妊娠中、プロゲステロンによって締め付けられていた子宮頸。それが、胎児の視床下部から放出されたホルモンの働きによって柔らかくなりはじめる。陣痛が始まる。プロゲステロン、エストロゲン、プロスタグランジン、オキジトシンなど様々なホルモンが放出、あるいは抑制される。微妙な化学的反応のバランスが、臨界に近づく。様々な筋肉が反応を始める。
こうして、出産が始まる。
生化学的に見ると、だ。
実際には、母親しか分からない世界だ。
本書は極めて平易な口調で、生命誕生・出産の科学を扱う。なぜ<つわり>が起こるのか、何のためにあるのか、そして、いったいなぜ<つわり>の程度が人によって違うのか。母体は、なぜ胎児を拒絶しないのか。こういった謎の、現時点での知見が、極めて平易ながら丹念に、しっかりと書かれている。中には生殖技術に関する記述ももちろんあるが、本書は、現時点で不妊で苦しんでいる人々への福音として、肯定的に捉えている。
まだまだ解き明かされていない事が多いこの世界だが、中でも不思議な器官が胎盤だ。人工臓器の本などをめくってみても、できるのが最後になるだろうと考えられている臓器であるという。著者は胎盤こそ「妊娠というドラマのディレクター」で「それ自身生命を持っている複雑な共生体とも言える」と語る。昔は、単なる錨みたいなもんだと思われていた胎盤。実際には、母体から供給される酸素とグルコースの3分の一を使い、多種多様な分子を製造して胎児の成長を支え、母体と胎児との<かけはし>でもある。表面積は8.4平方m。胎児を拒否反応から守っている秘密も胎盤にあると考えられているという。
この偉大な臓器──胎盤の秘密についてもっと知りたい。さらに研究が進み、良い本が書かれることを希望する。うん。
著者は言う。
「受精の瞬間は、生命の始まりというよりは、継続」。
今年、「一押し」の一冊。
パイロットになるまでの思いと苦労、因習や偏見との闘い。潜水艇のコックピットとはどんなところで、パイロットとはどんな能力を要求されるのか。そして、深海とはどんなところなのか。
科学ファンはもちろんだが、かなり広くオススメできる本。メカフェチの人はコックピット内の描写にぞくぞくするだろうし、短く淡々とした、それでいてユーモラスかつ洗練された文体を読んでいると、最近の女性作家による海外SFを思い出すので、SFファンにもオススメだ(笑)。著者の文章には、実際に深海へ接する一人の人間の、率直な気持ちが溢れている。いくつか文章を引用しよう。
わたしは科学者の目で深海を見る。科学者として学位を得、大学で研究生活を営んできた身として、同僚たちが科学的成果とみなすものを適当な専門用語を使って退屈な大量の論文にまとめるのが常だ。しかし本当のことを言うと、心の中はまったくのアマチュア博物学者で、不思議なワーム、珍妙なかたちのエビ、奇岩と、珍しいものを見つけてはいつもわくわくしているのだ。なんだか科学的じゃないところばかりを抜いてしまったが、きりがないのでやめることにしよう。科学的な、チムニーやチューブワームの記述も、面白いことは保証しておこう。
(「はじめに」より)右舷のマニュピレータは、のぞき窓の近くにあるいくつものスイッチで扱う。それぞれのスイッチはさわり心地が異なり、別の動きを制御するようになっているのだ。熟練した操縦士はまるで楽器でも演奏するかのようにみごとな手つきでスイッチからスイッチへと軽やかに指を動かす。それと同時に油圧のノブをひねると、ピストンとモーターが命令を伝えてマニピュレータは操縦士の腕の延長となる。経験を積むと卵を割らずにつまみ上げられるまでになるが、それは甲板上で必死に練習した成果だ。試料を採集しながら潜水艇の位置をちょっとだけ動かす必要があるときなど、両手でマニュピレータを操作しながら膝で操縦桿を押すという離れ業を披露することもある。
(「チューブワームたちのコーラス」より)
チューブワームやシロウリガイ、ナマコの群れやウミエラの群集、からみあったウミグモたち。背中に「目」を持つ不思議なエビ。「バラの庭園」「ビーハイブ」「ダンテ」「ゴジラ」など、ユニークな名前を付けられた熱水孔。海底火山の猛威。海底に横たわるクジラの骨。本書には、人間には見えないが、深海生物には輝いて見えるチムニー(比喩ではない!)、そこに集う深海生物達の姿をはじめ、我々一般人が目にすることのできない世界が実に新鮮に描かれている。
いまだ、ネモ船長しか知らない世界を、ちょっとだけ覗く…。
この著者にしか書けない本である。
信じられないかもしれないが、超ひも理論は時間の始まり──世界のあらゆる力が完璧に対称的で、原書の超力(スーパーフォース)に統一されていた時代──まで我々を連れ戻してくれる。超ひも理論は我々の存在の中心にありながら、あらゆる人類の経験をはるかに超えた現象に関する疑問に、答えを出してくれるかもしれないのだ。アインシュタインが夢見た、力の統一。
(「14 アインシュタインを超えて」より)
現代の宇宙論が難しいのは、視覚的イメージができない、ということが大きい。例えば、宇宙が始まったばかりは10次元であった、と考えられている。ところが、その宇宙はエネルギー的に不安定だった。そして、安定した宇宙へと崩壊した。現在の4次元を除いた6次元はプランク長さにまで縮んでしまった。こんな話、イメージできないもんな〜。超ひも理論そのものもそうだ。超ひも理論では、物質を構成する基本粒子の違い、全て「超ひも」の振動の違いだと考えられている。「振動するひも」って言われても…。でも、我々自身が、そういう世界に生きている、この事が一番の感動だ。
著者が超ひも理論を強く押す理由は、超ひも理論が最大の対称性を持っていて、様々な方程式の解が要求する対称性の問題を、一番うまく解決してくれるからだ。対称性とは、分かりやすく翻訳してしまうと、置換できるってこと、と言ってしまって良いのかな?回転可能、変換可能、というかな…。うーん、あまり変なことを分かってもないのに書くのも嫌なので、この辺りでやめておこう。対称性については数学が分からないと分からないし。ここら辺りが、この本の一番難しいところだ。
宇宙論の本を、分かりやすく、ごく短く要約することは、私には不可能だ。「大統一理論」や「超ひも理論」検証の為のデータ要求のレベルは、「実験室」レベルを遥かに超えてしまった。データは、最大の実験室──宇宙開闢のこだま──宇宙そのものに求めざるを得ない段階に達している。現代物理学の先端・相互の問題全ては、リンクしている。だが逆に言えば、これらの問題点も「統一」されるはずだし、だからこそ物理学者や宇宙論研究者らは研究し続けているのだ。これだけ、目標が極めてはっきりしている最先端科学も珍しい。宇宙全体の法則、そこにはどんな「美」があるのだろう。
相対論や量子論の関わりや、超ひも理論がどのようにして生まれ、どのようにして発展したのか、現代物理の様々な理論が、どうやって生まれ、現在どういう位置にあるのか、一望するには大変良い本だ。また「物理学」なる学問が、どんな風に発展していくものなのかも理解できるように構成されている。おすすめ。本書だけでは苦しい、という人は、他の本も眺めてみると、なんとなく分かったような気になってくる、と思う(多分)。
↑の本に続いて力の統一に関わる内容の本だが、電磁気による電子の位相のずれ、あるいは超伝導体の磁束量子の発生など、量子論的世界の現れ、それを実際に目で見える形で、直接観察する。これがこの本の内容である。こんなものが撮れるのか、と思えるほどのものが目で見え、直感的に理解できる形で撮影されているのだ。凄い。
いきなり、電子線ホログラフィー開発から始まる前半部はあまりに地味で、一体なぜ、こんな内容が延々と書かれているのかな、と半ば思いながら読み進めていたのだが、最後まで読了すれば著者の気持ちは良く分かった。というわけで、皆さんも最後まで一気に読むことをお勧めする。やはり本にはそれぞれ読み方がある。本書の中には数式も登場するが、あまり気にせず読むことだ。それに数式というのはもともと論理的なので、論理のポイントだけ押さえていれば、だいたい理解できる。
この本のタイトルである「ゲージ」とは、時間空間の「ものさし」のことである。「電磁気」とは、このゲージの変化による、と考えられている。その証拠にあたるのが、電子が電磁場に触れなくても電子の位相のずれが起きる、という「AB効果」というものなのだが(だよね?)、著者はこの検証実験を行ったのである。つまり、その位相のずれを捉えたのだ。磁場の影響をまず除去するために要求された、外形10ミクロン、太さ2,3ミクロンのドーナツ型磁石を超伝導体で取り囲んだサンプル造り──その苦労だけでも、相当に大変な作業であったろうことは容易に想像できる。そして、得られた干渉写真。うーん、凄い。凄いぞ。
超伝導、あるいはゲージ場とは何ぞや、という話なら、他にもっと分かりやすい本があると思う。だけど何よりも、著者らのおかげで凄い世界が実際に見られるようになった、ということで、是としたい。
「寝耳に水」という諺がある。回天動地の驚きを表すのだが、それでは実際に寝耳に水を入れたらどうなるのか。実は、本当に生きた心地がしないほどのめまいに襲われるのだ。本書で一番面白かったのは、この<まえがき>冒頭の文章かな。他は、うーん、めまいや耳鳴りは大変だ、医者は軽視しちゃいけない、っていうのは分かるけど…。うちの親も「医者が耳鳴りを分かってくれない」って嘆いてたもんなー。要するに、医者の問題なんだよな。教科書に「ウワーン」と音がします、と書いてあったからといって患者がそういう音で苦しんでいるとは限らないんだよ。
めまいや、耳鳴りを通して人間の平衡感覚などについて詳述するタイプの本なのか、と思っていたら違いました(だって、ブルーバックスに入ってるんだから、そういう本だと思うじゃない?まさか「家庭の医学」だとは)。
というわけで。
実際には内容によるのではなく、本書そのものの構成・論理展開にあるのかもしれないし、もちろん私の読解力不足かもしれないが、とにかく「私は」納得いかないのだ、本書の内容に。
進化を実験で確かめたい、という著者の主張には全面的に同意する。まったくその通りだ。また、進化を考える上で、生物の相互作用が重要なファクターの一つであることも、当然だと思う。「最適」という言葉の意味あいが(それだけでは)極めて曖昧なのもその通りだろう。同じ遺伝子を持つ大腸菌にも「個性」が生じるというのは実に面白い。
だがそもそも、本書で著者が行っているのは本当に「進化」の実験と言えるのだろうか?私は、なんだか違うんじゃないのか、という気がした。著者がやっているのは「どういうものが生き残るのか、生物の生き残りを考える上で必要なファクターは何か」という、いわば生態学的な実験なんじゃないのかな?また、面倒くさいし、ちゃんとした反論は研究者の仕事だと思うのでいちいち書かないけど「他の解釈もできるんじゃないの?」ってのが多すぎるような気がするのだが。
著者のダーウィニズムへの批判もずれているような気がする。「競争的共存は、起こるべくして起こるのである」なんて言われてもねえ…。
それだけではない。おいおいちょっと待ってくれ、と思うところもある。
遺伝的な要素はまったく同じでも、内部状態のちがいが生まれることになる。その結果、生物としての活動にほんの少し差が出て、Aはαという物質を、Bはβをいう物質を、それぞれほんの少しだけ多く分泌するようになる。子から孫へと代が変わるにしたがって、その差が次第に大きくなっても不思議ではないだろう。「子から孫へと代が変わるにしたがって、その差が次第に大きくなっても不思議ではないだろう」だって??いや、不思議だよ。いったいどういうメカニズムで伝わるわけ?これって「獲得形質の遺伝」じゃないのか?本当に、不思議だと思わないの?そこのところを探ってこそ、進化の研究なんじゃないのか?
(「第7章 相互作用が多様性をもたらす」より)
印象で科学の本を語ってはいけないのかもしれないが、俺は一般読者なのだ、かまやしないだろう。どうもこの本はこういうのが多いような気がしたぞ。最後まで納得いかないものを感じながら読了。
もっとも、私が一番気に入らないのは、本書全体に溢れる自信満々の文体かもしれないんだけどね。とにかく、一冊の「本」として気に入らない。
この本を読むかどうかのご判断は、もちろんご自由に。私はお勧めしない。
また、インタビューと言ってもテープ書き起こしではなく、著者が研究者に会って感じたことが中心となっている。ただし、きちんとインタビューしているらしいことが読みとれる。どうして科学への道に進んだのか、どうして現在の研究テーマを選んだのか、そして研究テーマの中心は一体何か、などが短い文章の中でまとめられている。一本一本はごく短いが、すぱっと切れた科学者・科学評である。
あるいは科学への憧憬かもしれない。「数式が出てきて解答を求める、というたぐいのものでなければ、理数系はなかなかおもしろいものだったのです」という人、全てにおすすめする。
「SPA!」は、5年前くらいはよく読んでいたんだけど、しばらく全く読んでない時期があったからな〜。こんなシリーズがあったとは知らなかった。
本書の文章は至って軽快で気軽に読めるが、中身は凄くしっかりしている、と読み進めるに連れて感じた。科学とは、そして科学者とは、いったいなんであるのだろうか、という疑問は、科学に普段接することのない人なら誰しも、素朴に抱く疑問だ。「科学者」というタイトル、ここには著者の「科学者とはこういう人物であるべきだ」といった考えも込められているのだろう。
「科学者」とはなにか、などはひとことで答えられる種類の質問ではありません。ただ、この本に出てくる人々の息吹を感じてもらえるならば、「科学者」とはこういう人たちであり「科学」とはこういうものである、ということが、おそらくはわかっていただけるのではないでしょうか。僕は、わかったような気がしました。
(「まえがき」より)
…両集団間の根本的違いは、両者の形態ばかりか、両者の社会と文化にある、と判断したわけだ。二つの共同体の差は、言語、視覚、象徴化による意思伝達能力の差で裏付けられており、これらが順繰りに、野営地の編成、原野の利用の仕方、新天地への移住に影響を及ぼしていったことを知った。NHKの番組等で、ネアンデルタール人が花を添えられ埋葬されていたシーンを覚えている人もいると思うが、著者はそのイメージを切って捨てる。ネアンデルタール人は、やはり違う人達であったのだろうか。いったい、彼らは何者だったのか…。訳者あとがきが適切な(か、どうかも私には実際のところ分からないが)書評となっているので、そちらを読んでもらう方が良いと思う。訳者が言うように、著者らは、たしかにネアンデルタール人にやや厳しく、新人に甘いように思った。私としては、(本書が触れているよりも)もっと気候変化を考慮に入れた進化モデルのようなものができないのかな、と思っているのだが…。…ネアンデルタール人は、類人猿とヒトとの中間の存在ではなかったし、またミッシング・リンクでもなかった。彼らは、私たちと同じ人間であった。ただ彼らは、私たちとは異なった種類のヒト、原始的形質と進歩的形質とを独特な形で混ぜ合わせたヒトを代表していたのだ。新人の勝利について、必然であったものは何もなく、仮に更新世の運命がねじくれていたとすれば、あるいは私たちの代わりにネアンデルタール人が今日までヨーロッパに居住し続けていたかもしれない。
本書には、この手の本には珍しいほど大量の図版・写真が使われている。有り難い。訳のせいもあるのかどうか、かなり読みにくいが、トライしてみる価値はある。
私は、今夏以降にネアンデルタール人ブームが「くる」と踏んでいる。その時に備えて、予習しておくのも良いかも(笑)。ネアンデルタール人については、この本の書評の方も参考にして欲しい。
胃は、真夜中、空腹時に収縮運動をし、胃の内容物を外へ押し出す。これがちゃんと行われないと、胃もたれ、むかつきとかになってしまう。だから、胃酸を止めて胃を収縮させる胃薬は寝る前に飲むのである。普段は、薬なんか飲まなくても、胃酸分泌はちゃんとコントロールされている。腹の中身が空っぽになって、胃酸分泌が止まると、十二指腸から<モチリン>なる物質が分泌されて、収縮が起こり、胃の内容物は一掃される。
ところが、胃は複数の神経系の支配を受けている。普段はうまく働いているのだが、一度これが狂うと困ったことになる。空腹なのに胃酸分泌が指令されたりする。胃は矛盾した指令を受け取り、食後なんだか食事中なんだか分からなくなる。すると哀れ、悩み苦しみ穴が空く、という事態になる。
本書は、こういう消化管運動の仕組みを研究してきた著者による本。全体の感想は頭に書いたとおり。うーむ。やっぱり、もっと面白く書けると思うなー。もったいない。
ただ、こういう本は、本当は「科学者」に読んでもらわないとダメなんだよな。「と」な人たちなんかほうっときゃいい、世間にどんな影響を与えてようが俺達にゃ関係ないぜ、っていう人たちが多すぎる。もうちょっと世の中の事、つまり世の中では「科学」がどのようなものとして受け取られているか、にも目を向けてほしいものだ、「科学者」にも。
しかし、「衝突する宇宙」を出した出版社に圧力をかけて出版をやめさせた科学者達の話は凄いなー。今の日本では考えられんな。あり得るのだろうか、そういうことは?
心、私たちの認知のシステムは、なぜこのように進化したのか。全ての謎は繋がっている。繋がっていることは分かるが、どの入り口も途中から闇の中だ。
いつものことだが、邦訳されている本は、その辺ちゃんと紹介した方が良いと思うんだけど。例えば、本書で何度も引かれるニコラス・ハンフリーの「内なる目」は紀ノ国屋書店から出ている。もしまだ読んでないなら、この本より、そっちのほうが良いと思うよ。
著者の主張は明解である。「自然保護」と連呼するのも結構だが、まず身近な自然を「感察(著者は観察ではなく、こう呼ぶ)」し、知ることが第一である、と語る。自然の復興を歌うのなら当然のはずのこのことだが、まだなかなか実践できていない。
ビルに囲まれた所でも、結構「自然」はあるものだ。ハヤブサなどは都心でも見られるのだという。また、ゴルフ場などでも、最近はビオトープ的な考えを取り入れ、トンボなどが飛び交う場所もあると聞く。学校でも築山や小川が流行っているらしい。
自然を復興する、という作業は、ただ一種の生物だけを池に放り込んで終わり、といったものではない。なかなかに難しい作業だが、一時のブームに終わらないようにして欲しい。
びっくりしたのだが、明治神宮にクスノキが多い理由。明治神宮が造営されたのは大正4年。クスノキは東京が北限ぎりぎりで、本来ならば、植樹すべき樹ではない。ところが造営局は、100年後は大気汚染によって東京の気温は上がるだろう、と予測して植えたのだという。
「国家100年の計」とは、よく言ったものだ…。これだけの造園計画・環境政策を今の私たちは立てることができるだろうか。
私が小さい頃には、夏の夜にはいつも、カブトムシのメスがバキッという凄い音を立てて、窓にぶつかってきたが、今はもうそんなこともなくなった。また、カブトムシが飛んでくるようになるのだろうか。
なんとなくリンクを張っておく。