多数の著書を持つ宇宙論研究者の著者だが、本書のトーンは至ってユーモラス。蔵書の山とも格闘しつつ、環境共生、高齢化対策の二つを柱として自宅新築の様子を細かく追う様は、気楽に読めて楽しい。
そして土台には丈夫なクリの木を使い、シロアリよけに木酢タールを塗り、ペンキの代わりに柿渋を使うといった自宅に対する細かい気遣いが、「いつかオレもこんな家に住みたいなあ」と思わせたりして。まあ、実際には無理だろうけどね…。
もちろん頭に書いたとおりAct localyを実践しようとした「環境本」でもあるのだが、個人的には『サライ』的に楽しませてもらった。
しかし、「家を建てる」、これ一つだけのことからも、一冊の本を書き出し、しかも結構それが読めてしまうのはやっぱり筆力だろうか。
アップしました。こちらです。
さて中身。著者・松原氏は将棋コンピュータや鉄腕アトムへの憧れを繰り返し挙げていることでも有名だ。その彼が、現在のロボット、人工知能などの到達点と問題点(ディープブルーやフレーム問題、AIと身体・行動など)、ロボット同士によるサッカー・ロボカップの率直な現状、さらに目的と夢を語り、最後に知能問題をめぐるパラダイムシフトを踏まえて、アトム実現への課題を語る。
うん、内容そのものはこんなところだな。これと著者名で「ははあん」と見当が付く人は、まあ、読まなくても問題ないのでは。もちろん、読んでも良いんですけど。読みやすいので、さらさらと読めることは確かです。
面白かったのは「日本的なロボット観」という話。いわゆる西洋では、ロボットに対しては嫌悪感や恐怖感が抱かれているのだそうな。ところが日本では「鉄腕アトム」のおかげかどうか、ロボットやAIに対して「憧れや夢を託しこそすれ、嫌悪感を抱く人はあまりいません」。その表れが、日本のロボット研究者の数(割合)だという。著者によると、「おそらく、アメリカのコンピュータ・サイエンス全体におけるロボット研究者の割合に比べて、日本は四〜五倍は多いのではないでしょうか」という。
なるほど。そういうものなのだろうか。
ちなみに内容&雰囲気はこうだ。極めてよくまとめっている帯の惹句を引用する。
6才の娘・早菜ちゃんを連れて、幼少の頃からの夢の地アフリカへ。ジャングルのゴリラの孤児を森に返すプロジェクトに参加。あかんぼうゴリラとの格闘の日々。大自然のなかで奔放に育つ早菜ちゃん。さて。
5年後、プロジェクトが軌道にのりかけた矢先に、内戦が勃発。飛び交う銃弾とレイプの恐怖のなか、あかんぼうゴリラと早菜ちゃんとともに決死の脱出を遂げる。離婚、マラリア、戦争なんのその。夢を追い求め、国境を越えて活躍するママさん学者の豪快アフリカ体験記。
だから本書は、あくまで一人の研究者の数年、しかもそのごく一部を本人が書きたいように綴った。良くも悪くもただそれだけの本である。もっともこっちも、多分そうなんだろうなと思って買っているわけだから、文句を言うのはお門違いかもしれない。僕がなぜこの本を買ったかというと、著者の名前にオボエがあったからである。
本書のどこにも書かれてないが、著者は立花隆『サル学の現在』第一章<サル学者の誕生>に登場している。まだ著者が博士過程在学中、アフリカに憧れている頃に行われたインタビューである。本書にもメインキャラクターとして登場する早菜ちゃんは当時生後5ヶ月で、著者は「子連れの研究者」として屋久島を駆けめぐる様子を取材されている。そして、女性独自の視点を生かして欲しいと記事はまとめられている。
書店で本書タイトルと著者名をパッと見た瞬間、その記事の内容が甦ってきた(ここらへんが、なんだかんだ言っても立花氏の凄いところなのかもしれない)。そして、あのインタビューの後、この研究者がどういう人生を歩み、成長していったのか知りたくなったのである。
というわけで、僕と同じ様な興味−−一人の研究者の数年間−−に興味がある人は読みましょう。それ以外の方には、うーん、どうかなあ。
なお「科学的な」内容はほとんどないので、科学書ではありません、念のため(ゴリラの一頭が絵を描いた、という話くらい)。コンゴ内戦の描写はさすがに迫力がある。
目次をご紹介しておこう。
この他、巻末には「座談会」の記録がついており、これがほぼそのまま書評になっている(こういうの、専門書にはみんな付けるようにしてはどうだろう)。だからあんまり付け加えることもない、というか、本書の場合どの内容も面白く、まとめようがない、というのが正直なところ(あー、逃げです、すいません)。
ただその面白さは、ある意味「羅列的」な面白さでしかないのもまた確かだ。本書では目次をご覧頂ければお分かりのとおりアンドロゲンに目を向けているのだが、それだけで脳の性差が説明できるわけでもない。いろいろな事実は明らかになってきた。だがその原理が分からない、そんなもどかしさがある。
だが本書が有り難い本であることはやはり確かなのだ。文章も丁寧で分かりやすい。
著者は国立天文台長。1970年代末、国外に大型天体望遠鏡をと言いだしてから<すばる>完成に至るまで20年の歩みを「日本が戦後の経済成長期を経て変革の時代へと進む中での『一人の天文学者の歩み』」と重ね合わせつつ描いた本。筆致は苦労を綴りながらも淡々としているのだが、読後思わず「感慨無量」という四文字熟語が浮かんでくる一冊である。面白いし、なにより、しみじみと「良い本」。
著者は日記を綴っていたそうで、本書もそれをベースに原稿の形に仕上げられていったらしい。そのためか、それぞれの時代−−そう、本書に描かれた時間は「時代」というほうがふさわしい−−の雰囲気、著者の「心情の流れ」が、生き生きと伝わってくる。
最初、3〜4m級さえ作ってない日本が、しかも国外に400億円をかけて大型の天体望遠鏡を建設するなんて話は、著者自身も含めて、誰も本気にしていなかったという。それを研究者はじめ、虎ノ門の文部省担当官、永田町の国会議員たちら(本書には首相経験者らの名前も複数登場する。政治家たちの意外な姿も垣間見える)の元に足繁く通って説得していく。政局に従い右左と揺れ動きながらも、少しずつ真実味を増していく国設大望遠鏡(JNLT)計画。
やがて<すばる>と命名された大型望遠鏡は、実際の建設作業も楽なものではなかった。よくメディアで取り上げられる主鏡の問題だけではない。基礎工事の事故や、ドーム内での火災などで死傷者も出ているのだ。
これらの過程が、実際の推進者であった著者自身の手によって、まざまざと描かれていく。不安、希望、いらつき、夢、一つ一つのイベントに一喜一憂する著者。これら心の揺れ動きが丁寧に描かれることで、本書は実に面白い本に仕上がった。研究者たち自身が決して一丸ではなかったらしいことも透けて見える。
著者はまだ計画が姿を見せていなかったころ、「大きな科学プロジェクトを実現するのは、科学そのものですよ」と言われ、緻密さ、継続的な情熱、普遍的説得力を要求されるからだと合点したという。<すばる>建設の過程は、まさにそうであったのだろう。
もう一つ。著者はよく、「何の役に立つのですか」「どうして我が国で造らなくてはならないのですか」といった質問をぶつけられたという。そのたびに答えをひねり出していたのだろうが、思いは結局一つだったのだ。「宇宙の果てまで」を見たい、ただそれだけ。
素直な文体が感慨を呼ぶ、良い本である。
面白いのは後半、「技術を牽引する海外企業」、そして「巻き返し目指す日本の研究機関 活路はどこに?」の二章である。特に日本企業の取り組み−−オリンパスによる微細加工技術の応用、名古屋大学の「化学IC」構想、日立が得意としている(らしい)マイクロキャピラリー技術、宝酒造の数々の成果、そしてイネゲノム計画などが紹介されている。その他各種ベンチャーの動きなども簡単ではあるものの傾向がまとめられており、なかなか興味深い。
この手の報告書に興味がある方はどうぞ。これだけまとまっていると、何かと便利かもしれない。ただ、それほど内容が濃くないので、手放しですすめることはできないかな。
今後、バイオ産業はIT産業と同様のインパクトを社会にもたらすと本書は締めくくられている。日本のバイオ研究は海外に比べて10年遅れている、と言われているそうだ。もっともそれは、バイオ研究だけではないだろうけど。
著者の一人・橋本氏の専門は奥付によると「スポーツ栄養」とのこと。そのせいか、本書の後半は健康と運動といった内容になっている。肥満を防ぐにはまず運動だ、と。運動よりもまず食事制限、っていう人もいればこういう人もいる。この辺って人によって全然考え方が違うんだなあ。まあ、いろいろ考えるよりは運動した方が良いには決まってるけど。
現在「医」は、量的にはそろそろ飽和しつつあり、「質」が求められる時代へと移りつつある。これまでは、はっきり言ってしまえば密室医療であり、そこで何がどのように行われているのかという点は「医師の良心」という曖昧模糊としたものに押しつけられていた。これからはそうはいかなくなる。我々一般市民にとっては、これからが重要な時代となる。先端で何が可能になっているかを知り、行為としての医で何が行われるべきかを考えなければならない。
本書の内容は先端的現代的な課題−−がん、痴呆、感染症、臓器移植、遺伝子治療−−と、医療と社会−−医師の育成、看護、地域医療、経済活動としての医療、法と倫理、今後の政策−−を扱う2部からなっている。うしろには座談会録つき。
どちらもよくまとまってはいるが、知っている人は知っている話で、そう面白くはない。だが、こういう本が岩波新書という形で出ることには、やはり意味があるのかもしれない。なにせ発行部数がまったく違うわけだから。というわけで一定の評価を。
生薬といえば、効くのは効くが、なぜ効くのかさっぱり分かってないんだろうと勝手に思いこんでいたのだが、意外と(分かっているモノは)分かっているのだな、と感じた。生薬の薬理効果の科学的解明もそれなりに進んでいるのだ。当たり前だが。
とはいうものの、分かってない部分のほうが遙かに多いのだが。
登場する生薬はアロエやドクダミのように身近なものから、さっぱり聞いたことのないもの、漢方薬屋にでも行かないとないんじゃないかと思えるようなものまで含まれている。私としてはやっぱり、名前を知っている植物の意外な薬理効果を知ったことが収穫だった。たとえば、クチナシにはどんな薬理効果があると思う? その活性本体は?
ともかく、本書で挙げられている数多くの植物から、やがて素晴らしい薬が登場するのかもしれない。まさに温故知新である。
私なんぞはこの程度のことしか言えないのだが、「その筋」の人が読めば、意外なことが見つかるかもしれない。ぜひ、その辺の方は読んでみて欲しい。
著者はヒトの性の進化にももっと目を向けるべきだという。性のありようは、ヒトを現在のヒトたらしめた重要な特徴の一つなのだから、当然の主張である。
で、色々と考えてみる。なぜ男は授乳しないのか? セックスはなぜ楽しいか? ヒトの排卵シグナルはいつごろ、どのような過程で隠蔽されるに至ったのだろうか? なぜ閉経が起こるのか? セックスアピールはいったい何のためにあるのだろうか?
それぞれの内容については本書をめくって頂きたい。ヒトの排卵シグナル隠蔽の話は、ちょっと面白いかな。ふむふむと思わせるものがある。でもやっぱり、お話でしかないような気もするんだよなあ。
お話といえば、より「お話」な点で面白かったのはセックスアピールの話。著者によると、女性の身体の性的な装飾──豊かな乳房、張った臀部はそれぞれ豊かな授乳能力や産道の広さを示す「欺きのシグナル」ではないかと論じる人もいるそうだ(という表現を著者は使っているが、著者自身もおそらくそう考えているのだろう)。
ともあれ、おそらく本書の主眼は「ヒトの性はなぜかくも奇妙なのか」ということを他種(ゴリラやボノボなど)と比べて明らかにするということにあったのだろう。そういう面では成功していると言えるかもしれない。
以下余談二つ。1)本書はひょっとすると「です・ます」で訳したほうが内容に合致していたのではないか。2)ずーっと刊行されてなかった<サイエンスマスターズ>シリーズが再び刊行され始めたのは嬉しいことである。やっぱり売れないだろうけど。
ともあれ、哲学の人がいうところの心脳問題、そしてそれぞれの立場の人がどういう考え方のもと何を主張しているかは一望できる本である。よくまとまっていると言っても良いのではなかろうか。資料にはなるし、勉強させて頂きました。
もちろん僕も、だからこそ購入したわけなのだが。うーん。読むのにやたらめったら時間がかかってしまった。別に内容が難しいわけでも、文章が意味不明だったわけでもない。ワインバーグは本書を丁寧に書いている。おそらく他の書評家の人達が取り上げるだろうポイント──いくつかの不正事件騒動の時の赤裸々な思いや、研究の焦りといった心情については、確かに彼以外には書けないだろう。当たり前だけど。
それは確かなのだが、なんでこんなに読みにくかったんだろう。わからないなあ。ここを分析しないと書評じゃないんだけど。すいません。
帯が(ありきたりではあるのだけど)気に入ったので引用してご紹介しておく。
<表>まあ、こんな本です。科学研究の現場を覗いてみたい人に。
栄光、挫折、歓喜、落胆、嫉妬、熱狂、疑惑、焦燥…
さまざまな情念と
個性とが交錯する、
科学者達のドラマ<裏>
がんの起源に関する無数の仮説が
騒がしく主張される様を、
ある人がかつていみじくも、
こう表現した。
「がんで死ぬ人より、
がんで食っている人の方が断然多い」と。
著者が就職の挨拶に行ったときには、遺伝研はまだ「木造二階建ての倉庫を改装した建物が一つだけ」であったという。設備は全くなく、「机と火鉢」しかなかったそうだ。こういう昔話は一歩間違えると退屈なのだが、本書では実にユーモラスに表現されている。この時代からの著者の研究者人生が綴られていく。
内容は単純で、マウスの亜種がどのように形成されていったのか、そしてその中から分かってきたアジア産マウスの特異性といったことが、研究史を辿りながら描かれていく。あとはヒトとマウスのかかわりについてなど。至って淡々としている。だが、なぜか面白いのである。おそらくその理由は、著者自身がなぜ、どのような動機、どのような問題意識を持って研究していったのかということがきちんと切り出されているからだろう。
なお、本書で<高校生に贈る生物学>シリーズは完結。僕が読んだ中では、この本が一番よくまとまっているし、「高校生に贈る」という枕詞にも合致しているように思う。おそらく、編集者が文章を書くという形をとったことが、良い方に働いたのだろう。
流れるような構成と、飾らない文章、にじみ出てくる研究のエッセンス、そして若い研究者と研究者のタマゴ達へのメッセージ。これらの要素を考えると、本書は岩波ジュニア新書から出した方が良かったのではないか。
そう考えると<高校生に贈る生物学>シリーズそのものの意義って良く分からないな。
本書の記述内容に関しての責任は、万一の翻訳の不備を除き、あくまで著者自身に帰すべきものであり、小社では内容の真偽に関する責任は負いかねることをお断りしておきます。あらかじめご了承下さい。と書かれている本書は、その筋では有名な本である。以前は『複製人間の誕生』というタイトルで二見書房から刊行されていた、と言えば「ああ、あの本か」と思い出す方も多いのではなかろうか。私は人間のクローン誕生に携わった、と主張する「ノンフィクション」である。時は1973年〜1976年。
刊行された本書はベストセラーになる一方で、一致団結した科学者たちの一斉攻撃を受けた。さらには公聴会まで開かれた(正確に言えば科学者達からの反論・嘲笑は刊行直前に起こった)。当時の騒動に関しては、社会風潮や科学状況も含めてまるごと一章を割いて分析している『クローン羊ドリー』第5章<『複製人間の誕生』>に詳しい。それによると著者ロービックは信頼のおけるサイエンス・ライターとして知られていたとのことだ。彼がなぜ、こういう本を突然書いたのかは謎としか言いようがない。その辺についても『クローン羊ドリー』にあるので、そちらを読んで欲しい。
なお本書巻末には「ロービック20年目の発言」と題された、1998年に『OMNI』に掲載された著者自身の発言記事の翻訳も掲載されている。これによると彼は今でも本書で描かれたプロジェクトが実際に行われ、クローンが誕生したと考えているばかりか、現在も世界のどこかで同様のプロジェクトが進行していると考えているそうだ。
本書で描かれる内容が真実かどうかは今やどうでもいいことである(そこについても『クローン羊ドリー』を。しつこいですが)。今回改めて本書を通読して感じたのは、いま現在クローン技術に関して指摘されている倫理的な問題点が、当時とほとんど変わっていない、というこだ。技術は大きく進歩し、今や当時の科学者達が使った「不可能だ」という言葉は使えなくなった。当時の科学者達は、予測できる将来にそんなことが起こるはずがない、と言っていたのだ(そしてイルメンゼー事件が起きてまた大騒動になったのだが、それはまた別の話)。いまそんなことを言ったら逆に馬鹿にされてしまうだろう。だが倫理面はまるで変わっていないのである。
以下は本書の解説「編集部から読者へ」とほとんど同じになってしまうのでそっちを読んで頂きたい。本書は「大衆向け」読み物としてもなかなか面白く、当時ベストセラーになったという点にも頷ける。そして1970年代末から20年経ったいま、何がどう変化し、何が全く変わっていないのか考えるきっかけとしても、本書を読む価値は十分にあると言える。
「1限目」は<細胞内社会の主役を描く>と題され、実際の細胞は教科書的な姿をしていないといった話や、『パラサイト・イヴ』を書くに至った経緯、そしてその反響についてといった内容。「結局、勉強というのは覚えることではなくて、知らないところと知っているところの境目を見分ける作業なのです。いま何がわかっていないのか、とか、いまはここまでわかっているけれど本当にそうなのか、といったことをひとつひとつ確認していくのが勉強なのです」には共感。
さて、この一限目で面白いのは『パラサイト・イヴ』反響の分析である。なんと著者は『パラサイト・イヴ』の反響−−雑誌記事、書評など−−を月ごとに集計、グラフでその変遷を定量化して見せる。これには思わず笑ってしまった。こんな作家はいないでしょう、普通。「難しいと面白いは両立しうる」とか、書評の内容が、絶賛系から酷評系にだんだん変わっていく、というのも面白いが、オウムとの関連づけによる論評の変化もさらに面白い。
これは単に「面白い」だけではなく、社会の「理系」に対するイメージと直結している。と、いった内容が主体なのが「2限目」の<「文系」と「理系」>である。「理系イメージのひとり歩き」という現象については、おそらく多くの方が感じていることだろう。文系と理系の「違い」のみが拡大されている現状は何とかならないものか、と僕も思う。ただ、違いは本当にないのかというと、それも違うわけで、なかなか難しいところではある。そのうち僕も一度真面目に考えてみたいテーマだ。
3限目は小説の書き方の話がメイン。調べることの重要性が強調されている。もともと小説に限らず、物事というのはすべからく文章にまとめる能力が必要とされる。ちょっと本書の内容を外れるのだが、よく理科教育の話で、論理的に考えることを教えるのは理科しかない、なんてことを言う人がいるのだが、そんなことはないと思う。それはどちらかというと「国語」の仕事だと思うのである。
最後に著者は自分が面白いと思うことをやれ、とまとめている。
まあ、それができればそれにこしたことはないのだけど。それは「文理」問わず、実際にはなかなか難しいだろうな。世の中、「なりたいものになる」人よりも、「なれるものになる」人の方が多いんだから。
あ、就職活動の季節に暗いことを言ってしまったよ。ともあれ本書は、高校生のみならず、文理問題に興味ある人や学校の先生にも参考になる点が多いのではなかろうか。小説書きたい人もね。
もっとも本書の場合は、スタートレックに突っ込みを入れながら、SFコンベンションの夜中よろしく、うだうだヨタ話をするというのが趣旨らしい。そう考えると、本書の訳文は固すぎるのではないか。また固有名詞ほかの訳に、気になるものがいくつもあって、そこでまた引っかかってしまう。ルイセンコをリセンコと、ダマジオをデマジオとやったりしているのである。あるいは臓器養殖といった表現。それをいうなら臓器培養でしょう。訳者はスタートレックのファンなので、それぞれのエピソード内容については間違いないのだろうが、もっと軽妙なタッチで訳して欲しかった、というのが本音。
また、本当に著者は生物学者なのだろうか、と首を捻ってしまうところもある(経歴を見るとハーバードの助教授とあるのだが)。ミームに対する誤解(?)や、ゲノムプロジェクトはここ数十年で終わるだろうとか、「ボノボやピグミー・チンパンジー」といった形の記述である。少なくともまともな生物学者ならこんな書き方はしないだろう。いったいどうなっているのだろうか。
順序が逆になってしまったが、本書はスタートレックの科学、特にスタートレックの生物学に焦点を当てた謎本の類である。生物学といっても範囲は広い。本書でも生物単体から始まり、脳や意識の話、そして社会全体に至るまで考察している。だが本書で何か新しい知識を得ようとかは思わないほうがいい。本書は基本的にスタートレックをネタにしたヨタ話なのだから。柳田理科雄氏の本を読んで物理学を勉強しようという人はいないだろう。それと同じ事だ。
本書の問題は上記のようにいろいろあるのだが、中でも最大のものは、スタートレック本体を知らない人には何がなんだかさっぱり分からないということだろう。著作権のためか、本書には図版一枚ないのである。これは二重の意味で残念である。図版があれば本書の理解を大幅に助けるばかりか、単純にめくるだけでも楽しい宇宙生物図鑑となったかもしれないのに。
またほとんどのものが「不可能である」と結論づけられているのも気になった。フィクションに対して、そういうネガティブな方向で言ってしまうのは簡単なのだ。そんなことなら誰でもできる。僕としては、もし○○のような物質があったら可能だ、仮に○○といったものを設定すると…とか、ポジティブな方向で空想を巡らせて欲しかった。
だからオレは柳田理科雄よりもサーフライダー21の方が好き。あ、これは関係ない話だな。
皮膚は身体を覆う単なる膜ではない。皮膚は、外界と身体を峻別し防御する免疫器官である。そのため逆に、皮膚は湿疹、じんましん、アレルギーや免疫の関係する病を起こしやすいのだ。そして「皮膚病のない健康人はいない」という言葉があるほど、私たちの皮膚はどこかしらで病を抱えているものらしい。
本書は、皮膚の病がどのようにして起こるのかといったことから肌のケア、さらには皮膚の付属器官としての毛(ハゲとか)まで幅広く押さえた本である。光老化に対する警鐘から、過敏免疫反応としての皮膚病の捉え方まで、内容はバラエティに富んでいる。内容はどちらかというと羅列に近いのだが、「皮膚は免疫器官である」という思想・問題意識に貫かれているためか、すっと読めるし、飽きない。皮膚病、皮膚に関するざっとした知識を手に入れるには良い本と言える。
しかしやっぱり日焼けは良くないのだなあ。でも、真っ白けは嫌だなあと思っちゃうんだよね。欧米の文化に毒されてしまっているのだろうか。