一言だけ。絶賛している人もいますが、欠点がないわけではないです。アポロの「全貌」が明らかにされているわけでもない。描かれていないことも多い。でも、この本──というよりこの本が描いている出来事、事実、メッセージに、やはり揺さぶられずにはいられません。
いやー、これは分かりやすいし便利だわ。手軽に宇宙開発の歴史を復習することができる。間に挟まったコラムも面白いし、冒頭のグレンがフレンドシップ7でアメリカ初の有人宇宙飛行をしたとき、再突入時に燃え尽きてしまう可能性が高かった話など、掴みも工夫してある。「今は昔」となった時代のエピソードの数々は、どれも興味深いものだ。図版や写真も多い。
僕は半ば仕事モード、勉強モードで読んでしまったので「便利だ」という評価になってしまったのだが、実際、読み物としても面白い。文章も読みやすく、コンパクトでありながら押さえるべきところはきっちりと押さえられていて、さすが長年この領域で取材活動を続けてきた著者ならではの技と知識の深さを見たように思った。実際にあちこちを長年見てきた人間にはかなわない。
本書後半はシャトルでの日本人宇宙飛行士たちの活躍話を経て、ISSから日本の宇宙開発の話へと入り、エピローグも「日本の宇宙計画を応援しよう」と題されて締めくくられている。日本もけっこう色々やっているんだということは意外と知られてないようなので、こういう本で少しでも伝わればと思う。
ここでは本書冒頭の「はじめに」を引用しておく。月並みだと思われるかもしれないが、やはりこういうことに尽きる。
宇宙開発を支えるのは、拡張欲求であり、可能性の拡大だ。宇宙探査を支えるのは、真理の探究であり、謎の解明だ。もちろんどちらも、人類の本能、本質、好奇心や想像力、あるいは夢に裏打ちされているのだが。
宇宙開発の究極は、宇宙環境を利用して、人類が何をどこまでできるか、あるいはどこまで行けるかだろう。そして宇宙探査が求め続けるのは、なぜ人類(生命)はここ(地球)に居るのか、私たちは何処からきて何処へ行くのかではないだろうか。
このパラレルで進む探求が、やがては人類と地球の未来のためのヒントを、もたらしてくれるはずだ。だから私たちは宇宙に惹かれ、宇宙をめざすのだと思う。
どんな研究が望ましいのか、または許されるのか、どのような応用が望まれ、またそれによってどう形成されるべきなのか。こういった論争は、大衆文化のどぎついメディアから、法律を制定する議会の厳粛な議場まで多くの公開討論の場で行われる。本書の論点の一部は、論争のありようを解釈するのに、大衆のメディアは、公式審議の記録と同じくらい重要であるということだった。というわけで、そういう本なのだが、個人的には「論争のありよう」には興味はあるが、そのまた「解釈」のようなメタな立場には興味があまりないのだった。「テクスト間相互関連性」といった話についてもそう。
オリジナルの『フランケンシュタイン』を読んだことのある人はあまりいないらしい。僕自身も、初めて読んだのは中学生になってからだったと思う。オリジナルストーリーではメイン登場人物の二人、フランケンシュタイン博士の身勝手さと、それに対する「怪物」の非常に知性的かつ理性的な描かれ方が際だっていて、映画や僕らが知っている「フランケンシュタイン」とは全く違っていた。そしてそういうオリジナルの話が如何に「科学者が自分の信念で造ってしまった狂った成果にやっつけられる」という類型的話に落ち着いていったのかということに思いを巡らせたこともあった。その後「フランケンシュタイン的」ストーリー、モチーフはあちこちで使われ続け、「フランケンシュタイン」はそれらを代表するものとして大勢に記憶されるタイトルとなった。著者が『ジュラシックパーク』を「『フランケンシュタイン』と『モロー博士の島』を混合した話」だと断じているように、その例はいくらでもあるし現在も拡大再生産されている。
生物医学関連の研究成果は、好む好まざるを問わず、マッドサイエンス物語と感情的にくっつけられがちだ。そして世論というのはえてして感情的なのである。というわけで、「物語」や「神話」などフィクションが科学研究に与える影響は、決して無視できないのである──というのが本書の骨子である。
これは『パラサイト・イヴ』の作者・瀬名秀明が最近講演などで言っていたこと──小説家は物語が与える「科学のイメージ」に自覚的であるべきなのではないか、たとえば『鉄腕アトム』があったが故に日本ではロボット工学が楽観的に見られているように──と似ていて、興味深い。
話は本書からずれてしまうが、瀬名は単に主観的に言っているだけではなく分析もしている(ここらへんが理系作家と呼ばれる所以なのだろう)が、基本的に自分の経験から言っている。ひょっとするとある種の「反省」のようなものもあるのではないかと思うのだが、どうなんだろう。『小説と科学』という著作もあるが、この点だけに焦点を絞った話も読んでみたいように思う。
閑話休題。
では世論を科学の側に引き寄せるにはどうすればよいのか。科学者達も、その個性というか好みに応じて様々な戦略を採っている。
基本的に人に何かを説くスキルというのはいくつかに分類できると僕は考えている。人を感情的に「納得」させるスキルと、理屈で「説得」するスキルは全く別物であろう。だから、それぞれの方法で努力する必要がある。
フィクションと現実は、否応なく関連性がある。フィクションはもっともらしい根拠を与えてくれるものとして科学の成果を利用する。科学の側は何が事実で何がフィクションかはっきりさせようとする。そうすると逆にますます関連性があるように思われてしまう。そしてジャーナリズムは「フィクションが現実になってきた」「いつまでもフィクションではない」という紋切り型の表現を取る。フィクションの側に対しても全く同じことが言える。いくらフィクションの側にそのつもりがなく、事実は事実、フィクションはフィクションとして読んで欲しいと望んでいても。漠然としたイメージが、漠然と、だが確実に影響を及ぼしていく。そして「フランケンシュタイン」の物語は健在であり続け、研究者と素人相互が抱く不信感はそのままだ。
ただ、問題はそれほど単純ではない。著者は言う、「文芸時評もメディア研究も、科学についての複合的なメッセージを多様な受け手が吸収するときに生じていることについて、我々がもっと洗練された見方をするように求めている」。「読者や視聴者」は、「メディアのメッセージの解釈を組み立てるために能動的に動く」。どう動くのかということもまた問題なのだが、いまや受け手はただの受け手ではない。
問題は、物語がえてして二者択一以外の解答を用意しないことだと著者は言う。議論を二極分化させてしまうと。だが物語を語り続けることで我々の未来を選ぶ力は鍛えられていくと本書はまとめられている。
本書は、薬物がどのように体──特に脳──に作用するのか、分かりやすく図解を多用して解説した本である。抑制性、興奮性、そして「合法ドラッグ」まで解説されている。絵本だと思って侮ってはいけない。内容はけっこうちゃんとしている。本書冒頭、「薬物作用はどのように生じるのか」を例として引くと、内容はこうだ。
薬がなぜやめられないかというと、多幸感をもたらすからだ。
ヒトの行動の本質を考慮すると、薬物乱用と薬物使用を切り離して考えられないことが分かります。つまり、喜び、自制、安堵への欲求は、薬物使用の行動動機づけになっているからです。おそらく、そう遠くない将来、薬物大量摂取時代が来る(『化学装置としての脳と心』ほか参照)。そんなことはないと思う人もいるかもしれないが。
本書は、「屋根裏に誰かいるんですよ」という言葉に代表される、屋根裏に巣くう幻の住人の妄想に取り憑かれた人々の話から、人間の心の闇を考えるエッセイである。著者からみると「家」は「妄想濃縮装置」であるという。
「屋根裏に誰かいるんですよ」。
そのあまりのステレオタイプな、だが、だからこそ妙な違和感を感じさせる妄想の世界。何かしら僕らの心の中に触れる世界。身近な、ごく当たり前の世界のすぐ裏側にある「非日常」の「秘密めいた空間」。「澱んだ時間」が棲む空間。「隣接した異界」。
著者は、我々の中にはそういう空間と出会うことで「容易に活性化されるような『物語の胚珠』が、予め埋め込まれている」のではないかという。そして妄想がいきなり立ち上るのではないかと。
人間は「物語」を必要とすると語る、「物語」にこだわる著者らしい見方である。
都市伝説の類が、奇妙に秩序だった物語性やオチが欠如して断片的なものから構成されているからこそ、我々の心に妙なリアリティをもって迫ってくるという話もまた面白い。
しかし本書で紹介される症例や事件の数々は、唖然とするほどの凄まじさである。地下室で生まれ、そこで太陽を見ないまま45年間暮らしていた姉妹たちの話。屋根裏で間男として27年間暮らしていた男の話(これは眉唾らしいが)。我が子を14年間、座敷牢(とはいても庭においた、ただの檻だったらしい)に閉じ込めていた親の話。そして「伝染」する精神病の話。
最近奇妙な犯罪が多いという声がときどき上がるが、上記の「座敷牢」は、昭和52年の話である。つまり、おそらく閉じ込めた親も閉じ込められていた子供もまだ存命なのだ。本当にちょっと前まで、(現在では)異界としか思われないようなものが日常のすぐ隣にあったのだ。そしておそらく今も。
本書後半では、カプグラ症候群の変形版のような、家や庭、そして自分の服や体さえも「ニセモノ」ではないかと疑う人の話が出てくる。こんな現象を、いつかは科学で「説明」できるような日が来るのだろうか。現在はただ、「妄想は、病んだ精神によってもたらされる現実の変容を、『奇妙な憶測、異様な解釈』を以て説明し確信することによって生まれ出てくるのであった(P.167)」、としか言いようがない。
全くもって人間の心はひたすらに不思議なのだが、本書そのものは、退屈な日常から突如として立ち上る異界の感覚を味わいながら読むといいだろう。妙になつかしいような、だからこそ不気味な違和感のようなものを。
文章はしつこくて繰り返しが多いし、あまりに枝葉に拘泥しすぎていて本当に著者が言いたいことがなんなのか読みとりにくい。繰り返し出てくるビデオの使用法など、ほとんどの読者にはどうでもいいことだろう。
ついでながら申し上げておくと本書で大きなウエイトを占め強調されている「ビデオの導入によってサルの生態観察研究が大幅に進んだ」という点だが、ただそのまま書かれても、率直に言って「だからどうした」という気にしかならない。それは単にその分野の研究手法が遅れていた、ただそれだけのことではないか。もし読者にその苦労なり新しい手法の凄さなりを汲み取ってもらいたいと考えるならば、それなりの構成・表現方法を工夫すべきであろう。
本書全体に言えることだが、この本はまるで研究者同士だけの間で回覧するレビューと、その感想・反論・意見などメールのやりとりの集合のようである。これでは一般書にはならない。一般人、ましてや高校生には全くアピールできないだろう。
また、タイトルと内容も合ってない。正確に言えばタイトルからこちらが期待する内容とあまりに離れている。良い意味で裏切られるなら別に構わないのだが。
というわけで一般書としては大いに問題あり。だが、書かれている内容は面白い。というわけで前振りが長くなったが本題に入る。
対象はニホンザルである。3部構成。まず第一部に相当する内容は、地獄谷野猿公苑のニホンザルを対象にした授乳量の研究である。
まず「ニホンザルにおいて、同じ母親から連続して生まれた兄弟姉妹の間では、乳首の好みが逆転する。つまり、前の子が使っていなかった方の乳首を、次の子は使う」という研究結果が示される。だがそのメカニズムは不明だという。著者もその点には深入りしない。なんでも、これ以前は観察も「単に乳首をくわえているかどうか」といったレベルで、実際に小猿がミルクを飲んでいるかどうかという点までは確かめられていなかったのだという。さらにコドモの成長によって授乳量がどう変化していくかといったことも分かっていなかった。それを著者は、ビデオの助けを借り、アカンボウサルの口の動かし方から、実際に飲んでいるのかどうかを明らかにし、ミルクの吸引時間と分泌時間との間に比例関係があることをはっきりさせた。
この辺も、描き方次第では読み物としても面白くなったと思われるのだが、だからなんなんだ、という気がしてしまう。だが、面白くなっていくのはここからなのだ。
著者は詳細な観察によって、授乳期間が次のコドモの出産までの時間と関わっていること、ニホンザルの授乳には3つの段階があることなどを明らかにしていく。ニホンザルのミルク分泌量は生後6ヶ月で急激に減少(ここから第二段階)、その後生後一年以内に次の子を母親が妊娠すると分娩一ヶ月前にミルクの分泌量が急上昇するのだという(これが第三段階)。
なおメスのニホンザルは授乳期間と出産間隔の観察から、常に授乳中か妊娠中の状態にあることが分かっている。授乳期間が長いのだ。遺跡からの出土人骨によるとヒトも昔はそうだったらしい。
閑話休題。問題はここからだ。3つの段階の意味である。
著者は人類の成長パターンに着目する。普通の哺乳類は最初はゆっくり成長し、次第に加速していき、オトナになる頃に減速、停止する。ところがヒトは生後6ヶ月の時点で代謝率が変化、思春期まではゆっくり成長する。その後再び再加速、オトナになるのだという。ニホンザルなど旧世界サルも同じように成長する。授乳量の変化は、コドモの成長速度減速に対応しているのではないかと著者らは考えたのである。
著者は言う。
思春期以前のコドモ期が拡大し、性的成熟が延期されるのは、オトナになる前に学習することが増えたことと、神経系と行動の複雑さが増したことに対する自然選択の結果と考えられている。つまり、コドモ期を長くして、その間親が面倒を見るわけだ。その間にコドモはいろいろなことを覚えていく。そして「コドモの成長を調べるには、この『覚えるもの』についての解明と、それ以上に『どのように学習していくか』を解明することの方が、成長の栄養的側面よりも重要だ」と考え、著者は研究のターゲットを授乳行動から行動の社会的伝達へと移していく。(中略)
…母親はそれ以降も、次の子の妊娠まで授乳を継続する。長い間ミルクという栄養が保証されている結果、いろいろなものを食べ物かどうか口に入れて確かめる試行錯誤の機会が多くなると考えられる。(中略)
親の保護の下、学習できるコドモ期の拡大は、旧世界ザルの系統の中、ヒトに近づくほど長くなっている。脳の拡大と関連していると考えられる。
そして本書後半にはいるのだが、後半は、読みやすさは増しているが、少々「深み」が感じられない。主な内容は、サルが毛づくろいで拾っているモノは主にシラミの卵であること(それが明かでなかったことのほうが驚きであった)、そしてその取り方にそれぞれ方法の違いがあり、それがまた親から子へと伝達されていくという話である。これだけだと、ふーん、っていう感じなんだよなあ。今後に期待したい。
ただし若干厳しい評価もしたが、研究者本に「燃える」タイプの人──つまり著者らの同業者=研究者やそのタマゴの人たち──には、かえってこちらのほうがいいかもしれない、ということは付け足しておく。
余談だが「コドモ時代の、長期にわたっての食物状態と、栄養の蓄積具合からオトナになたときの排卵パターンが決まる」という話は非常に興味深い。つまり排卵は脂肪の蓄積がある程度ありさえすれば起こるわけではなく、妊娠+授乳期間という長期間、ちゃんとエネルギー出費に耐えられる環境かどうか、成長期に査定を行っているらしいという話なのだ。なるほど。。。
現在、ヴィクトリア湖には数百種のシクリッドがいると推定されているが、この湖は12,500年前には干上がっていたことが堆積物の調査から明らかになっている。つまり数百のシクリッドは、その後きわめて短期間で進化誕生したことになる。これは他の場所、他の種では見られないほどの進化速度である。しかも、DNAはあまり変わってないのに表現型が大きく変化しているというのがこれまた面白いところ。というわけでこの湖は進化生物学者や生態学者にとっては「Darwin's Dreampond」なのである。
そして、この多様さがまた面白いのである。本書で紹介されたものだけを挙げておこう。
泥はみ屋、藻類はぎ取り屋、葉切り屋、巻き貝壊し屋、巻き貝取り出し屋、動物プランクトン食、昆虫屋、エビ取り屋、魚捕り屋、子供殺し屋、鱗はぎ取り屋、掃除屋。
こんなに多種多様な種類に別れているのである。本書には図版もあるが、姿形もまるで違う。ただただ驚くばかりである。
現在シクリッドたちは、ナイルバーチと呼ばれる魚食性の外来種と、森林伐採に伴う水の濁りによって危機にさらされている。実際、いくつかの種はもういなくなってしまった可能性もあるようだ。だがおそらく、新しい種は現在も誕生しつつあるのだろう。
なお、この文中では「種」という言葉を軽く使っているが、これは非常に難しい概念である。著者は、シクリッドの研究を通しての印象をこう綴っている。
わたしは、種とは何なのか、だんだんわからなくなってくる。種の概念を考えれば考えるほど漠然としてくる。種という生物のシステムに対するあらゆる理解力も消え失せてしまう。
イルカはオビレをふって推進し、泳いでいる。単純に考えれば、最高速度の限界は その筋肉が発すると考えられるパワーと、体表面が受ける抵抗からはじき出されるはずである。
ところがイルカは、推定される最高速度より遙かに速く──最低2倍以上だという──泳いでいるというのである。これは指摘した研究者の名前をとり「グレイのパラドックス」と呼ばれている。多くの研究者が挑んでいるが、未だにクリアに説明することができていないのだそうである。
本書は、それを取り巻く謎を解説しながら、流体力学の基礎理論の世界を紹介していく本である。基本的には教養レベルの教科書的な内容なので、はっきりいって難しい。だが、こういう素材で勉強できる学生がちょっとうらやましいかな。後半では著者らが行っているロボット・フィッシュ開発の話になるが、ここらはいま一つの感あり。面白いからいいけど。
なお、本書を通読しても、結局パラドックスはパラドックスのままである。つまり、イルカがなぜ考えられる以上のスピードを出せるのかは未だに分かってないのである。著者は今後の研究に期待を寄せている。
最近、サメの体表面にあるリブレットという微少なでこぼこが大幅に抵抗をなくすことが明らかになり、各方面で応用されつつあるが、イルカはそういう効果では説明できないほど速く泳ぐ。理由もなく速いということはあり得ない。体表で起こっている「何事か」がその理由であることだけは明らかだ。体表でアクティブに流れを制御しているのかもしれない。今後、ミクロなレベルでの流体力学とイルカの生理学の研究が進めば、やがて謎も明らかになるだろう。
TVや水族館で身近な動物にも、大きな謎が秘められているのだ。
文学作品に現れたちょっとした言葉を、科学の話題に(強引に)重ね合わせてアレコレ語る、いわば「文学の中の科学の風景」というようなエッセイに挑戦しようとしたのだ。という趣旨で書かれたエッセイで、これまでの著者のエッセイとは内容も筆致も「芸風」も違う。まあ、軽く読むぶんにはこれでもいいかも。ただ、よそでも書かれている話が多くて、個人的にはイマイチ。「木枯らしもんじゅろう」には苦笑。
長く欠席を続ける学生の家に説得に行く話にも、なんだか笑ってしまった。けど大学生相手に家庭訪問しなくちゃいけないとは、大学の先生も大変なんだなあ。
反応しやすい酸素を総称して一般に活性酸素と呼んでいるのだが、活性酸素にはスーパーオキシドイオン、過酸価水素、ヒドロキシラジカル、一重項酸素、さらにはオゾン、酸化窒素、ペルオキシラジカルなどの種類がある。それぞれ生成のされかたが違い、電子の状態が違い、ふるまいが違う。強い酸化力と高い反応性を持つ活性酸素は生体を傷つける。だが、その一方で、生体は、免疫機能においてその高い反応性を利用している。酸素もそうだが、その結果として生まれる活性酸素もまた、両刃の剣なのだ。
まあ、小冊子だし、そんなに悪い本ではない。
内容的にはやっぱりつっこみがあさく、さらさらと流れるだけ。それだけに、TV見ながら読むのにはいいのだが、本書を読んで何か真面目に考えようという気にはならない。やさしく書かれた保健体育の教科書みたいなものである。
女と男をめぐる一番の不思議は、なぜ男が女にひかれ、男が女に引かれるようになるのかという点だ。これは基本的な謎でありながら、未だにかくかくしかじかだからです、と答えられないものの一つである。どうやらそういうところに何らコミットする気のない本書は、私には面白みのない本だった。
余談だが、本書にもちらっとふれられている妊娠中毒症による死亡事故については、ただその様子を時系列でおっただけの本がある。タイトルを失念してしまったのだが、おそろしく壮絶な本だった。
むろん、その生き物を使って何をやっているかについても触れられている。おまけみたいなものだが、それでもなお面白い。私のような人間にとっては、とにかくネタの宝庫である。中でもヤマトヒメミミズが面白い。これ、本当にどんな生き物なんだろうか? 知りたい人は本書をめくりましょう。
一つ一つは数ページでさっと読める。それだけにちょっともの足りないところもあるが、それよりも本書の場合は、研究者達がブツブツ言いながら面倒を見ている姿を思い浮かべつつ、こっちもニヤニヤしながら読むのが正解である。「研究者」というのもまた、面白い「生きもの」たちなのだから。
だいたい、こういう本。結果として、意識研究のおおざっぱなレビューにもなっている。できれば表でも作って分かりやすくまとめて欲しかったが。おっと、これは昔、僕が「そのうちやります」と言ったことではないか。
後半は複雑系の話になる。複雑系と意識研究には重なるところも多いというが、これは強引。なんでも本書はもともとは複雑系についての本だったのだという。後半のドライビングフォースは「複雑系は、本当に科学なのだろうか」という疑問である。前半の意識研究パートもそうだが、全般的にこの感覚は、僕が以前抱いていた感覚にひじょうに似ていて、パッパッパと読めた。もっともそれには、一文ごとに改行されている本書の体裁によるところも大きいのだが。
全体的なことをいうと、結構おもしろかった、ということになる。ただ、著者自身がどう考えたかというポイントが非常に弱い。この辺、海外のジャーナリストが書いた本とは大きく異なる。ただし本書の場合は、おそらく、そういうところに著者自身の興味がなかったのかもしれない。自分自身のもやもやした疑問や感覚に正直に、科学者達の間を浮動する──その感覚を、できるだけそのままに伝えようとしたらこうなった。そんなところなのかもしれない。そういう面では、なんとなく共感してしまった。
テーマは宇宙開発(五代富文)、深海探査(高川真一)、リニアモーターカー(高木肇)、ITS(越正毅)、マイクロマシン(藤正巌)、カオス(金子邦彦)。それぞれ対談のあとに、現状が取材され、簡潔にまとめられている。
後半には表題の小論考がつけられている。こちらは本人によるものだろうか?「──」と傍点を多用した小松文体で書かれている。そして、あの独特のセンス──たとえば車の馬力に感嘆し、さらにそれを抑え制御している人間に感嘆するセンス──この辺がなんとも小松左京で、ちょっと嬉しかった。
そしてこの本もまた、意識や複雑系研究への期待でまとめられて終わっているのであった。ちゃんちゃん。
ただ問題は、本書の先にあるわけだ。クローンはコピー人間ではない、いろんな人がいろんなことを言っている、それはもう分かりきっていることなのだから。
私自身は、基本的には技術推進派である。いたづらに禁止することは逆に多くの弊害をもたらす可能性が高いと考える。たとえば、一企業によってより確実性の高いクローニング技術が握られたらどうなるか? また、特定臓器の製作など、人の命を救う可能性のある技術を国家権力が禁止することは非人道的であるとは言えないだろうか?
もちろん、反論もあるだろう、当然である。それでいいのだ。問題の始まりは、一人一人が自分で考えるか考えないかという一点にあるのだから。
これからこういう本がどんどん刊行されるだろう。よい内容のものが出ることを望む。事情により以上。
これも事情により以上。こういう本もいっぱい出るだろうし、現に出ている。でも未来予測ものとなると、やっぱり面白さにだいぶ差があるような気がする。どのくらい現実的か、またその逆でどのくらい想像力を使っているかという点が、歴史ものよりもはっきりと差になって現れるからだろう。
また科学者の伝記では常に一つの問題がある。科学と人間的側面の二つをどう描くかが難しいのである。科学の詳細に立ち入りすぎると何の本か分からなくなるが、あまり説明しないと、その人物の何が凄いのかまるで分からなくなってしまう。そのバランスが難しい。
本書は、これらの問題において、非常にバランスがいい。センスがいいと言ってもいい。訳者あとがきを読むと原書には科学面において間違いもあったそうだが、その辺も訂正してあるそうだ。
中身は時系列である(当たり前か)。半分が科学者としてのポーリング。そのあと4分の1が平和運動家、そして議会に喚問されていた頃のポーリング。そして残りの4分の1がビタミンCの布教者としてのポーリング。
著者、そして訳者が、ポーリングは最初から最後まで同じであったのだ(つまり晩年もぼけていたわけではない)、と書いているのだが、それに私も賛同する。たぶんポーリングは、直感の人であったのだろう。原子価結合もビタミンCの効用も、結局直感に従ってアタマの中で信念を形作っていたに違いない。
臓器移植においてドナー不足は深刻な問題である。それを解消する一つの可能性として「異種移植」が検討されている。すでにサルの心臓などをヒトに移植する実験は1964年ごろから行われていた。本書でもまず、「ベビー・フェイ」と呼ばれた15年前のヒヒ心臓移植実験の話から始まる。その後、カレルによる血管縫合技術の開発や免疫抑制剤シクロスポリンの開発など移植の歴史、そして臓器移植の現状などを経て、本題の異種移植に入る。
ここが核心であり、非常に面白い。移植医療の現状はもちろん、免疫学の基本なども丁寧に踏まえつつ、的確に解説されている。
現在、異種移植のドナーの有力候補動物はブタである。なぜブタなのか。本当は、チンパンジーなど類人猿のほうが適している。だがこれらは希少な動物である。だからヒヒなどが使われていたのだが、ヒヒにはウイルス感染の可能性などがある。また供給数もやはり限られている。一方ブタは供給は安定しているし、特定の微生物感染のないSPFブタが開発されていることは誰でもご存じであろう(肉屋やスーパーに行けば売っている)。ブタがヒトにいろいろと似ていて実験動物として使われていることは言うまでもない。心臓も非常によく似ていて、血管造影だとヒトのそれと区別しにくいほどだという。
ではさっさと移植できるのかというと、もちろんそうではない。異種移植の場合は通常の拒絶反応以外に、「超急性拒絶反応」というものがある。移植後、数分もたたないうちに臓器が破壊されていくのである。これは「補体」と呼ばれる成分による反応である。補体が抗体と共同で細胞を破壊するのだ。この仕組みはかなり面白いので、本書の内容をまとめなおしてみよう。
まず我々の体の中には自然抗体と呼ばれるものがある。その中にαガラクトース抗原という物質に対する抗体がある。αガラクトース抗原は通常、糖鎖の末端に付着している。この物質は多くの哺乳類が持っているのだが、ヒトやサルはこれを持ってない。だから生まれたのちに、自然抗体がつくられるのだ。ちなみにブタなどは生まれたときから持っているので免疫寛容という状態になっている。すなわち抗体は持っていない。
さて、ブタの臓器をヒトに移植したとする。ブタ臓器の内皮細胞にはαガラクトース抗原がある。よって、ヒトの血中にあるαガラクトース抗原に対する抗体は、ただちにブタ臓器を異物として認識、抗原=抗体複合物を作り、これが引き金となり補体による反応が次々と起き細胞が破壊されはじめる。まず血管壁が破壊され、それを防ぐために血小板によって血液凝固が始まるが、結果として臓器への血流が止まり、臓器は死滅する。これが超急性拒絶反応と呼ばれるものである。
異種移植するためには、これをなんとかしなければならない。本書によれば可能性は3つ。
いったい何をいっているんだ?と思われる方もいるかもしれない。あまりに途方もない話だと。だが実際に、ブタ組織の移植は既に臨床試験が行われているのである。パーキンソン病の治療の一つに、ヒト胎児脳の移植という方法があることはご存じの方も多いと思う。だがこれには多くの問題がある。そこで、ブタ胎児の脳細胞を移植する試験が行われているのである(脳では拒絶反応は比較的おきにくいのだそうである)。その他にもハンチントン病、脾臓細胞の移植による糖尿病の治療、肝細胞移植による肝臓障害の快復などが検討されている。これらが実際に行われ、効果を上げているということ自体、驚異的な話である。異種移植が遠い話ではないことを思い知らされる。
本書後半は、鳥獣共通感染症など、ブタ内在性レトロウイルスほかの感染の危険性(ご存じのとおり、著者の専門はこれである)、そして動物福祉などの観点から見た倫理問題などが議論される。もちろん、科学的、つまり機械的・生理的機能を本当にブタ臓器が代替しうるのかという根本的問題もある。また倫理にしても動物福祉の問題以外にもいろいろあることは誰にでも分かる。たとえば将来、ヒト臓器とブタ臓器の分配はいったいどうするのか、裕福な人間はヒト臓器、弱者はブタ臓器といった状況・問題も発生するかもしれないと著者は指摘している。
やはり必読の一冊だ。