28名のノーベル賞受賞者を生んだケンブリッジ・キャヴェンディッシュ研究所が舞台。時代は1920〜1930年代がメイン。主人公はラザフォード (1871 - 1937)。まだ原爆が生まれる前、核物理学が純粋科学だったころ、「科学の青春時代」の話。
内容は文句なく面白い。だから、科学史についての私の考えを少々。
科学史を馬鹿にする人が時々いる。昔の知識など聞いても仕方ない、というわけだ。しかし、科学で本当に大事なのは「なぜ」「どうして」という気持ちであり、動機である。今は常識となっている知識や実験も、一番最初にそれを研究した科学者がいるわけだ。彼らが何を思い、考えて、実験に臨んだのかを知ることは決して無駄ではない。彼ら自身の動機や考えの推移を知ることは、理解を促進させることにもなろう。
しかし、ついこの間(といっていい時代)まで、化学と物理は一つのものだったんだ…。
「しなければならない」と感じ、実行せずにはいられないのだ。「それをしなければ恐ろしい事が起こるだろう」と感じ、不安に駆り立てられ、やめることができない。
彼らは、自分がやっていることがばかげた事だと確かに理解している──なのに、やらずにはいられないのだ。「これで大丈夫だ」と安心することができない。自分の目で確認したばかりでも、それを信じられず、何度も何度も同じ事を繰り返す。
そして、自分自身、自分のやっていることがナンセンスだと理解していることが、逆に周囲への病気の認知を遅らせた。彼らは主に恥ずかしさと「自分の事を理解してもらえない」という気持ちから自分の症状を、身近な大切な人──それが例え親や恋人であっても──にも隠してしまう。
彼らの生活は、病気によって支配されてしまう。
この病気の患者は、全米人口の2%もいるという。ところが、これまでほとんど知られていなかった。患者が自分の病気を秘密にしていた事に原因の一端がある、と著者は指摘している。
それだけ、患者本人にとっても家族にとっても、つらい病なのだ。
強迫症は「心のチック」のようなものではないか、と著者(NIMHの研究者)は語る。「頭のなかで『しゃっくり』をしている」だけなのだ、という。強迫思考はてんかんや動作性障害といった病と深いつながりがあるらしい(ただし強迫症の場合は「強要されているような感覚」が主体化されているという点がてんかんやチックとは違う)。
現在、強迫症は、前頭葉と大脳基底核の異常に原因があるらしい事が分かっている。また、セロトニン(覚醒性のホルモンを抑制する働きを持つ)を増加させる薬物で、ある程度治療できることもある(ところが効かない人もいる)。これらの事から、強迫症は神経の病であると認識されるようになった。また、著者は強迫症患者の男子の数が女子の倍であることなどから、それらに関わるホルモンに何か原因があるのではないか、と語る。
また、奇妙な振る舞いの原因を動物行動学に求めている。動物はある種のパターン化された行動を取ることがよくある。そして、それ以外の行動をとることを大変「嫌がる」。強迫行動はそれと同じ様なものではないか、というのだ。
内容紹介が長くなった。本書は強迫症の治療に取り組む医師の記録である。また患者自身やその家族の手記もおさめられているため、誰にでもとっつきやすくなっている。内容は私の様な無知な者には驚くばかりだが、おそらく、日本にも相当数の患者が存在するのだろう。ところが、日本では本書で触れられているような治療はほとんど行われていないという。
また、強迫症の患者が「何度も確認せずにはいられない」という点は、別の面でも興味深い。我々は日常行動を行う上でいつも無意識に確認しているわけだが、強迫症の患者はなんらかの理由でその確認機構が働かないらしい。
そこにはおそらく、脳の不思議な働きが隠されているのだろう。
サックスは「私は専門家ではない」と認めながら、果敢にその世界への案内人をかってでた。それが本書である。サックスとは言うまでもなく「レナードの朝」の原作者であり、脳神経外科医であり、優れたエッセイストであるサックスである。
「言葉なんですよ、言葉を捜すのです。言葉さえ見つけることができれば理解できるはずです。突然分かるのです」という台詞を戯曲家アーノルド・ウェスカーは書いた(編集の学校、西岡文彦著、JICC)。
その通り、私たちは、概念を結晶化させるのに「言葉」という「シンボル」を使う。言葉を使うことによって「それまでつかみどころのない感じにすぎなかったものが、しっかりした形を持つように」なるのだ。
言葉は、概念や情動の形成・発達に大きな役割を果たしている。我々は言葉を使って周囲の世界を知覚している。言語と思考の間には、深い関わりがある。というより、概念形成にはなんらかの言語が必要である(ように思われる)。
ろう者でも「音声言語を獲得する前の失聴」と「獲得後での失聴」では全く事情が異なる。生まれつき音のない世界に住む人々は、音声媒体による「言葉」を知らない。音による「言葉」はどこからもやってこない。
では、ろう者はどのようにして概念を形成するのだろうか。
彼らは視覚媒体による言語である「手話」を使う。手話は、音声言語とは全く違う媒体による言語であり、音声言語によって知覚された世界とはまた別の世界を表現する事が出来る。
彼らは手話で考え、手話で夢を見るという。それはどんな世界なのだろう。
サックスは言う。
「(手話の獲得によって)知覚と視覚知能がいちじるしく向上するということは、脳が思いがけないほど豊かな潜在能力を秘めており、ヒトの有機体としての脳神経系が、何か新奇なものに遭遇し、それに適応することを余儀なくされたとき、ほとんど無限の可能性や素質を発揮できるということにほかならない」
これ以上の内容については本書を読んで欲しい。本書は膨大な量の注がつけられ、3部構成になっている。第一部は聾者と手話の歴史、二部は手話の本質とろう者の知覚世界、そして脳内での処理についての考察、三部はろう者としてのアイデンティティー、ろう社会のあり方についてのサックスの考え、からなっている。どれもそれぞれ興味深く、面白い。第三部を読むと日本とアメリカのあまりの違いに驚いてしまう。
(音声言語も手話も含めて)言語というものを知らずに育った人物が、初めて「言語の存在」を知ったときの様子には強く引きつけられる。なぜ人はものに名前を付けるのか、そもそも言葉とは人間にとって何なのか、考えずにはいられない。
まだ、ろう者の知覚世界についての研究は始まったばかりだ。
追記: 本書は'96年度毎日出版文化賞を受賞した。
「シヴァ・クレーター」というクレーターがインドで発見されたそうだ。いん石衝突説は
マントル・プルーム説の登場で、既に恐竜絶滅説としては旗色が悪くなっているが、ここで再び新説が現れた。
じゃあユカタン半島沖のチチュラブ・クレーターはどうなるの?と思う向きもあるだろう。詳しい内容は金子隆一氏によるレポートを本書で読んで欲しいが、当時のインドに落下したいん石の衝撃波が、地球内部を伝わり、当時ちょうど地球の裏側にあったユカタン半島沖に収束、下から突き上げて地表を吹き飛ばした。それがチチュラブ・クレーターだ、という説だそうな。
うーむ、真偽はともかく、これまた凄い説だなあ。
その他はSVPのレポート、ティラノサウルス”スー”の最新情報などなど。
休刊か…。本当に残念だ。恐竜については、存在こそ有名だが、おかしなイメージが流布している。そういう中、本誌の存在は本当に貴重であったと思う。
追伸:全く関係ないが、あの「科学朝日」が今号で休刊した。
なんか、悲しいな。
その生命科学の中でも「アポロ計画に匹敵する巨大計画」と言われているのが<ゲノム計画>。本書はどのようにして<ゲノム計画>が生まれ、組織され、運営されてきたか、その渦中にいた著者が綴ったドキュメンタリーである。
なお、<ゲノム計画>を巡る政治的な駆け引きと紆余曲折が中心に描かれており、その科学的な成果については、ほとんど触れられない。だから、そちらのみを期待される方は読まない方が良い。
群像ドキュメンタリーなので特定の主人公はいないのだが、敢えて挙げるとやはりワトソン。読んでいると、彼がNIHやHUGO、そして連邦議会で口角泡を飛ばしてゲノム計画を推進していった様子が眼に浮かぶようだ。彼の実像がどういう人なのか私は全く知らないが、生き生きと描写されている。
本書の後ろ三分の一はゲノム計画の倫理面やDNAの特許問題についてとなっているが、そこもやはり政治面が中心。全体として、これまでのゲノム計画の政治面の推移の記録、といった感じ。一通り読むと、ゲノム計画のこれまでの経緯が分かる。
巻末には1985〜1990年10月までの政治面の年表がついている。これは有り難い。が、できればせめて93年くらいまでは欲しかったな〜。
一人一人の科学者達がブツブツ言っていた事が、反論も何もかも飲み込んで雪だるま式に一つになっていき、巨大国際科学プロジェクトとして成立していく過程はなかなか面白い。
そして、<ゲノム計画>はアポロ計画の比ではない、もっともっと大きなプロジェクトなのではなかろうか、と思わせてくれる本だった。
本書は、生命が如何にして誕生し、発展してきたか、そしてこれからどうなるのか、といった物語である。7部からなっている。それぞれ
それぞれの章立ての中で現在の研究の成果、そして現段階での著者の考えが語られるのだが、私は本書の内容が実際正しいのかどうか、また学会ではどう受けとめられているのか、といった知識を持っていない。その上で、幾つか思ったことを書く。
まず、本書は私が是非とも知りたかった事、つまり「自己複製を繰り返し、無作為に結合・合成を繰り返していた単なる分子(それがRNAだろうとDNAだろうとタンパク質だろうと別に構わない)集団が、どうやってシステム化されて働くようになったのか」という肝心な問いに答えてくれない。これにはがっかり。
だってそうでしょ。やっぱりそこが「生命」が複製分子スープとは違う所なんだから。
章立てで言えば、第二章の内容が論理的に飛躍し(あるいはごまかし)ていると感じた。その手前までの「化学進化によってRNAが決定論的に出現した」とする論理展開がそれなりにスムーズなだけに、余計奇異に感じる。
一方、原始細胞そして単細胞時代についての解説で、細胞の様子を描写してみせる部分は、さすがに真骨頂。ところが、多細胞へと生物が進化していった理由がこれまた不明瞭。
どうやら、難しい所、あるいはあまり良く分かっていない所はごまかして書くことにしたのでは?と勘ぐってしまう。「答えろ」という方が無理なのかも知れないが、何らかの仮説でいいから、それなりのものを呈示して欲しかった。欲求不満が溜まる。
また、著者の進化圧についての考え方がどうも良く分からない。その辺への突っ込み方が足りない。地質学的なイベントと進化の関係をほとんど考慮していないように思える。
本書の内容の内、進化の過程についての部分(5章まで)は、素人の私が見ても議論(疑問)の余地が多く、反論を受け(てい)るだろう事は必至。実際、本文中「あれ?」と思わされる箇所も多い。
しかしながら、当然予想されたろう批判を恐れず、本書のような本を書いてくれた事自体は、評価できる。
それに本書の真価は、第1章の化学進化についての化学的な考察、そして6章後半で書かれる「意識」についての問題(余談だが96年4月には「意識とは何か」についての2度目の国際会議がある)、7章の「生命の未来」そして「生命の意味」についての記述にあるのだろうと思う。そういう意味では上記のような批判は全くまとはずれかもしれない。
「意識」についての記述は、いま各方面での議論がコンパクトにまとめられているので、概観するにはちょうどいい。
著者は「生命誕生は必然である」と言う。そして、意識の発生も。この宇宙は生命と知性に満ち溢れている、と語る。そして「宇宙の意味」について彼の考えが述べられ、本書は結ばれている。
さて。本書は膨大な注と参考文献と用語解説が巻末にまとめられている。これ自体は有り難いのだが、せめて「注」くらい、各章末につけて欲しい。探しにくくて仕方ない。
また、訳文も読みやすいとは言えない。広い範囲を扱った本なので仕方ないのかもしれないが、訳語にも不備がある。例えば「人類の原則」って何の事か分かる?こういうのを一つでも見つけると、訳文全体が信用できなくなる。
余談:「あれ?」と思った事の内、細かい事の一つなのだが、P164のべん毛モーターの図は間違っているのでは?バクテリアのべん毛モーターは細胞膜を突き抜けているのが確認されたはずだが…。これが書かれたときには未確認だったのか?
さて、今月号の特集は「精神医学のフロント」。
「精神病」とは一体なんなのだろうか?学問的な定義はあるのだろうが、私が知りたいのはそういう事ではない。つまりそれは「こころの病」なのか、それとも生物学的な原因のある「器質性の病」なのか、ということだ。この両者の区別はつくのだろうか。それとも区別は意味のないことなのか。一体私たちが「心」と読んでいるものはなんなのか。
「心」「精神」とは何かを考えようと思ったら、精神薬理や精神病理学の知見をヌキにしては考えられない。おそらく精神病医とは、機能としての心の「不思議な」面を、一番良く知っている人ではなかろうか。
別項でも書いた「意識とは何か」についての国際会議には精神病理の専門家も参加する。どういった議論が闘わされるのか、期待している。
内容は「ゴジラの骨粗鬆症の可能性」「ゴジラは単細胞生物?」「ゴジラのDNA鑑定」「ゴジラの知性」「ゴジラのプラスティネーション化」などなど。
で、読後感だけど。
はっきり言って「不満」。
なんか、前回に比べてパワーが落ちてないか?「ゴジラ」に対する愛情が前回ほど感じられないというか。「妄想から科学へ」のパワーも考察の深みも落ちてるような気がする。もっと突っ走って欲しかったなあ。
前回の本とは、すっかり編集方針が変わってしまったみたい(随分柔らかくなっているし、前作ではかなりの量あった「注」がほとんどない)で、残念。ああいうのがよかったのに。今回みたいな編集方針だと、前作のファンも逃げるぞ。ターゲットが違うんじゃないかなあ?関係者の方、もしこの拙文をお読み頂いていたら、御考慮頂きたい。
俺も「ゴジラ」を語らせるとちょっとウルサイんで、つい気になってしまった(^_^;)。どうでもいいんだけどね。
これが、我々がまだ実現していない技術の影響も考えなくてはならない理由である。大体、実現したときには既に議論は遅いし、できない。また、技術というのは徐々に我々の日常に染み込んでくるものだから…。
本書の内容については、訳者による丁寧かつ適切な解説が巻末に付されているので、ここで書くことはない。買い悩んでいる人は、書店で手にとって、巻末をまずめくると良い。また、裏表紙にも、内容と一致した<内容紹介>がある(なぜ、こんな当たり前の事を言わなくちゃいけないのか、各出版社の方は考えて欲しい)。哲学書なので、これこれすべきだ、という本ではなく、みんなで考えましょう、という内容になっている。書かれた年が古いので、話は少々古い。
これらの働きは我々の素人目で見ると、体が起こす自然の反応なんだから何らかの役に立つのではないだろうか、と思ってしまう。ところが、百害あって一利なしなのだという。
これらは「手術」という一種の「攻撃」に対して、体が逃げようとしている反応らしい。そう言われて反応の表を見ると、運動している時の体の反応と全く同じ反応であることが分かる。「へえ〜」と思った。
というわけで「神様は天の邪鬼」というサブタイトルは、本来の体が持つ反応が、予後の療養にとっては有害である、というくらいの意味。
本書は、医者である著者によるが、ところどころ、私のような一般人から見ると鼻につくというか、意味不明な所がある。そういう点は指摘し、直すべきではなかったか。また本書で何度も引き合いに出されているキャノンの「からだの知恵」は講談社学術文庫から刊行されている。このくらいは付記して欲しい。
本書は3章からなる。第一章は地球環境・地球システムについて。第二章は自然、そして人工とは何かについての著者の考えとアメリカのバイオスフェア計画について。そして第三章は閉鎖生態系の研究の今後について。
文体は簡潔で明瞭。各データは表にまとめられている。著者の主張もバランスが取れているし、しかも気取った所がない。著者の今後の活動に興味がある人間はもちろん、環境問題や地球システムに興味がある人にも読んで欲しい。
それと同じ事が私たちの時間の間隔にも言える。私たちは、一つの事象を同定するのにおおよそ0.03〜0.04秒かかる。その結果、1秒間におよそ30回程度しか同定と決定の機会を持てない。もちろん、見かけ上連続して周囲の事象は知覚されている。しかし、我々は不連続な時間の中で生きている、と考えることもできる。私たちはいつでも行動できるわけではないのだ。
さらに著者は実験結果を呈示し、続ける。私たちが「現在」としてひとかたまりで捉えられるのは約3秒間だ、という。そして、知覚世界についての考察を通して「『今』という3秒の窓の中にある神経活動」が意識だと語る。
「私たちにとって現実として現れていることは、私たち自身が現実として決定した構造物である」とし「私たちが現実として経験するものは、人間だけの現実に過ぎない」と続ける。
さらに独自の意識の階層モデルを唱える。
著者は「伝達可能な心理現象のみ」を「意識されていると見なすべき」だとしている。つまり、生物の情報処理機能としての意識と、その機能的な限界についての考察、これが本書の主題である。
訳者は心理学者と哲学者。原書が出たのは85年だが、なかなか面白かった。
それぞれの用語については、まず短文で【定義】され、【実例】を示すことで理解をはかり、最後に【関連事項】で別の言葉にリンクされている。【実例】があるのでそれなりに面白い。
さっそく使ってみた。
私は最近、精神病とはなんだろうか、それはいわゆる「こころの病」なのかそれとも生物学的な原因のある「器質性の病」なのだろうか、その両者の境はあるのかないのか、あるとすればそれはどんなものなのだろうか、などなどと考えている。その定義はどうなっているのか、私は素人なので知らない。
そこで早速「精神障害」を引いてみる。すると「(精神障害の)病理の源は器質的なものか、あるいは機能的なものである」とある。ふむふむ。この著者(あるいは訳者)は心の事を「機能的」と呼ぶのか…。ふーむ。この項だけでは意味がつかめない。そこで機能性障害を引くと、なんとその項目がない!
仕方なく「器質性精神障害」を引く。そこを読むと機能的精神障害は「生物学的レベルにあきらかな病変がないもの」とある。「このような場合には、不適応行動は情動的葛藤か、学習された行動の結果だという仮説を立てることができる」。うーん、やっぱり良くワカラン。だから、それはなんなんだ。「情動」を引いても分からないし、「葛藤」にいたっては項目もない。
パラパラめくってると「精神病性障害」という項があるのを発見(この本は、大項目ではなく索引から引くのが適しているようだ)。緊張型や妄想型などに症例が分類されているが、これらは「全部、機能的精神病性障害として知られているものである。これらは、生物学的なレベルにあきらかな病理がない」とある。でも、そういう病気にも「薬」が処方されて、効く事もあるわけでしょ。なら、やっぱり器質性じゃないのか?分からない。
こういう本は書店で手に取り使ってみて、買うか買わないか判断するのが一番である。私が使ってみた感覚では、ちょっとした事を引いたり、パラパラめくって暇つぶしするには良いが、それ以上の役には立たない、といった感じ。
取りあえず、紹介。
電子は実在の存在であり、原子もまた実在の存在である。理論的な抽象存在ではない。しかし、量子力学の方程式や波動関数を操って理論を探るだけではその実体を「感じる」ことはない。本書は、ある日理論物理学者の著者が捕らえれ「飼い慣らされた」単一の原子の姿を見るシーンから始まる。
彼が見た「もの」としての原子はフォトンの発散と量子飛躍によってダイナミックにまたたく「動的機構」であり、そして何より「実在の不変の物体」であった。
著者は原子の姿に新鮮な驚きを感じ、原子論についての科学史を辿り直す。同時に、最新の研究現場を渡り歩く。そして、一つの問題点を呈示する。
理論的な存在である量子論的な原子と、目で見ることのできる原子。しかし実在する存在は一つ。この両者の間に「橋を架ける」必要があると著者は語る。そして「第二の量子革命」が起こるだろうと。そのためには「原子を飼いなら」し、より原子の事を知る必要がある。
そして、観測、観測、観測....。
実験物理学者達の手で生まれる統一的な新理論の下、新しく、より明解な原子像が描かれる日も近いのかもしれない。その時、我々の世界観はどう変わるだろう。
興味深い、科学読み物である。
リーキー一家は不思議な家系である。人類学上、非常に重要な発見をこの家系が為しているのだ。詳しくは本書のあとがきなどを読んで欲しいが、まあ、逆に考えれば、優れたフィールド科学者の両親という環境が、化石を発見する目といえるような能力を養ったのかもしれない。
もっとも、本書を著したリチャード・リーキーは、<訳者あとがき>の表現を借りると、両親の後を嗣ぐのを嫌って、しばらく「すねていた」らしい。そのせいか、彼自身の評価は別れる。「あの人本当に偉いの?」という問いかけを時折耳にする。実際の所は門外漢の私には分からない。しかしながら、本書を読んだ限りでは非常に優秀な啓蒙書の書き手の一人と言えると思う。
人類学は非常に発展の早い分野で、精力的に研究が行われている。現在定説とされている考え方が簡単にひっくりかえってしまいかねないジャンルだ。それだけに、著者自身の考え方の年代的変化がそのまま描かれている本書は、非常に面白い。書き方も(私の目には)客観的で好感が持てる。
現在の主要な説(マスコミで取り上げられがちな説)では、ホモ・ハビリス・すなわち最初のホモ属は、アウストラルピテクス・アファレンシス(いわゆる「ルーシー」の一族)の直接の進化的な側枝とされている。しかし彼は、足の指骨や前腕の特徴、そしてCTスキャンによる三半規管の形態などから、A・アファレンシスは現代人の直接の祖先ではない、と主張する。つまり、分岐はずっと以前に起こっており、ホモ属は未知の祖先から分岐してきたのでは、と語っている。そして、ハダール地区から出土した化石には、複数の種が含まれているのではないか、と主張する。
また、人類の進化はまず2足歩行から始まり、脳の増大は道具の使用とほぼ同時期に始まった、とする。本書後半では、これまた大きな問題である洞窟壁画や言語の発生・発達についての考察、そして最後には自意識の進化についての考察が述べられ、飽きさせない構成となっている。
本書は、以前にも取り上げた<サイエンス・マスターズ>シリーズ第3巻である。
本書の邦題はあまりよくないと思う。本書の内容は、精神的な発達を除外した、生物学的な種としてのヒトそのもの誕生に紙幅を多く割いているからだ。この邦題では、本書の内容を半分しか表していない。また、図や写真がもっと欲しい。