この実験には、色々な批判も多かった。
酸素の急激な減少の為に緊急注入を行ったなど完全な閉鎖系ではなかったこと、隊員の一人の人身事故などなどを指した批判だ。
しかし、それでもこの実験は十分意味があったと私は思う。他の誰も、これだけの規模で(とはいっても小規模には違いないが)生態系を構築したものはいないし、これだけ多くの一般の耳目を集める実験は、今はそうない。
だいたい、この規模のものは他の誰もやってないんだから(日本でもいくらか小規模なものは建設中)、文句を言うのも変な話だ。
現在、スポンサーとの不和で、この施設で本来予定されていた実験は頓挫し、大きく方向転換を余儀なくされているが、それでも、こういった施設は他にはない。
各バイオーム間の環境調節(バイオスフィアの中には砂漠や熱帯、湿地など各種の環境を模した部分がそれぞれ用意されていた)、バイオマス不足による慢性的な飢え、クルー間の不和(ただし本書にはこういった物語はほとんど描かれていない)、事故、酸素の減少を始めとした不安定な大気組成(実はコンクリート中にCaCO3が吸収していた。これはこれで面白い話である。呼吸する大気の組成は安定ではなく、実は動的なものだ、ということを理屈の上では分かっていても、本当に実感した人々、というのはあまりいないだろう。)、不作、害虫(不慮で入り込んでしまった鼠、ゴキブリなど)との闘い、ヤギ・ブタ・ニワトリなどの家畜の世話…。
自分が作ったものしかそこでは食べられないし、捨てたものは全てリサイクルしなければならない。これだけの事をしながら、彼らは、やったことは全て自分たちに跳ね返ってくる閉鎖生態系の中で2年間暮らしたのだ。そこでは、バイオスフィアを運営することそのものが、全て実験に繋がる世界だった。
再び、"バイオスフィリアン"達が誕生する事を望む。
本としては、もっと面白く書くこともできるような気もする。だが、これはこれで良いのかもしれない。
前半・中盤は、実に面白いし、十分読む価値がある。
著者は、サイエンスライターである。その持って生まれた好奇心で、大勢の科学者達に会い、次から次へと生まれてくる疑問を、「なぜ?どうして?」と素直に問い続ける。
ネアンデルタール人について考えることは、我々自身について考えることである。
ネアンデルタール人の謎──彼らは、一体何物だったのか?「人間」であったのか、それともサルだったのか?人間であったとすれば、我々「現代人」とは、どういう関係があったのか、それともなかったのか?あったとすればどんな関係があったのだろうか?彼らの「血」は我々の中を流れているのか?それとも、彼らは我々とは違う種で、進化の袋小路に入り込んでしまったのか?なぜ、彼らはいなくなってしまったのだろう?
「我々」と、どんな関係があったのだろう?どんな差があったのだろう?
言語か? 性行動か? 道具か? 知能か? 社会システムか? 出産率か?
何が、彼らを滅ぼしてしまったのだろう…。
我々は、一体なにものなのか?どこから来たのか?
本書を読むうち、ゴーギャンでなくても、この疑問を抱かずにいられなくなるだろう。
人類の誕生には、多起源説と単一起源説がある。同時期に世界各地で同時発生的に進化が起こり、お互い混じりあいながら進化して現代に至る、というのが多起源説であり、一方の単一起源説とは、文字どおり単一の種がどこか(アフリカと考えられている)で進化し、その種が、既にいた種を「結果として」駆逐してしまった、とするものである。
このどちらの説が正しいのか。誰も知らない、分からない。日本では「イヴ」の存在のみが大きく取り上げれてしまったせいで、単一起源説が定説となってしまったような感があるが、必ずしもそうではないのだ。まだまだ、議論の余地がある。分子時計の話ももちろんだが、それだけではない事は、本書を一読すれば分かる。「過去はたしかに一通りしかない」のだが、どの道筋が真実であったのだろうか。
ネアンデルタール人と、クロマニヨン人は交配していたのだろうか?そもそも交配できたのだろうか。それとも全く別の種であったのだろうか。この点は、まだ議論されている。
ネアンデルタール人は、どんな暮らしをしていたのか。近年の研究に寄れば(これまでの定説・あるいはまだ学校では教えられているのではないかと思うが、いわゆる「原始人」のイメージとは違って)、かなり高度な「人」であったらしい。そこまではどうやら確かであるらしい(そのため、よけい彼らがどうして絶滅してしまったのかが「謎」であるわけだ)。
で、ここからが私がさっぱり理解できない部分なのだが、著者は最後の最後の章で、ネアンデルタール人は一種の共同精神のようなものを持つ存在であったのではないか、という。
ここまで、本当に最後の最後のこの章の前までは、実に面白い本なのだが。。。
著者の取材態度も、科学者達の言うことを、はいはい、と聞くのではなく一つ一つ反対意見を聞き裏を取っていくなど、かなり好感の持てるものだったのだが、最後の最後のこの章で裏切られた気がした。あーあ。
ネアンデルタール人のスピルバーグ映画も公開されるらしいが、それもなんだって、お互いの感覚や精神を共有できた人々、という設定なんだって?どうでもいいけど、一つだけ、本書から引用しておこう。
「人はそれぞれ自分の時を生きるのであって、われわれのつくったドラマの主人公ではないのだ」。
解説・金子隆一。
B・M・Wバイオリアクターとは、土壌微生物生態系をモデルに構築された、汚水浄化システム。「廃棄物の中で偏った微生物バランスを土壌生態系モデルに戻す」という考え方で、作られた浄化システムだそう。微生物を道具や手段と考える技術ではない、と著者は言う。だから、「B・M菌」といったものはないんだそうだ。あたかも、土壌の中で働いているように微生物が働いている、と考えている、とのことである。
つまり、生態系を構成している一部分だけをひっこぬいて使う、というのではなく、まるごと、<システム>を利用させてもらおう、ということらしい。
本書は、このバイオリアクターの紹介と、その生成物である「生物活性水」の紹介、それを実際に使った成果の紹介である(中には、なんだかウソくさく感じるものもあるけど。金魚の水を替えなくてもOKだった、くらいまでなら分かるが、「死にそうな犬の病気が治った」というのは、ちょっとなあ。笑える例には「井戸水しか飲まなかった猫が、活性水を混ぜると水道水まで飲むようになって楽になりました」、なんてのもある。だんなさんにかけています、とか、抱腹絶倒。あとは農業への活用例など)。
このバイオリアクターを使って作った堆肥は悪臭がしないそうだ。「土のにおい」がするという。
本書は、著者がピラミッドやエジプト歴史一般に関する誤解を解こうとして著したものであるらしい。ペラペラの本だし写真もいっぱい使われているので、めくるだけでも楽しい。また帯にあるように、ピラミッドは王墓ではない、とか、クレオパトラは美人ではなかった、とか、エジプトの歴史など、そういう知識を仕入れるのも良いだろう。
地図や図版なども適度にしかも大量に挿入されているので読みやすい。ピラミッドなどの映像は良く紹介されるものの、それぞれの遺跡などがどういう位置関係にあるのかは、なかなか掴みにくいものなので、こういう本は有り難い。
また、上記番組の中で、ピラミッドの石材運搬は半円形の木枠を石にはめこんで行ったのだ、という説が紹介されていたが、著者は「真剣に考えているエジプト学者は怒るに違いない」と一蹴する。
どの説が正しいのか、判断はできない。が、このように、全く違う考え方がガンガン紹介されている番組に、自分のインタビューコメントが使われて、著者はどう思ったろうか。
シャンクは、人工知能の研究者である。その事とタイトルを照らし合わせて頂ければ、だいたい、本書の内容は見当が付くと思う。 念のため、目次から各章のタイトルを紹介する。
シャンクは、人が話をするのは記憶を形成し、索引を付ける為である、と語る。
「私たちが自分の経験を描写する話を誰かに語る必要があるのは、話を創造するプロセスが、それからの人生のために話の要旨を収めておく記憶構造も創造するからである」、という。
話をすることで、自らの中のデータの、意味や位置づけを確認し(索引付け)、記憶に固定する、という作業については、誰もが思い当たるのではないだろうか。私自身、この書評を書き連ねているのは、ほとんどその為であると言って良い。私にとって、ワープロとは、自分と対話するためのツールである(そういう意味で、パソコンやワープロは、精神科医でもあり、私自身の鏡でもあり、「第二の自我」でもある)。
また、人は「話の貯蔵庫である」と語る。つまり、話をする、それがイコール知性である、と言うのである。この辺りは、根本的な部分なのだが、著者はあたかも当然のこととして流す。
「人工知能を作ろうとするコンピュータ科学者の一つの目標は、自己組織的記憶の実現である」という。つまり、自己で複層的な索引付けをしていくデータベースである。記憶自身が記憶を組織していくデータベース。これが、知性である、と著者は考えているらしい。
「人は話を用いて考える」というのは理解できるし、文章内容も分かりやすいのだが、どちらかというと記憶法についての覚え書きのようであり、そういう意味で3000円以上も出す本ではない。コンテキスト、文脈を用いて物事を位置づけ、理解するのが人間の記憶法だ、なんてことは、受験生なら誰でも知っている。
示唆に富んでいるのか、なんなんだか、なかなか位置づけが難しい本だった。
まあとにかく、「人に話をする」のが、物事を理解し覚えるのに最も良い方法であるのは間違いないし、それが良いことである点については賛成である。
肝心の本質の部分は妙に思弁的というか、抽象的というか、何が言いたいのか今一つ良く分からないし、例によってサンタフェの研究者達の事が書かれていたりするのだが、それも羅列的で、なんだか良くは分からない。また、日本の研究者たちの研究史も負けず劣らず面白くエキサイティングだ、と著者はいい、それを取り上げられることがあまりなかったのは日本の科学ジャーナリズムのせいだ、としながら、カバー裏を見ると著者はサイエンスライターなのである。
僕は、何が言いたいのか今一つ分かったようで分からない書き方から判断して、かなり若い研究者か、逆にお年を召した人が著者か、と思ってたんだけど。
おすすめはできない、正直言って。
うーん。ちょっと期待はずれ。もうちょっと面白い事が書かれているかと思ったんだけど。高校生(ただし高校の化学課程を履修後)が読むのにちょうど良い?
でも、ざっと酵素について学ぶ、あるいは復習する・確認するには良いかもしれない。
簡単な化学の基礎から、酵素の構造、そして酵素の作用メカニズムの基礎が軽く触れられているから。
「有機化合物の多くの反応は、反応する分子の内部でおこる電子のかたより(分極)で説明できる」。酵素は、結合することで「電子のかたより」を起こし、反応を促進させる。実際にはもっと色々あるのだが、要点だけを言えばこういうことになる。もちろん、本書ではある程度細かいことも触れられてはいる、のだが…。
うーん。なんと評価して良いか迷う。もうちょっと深いところまで引っ張って欲しかった気がする。一つ一つの酵素がどうやって働くかの説明は分かる。だが、例えば生命のすごいところは多様な酵素が、同時に働いて、多様な化学反応が同時に起こっていることなのだ。これがどうしてうまく行くのか、著者の考えでも良いから、書いてくれるとまだ面白かったのだけど。
第一章一節を「生命と物質がどこが違うか?」と題するのなら、そこまで書いてくれる事を期待するのは、間違ってないと思う。
本書によれば「場の振動の振幅を、量子論的な立場からあつかう理論」ということになる。 量子論はいわば点の理論であるのに対して、それを「場」にまで拡張して現象を見る理論、ということであるらしい(と思う)。本書はそれを数学をあまり使わずに解説しようと試みた本。
場の量子論から見ると、世の中の「力」は全て粒子交換からなる、というのは実に面白い。
また、粒子の姿、というより概念も変わってくる。これがまた実に刺激的で面白いし、へえーっと思ったのだが、私は人に説明できるほど本書の内容を咀嚼できなかった。また、これはある程度図解を使わないと分からないと思うので、説明は逃げさせてもらう。この概念を下敷きにして、現在の統一理論は模索されているという。
いやー、いつも思うのだが、現代の物理が描き出す世界像というのは凄いね。
物理学者たちは、こういう世界が我々の生きている世界だ、ということを実感できるのだろうが、それでどうして普通に生きていられるのだろうか。私は純粋に疑問に思ってしまう。
本書の著者が言うように、やはりこの手の論には数学がどうしても必要なのかもしれない。実際の大学の講義と同じで、最初は良く分かるのだが、知らない間に話を見失い、自分が何が分からないのかも良く分からなくなってしまう。
ただ、本書の著者のために言うが、かなり良く頑張っている方だと思う、本書は。
教養課程の大学生向きか?ノートを片手に読むと良く分かるかもしれない。
卵細胞は、いつどのようにして極性を獲得するのか、これはいつ考えても不思議である。例えばメダカの卵は卵巣の中で植物極側が卵巣壁に接着し、動植物極軸を軸にして一時間に50ミクロンの速度で回転しているという。卵門を形成するのに役立っているそうだが、これ一つとっても不思議である。だいたい、どうやって上下が決まってどうやって回転するのか。実に不思議で楽しい世界だ。
宇宙の無重力の中での実験は記憶に新しいだろう。あの実験でのカエルの孵化実験は、カエルの発生には重力が必要ないことを明らかにした(早計かもしれないが)。どうして必要ないのか。さっぱり分からない。
発生は、生物学系の学生の間では意外と人気がないらしい。覚えることがあまりに多く、しかも全てが解明されているような気がしてしまうからだという。本書の中でも、細胞膜表面の受容体蛋白の話あたりは結構細かい。
だがしかし、発生の世界はまだまだやることがいっぱいある。しかも、「生物の体造り」という基本的かつ根本的な疑問に関わる学問である。もっともっと、面白い事が発見される事を期待している。
読後、一冊の本としての感動は正直言ってほとんどないが、いろんなトピックスが散りばめられているので飽きずに読み通せる。最後は、プルームテクトニクスなどともからめた、地球の長期変動の話で終わる。
伊能忠敬の地図は、東北以北と九州南部がずれているんだそうだ。これは、地磁気極が170年前とはずれていることと、忠敬が本当の北と磁北とのずれを修正しなかったことによるんだそうな。また、古地磁気は竈跡などにも残っており、データが収集されているそうだ。古地磁気がこんなところでも使われているとは、驚いた。
考古学の世界に先端機器が使われていることは、ファイバースコープによる石棺内部の調査や、レントゲンなどによる古文書や鉄剣の銘の調査などでお馴染みである。また、最近は寄生虫の卵を調べることで、古代のトイレの位置を特定したりもしている。年代決定に科学の成果が使われていることは言うまでもないことである。
また、最近では残っていた植物の種子──栗やどんぐりなど──のDNAも調べられている。すると、自然の状態ではもっとランダムになるはずなのに、DNAがある一定のパターンに揃った。この結果を受けて、栗などはひょっとすると縄文時代から既に栽培されていたのではないか、という。プラント・オパール法(植物の中にはバイオミネラリゼーションによって体の中にオパールを形成するものがある。その形は植物種や成熟度などによって違っており、植物種の同定に役立つ。詳細は『稲作の起源を探る』参照)での稲作の証拠など、縄文時代のイメージも随分変わりつつある。
この他にも、薬理学から見た出土植物の調査や、地震考古学など、学際的な面白い研究が紹介されている。著者は考古学が一番面白い、と言っているが、皮肉な見方をすれば、ようやく幅広い視点で考古学が扱われるようになった、あるいは、ようやく考古学が幅広い視点を持った、とも言えるのではないか。
「世界には知覚システムをこえた複雑な情報がある。この複雑さに対応する複雑な関係のシステムをあらゆる場所で生きつづけた生きものの身体は獲得しつつある。どこか(脳?)で各感覚器からの情報が『統合』されているわけではない」と、著者は言う。
感覚というのは、各感覚器が伝達した情報を脳が統合して成立しているわけではない、というのだ。神経系やホルモンによって繋がっていない各感覚器はないし、神経系はただの電線のようなものではない、というのはもう常識だ。脳と神経系は一連のものであり、知覚というのは別に脳でいきなり生まれるわけではない。我々は身体全体で一つであり、身体は常に「外」と情報を交換している。だから、著者が言うことはそういう意味では当たり前である。
著者は、さらにその「身体」による知覚が知性だ、と言ったようなことを語っている。まあ、そうかもしれない。そういう言い方もできるだろう。
アフォーダンスというのは認知科学の新理論であるらしい。だがしかし私には、かえって脳だけを特別なものとしている古くさい考え方、しかも思弁的であまり論理的とも思えないようなもの、としか思えなかった。
環境と生物との関係を記述するやりかたとしても、この考え方が有効であるとは(少なくとも本書を読む限りに置いては)思えなかった。この評価が正しいのかどうか、私には良く分からないので、興味のある人は本書を読んで感想を聞かせて頂きたい。よろしく。
それぞれのトピックスが、生活に密着したものなので、誰でも取っつきやすい。
例えば、コンビニの食品をラップごとレンジに入れて良いのか?とか、油が疲れるのはどうして?とか背広のうまい手入れの仕方とか、プロに学ぶ掃除の仕方とか、梅干しはプラスチックを溶かすのか?とか、湯沸かし器の水は飲んで良いのか?とか、ガスの安全装置の仕組みは?といったもの。
この手の本は、時として妙に環境問題していたり、化学物質に過敏だったりするヒステリックな論調のものが多いのだが、この本はそういう事もなく、しかもちゃんと調べているようで、好感が持てる。
女性向きの本のようだが、もちろん男性にもお勧めできる一冊。
今年はもう手遅れかもしれないが、来年はこの本を読んで、部屋の中を綺麗にしてみてはどうだろうか。
夢を見るものも多いが、先を見誤って落ちていくものも多い。何もしなかったアメリカが最も得をしたHDTV、エンタテインメントではなくテクノロジーを売ることに終始してしまったゲームマシン、誰も見ない双方向TV、ものを売っているのではなく「注文をとっているだけ」のeショップ……。成功するものは一体なんなのか? どんなサービスを消費者は求めているのか ? 答えを知っていると言う者は多いが、それが正解かどうかは分からない。はっきりしているのは「デジタル以外の魅力」がない商品は売れない、ということだ。テクノロジーのみが先行した商品は、決してマスのマーケットを獲得することはできない。
今後、デジタル市場はどうなるのか? 政府はそこで何をすべきだろうか? 何もしないのが望ましい? それとも「地ならし」をすべきか? 政府の過剰介入は官僚化と非効率をもたらす。しかし(判断が難しいが)適度な支援は望ましい。インターネットは成功した実例である、と著者らは言う。
今読んでこそ意味がある本だ。原書が刊行されたのは95年だが、まだ間に合う。何が問題なのか、今後(可能性ではなく、実際に)何が起ころうとしているのか、その議論の発端に十分成りうる本だ。
何より重大なのは、未来を決めるのは投資家達の動向ではなく、我々消費者に他ならない、ということである。
我々は、世界をどう見ているのか? 本当は、何を欲しているのか?
なお巻末資料としてインタビューと座談会がまとめられている。