂けると思う。コミュニケーションには、文脈情報が非常に重要な意味を持つのである。ヒトは「互いに発話者の意図を読みあう」ことでコミュニケーションを取っているのだが、その読んでいる情報には、きわめて明示するのが困難な類のものが、かなり大量に含まれている。その能力、他者の心の存在を理解し、他者の意図を理解する能力は、どのようにして誕生したのだろうか。そのためにはおそらく、コミュニケーションとはいったい何で、どのような要素から成り立っているのかということを、もっと考えないといけないように思う。ここには、まだまだ研究の余地がある。
ヒトの言語とサルの音声コミュニケーションがどのくらい連続性を持っているのか。著者は基盤のかなりの部分は他のサルとも共有されていると考えているようだが、どうなのだろうか。確かに直感的にはそんなふうに思えるところも多いようだし、本書で示されるデータはそれを指示しているようにも思える。だがそれでも、ヒトが使うような類の言語との差は、あまりに大きい。データの解釈にしても、こちらの思いこみの要素が大きいのかもしれない。この手の研究は非常におもしろいので、これからのデータの積み重ねを待ちたい。
しかしこのシリーズ値段高すぎ。なんでこんな値段になっちゃんだろう。
本書は、臓器移植と人工臓器埋め込みの二つをめぐるアメリカの状況を批判的に扱った本である。免疫抑制剤シクロスポリンの出現に始まった「移植ブーム」、それに続く慢性拒絶反応の発生率の増加(著者らによると移植腎の5割が10年以内に拒絶され、心臓の場合は3分の1から2分の1が5年後には拒絶されるのだという)。そしてジャービック型人工心臓の埋め込み実験など。そして臓器が商品化され、臓器提供のみならず、受け取り(そしてお返しをする)までもが強要されるのではないかと警鐘をならす。というか、本書はそこまではっきり主張されていないんだけど。著者らは漠然とした不安感と違和感、おそらく理屈ではないもやもやとした感覚に突き動かされているように思えた。
本書の重要な特徴は、臓器移植という医療そのものが、ある種非常に「アメリカ的」だ、という考え方の元に描かれている点である。アメリカ的とは単に商業的であるとか、医師たちの名誉欲のもとに進行しているということではない。「臓器置換のフィールドは今日、アメリカのヘルスケア・システムや、私たちの社会の文化の価値・信念の体系に見られるきわまえて特異で強力な傾向の縮図である」。どういうことかというと、「限界を認めない」ということらしい。つまり、死や老化はとにかく悪であるという考え方に凝り固まっていると。そしてアメリカの医療は「ここでよし」とすることができなくなっていると。
これだけでは雰囲気がうまく伝わらないと思うので付け足しておく。上記、神保実『脳外科の話』に、インフォームド・コンセントというのは医療への不信ももちろんあるが、訴訟社会アメリカの性質をよく表しているという記述があった。つまり「確かに説明しましたからね、あとはあなた方がどう決めようがそれはあなたの責任ですよ、私は知りませんよ」というのがインフォームド・コンセントの一面だというのだ。それと似たような意味で(というか似ているのは雰囲気だけだが)、臓器移植はアメリカ的な医療であると著者らは考えているようだ(そして日本は、それを輸入しているわけである)。
著者らは人工心臓埋め込み手術が、「英雄的」で「果敢な取り組み」であったと考えられていることを指摘する。それらは「道徳的にコントロールされた科学とテクノロジーの成果」であり、人工心臓を埋め込まれた人々は「パイオニア」として、非常にアメリカ的な人物として捉えられていたと。この背景には、アメリカ的な「市民宗教」があるとしている。アメリカの英雄、というアレだ。なるほど、確かにそういう一面は良くも悪くもあるのかもしれない。確かに、アメリカ的な医療というのはあるのかもしれない。
彼らは、移植医療をやめろと言っているわけではないと主張している。だが、そうは言えませんが、というのが本音ではなかろうか。どうも著者らが言いたいことは本書の中で引用されている、ラムジー『人としての社会』という本の中の一文に集約されているようだ。引用の引用。
「唯一の希望」が失われたとき、現代人ならもはや、これが希望の終わりではないと信じることはできないだろう。しかし、そうだとしても、ソクラテスの次のような確信なら共有できるかもしれない。「今や、我らは行かねばならぬ。我は死へ。汝らは生へ。だが、生と死のどちらに、よりいっそうの幸福な前途があるか。これは神のみぞ知ることだ」。このような人生観でも、切ったり縫ったりすることで永遠の生命にいたる道を得ようとする勝利者の誘惑から、今日の人々や医師を救ってくれるかもしれない。要するに、粛々と死を受け入れよ、ということか。
以前も書いたような気がするのだが、どこまでやるべきなのか、という議論は非常に難しい。諦めろと言われて諦められるような人間の命はない。本書で登場するアメリカの医師たちにしても、画一的ではない。たとえば遺体からの移植には積極的で非常に大胆な医師が、生きている人からの移植(腎臓など)には反対だったりする。人の倫理観というのは本当にバラバラだ。まとまることはないだろう。だが、どこかでコンセンサスを作らなくてはいけないのが社会というもの。本書でも最後には社会がどこまで負担するのかという問題が指摘されている。まあここには健康保険に入っていない人も多いアメリカの医療独特の問題があるのだろうが。
日本はこれからどこへ行くのか、その参考の一つとして本書のページを繰ってみるのもいいだろう。でも一番重要なことは、他の事例を知ることではなく、自分は何をしたいのか、どう生きたいのか考えることであると思う。
敢えて一つ言えば、タイトルと内容の乖離だろうか。タイトルからだと遺伝子治療の倫理問題を扱った本のように思えるだろうが、そうではないのだ。遺伝とは何か、ということから、遺伝子とは何か、DNAとは何かという基本的なことを教える、ある種のパンフレットのような本である(だからそういう本として読まれるぶんには良い本かもしれない)。本文中にインフォームドコンセントについて触れられている箇所があるのだが、本書そのものが、インフォームドコンセント(あるいはインフォームドチョイスか)のために書かれたのではないか、という印象を持った。
もちろん最後は遺伝子治療でまとめられている。
うむ。以上、っていう感じの本なんですが、これ。
とにかく内視鏡のことしか書かれていないので、内視鏡について知りたい人は資料としてぜひどうぞ。内視鏡に興味のない人には用はないかも。僕は超音波内視鏡なんてものがあることも知らなかったので勉強させて頂きました。
ま、知らない話や面白い話もあった。「イエスの時代の食事は“最後の晩餐”に画かれたように食卓に座っていたのではなく、食物を置く台を中心にして放射状に横になって食べていたようだ」とか、モーセのあの話は、ウシノシタというカレイの分泌物を利用してサメを避けることを知っていたイスラエルの人々と、それを知らずにサメに食われてしまったエジプトの軍隊の話かもしれないとか。
著者は「日本の原子力開発利用体制の展開過程」を5段階に分けて論じている。
一方、世界の原子力開発利用体制については、以下のように区分している。
基本的にこの二つの区分を重ね合わせ、それぞれの境界となる事件やイベントを通して見ることで、原子力利用の歴史の流れを見通そうとした本である。単に点と点でしかなかった各イベントが有機的に結びつけられており、うん、勉強になりました。
臓器移植に興味を持つ人は、ほっといてもこういう本は読むでしょう。
書かれている内容については、まさにそのとおりでございます、という感じ(だからそういう考え方を仕入れるには良いかも)なので、そのぶん余計に残念だった。
たとえば指のケガなどで、骨が残っている場合は腹の皮膚を使って筒状の皮膚弁と呼ばれるものを作り、その中に指を突っ込んで、指の形を作る。もちろんこの指には感覚はないが、とりあえず指の形を作ることはできるのだという。紹介されるトピックスを追っていると、医者というより「再建屋」という呼称がぴったりだ、という気がしてくる。誤解の内容に付け加えておくと、それほど工夫が要求される仕事であるという気がする、という意味だ。
本書の主題は、医学の中でも特に技術が要求される話だろう。まさにブラックジャックもかくや、といった話がバンバン登場する。最近では技術の進歩で形態の再建はだいたいなんとかなるようになったらしい。だが、機能の回復まではまだまだ難しいことも多いそうだ。しかし、技術の進歩は早い。近い将来、各種人工臓器が発展してくることを僕は期待しているのだが。
本書は、ヒトは他の種とは違う、という話から始まる。著者は、ヒト以外のあらゆる種は、ヒトが使うような記号システムを持っていないし持つこともできない、という。つまり著者は、動物のコミュニケーションと人間の言語との違いは単純か複雑かといったものではなく、根本的に違うものだと主張する。動物は「記号レファレンス」を持たないと。平たく言えば著者は、動物はある音声とものを直接連合することはできるが、語の意味を理解しないと考えているようだ。
言語に対する著者の考え方はユニークだ。言語は「直観的な、ユーザー・フレンドリーなインターフェイス」だという。言語の学習がヒトにとって容易なのは、言語そのものがヒトの学習のクセに合わせて自分で自分をデザインし、自発的に変化していくからだという。つまり言語文法も収束的に進化していったと考えているようだ。そして言語は脳に適応し、脳は言語に適応した、と。
では、ヒトの脳波なぜ記号学習が可能となったのか。著者によればヒトは「前頭前野の過剰発達によって」、「言語と記号学習のサバンになった」存在だということになる。ただ、具体的に何がどうなのか、ということについて著者はほとんど説明していない。
あ、家畜の脳は一般的に小さい、そして霊長類の見かけの大脳化は実は身体の矮小化なのだ(霊長類胎児の体の成長は相対的に遅い)、という話はトピックスとしては面白かったかな。ところでこの話、本当なのだろうか。本書ではグラフも示されているのだが。