「『只今』の『時』」…。これは、重複だろうか?
今とは、時間とは、一体なんだ…?
本書は、分かりやすいけど難しい。誤解がないように先に言っておくが、著者は本当によくやっているし、この本は良く書けた本である。これ以上、時間について分かりやすく考察し解説するのは至難の業だろう。しかし、もともとが難しいから、やはりどうしようもない、のかもしれない。
訳者の林一氏には本当に感服する。よくこんな本が訳せるもんだ。さすが、凄いよねえ(林氏の他の訳書には「ホーキング宇宙を語る」「皇帝の新しい心」などがある)。
時間についての考察は、生物学からみたもの(あるいは心理学。我々は連続した時間を知覚しながら生きているわけではない。当然生物学的な限界もある。一部は本書にも触れられている。「知覚された世界は一種の再生なのである」し、「今」という瞬間は「瞬間」ではない)と、物理学からみたものがある。
本書の主な内容は、もちろん物理学からみた方である。アインシュタイン以来、時間は「ただ単にそこに存在するもの」ではなくなってしまった。話の流れは基本的に今世紀の科学史。アインシュタインやファインマン、ホーキングなどの考えをなぞりつつストーリーは進み、物理からみた、時間についての一般的な理解を説く。
「時間の矢」と「時間の流れ」、そして「現在」。「今」とはいったい何なのか?どこにあるのか?時間は本当に「流れて」いるのか?あるいは「流れて」いるように見せているものは、一体何か?我々の知覚?それとも素粒子の中にその秘密はあるのか。「あそこの時間」と「ここの時間」は同じものか?時間は「いつ」生まれたのか?
そもそも「時間」は本当にあるのか。客観的な時間というものはあるのか?時間は、我々の心が生んだ幻想なのだろうか?
いま現在は、誰も、時間の秘密を解いていない。
著者は、カオス理論と量子力学が時間の謎の解明に大きな役割を果たすだろう、という。
確かなことは「時間とは何ぞや」という問いは、いまやほぼ完全に、哲学のものではなく科学のものである、ということだ。私はそう思う。
著者は、一般人にはややこしい物理を伝えるのに、「架空の懐疑主義者」を設定、その人物が適当に茶々を入れながら進んでいくという手法を選んでいる。このおかげで、話の流れには、ついて行きやすくなっている。でも、やはり時間の話は難しい。私は何度も何度も、本文を行きつ戻りつしながら読み返してしまった。相対論、量子論は物理学の世界では既に古典だが、そこから弾き出された時間についての考察はいまだ古典ではない。おそらく今後も長い間、謎として残り続けるのだろう。
時間…。
本書は、一見こんなに身近に感じられるものが、実は如何に不思議なものなのか(そして我々はその「中で」暮らしている)教えてくれる本。内容は確かに難しいのだが、非常に面白い。是非読んで欲しい一冊である。
また、他の様々な科学書──ボーム「全体性と内蔵秩序」、ペンローズ「皇帝の新しい心」などなどを読み込む上での参考書にもなると思う。
なお、デイヴィス自身の他の本としては「宇宙最後の3分間」などがある。これも本書の内容とも関わっているので、興味のある方はどうぞ。
おまけ。
ブラックホール──光が脱出できない星について述べたのはラプラスが最初だと思っていたが、本書によると1784年、ジョン・ミッチェルというイギリス牧師の論文が最初だという。
内容は、タイトルから検討がつくだろう。今の健康や生活に関わる商品は、科学、中でも化学製品の塊だ。そんな各種製品の開発ものがたりである。「企業で開発研究をめざす人たちへ」と表紙にはある。
紹介されている製品は、アロンアルファから始まり、紙おむつ、使い捨てカイロ、形態安定シャツ、携帯しみとり、ゴキブリホイホイ、通勤快足、鉄骨飲料、スーパードライ、ポカリスエット、メイク落とし、防ダニ布団カバー、固めるテンプル、水不要のシャンプー、ソフトコンタクト、歯磨きガム、などなど全部で35。それぞれ開発企業の担当者が寄稿している。
文章は、そのせいか、やや硬め。インタビュアーが苦労話を聞く、というスタイルの方が分かりやすかったかもしれない。とにかく、話のネタになる本だ。商品開発のきっかけ、アイデア発想からマーケティング、具体的な製品開発、商品化への道の苦労話の数々。面白い。
一冊通読してみると、共通点がある事に気づく。誰が読んでもはっきりしている共通点は、以下の通りである。
諦めないこと、ビジョンを持つこと、基本に返って考えてみること。
これが商品開発には必要らしい。
この記事全体についての感想と欠点とそれなりの有用性については1巻目が出たときに書いたので、そちらを読んでいただきたい。今回は、本書全体がなんとなくものたりなく思える理由、今回2巻目を読んでいて改めて思ったことを書く。
この記事の主な目的は紹介なのだが、それが本当に単なる紹介に終わっている。批判的な視点があまりない、というべきか。読んでいると、なぜここでもっと突っ込まないかなあ、というところが随所にある。それでいて例えば人工知能などの記事だと、あいも変わらず「将来人間にとって驚異になるのでは?」といった下らない質問が投げかけられているのには閉口。いい加減に、そういう新聞購読者を莫迦にしたような記事はやめて欲しいものだ。もっとも、僕は新聞取ってないから文句言う権利はないのだが。考察も甘い、甘い、甘すぎる。どこかで聞いたようなことばかり。
気楽には読めるんだけどね…。
本書はAERA MOOKのいつものシリーズ。構成も同じで、研究者達からの研究紹介、フィールドの実際、動物学とは何かといった考察、現代のトピックス、将来の課題、動物倫理、キーワード解説、ブックガイド、大学・大学院一覧等から構成されている。
本としては好き嫌いもあるだろうが、これだけ色々な著者による文章が詰め込んであれば、逆に好きな研究者に会うこともできるだろう。私は、電話でお世話になったことはあるが、会ったことはない、といった研究者の方々の写真を拝見でき、それで結構満足してしまった。勝手な思いこみだが動物をやっている人たちって結構良い人が多く、実に助かったものだ(^_^;)。
日高敏隆氏は、動物学とはナチュラル・ヒストリーであると語る。ではナチュラル・ヒストリーとは何か。ナチュラル・ヒストリーは近代、記載に過ぎないとして虐げられてきた。このような状況は、生物学だけではなく地学などでも同様であるが、ナチュラル・ヒストリーの本質は記載に留まるものではない。氏はファーブルを引き合いに出し、こう続ける。
「しかしナチュラル・ヒストリーにおいて、その「なぜ」は、「その虫にとって何なのか」ということの問いかけである。主体である生きもののある動作、ある行動、あるふるまいなどが、その主体にとって、どのような意味をもっているのか、ということである」。
つまり、ナチュラル・ヒストリーの問いかけ・問題提起は科学の原点的なもの、出発点なのだ。「なぜなんだろう?」と思う、その疑問、それに何らかの解答を求めようとする心がそこにはある。これは必ずしもナチュラル・ヒストリーが単純な、近代以前の科学であることを示すものではない。「動物たちの示すさまざまな生物現象にはさまざまな側面があり、そのおのおのにメカニズムがある。そのメカニズムの解析がなければ一つの現象とて理解することはできない」。「主体を中心としたものの見かた、そして主体にとっての意味という、その価値観」が今日再び注目されていることは、言うまでもない。「個々の動物そのものを主体とした研究」が求められている。
大きな空間的広がりを持つこれと、DNAや遺伝子研究、そして進化という時間軸との交差点、ここに、ここにこそ本当に面白い成果がある。
→他の書評
ダーウィニズム、と言われているものの多くの主張は、ダーウィンが本来考えていたものと離れてしまっているだろう、という。また、ダーウィンの、というより進化論は相変わらずいろいろと誤解されている。本書を読むと、そういう「誤解」は、ダーウィン存命中から既に生まれていたのだ、ということが分かる。
生物学、というのは、実に世の中の影響を受けやすい学問だ。これは、今日もあまり変わっていないように思える。研究者も時代の子であるから、時代の影響を受けるのは、当たり前ではあるのだが。ヴィクトリア期に発表された進化論も、もちろん例外ではない。というより進化論はその典型的な例かもしれない。進化論が受け入れられたのは、科学的な論証によって、というよりは政治的な根回し、あるいは雰囲気づくりによるものであった、という。実際、ダーウィンが「種の起源」の発表の時期を注意深く待っていたことは有名だ。
その後、ダーウィンの理論は一種の革命を起こしたのは間違いない。そしてある一定の支持を受けるが、その「支持者」達も、必ずしもダーウィンの考え全てに納得・賛成していたわけではなかった。やはり方向のない進化、という考え方はなかなか受け入れられなかったらしい。彼は高名な生物学者となったが、それは一種の象徴としてであった。また彼にとっても、やはり「神」の存在は大きかった。
本書は、ダーウィンの生涯を簡単になぞりつつ、進化論の発表とその周辺事情などを記したものである。正直言って、内容は科学史に興味がない人には退屈そのものかもしれない。文章もなんだか眠たくなる。ダーウィン、そして進化論の歴史に興味がある人にはお勧めできるが、そういう人はこの本にあったようなことはもう知ってるんじゃないだろうか、という気もする。というわけなので、ここらへんで筆を置く。
本書のキーワードは二つ。「泡」と「渦」。
泡に関しては、早川文庫にもなっている「泡宇宙論」あたりでもお馴染み。エネルギーを内包した泡、その泡が銀河から噴き出し、さらに大きな泡と泡がぶつかった、泡の境界、そこで新しい星々が生まれ続ける、我々の宇宙。こういった途方もない壮大さを感じさせる話と、我々の身近に見られる現象を結び付ける著者の文脈構築は相変わらず見事。こういう文脈で科学を語れる人は、科学者自身達が思っているほど多くはない。
一方の渦、こちらもやはり面白い。水中を歩いた時の足にかんじる「ゆらゆら」。これもカルマン渦(水や空気の流れが細長い円柱状の物体を通り過ぎるときに生じる渦。橋脚、木枯らし、また気象衛星の写真などにも、その存在見ることができる)によるものだ。一方、銀河の「渦」、あれは渦ではなく「波」のようなものではないか、という。また、大海洋にある巨大な渦が「盛り上がって」いる理由。こういった話から、ボールの空気抵抗と渦とボール表面の模様の関係といった話まで、話題は本当に幅広く、しかも展開に無理がない。
やはり、面白い。
自然に対するごく素朴な興味関心を、深めていくツール。
それが、科学。
「バイオミネラリゼーション」とは生物の鉱物形成作用、つまり生物が鉱物を作る現象のこと全般を指す言葉である。我々の歯や骨の生成もバイオミネラリゼーションの結果だし、体内には多くの「石」がある。貝殻や有効虫や放散虫などのオパールや石灰質の殻、色とりどりの珊瑚、妖しい真珠のきらめき、あれも同じく。また、今日ある鉄鉱床のほとんどが古代のバクテリアの活動の結果のことであることは多くの方がご存じだと思うが、それもバイオミネラリゼーションの結果である。ストロマトライトも同様だ。
最近、このバイオミネラリゼーションをより生理的、また分子生物学的な見方で捉え直そうという動きが徐々に高まりつつある。なにせ生物が、その細胞内で材料のイオンを取り込み、輸送し、小胞内で鉱物をある特定の形・大きさにコントロールして成長させていくのである。もちろん特定の大きさになったら成長は停止する。絶妙としか言い様のない業であるが、それが如何なる仕組み・手順によるのか、突き止めようという試みである。もちろん工業利用への目標もあるのだろうが、自然界の不思議を代表している一つでもある。
そもそもバイオミネラリゼーションの機構そのものは、どのように誕生したのか。これは、生物の進化とも大きく関わってくる問題である。なにせ、この働きがなければ「骨格」を作ることもできなかったのだから。研究者の中には、体内の不要なイオンを排出する仕組みが転じたのではないか、と考える者もいる。しかし一方で生物制御による結晶化には有機基質がいるし、大きなエネルギーが必要になるわけで、実際のところどうだったのか、これはさっぱり分からない。
また、放散虫の美しい、ほとんど生物とは思えないような形の硬組織にいたっては、その用途も機能も有用性もよく分かっていない。とにかくバイオミネラリゼーションには分からない事が多い。
この本は、我々の身体が、無機・有機的な素材が不可分に組み合わさって構築されていることを感じさせてくれる。これをコントロールしている遺伝子があるはずだが、それもまだまだ謎が多い。
本そのものとしては内容は難いし高価であるからあまりお勧めはできないが、興味のある方は手にとってみては?
21世紀にこの謎は解けるのか?と、こういう本である。内容を極めて的確に示した帯だと言える。
地球上の生命はどこで生まれたか? 遺伝子の役割は? 言語は生まれつき人に備わっているのか? コンピュータは思考できるのか? ETIは存在するのか? 量子的存在は客観的なのか? 現代科学の超難問をめぐる有力な見解を法廷スタイルで対決させ、科学の新たな地平に迫る!
ざあっと上記引用のような問題群を眺めるのは良いかもしれないが、値段ほどのことはない、というところか。
さて、ここからは余談。
参考文献の一つに、"Towards Robot Consciousness"というタイトルの、ラッカーの本が上げられているのだが、この本の訳出の予定はないのだろうか?読みたいなー。
また、プラズマの中に固体を送り込み、プラズマ中のイオンを固体表面に叩きつけると、固体表面に無数の凸凹ができ、それによって表面の原子や分子の構造が変わる。すると、表面の性質が変化する。これを「表面改質」と呼ぶそうだ。車のバンパーなどもこの方法で処理されてから塗装されているという。
プラズマ、というと核融合であるとか、オーロラであるとか、大規模なものばかりが思い浮かぶ。しかし本書を読むと、プラズマが実に身近なところで使われていることに気づく。
内容的には、プラズマ工学に興味がある人じゃないと、読了するのはややきつそうだが、逆に、プラズマの実際的利用に関する知識をざっと仕入れるのには向いている。興味のある方は、どうぞ。
その前著に比べると、随分、読みやすくなった。内容が簡明になったのか、それとも私自身の知的レベルが上がったからなのか、どちらかだろうが、どちらかは分からない。正直言って「免疫の意味論」は、確かに面白くはあるが、世の中であれだけ騒がれるほどの本ではなかった、と思う。本書も再び売れまくって、賞でも取るのだろうか?
とにかく、この人の本が文系の人に受ける理由は良く分かる気がするのである。なんというのか、「分かったような気になる」。私も読みながら、何度も「ふむふむ、うーむ」と唸ってしまった。良い本、だと思う。ハードカバーで買う価値があるかどうかは、人によると思うが。
内容、本書のねらい──遺伝子、細胞、発生、老化など生命科学の言語を用いて、生命・「わたし」・自己を意味論的に再び捉え直すこと──に関しては、私自身も、これまでなんどもこの書評で取り上げてきた話であるので、特には触れない。内容的には特に目新しいわけではないからだ。
本書の特筆すべき点、それは文脈にあるのだ。総括的な視点、しかも大勢の人の目を向けさせるだけの文章力、語る力。そういったものが、本書にはある。
生命──超システムと著者は言う──とは、何であるのか?この、連続的でいて、それでいて他の物質からは区別されている存在・活動。この不思議さに、多くの人の目が向けられるのであれば、本書の存在意義は大いにある、ということになる。
以下、余談。
超システムのお話として、本書では「都市も超システムと言える」とまとめている。でもね、そんなことを言い出したら、全てが超システムになってしまうのでは?この地球も、そして宇宙も、全てが<超システム>だ。その通り、なのかどうか僕には分からないが、もしそうだとしたら、<超システム>という言葉には、ただ語呂が良いだけで何の意味もない。
造語に普遍性を持たせようというのは分かるが、なんでもかんでも適用範囲を広げるのは、やめておいた方が良い、と思う。
→他の書評
内容に、特に新しくインスパイアされることはないが、ときどきこういう内容の本に目を通すことで記憶が活性化されるような気がするので読んでいる。昔から勉強法も、ノートを取ったり作ったりするタイプではなく、何度も同じページを眺めるだけ、といったタイプだった。だからおそらく、こういうのが合っているんだろう、と信じている。
本書で一番面白かったのは、ヴィクトリア時代の「骨相計」の写真だったりする。初めて見たが、こりゃー「未来世紀ブラジル」だわ。こんなもんをマジメに作って、みんなでマジメに頭を計りあっていたのだから恐れ入る。一見の価値有り。
あ、もう一つ。本書の訳文の文体は「です・ます」。これのおかげで、随分と読みやすくなっている。もし、「である・だ」だったら、かなり読みにくいのではないだろうか。