というわけで本書はそういう内容なのだ。31人の、量子コンピュータや量子暗号の研究者・開発者へインタビュー。彼らが「量子論の宿題」に対してどのように考えているのか探りつつ、「量子コンピュータ」や「量子暗号」とは何か紹介する。
「宿題」とは、波束の収縮の問題のこと。つまりコペンハーゲン解釈かあるいは多世界解釈か、あるいはまた違うものを考えているのか。その「宿題」を念頭に置きつつ、実際の新しいテクノロジーを切り口にしたリポートである。インタビューはどれも興味深く面白い。内容はその性格上平易。簡単に書きすぎていると感じる人も多いと思う。まあこれは仕方ないのかも。
読むと、量子コンピュータへのアプローチも、研究者の解釈の立場も様々であることが良く分かる。完全に多世界解釈を取る者もいれば、まったくそんなことは考えていない「動けばいい」という者まで。
本書を読んでいるとだんだん見えてくることがある。それは新しい量子論が、技術レベルではもちろんだが、工学的な発想の面からも必要とされているということだ。同時に、新しい発想が生まれ出ようとしている雰囲気も感じる。ここには「物理の終焉」の姿はかけらもない。まだ姿は見えないが、新しく生まれ変わろうとしている量子論の姿を感じる。
シングルエレクトロンデバイスや量子箱、こういう研究は日本でも多く行われているはずだ。できれば、日本の研究者の報告も行って欲しい。
実際、単一電子素子という言葉は流行っているらしい。知人の光合成研究者はこの言葉を使って科研費を取った(笑)。シングルエレクトロンデバイスとしての生体分子の研究も、さらに進んでいくことだろう。
これと似た内容のものは以前『ワイアード』に掲載された。その記事は結構コンパクトにまとまっていて面白いものだったので、興味のある方は併読してみると良いだろう。また『科学』97年12月号にも量子暗号の記事が出ているそうだ(こちらは読んでいないので伝聞である)。
量子の世界をより豊かに感じたい人へお薦めする。
ユングやフロイトなど「無意識」に関する古典的な見方が本書では主に展開されている。いまさら何を、という気がしなくもないのだが、結局こういう言葉や概念は、臨床現場で役に立つのか立たないのか、その点が問題なのである。無意識というのは、「個人が自分自身を理解する際に与えられる、一つの適切な視点」なのだ。
本書には期待したほど症例などは紹介されていなかったが、無意識なる「心理的メカニズムを理解する上での仮説概念」、そういうものを心の中に設定して患者の心を理解しようとする試みが、どう行われているかはある程度知ることができた。「科学書」だけからは得られない考え方、そして医療現場の姿が、この本にはある。
形態学の二つの柱は「分節性と変形」である。簡単に言えば、生物は節構造を基本単位として構成されており、それら分節が変形することによって新しい形態が作られる、ということである。脊椎動物にはエラと体節の分節性がある。さらにまだあるかもしれないという。
かたちの相同性の起源というか、その発現の仕組みが遺伝子に求められるようになって、随分たつ。色々と面白いことも分かってきた。だが、ふーんとかへーとか思いながら本書をめくると、脊椎動物の顎や頭の形態が実に込み入って複雑なものであることが分かる。その複雑さたるや、本書のような140頁少々のやさしめの本でさえ、僕のような素人は右往左往してしまうもの。遺伝子のコードにしても特定の場所でしか発現しないものや、重複的に発現しているものなどがある。生物の進化なるものが、信じられないような離れ業を演じつつ、複雑な機能と仕組みを作りだしていることを、ちょっとだけ実感させてもらった。
頭の中になんとなくある種の一般形を置き、そこから多様な生物形態が派生しているようなイメージを私は持っていた。それが、(基本的には正しいものの)一つ一つの生物を捉える上では根本的に間違ったイメージであることを思い知らされてしまった。それを相同遺伝子の発現パターンに還元するイメージも間違っている。浅学なため陳腐な言い方になってしまうが、生物というのはやっぱり多様というかなんというか。。。いやもう、勉強になりました。
本書には、あちこち引用したくなる文がありすぎ。だからどこも引用しません。 他の書評をどうぞ。
人間の感覚は単に入力だけから成り立っているのではない。絶えず外界とフィードバックし続けるものである。触覚などはその分かりやすい例である。机を押すと、机の感覚だけではなく、自らの指の弾力や、関節への衝撃、指の曲げ角度など、様々な情報が流れて感覚が成立している。絶えず変動し続けるカラダと外界からの入力情報、「外界とのフロー」が重要である、という点はアフォーダンス理論とも関連が深く、実に面白い。
言うまでもなくこれらの問題はVRにとって「感覚の合成」という点で非常に重要になる。
人間はこれまでフィルターを付け加えていくことで、世界に対する認識を変革し、拡張し続けてきた。眼鏡も現実拡張ツールであるし、地球は丸いという認識はいまや皆に認められ、現実として認識されている。リアルという感覚も曖昧だ。TVモニターごしの映像も我々は「リアル」であると認めている。何を現実だと考えるかは、認識の問題である、とも言える。そしてコンピュータの発達も、この延長上にある。
人工の空間、人工の環境を作り出すものとしてのコンピュータ。「思考の外化」ツールとしてのコンピュータ。これらは、ユーザーであれば誰でも理解できると思う。自分の考えを一度ディスプレイに吐き出し、それを再び吸収するツールとして、コンピュータは私にはなくてはならないものだ。この傾向は、VR技術の発達によってさらに加速されるだろう。「現実」は拡張し続けているのだ。
本書は、一般にはあまり馴染みのないヨーロッパの火山の案内、楽しみ方の手ほどき本。地学系紀行本である。実際の描写と解説コラムからなる。扱われている国はギリシャ、フランス、ドイツ、イタリア、アイスランド。かなりの数の火山が扱われている。
あくまで私見かつ一般論だが、この手の本には決定的な弱点がある。地学の基本的な知識が読者の背景にないと全く共感できない、という点である。一般の紀行本の面白い点は「人との触れあい」などにあることが多い。これは単純に、誰もが持つ知識的・経験的背景の範囲で理解しやすいからに他ならない。だが、本書のような地学系の場合、その内容で共感できる点はせいぜいが外見の眺望だけであったり、あるいは被害の様子などに対してだけだったりする。しかも読者のほとんどはそこへ実際に行ったことがないわけで、見たことのない風景を味わあせるのは至難の業である。壮大な眺望、なんて言われても、だからなんなんだ、としか言いようがない。
肝心な点は、著者がそのことに気が付いているかどうかなのだが…。残念ながら本書は及第点に達していない。その理由はいくつかあるが、地形図を始はじめとした図解の不足、つまり説明不足が一因であると考える。普通の人にいきなり地質の話をしても分かるはずがないと思うのだけど。せめてブロックダイアグラムで地質構造を解説するくらいはして欲しい。でないと、一般が火山を文化として楽しんだりはできないでしょう。
とは言うものの、ヨーロッパの火山の一般向け書籍などほとんどないから貴重な本であることは確か。かなり丁寧に書かれており、へー、と思いながら頁を繰ったところもあるだけに、残念な一冊。専門的な内容のコラムと地の文を分離させてしまったのが間違いの元だ。知識がないと楽しめないのだから。
ただし、これから実際にこれらの地域に行く、という人には役に立つだろうと思う。そういう本なのかもしれない。実際に行く人、行ったことのある人のための本なのかも。
でもねえ。普通の人はそんなにヨーロッパの火山を巡ったりできないんですよ。俺なんかも行ってみたいけど、多分一生行けないだろうなあ。
舞台として著者が選んだのは「ダーク・ディバイド(暗い分水嶺)」と呼ばれる土地。著者はこの森に入り、沢をたどり、ビッグフットの姿を探す。いや、著者は積極的にビッグフットの姿を追い求めているわけではないから、「探す」という表現は適切ではないかもしれない。
山に入り、歩き、食べ、寝る。肌で空気と水を感じ、土と生き物と共に生きる。その生活の中で著者は様々な思いを巡らす。豊かな自然、ビッグフットを巡る様々な事象、怪しい噂、追い回すハンター達、自然に対する人間のスタンス、破壊されつつある森について、そしてビッグフットの姿について。ビッグフットとは何者なのか。人と人でないものの境界とは何か。いるのかいないのか、ということではなく、著者は森の象徴としての姿をビッグフットに求めているようだ。いや、それも違う。ビッグフットこそが、人間と自然の境界の象徴なのだ。そして、その境界を引くことに、意味はない。著者は、そう語りたいのだろう。
ビッグフットを巡る様々な人々、様々な立場、ありうる森の将来…。これらの間には「暗い分水嶺」がある。最初は同じところに立っていたのかもしれない。それが、「ビッグフット」という存在を追う内に、それぞれ違うところへ迷いこんでいくのだ。
著者はビッグフットの足跡らしきものを発見する。以下、少々長いが著者の考えを端的に表していると思うので引用。
だが私はこれで何を証明しようとしたのでもなかった。今度の旅に出発したとき、私はビッグフットを発見しようとか、その証拠を見つけようなどと思っていなかった。ビッグフットの捜索者たち、信奉者たち、あるいは何かを証明しようという強迫観念にかられている人たち……私には彼らの列に加わるつもりはまったくない。生物学者として、もし新しい霊長類があらわれたらもちろん興味はもつ。ただナチュラリストとして森の奥を探ってきたきた経験から、そうした生き物に出会っても他の人ほどには驚かないだろう。そして保護論者として、その発見が森の将来にどんな役割を演じるかについてきわめて関心をそそられるだろう。だが物書きとしての私は、この曖昧な「証拠」をふりかざし、何かを証明するために使う気はまったくない。誰に対しても、まして自分に対しても。
なにが環境状態を変えるのか。まだ、現在の科学はその問いにはっきりと答えることはできない。確か「らしい」ことは言えても、「間違いありません」と言えることはない。それだけの知見がまだ蓄積されていない。モデルもまだ不十分である。気候がどのような安定状態にあるのか、そのキャパシティーはどのくらいなのか、どのくらいのストレスを与えるとどう反応するのか、これらのことがまだまだ不明確であるからだ。
気候システムは準安定状態にあると考えられる。そして、その感度がどの程度なのかは分からない。そこが問題なのだ。
その上で著者らはこう語る。
地球温暖化に対する我々の懸念はバネの強さを全く知らないで、そのバネに重りをぶら下げようとしている状況にたとえることができる。バネはその形を保つことができるだろうか?それとも、その重りはバネを回復不可能に変形してしまうのだろうか?
本書は教科書的な本だが、数式などはないし、図版も豊富で分かりやすく、十分一般向けとしても通用する。全体に丁寧な印象。いわゆる温室効果やオゾンホールの話だけではなく、これまでの地史を振り返り、気候というもの性質全体の話を通して、これから起こりうるシナリオを検討する。すっきりとして落ち着いている良い本である。なおクルッツェンはオゾンホールに関する研究でノーベル化学賞を取った人物である。
温暖化問題についてどうこう語りたい人は多いと思う。せめてこのくらいの知識は身につけてから話して欲しいと考えるのはおかしいのだろうか。なんていうのかなあ、ただマスコミが騒ぐから危ないらしいよ、というのには、意味がないというか、それではダメだと思うんですよ、僕は。
エッセイの幅は広い。科学は文化だという話から、科学ジャーナリズムへの意見、複雑系ブームに対する考えなどなど。「よくわからないけどすごい」風の記事では科学とオカルトの区別がつかなくなるだろう、というのは全くもって正論なのだが、その正論も通らないこの世の中って一体…。
SFの方は、そうだなー、昔懐かしいというか、ノスタルジックな印象を受けた。それと、どっちかというと小説というより生の素材というかプロットといった印象。ホントは著者の考え方を良く表している小説の中の一部を抜き出して、ここでご紹介したいのだが、それは「小説を途中から読むことはまかりならん」という僕のポリシーに反するのでやめておこう。
僕は本の帯や背表紙の宣伝文句の悪口を書くことが多いが、この本の背表紙の文章は、本書の内容を的確に表現している。素晴らしい(本当は当然なのだが)。
科学の描き出す夢──宇宙への夢。まだこういう夢を持つ研究者達もいるのだ。やっぱり夢がないとね。日本ではどうだろうか?いるにはいるが、どうもズブリンのような感じの人がいないような気がするなあ。夢と現実をはっきり切り分けて考えているだけでは意味がない。できることをどんどんやって行こうじゃないか、といった、実業家的な夢見人が必要だ。
量子論だけに止まらず、物理学のフロントが持つ問題意識と哲学的な意味合いが、フカンできる本である。ただ、いきなり本書だけ読んでもその辺は実感できないかもしれない。ちょっと予習をしておくと、なお楽しめる本だと思う。
「量子論の宿題は解けるか」にも書かれていたと思うのだが、量子力学から理論で導き出される世界観をもっと楽しもうではないか、という気持ちが本書のあちこちにも現れている。「科学は文化だ」という考え方である。なんか今月はこういう本ばっかり読んでいるような気がする。逆に言えば、「科学は文化」という考え方に対する危機感が、研究者たちの間に(ようやく)広がりつつあるのかもしれない。
犯罪者が犯罪を犯すようになる理由は様々である。不幸な家庭環境、貧しさ、社会への苛立ち、トラウマ…。そして直接のきっかけ。犯罪は、多角的な側面を持っている。著者らはその多角的な側面の一つとして「生物学的側面」を挙げる。犯罪的、反社会的性向を持つ脳。そういうものが存在する、と。犯罪を考える上で、生物学的な側面を落としてはならない、と。
もちろん、それだけで犯罪に走るわけではない。だが、生物学的側面をタブー視し、文化や社会、経済的な側面同様に扱わないことは、「現実をねじ曲げることにほかならない」という。犯罪性の解明には、生物学が不可欠である、というのである。
著者らは様々な数字を上げる。明らかに男性の犯罪件数の方が多い、IQの低さと犯罪は相関がある、親の犯罪歴と子供の犯罪には相関がある、テストステロンの高さ、あるいはセロトニンの低下と犯罪の関係、道徳観念や反省の気持ちを抱かないサイコパスは大脳辺縁系と前頭葉の連絡に異常がある、胎児期に異常が生じている可能性が高い、難産であった…。つまり「遺伝」とある種の「事故」と「(ホルモンなども含めた)環境の影響」、これらがその人物が犯罪者となる可能性を上げる、というのだ。
もちろんそれらの人が皆犯罪者となるというわけではない。貧困家庭に育ったからといって犯罪者になるわけではないように。また問題が問題だけに、これらの数字をはいはい、と額面通り受け取ることはできない。だが、いわゆる「性格」と言われているものを形成する要素のうち、予め決められているものも、「それなりに」あることは疑う余地はない。だが、人間は可塑性の大きい生物である。問題は、その割合がどの程度か、ということなのだが…。
著者らの主張は、ある種の人々に「犯罪者予備軍」のレッテルを貼ることではないという。まあこの主張は当然である。だが、こういった主張にその手の危険はつきものである。だが、生まれつきある種の障害を持ち、その結果として犯罪行為が発生することもあるかもしれない。一つ確かなことは、社会が不当に人権を蹂躙することは許されない、ということだ。考慮の一材料として一読をおすすめする。
でもやっぱり現実の月の方がいいね。当たり前か。寒空にぽっかり浮いた月を見る。
どれもそれほど長いものではないが、なかなか興味深いものばかりだった。短い文章の中にそれぞれの研究者のエッセンスが詰まっている。上記の何人かには私もインタビューさせてもらったことがあるが、それぞれの研究者の人柄が現れていて、思わずにやにやしてしまった。
中で私が特に面白いと感じたのは、川上氏、大島氏、宇佐見氏の寄稿であった。
川上氏は「縞々学(東京大学出版会)」などで知られる全地球史解読計画の旗手である。氏の研究は本書でも簡単にまとめられているが上記「縞々学」は実に面白い本である。地球史に興味のある方には是非一読をオススメする。
大島氏は生命の起源などに多くの著作を持つ。氏は、生命は一夜にして突然誕生したのかもしれないと語っている。ある臨界状態に達したとき、相転移のように生命が誕生したのもかもしれないというのである。これは長年研究し続けてきた氏が抱くようになった考えであることに注目すべき。
宇佐見氏は、進化のメカニズムを数理モデルを使って解明しようと試みている。また複雑系についての氏のノートは現状を分かりやすく分析している。
進化論的人間論はダーウィン以来、ずっとあるものだが、なかなか表舞台に出てこようとしなかった。出てきた時には優生学や差別観の正当化と結びついていたからだし、またそのような形で利用される不信感/不安感があったからだ。また、人間というかなり変わっている(と思われる)生き物に対するアプローチ方としては、あんまり適していないのではないかという見方もあった。だが、人間もやはり生物。本来、自然科学的研究の対象となるべきものである。当然、進化論的アプローチも認められて然るべきだ。いや、我々自身の由来を知ろうと思ったら、それ以外のアプローチは、ある意味あり得ない。少なくとも自然科学の目からすれば。
かくして多くの人々が現在に至るまで進化論というまな板と包丁を使って様々な研究をしてきた。それらの研究は科学のみならず人文系の思想にも影響を与えてきた。本書はその歴史──進化論が人間という存在の由来に挑戦してきた歴史──をざっと見渡す本である。また著者は、これまでの人文社会的な考え方や「問い方」、アプローチの仕方を、進化論的アプローチで書き直してみようと試みる。これは自然科学者としては当然のことかもしれない。
というわけで、人間進化論のこれまでと、現在の立ち位置を大ざっぱに確認する為には役に立つ本。各章は短くざっくりと書かれている。章末にはこの分野に影響を与えた主立った人物の顔を簡単に紹介しているおまけつき。
さて、人間の進化的理解というアプローチを紹介している「本」に対しての感想はここまでとしておく。「人間の進化的理解」というアプローチそのものに対しての、本書を通読しての感想に移る。今の段階ではまだまだ「お話」みたいなものだな、というのが正直なところだ。ただし、その「お話」は有形無形の影響を様々な研究に及ぼしている。その影響はこの学問全体を押し上げて行きつつある。
同時にこの種の考え方はここの書評が指摘しているような形で利用されてしまう危険をはらんでいるのも確かなこと。これは学問そのものがどうこう、という問題ではない。ここをどう考えていくか。これは、科学と社会との関わり方を巡る永遠のテーマでもある。問題の一つであることは間違いない。
私見だが、学問の評価は2種類あると思う。学問の「内部」から行われるものと「外部=一般社会」から行われるものの二つである。ある学問の「価値」が社会的に認知されるためには、その両方の評価を受けなければならない。人間の進化的理解に関する学問は、その評価面でもまだ途上にある。
だが人間だけ特別扱いするのも「勿体ない」と思う。人間のことを知りたいのだから、僕は。
私は米本氏の主張に全面的に賛成。
でも一般の受け取り方に関しては、ちょっと甘いかな、という気がするなあ。普通の人の顔が見えてないのではないかな、という気がしなくもない。仕方ないのかもしれないけど。
繰り返し。ドリーに関してはいろいろな本が出ているけど、この1冊でほぼ事足りると思います。
ちょっとバランスの悪い本だが、ドリー誕生までに5年間の年月と年間あたり1億円の費用がかかったといった基本的知識はもちろん、なぜ一般の人がクローンに衝撃を受けたのか、普通の人はあのニュースを見て何を考えたのか、どんな興味がそこにはあったのか、といったことは総覧できる。
では、人間に対して適用することについてはどうなのか。本当にそれは「悪いこと」なのか。「役に立つ」ことはないのか。あるある、いっぱいあるぞ、というのが本書。役に立つとなるとそれはイコールお金になる、ということだ。画して来世紀はクローン・ビジネス(変な言葉だがバイオテクノロジー・ビジネスとでも置き換えれば別に不自然さはない)が花盛りとなるだろう、と著者は語る。
クローンを巡る技術がカネになる。家畜対象だろうと人間対象だろうとそれは当然のことであり、各国の資本は更にクローン技術への投資を続けている。いくら法規制がされたところで人間の欲望は消えさりはしない。欲望だけではない。切実な要望もある。クローン技術は、単に複製生物を作るだけにしか使えないものではないのだ。将来ゲノム解析が進み、分化のメカニズムが解明されてくれば、特定臓器を培養することも可能かもしれない。そこまでいかなくても、トランスジェニック家畜による臓器や薬物の製造は、おそらくどんどん進んでいくだろう。人間への適用は、ある意味で時間の問題なのである。実際、アメリカやイギリスなどはそれを見越していると著者は語り、比較して日本政府の態度や体制、そして遅れた出足を厳しく批判する。
「極端から極端に時代は飛躍すまい」と著者もいうように、それほど極端から極端にはいかないだろう。だがしかし、体細胞クローン家畜は現実にどんどん誕生しているし、それが日常となる日はごく近い。そしてその「恩恵」を我々が薬物や食用肉や乳といった形で受ける日もまたごく近いだろう。同時に、臓器摘出用としてヒト遺伝子が導入された家畜が大量に生産される日もそう遠いとは思えないのである。それらはごくごく自然に我々の生活に入ってくる。ではその先は?「人間クローンのどこが悪いのですか?」と問う(というより詰問する?)著者の主張はある意味で正論であり、これにどう答えるか、その答えはほとんど倫理観の問題となってくるように思う。
だが倫理観というのは人それぞれなのだ。人の生殖技術がなぜ開発されたか。それはその技術を必要とする人がおり、子供を産めないが生みたい人がいたから、そしてそれが医療として、またビジネスとして成立しえたからだ。人自らの発生の過程や分化の秘密を解き明かすことは明らかに人の「利益」に繋がる。そしてそれもまたカネになる。既に多くの人が指摘しているが、カネになるものが現実にならないとは思えない。というより現実は既に進行形なのだ。
本書はまるでアジ演説のような激しい文体で書かれており、この文体に嫌気がさすという人もいると思う。「反論や非難は覚悟している」そうだ。「クローン・ビジネスの世紀」は夢か悪夢か。日本は欧米に負けないように研究を進めるべきか。本書を読むか読まないかのご判断同様、各人皆様におまかせする。
一見役に立ちそうに思えてしまうものもある、そう思ってしまう自分がこわい(笑)。やたらと折り畳み可能だったり、回転したり、歯車が意味不明なところについているのがかわいい。この手の本が好きな人、特許第一号がなんなのか知りたい人へ。