宇宙の年齢は膨張率であるハッブル定数、物質密度によって決まる減速パラメーター、あと何だかよく分からない宇宙項の三つで決まるが、ハッブル定数の数字が低ければ宇宙の年齢は古く、高ければ宇宙の年齢は若いということになる。綺麗な写真で僕らの目を楽しませてくれるハッブル宇宙望遠鏡や日本の「すばる」──に限らず、X線望遠鏡を含め、ほとんどの望遠鏡の目標の一つは、この宇宙の年齢を決めるハッブル定数を観測によってはじき出すことだ。
銀河の後退速度そのものは、スペクトル観測によってドップラー偏移が分かるので、そこからけっこう簡単に決まる。だから問題は、銀河間の距離の測定ということになる。ところがこれが難しい。セファイド変光星や超新星など絶対的な明るさが分かっているものを指標にして距離を決めるのだが、いろいろなデータや手法があって、研究者によって求められた数字がバラバラなのだ。だからなかなか宇宙の年齢は決まらない。1999年五月にフリードマンらによって宇宙年齢は120億あるいは130億才という発表がなされたが、これも決定的なものではない(国立天文台・天文ニュース (265)、ハッブルの定数と宇宙の年令などを参照)。研究者達のトライはいまも続いている。
さて、以上がおおざっぱな背景なのだが、この本自体は、なんていうのか、普通の本。もうちょっと面白いかと思って期待したのだが。グリビンには多くの著書があるが、これは、なんだか他の本を書くためのノートをそのまま出版しました、っていう感じがする。確かに、彼自身の一人称で書かれているところは他より面白いけど。
ただ、ロボットの人たちは基本的に工学の人。工学でいう知能は、普通用語としての知能とはちょっと違って、ある課題を処理できる機能や能力を指して知能と呼ぶ。
3部に分けられている。内容は広い。第一部は群ロボットによる群知能の現在と課題、その方法論などが扱われている。第2部はより一般的な知能の創発を取り扱う。第3部はロボットによる実装例。免疫システムを参考にしたロボットの行動制御、能動カテーテル、もともとユニットの集合体として形成され、必要に応じて形態を変えるロボットなど。
もともといわゆる「文部省重点」の「創発的機能形成のシステム理論」の生物的工学システム斑の研究成果であるとのこと。「知は経験である」と編者は言っている。行動主体とその行動に伴う環境の変化などをベースをヌキに知能は語れないとする行動型人工知能の考え方を端的に表したものといえよう。
最近、身体性という言葉が濫用されている。では身体性とは何か。どのような体を持つかということだが、もし一言で言え、と言われたら、僕は、物理世界における拘束条件のことだと答えることにしている。ロボットの場合、物理法則に反さない範囲において、体は自由に設計できる。つまり身体性をある程度、設計できるわけだ。知能がもし環境とのインタラクションの中から生まれるとすると、どのように体をつくりこめばいいのか、そしてそれをどう制御させれば良いのかということが、非常に重要な課題となる。
これは本書では「第4章 情報は環境にあり ─群ロボットと環境の共進化─」淺間一・藤井輝夫で扱われているテーマだが、おおよそ知的な人工物を作ろうとしている人みなが抱えている課題だろう。
本書を一回通読しただけでは、なかなか面白さが分からないような気がするが、折に触れてめくりなおしてみたくなるような本なので、やっぱり手元においておきたい。
でも一番印象に遺ったのは146、147ページの動物の足の数を群論で考えるという話だったりする。
動物の足は四本、六本、八本など全て「素数プラス1」なのはいったいなぜかという話である。タコも八本足なのでやっぱり素数プラス1だ。ところが、ある日、たいへんなことに気が付いてしまった人がいた。「先生、イカは、イカは10本足なんです」。
さあ、動物の足は素数プラス1であるという仮説の命運やいかに(笑)。ここから先は実際に本をめくって頂きたい。
あちこちページを折り込みすぎて、どこが重要なのか分からなくなってしまった。全体が重要な内容でつまっている本なので、とりあえず目次を紹介しておく。
必読の本であることは保証する。
本書は超ひも理論の研究者、ミチオ・カクによる未来予測の本である。今後一〇〇年、科学と技術がどのように発展するか、主にコンピュータ、バイオ、量子の世界に焦点をあて、未来を洞察している。本書を著したミチオ・カクは、単なる一研究者としてのミチオ・カクではない。彼はもともと幅広い関心を持つ人物で、様々な評論や科学記事を書いてきた。サイエンス・ライターたちとの共同作業も多い。ラジオ科学番組の司会もしている。
もちろん話題は彼の専門分野のみには留まらない。多彩な知識と関心のみならず、その分野の研究者当人たちも気が付いてないような「横の繋がり」を発見し呈示することが要求される仕事である。その作業を通じて、カクは一五〇人以上の研究者へインタビューしてきたという。本書は未来予測の形を取った、その成果物である。登場するのは錚々たる面々の研究者達だ。ページを繰れば、彼が類い希なるインタビュアーであり、編集者であり、ライターでもあることが分かるだろう。ありとあらゆる分野への目配り、そして知識の深さ、研究者達の考えを巧みに編み上げていく手腕は、サイエンス・ライターも形無しである。
だがもっとも特筆すべきは、やはり広いジャンルへの好奇心だろう。これだけ広い範囲を見ることができる研究者は、そうはいない。さらに、その知識をベースにして未来を語れる人物となると、ほとんど皆無に近いのではないか。カクは言う。「人間の知識は一〇年ごとに二倍になっている」。そして「私たちは現在、自然の傍観者から積極的に自然の振り付け師となる、画期的な移行の時代にさしかかっている」と。彼によれば「科学による発見」の時代は終わった。これからは「科学を支配する」時代がくるという。
今世紀に起こった3つの革命──量子革命、コンピュータ革命、バイオ革命は、それぞれ関連しあっている。量子革命によってコンピュータが生まれた。そして現在、解析が驀進しているゲノム解析にはコンピュータが不可欠だ。融合はますます加速していく。既にバイオインフォマティックス(生物情報学)と呼ばれる分野が誕生しているし、有機分子を使ったコンピュータの研究は日本でも行われている。
また本書第二部で紹介される「見えないコンピュータ」や「スマート」な物体という考え方、またウエアラブル・コンピュータのアプリケーションなどは、既に<ユビキタス・コンピュータ>や、<オーグメンテッド・リアリティ(AR)>といった言葉で、ビジネス雑誌にも登場する時代が到来している。既にこれらは「未来」ではないのだ。MITメディアラボほど宣伝はうまくないが、この分野の研究は日本でも非常に活発である。数百のセンサーが埋め込まれた東大・佐藤知正研のロボティクス・ルームなどはまさに未来の部屋(あるいは家)の姿そのものだろうし、先に挙げたAR、あるいはMR(ミックスド・リアリティ)という概念は、ソニーCSL、またキャノンの研究所などで研究されている。将来、計算コストが限りなく無料に近づいたときにはありとあらゆるところに通信機能を持ったセンサーが撒き散らされ「プロセッサの海」とでも言うべき環境が実現し、我々はその中で暮らしていくことになるという研究者もいる。
せっかくなので付け加えておくと、バイオ分野においても(ビジネス関連では出遅れを危惧されているものの)、一九九八年七月の近畿大農学部畜産学研究室の角田幸雄教授らと石川県畜産総合センターによるクローン牛の誕生や、一九九九年一二月に終了した二二番染色体の解析における慶応大学・清水信義教授チームの役割を思い出して頂ければお分かりのとおり、日本のレベルは決して低くない(なお間もなく今度は二一番染色体の解析が終了する予定だと聞く)。また本書で大きなファクターを占める老化に関する研究も日本は先進国である。早老症の一つ・ウェルナー症候群の原因遺伝子の発見には、日本の研究者らが非常に重要な役割を果たした(杉本正信・古市泰宏『老化と遺伝子』東京化学同人などをお読み頂きたい)。デザイナーズ・ドラッグといった創薬研究はまさに世界中で行われていることだし、個人個人にメンテナンスされた薬といったコンセプトは東大医科学研究所ヒトゲノム解析センターの中村祐輔氏らの啓蒙活動によって、やはりお馴染みである。
本書には残念ながら日本人は登場しない。だが通読したところ、本書で紹介されている研究のほとんどは日本でも行われているし、登場人物もほとんどは日本人の研究者たちで置き換えることが可能である。科学研究は全てアメリカのほうが優れていると思っている人は意外と多いようだが、必ずしもそうではないのだ。
そもそもカクは、それほど意外な予測を引き出してはいない。これは「科学者達が合意しつつある予測」に基づいて書かれた本なのだから、ある意味、当然だ。意外な予測をはじき出すのがカクの意図ではないのである。地球上のあらゆるエネルギーを利用し星々へ進出する「惑星文明」の考え方の壮大さには驚く人もいるかもしれないが、これもかなり以前にダイソンらによって提唱され、SFなどではすっかりお馴染みになっているものに過ぎない。またカクはフランク・ティプラーばりに宇宙の最後における文明の行く末まで思いを巡らせているが、これすら、さして意外な考え方ではない。行き着くところはそこしかないからだ。
おおざっぱな話だが、遠未来を予測するのは近未来を予測するより簡単なのだ。本書で展開される予測で意見が割れそうなのは、人工知能の将来くらいだろうか。カクはエージェントの延長上に人工知能が実現すると考えているようだが…。
閑話休題。話を元に戻そう。
日本にも優秀な研究者は大勢いる。先端的な研究も多い。ではなぜ、日本オリジナルで、このような本が出てこないのだろうか。特に「科学者」による気宇壮大な未来予測書が出てこないのはなぜだろうか。
答えは簡単である。日本では、未来予測など地に足が着いていないSFチックな話だと馬鹿にしている研究者が多いのだ。だが欧米には、本書のように、本気で未来を考える研究者が大勢いるのである。彼らは現在の科学をベースにして、真剣に未来を考え、本気で本を書き、そして世に問う。
欧米の研究者達にインタビューしたことがある人なら、強い視線を覚えているはずだ。日本人研究者には、インタビューしても「はにかみ笑い」を浮かべながら答える人が多い。自分の研究に関してでさえ、そうなのだ。まして未来についてなど、いわんやをやである。
しかし欧米の研究者、なかでも本書に登場する人々は、間違いなく実現する近未来の予測だろうと不明確な遠未来の予測だろうと、引くことがない。本書に出てくる何人かには私も直接会ったことがあるが、彼らは視線を外さないのだ。これが質問者にも圧倒的な印象を与える。一見SFチックな話でも「こいつは心底本気でそう考えているのだな」と思わせられるのである。しかも彼らは論理的に喋るので、なおさら説得力がある。
カクによる<前書き>を一読すればお分かりのように、彼らは、未来予測は科学者たちの義務であり権利だと考えているのである。しかもいわゆる「大物」であればあるほどそういう傾向があるように思う。啓蒙もできない研究者は、研究者としてもまだ半人前なのだという考え方があるらしい。このへんは、残念ながら日本は一歩も二歩も遅れをとっているかもしれない。もちろん日本にも未来を考える研究者たちはいる。だが人数はまだまだ少なく、声は小さいし、そして何より「照れ」がある。
私は、カクと違って必ずしも科学者だけが未来予測できる人だとは思わない。だが日本人研究者たちにも、もっと未来に対して思いを馳せてもらいたい、そしてその考えを本書のような形式で世に問うてもらいたいと考えている。本書がその一つのきっかけとなることを願いたい。
二〇〇〇年初春
森山和道
まあ、内容は結局のところ歴史だから、特にこの話が目新しい、というところはない。だからこそ語り口調が重要になってくるのだが、敢えて言えばソ連の「妖術師」ことセルゲイ・コロリョフの話とかがウリかも。コロリョフが「人類初の人工天体は、簡潔で美しく、無機的でなく、たとえば人々が天体そのものをイメージできるような形のものでありたい」と考えていたという話には、なるほどなあと唸ってしまった。また初期の宇宙飛行士たちにまつわる豪快な逸話の数々を語る名調子、さすがにピタリとはまって、いつもながら見事である。
なお、本書で著者がやたらと推薦する『日本宇宙開発物語』や『日本ロケット物語』などといった三田出版会の本は、古本屋でないと手に入りません。どうしても読みたいという人は、探してみて下さい。どうも三田出版会が潰れたときにかなりの本が古本市場に流れたようなので(というふうに古書店店頭では見える)、運が良ければ見つかるでしょう。
当然のことながら1901年の『報知新聞』の話に始まり、科学技術庁が5年に一回やっているアンケートによる未来予測の話(この元々の本は未来工学研究所から定価2万円で売られている)、あとITやロボットの話へと進むといった、この手の本の定番的構成。ITの話あたりから少しは面白くなるので、まあ暇つぶしにはなります。未来予測ものが好きな人、見たら買わずにはいられない人(俺だ)はどうぞ。
残念な点は、惑星探査の話から太陽、流星群、星々の誕生、銀河、月探査、SETIとずいぶん広い範囲を熱かった内容の本なので、詳しい目次や索引の類がまったくないこと。これがあればずいぶん本の価値も変わったのに。でもまあ、僕は『サイエンスアイ』は本編よりも『宇宙デジタル図鑑』のほうを高く評価している人間なので、出版化されただけでも嬉しいことは嬉しい。実際、あの番組はよくまとまっているし、いい番組である。
というわけで、番組のファンは買い。番組を見てない人は、番組を見て面白いと思ったら買いでしょう。
前著『科学の終焉』には比較的同意できるところも多く、僕はホーガンの気持ちも分かるという評価をしていた。だが本書はいま一つ同意しかねる部分が多かった。基本的に検証不可能なフロイトはとりあえずどうでもいいと僕も思うし、どの精神療法も効き目はほとんど同じ(本書で言う「ドードー鳥仮説」)というのも確かにそうかも、とも思う。またDSMにいろいろと問題があるのも確かなのだろう。だが精神薬理学をそれと同列に落とし込むのはちょっとおかしいのではないか。確かに薬理学の教科書ほど物事は単純ではないし、分子レベルでいろいろやっている人が宣伝するほど臨床にカップリングしているわけでもないようだ。だがだからといって未来永劫、効果がある薬が出てこないわけではないだろう。実際、いくつかの薬は今でも多くの患者を助けているわけだし。
また人工知能に関しても、ホーガンは未来永劫できないと言っている。いったい何を根拠にそう言っているのだろうか。現在どうすればいいのか分からないということと、未来永劫絶対できないということとの間には大きな違いがあることに気が付かないような人間ではあるまいに。
ともかくどうも本書には、前著においては、僕は特には感じなかったが多くの人が言っていたところの悪意じみたところが押し出されすぎているように思えて、あまり感心しなかった。いったいホーガンは何をしたいのだろうか。彼自身がイントロダクションでも太字で叫んでいるが彼はいったい、何を「望んでいる」のだろうか。否定的な見解を申し立てることによって、いったい何をしようとしているのだろうか。未来永劫、心の探究が続くことを、だろうか? でもその割にはあんまりじゃないか? どうもそのへんが、最後までよく分からなかった。
なお、例によって、すでに邦訳がある本に訳者が気が付いてないらしいところがちらほら見受けられる。ウェブで検索すれば、翻訳があるかどうかはすぐ分かるだろうに。
軌道エレベーターについては石原藤夫・金子隆一『軌道エレベータ』(裳華房)という本があるからそっちを見てもらうことにしよう。内容は人間の脳の話しや生物の話、歴史と科学などとなっているのだが、なかでも面白いのが<科学と歴史>の章。中でも特に、ジャンヌ・ダルクの話と、「月が裂けるのを見た修道士たち」という話が非常に面白い。
神のお告げを聞いたジャンヌ・ダルクはイギリス軍からオルレアンを守ったがその後イギリス軍に売り渡され、さらに異端として処刑された。火あぶりにされたが彼女の心臓は燃えずに残り、それらはセーヌ川に投げ込まれたという。さて、彼女が見た神の使いや声はいったいなんだったのか。また心臓が焼け残ったという現象はいったい何を意味するのか。ここから科学者達の推理がはじまる。もちろん、これが絶対に正解だという結論は出ないのだが、なかなか楽しい遊びである。
もう一つの「月が裂けるのを見た修道士たち」という話は、どうやら月にクレーターができる瞬間を目撃した歴史上ひょっとすると最初で最後かもしれない人々の話である。これまた非常に面白い。しかもこれは、将来ひょっとすると確認することができるかもしれないのである。将来の月探査に期待しよう。
まあ、楽しいエッセイ集である。さらさらと読める。著者の視点も良いしね。また異端の説が(その真偽はともかくとして)、時として問題の本質を突いていることがあるといった話にはまったく同感。問題は値段が高いことかな。著者には他にも『そうだったのか! 見慣れたものに隠れた科学』(講談社ブルーバックス)といった著書もある。
なお、訳者あとがきの中に「フジテレビで“特命リサーチ200X”という番組があるが、本書はそのノリに近い」とある。『特命リサーチ200X』はもちろんフジテレビではなく日本テレビです。そのくらいちゃんと調べて書いて欲しいもんだね。どうもTV番組だとこのへんを気にしない人が多いみたいだけど、本で言えば版元を間違えるのと同じくらい基本的な間違いだよ。またサレムの魔女っていうのは、セーレムの魔女って訳すほうがより一般的ではないでしょうか。
ヒトは、長く感染症対策に苦しんできたが、十九世紀後半の細菌学の発展を背景にしてサルファ剤が生まれ、さらにペニシリンが開発されるに及んで、ついに、人体内で微生物のみを死に至らしめる抗菌薬を手に入れた。このときから、菌は薬への体制を獲得し、ヒトはその耐性菌を殺す薬を作る、というイタチごっこが始まったのである。本書は、病原菌の適応進化のしくみを知り、抗菌薬のゆくえを考える手引きとなるだろう。やや難いが、この難さも含めて、こんな感じの本。抗菌薬の歴史を追いつつ、菌と薬それぞれを解説する。新書だと思ってなめてかかると大変。もともと医師向けの講演がベースであるだけに内容はけっこう難しく、読解には時間がかかる。だが科学書ならではの独特の面白さがある本。
薬剤耐性の一番単純なメカニズムは突然変異だ。だが2つ薬剤を併用すると、突然変異による耐性化はかなり抑えられる。一剤への耐性頻度を100万分の1とすると、2薬剤に同時に耐性化する確率は100万分の1×100万分の1になるからだ。
ところが、ここに出現したのが多剤耐性菌である。50年代の話だ。しかも多種類の菌がほぼ同時に多剤耐性化したのである。当時の研究者達のとまどいはいかばかりであったろうか。まさに人間に対して自然界が一つにまとまって対抗してきたように感じていた人も中にはいたに違いない。
まったく理解できない状況があった一方、菌から菌に遺伝子が移行することがあるという話は既に知られていたという。供与菌から受容菌へハダカのDNAがそのまま移動する「形質転換」、ウイルスによって菌の遺伝子が取り込まれ移動する「形質導入」、生きた菌同士が接合するときに遺伝子が移行することなどである。
だが当時の常識では、どんな遺伝子が移るにしろ、供与菌がもともと持っていた性質しか移行しないはずであった。いったい多剤耐性がどこで生じたのか、そしてそれがどのようにして臨床株に移行したのかは全く分からなかった。遺伝子の移行が異なる種同士で移るということは、全く考えられもしていなかったのである。
ところが事実はそうであったということは今や周知の事実。腸管内にいた三種耐性大腸菌が抗菌薬の投与によって増殖、ファージの感染によって遺伝子が菌外へ出て、他の菌に感染、形質導入が起こっていたのである。1959年、東大の秋葉朝一郎教授・栃木件衛生研究所所長の木村貞夫と、名古屋東市民病院の落合国太郎院長らが、赤痢菌と大腸菌とのお混合培養によって多剤耐性が伝達することが別々に報告されたのだ。
発見が遅れたのは混合培養という単純な考え方に思い至る人間がいなかったからだという。その当時は細菌を分離することにみんな頭が向いていたからだという話は、科学史の中には何度も出てくる「思いこみの危険さ」を示唆する話で興味深い。
さて多剤耐性赤痢は現在さまざまなところで問題となっているMRSA(メチシリン耐性黄色ブドウ球菌)ほどは大変なことにはならず、流行はおさえられた。研究は薬剤耐性因子の本体に向けられた。それまでに知られていた遺伝子移行メカニズムでは様々な性質が移行していたのに、薬剤耐性菌の場合は薬剤耐性以外の性質は伝えられていない。これはいったい何か。60年代の激烈な競争の結果、その因子は染色体上にはない遺伝子であることが分かり、群馬大の三橋進教授、同衛生研究所細菌部長の原田賢治によって「R因子」と名付けられた。本書では著者の慣習でR因子で通されているが、「Rプラスミド」という名称でも知られている。
さて、本書ではこのあと、では薬剤耐性の実体とは何か、菌はいったいいかなるメカニズムでクスリから身を守っているのかといった話が展開するのだが、その辺はお読みいただきたい。
神経原線維変化とは細胞の中にカスが溜まったものであり、いっぽう老人斑とは細胞外にカスが溜まったものだ。
神経原線維変化の元となるカスは「タウ」と呼ばれる微小管を作る蛋白である。だが、タウがどんな機能を持っているのかについては不明なのだという。というのは、タウをノックアウトしたマウスを作ってみても、何の変化も認められないのだという。ところがタウが異常を起こすと痴呆になってしまうのだ。
いっぽう、老人斑の実体が「βアミロイド」と呼ばれるものであることは良く知られている。βアミロイドは神経毒性を持っていて、神経を破壊する。もともとは「アミロイド前駆体蛋白質」と呼ばれるタンパクが何らかの理由で切り出されてβアミロイドとなり、沈着すると痴呆を引き起こす、そう考えられていた。
ところが、である。1992年、βアミロイドは健常者の脳でも常に作られているということが分かった。しかも子供の頃から作られていることが脳脊髄液の調査から分かったのだ。しかもその量はアルツの患者でも正常者でも変わらなかったのである。こうなってくるとβアミロイド犯人説というのは俄然あやしくなってくる。
そこでβアミロイドの構造がより子細に調べられた。老人斑にたまっているβアミロイドはアミノ酸の数が40の「Aβ40」と、42の「Aβ42」というタイプからなっていた。それだけの違いだが、物性が大きく違った。Aβ42は凝集体を作りやすく、しかも一度作り始めるとAβ40もいっしょに巻き込んでいくのだという。しかもこれは非常に神経毒性が高い。
これらの知見から、新しい仮説が生まれた。Aβ(βアミロイド)はふだんから神経の中にある。ところが何らかの理由でAβ42が増え始めると凝集が始まり、それが神経変性を引き起こして痴呆となるらしい。vitroで物性が違うだけではなく、実際にも老人斑ができるときはまずAβ42のほうから沈着することが分かっている。そして、家族性アルツハイマー病患者の一部ではAβ42が上昇しているのだという。どうやら、Aβ42がアルツハイマーの主因であるらしい。
だが、話はまだややこしい。老人斑の程度とボケの程度が一致しないからだ。というわけで研究は続く。
ということが、比較的やさしめに語られている。
ダイソンは、革命的な展開は新たな道具の登場によって起こったと見る。彼が例にあげるのは、以下のような話である。
1939年、イギリスの物理学者ジョン・ランドールは低空飛行でやってくるナチの飛行機を識別するために「空洞マグネトロン」を発明、マイクロ波レーダーを大幅に改良した。当時、バーミンガム大の研究助手だった彼は、終戦後その貢献が認められロンドン・キングスカレッジに正教授に迎えられ、学科長となった。彼は、これを大きなチャンスだと考え、これまでの固体物理やマイクロ波での経歴を捨ててしまう。そして分子生物学へと転身するのである。彼は最高級のX線結晶解析装置を調達し、モーリス・ウィルキンとロザリンド・フランクリンを招いて、それを使わせた。そう、彼らがDNAの回折像を得たのはその数年後であった。いっぽう、マイクロ波技術は戦後、電波天文学へと応用された。またマイクロ波分光学は原子の構造をより明らかにするのに使われた。これらにももちろんランドールの発明が活用された。
ダイソンは、当時、戦争によって引き起こされたのと同じ様なことが、現在では医学領域で起こっているのではないかという。医学から、新たな技術、新たな科学革命が起こるのではないかと。
ただ、生物学者たちや医学者たちのほとんどは、自分たちで道具を作ろうとしない、とダイソンは批判する。そして、天文学者がするように生物学者たちも自分たち自身の道具を発明すれば、もっと進歩がはやくなるだろうと提案している。もし新たな道具を作り出すことができれば、一つの科学革命から、さらに次の革命を引き起こすこともできるだろうと。
ちょっと言い過ぎ(と身びいき)じゃないかという気もするけど、確かにそういうところもあるような。
ここまでが第一章の内容。なお第一章ではソーカル事件のことも触れられている。
訳者は第2章がこの本の中心だと言っているが、僕にはあんまり面白くなかった。むしろ、色々と安価な宇宙旅行法のアイデアを検討する第3章のほうが面白い。レーザー推進、ラム加速器、スリンガトロンという3つの手法が紹介されている。そして火星やカイパーベルトへの移住へ思いを馳せる。ダイソンは、コロンブスによるアメリカ大陸発見から実際の移住が始まるまで128年かかったことから、スプートニク打ち上げから128年後の2085年を地球からの移住が始まるかもしれない年として挙げている。
まあ、そんな本。講演をベースにした本なので読みやすい。このページ数(本文175ページ)で1800円というのは高いけど、仕方ないか。
この「心の理論(Theory of Mind)」、なぜ理論と呼ぶのか。著者は二つの理由を挙げている。まず第一。「行動」は見えるが「心」は見えない。つまり、特に科学の対象としての「心」とは現象というより、心の中で作り上げられる理論的側面のほうが強い。第二。理論ができれば現象の予測ができるようになるのと同様、他者の「心」に対しても何らかの「理論」を立てれば、行動が読めるようになる。よって他者の心を読むための概念である「心の理論」は「理論」と呼ぶにふさわしい。プレマックらが「理論」という言葉を使ったのは以上のような理由による。
このあと本書ではバロン=コーエン『自閉症とマインドブラインドネス』(青土社)で展開される「心の理論」説に基づく自閉症研究の紹介に入る。バロン=コーエンは心を読むための4つのシステムを提唱した。1)意図検出器、2)視線方向検出器、3)共有注意機構、4)心の理論の機構。
意図検出器とは、単純にいえば対象物の動きに「心」の概念をあてはめ、「意図」を読みとる能力である。たとえば我々は「ボールが向かってくる」と表現することがある。実際にボールには意志などはない。だが心の概念をあてはめたほうが、素早く判断、行動できるのではないかという考えがこの背景にはある。著者は意図検出器の機構をサックス『レナードの朝』(早川書房)の中での嗜眠性脳症の人たちが、外からの刺激で突然マヒがとけるというシーンで説明している。ボールを投げた患者がそれを受け止める。それをセイヤーは「ボールの意志を借りて行動したんだ」と説明した。あのシーンである。あれは、患者の意図検出機構が壊れていないことを示しているのである。
視線方向検出器は脳における基盤がより分かっている機構だ。視線の方向を検出する神経細胞が大脳の側頭部「STS」と呼ばれる部分にあるという。また面白いことに、目が斜めを向いているときにはあまり反応しないが正面を向いた目には大きく反応する部分があるのだそうである。
またバターワースらによる赤ちゃんの視線追従の発達段階研究なども紹介されている。いままで「心の理論」という言葉を聞いたことがなかった人でも、興味深く読める本には仕上がっている。
自然界は法則によって支配されている。そのため「世界」には、可能なことと不可能なことがある。だからこそ科学という営みは可能なのだ。
ここで、邦題の答えは出ている。科学に不可能なことがあるのは、それこそが科学だからなのだ。
トートロジーのようだが、そうではない。成功した科学理論は質・量ともに成果を挙げる。ところがしばらくすると理論そのものが理論の自己制約的な側面を予測し始める。これは、理論の不完全さから来るのではない。内的な不整合性がなくても、その理論には予測できないことがあるという予測が出てくるのだ。「複雑な世界の論理的な記述は、その内部に、自身の限界の種子を含んでいる」。
そしてこのような過程そのものが、「知識のありようや、<宇宙>を内部から探ることがどういうことなのか、奥底にあることを教えてくれている」とバロウは言う。「知りえないこと、なしえないこと、見えないことこそが、知りうること、なしうること、見えることよりも、宇宙をよりわかりやすく、より完全に、より明瞭に定義するのだということが、だんだん正当に理解できるようになると思っている」。
こういったこと──知りうることには限界がある、全てを知ることが不可能であるとはどういうことか──を、不可能の概念が人間の思想にもたらした刺激、逆説について、そもそも「進歩」とは何かという話からガンサー・ステントやジョン・ホーガンらの科学に対する悲観論に触れたりしつつ(バロウはどうやら部分的にはホーガンに賛成らしい)、宇宙論やゲーデルの不完全性定理などを丹念に解説したりしながら、思索展開していく。
バロウの文章は相変わらずうまい。単純にページを繰るだけで、ごく自然にいろんなことを考えさせられてしまうような構成になっている。また各章の最後に要約がついているのも有り難いところ。
せっかくなので、もうちょっと話を続けよう。バロウは科学にとってありうる未来を大きく4つの場合に分けている。
無限というのは文字通り無限のことで、数がひたすら多いということではない。
第一型の場合、無限に新しい問題が出てくる。無限に進歩するが、進歩率が一定とは限らない。
おそらく一般的なイメージにもっと馴染むのが第二型だろう。自然は無限に多様であり、いっぽう人間の能力には限界があるというものである。
第三型は、やがては人間が自然界の情報全てを知りうるとする立場である。
第四型は、おそらく多くの科学者のスタンスである。このタイプは、さらにいくつかに分けられる。バロウによれば以下の3つである。
これは、狭い意味でいう科学の未来だけではなく、人類あるいは宇宙における知的生命体の未来そのものの運命でもある。果たして、<宇宙>とはいったいいかなるものなのだろうか。そして我々はどれほどのものになりうるのだろうか。
ともあれ、ごく近い未来の見当はつく。法則は知ることができる。いわゆる「万物理論」が手に入る日は、やがて来るに違いない。だが、それと法則がもたらす結果の理解とは別物だ。宇宙はこのような二重性を持っている。少なくとも我々が生きている間は、「無限に」面白い成果が続くことになりそうだが、それは同時に、<宇宙>について何が知り得ないかも教えてくれることになる。つまり我々自身の知識の「枠組み」が決まるのだ。それによって我々は、我々自身の知識がどういうものなのか、より深く認識できるようになるだろう。
中でもシューメイカーレビー彗星が木星に衝突したときの著者ら研究者たちの様子が面白い。世界中で減光フィルターを唯一用意していた著者らのグループの息詰まる衝突観測時の模様が生き生きと描き出されている。当時の観測室は異様な興奮に包まれており、著者は「高鳴る動悸と感動からくる体のふるえを押さえることができなかった。正直な話、もういつ死んでもいいと思った」と言っている。
現代の観測中の天文学者は、夜空を見上げているわけではない。ほとんどの時間は、ディスプレイを見ていることが多いという。だが観測が終わり、引き上げるときに夜空を見上げる。すると、その時々の夜空に季節感を感じることもあるそうだ。ただしその夜空は未明の空である。著者は夏に冬の星座を見て季節を感じるという。
夜空は広大無辺の宇宙そのもの。著者は「観測をしていると、しばしば、もう少しで何かが見えそうだという感覚を持つことがある」という。そのときの感覚をこう続けている。
露出時間を伸ばすことで、微かな構造や宇宙の遠方にある暗い星をとらえることができる。われわれの目の前に、次第に宇宙の奥が明らかになっていく。露出時間をどんどん延ばしていけば、原理的には相当に宇宙の果てに迫ることができるのである。もうすぐ、七夕である。
この天文学者の作業が、手法は違っても海の底まで見通そうとする海洋学者と似ている気がするのだ。その意味で、筆者は宇宙と海とが似ている、感覚的に思うのである。
本書の基本的構成は、最新の知見による地球と生物の通史である。それもまあ面白いことは面白いのだが(特に最近の研究成果を知らない人にとっては初耳のことばかりだろう)、やはり本当に面白いのは、その背後の研究者たちの息吹である。恐竜絶滅の天体衝突説がもたらした新しい視点がもたらした衝撃や、各研究者達の思い、それが文部省重点領域研究として発足した「全地球史解読計画」へと融合していく様子、さらに微生物生態系や光合成系の進化の研究者と地球惑星系の研究者らとの交流の模様などは、一つの大きな研究運動の流れがかいま見えて、実に面白い(もうちょっと整理して書けるような気もするけど)。
地球史は反復再現実験ができない。それだけに数理モデルも重要だし、サンプルによる物証も重要となる。そこで著者や熊澤峰夫名古屋大学名誉教授らは「作業仮説ころがし」と呼ぶ作業過程を提唱する。作業仮説ころがしとは、簡単に言えばモデルや物証によって生まれた作業仮説を、検証・修正など「ころがして」いく研究サイクルのことである。そうすれば、一度きりしか起こらなかったイベントを追う地球史研究も科学的研究の爼上に載せることができるのだ。
最後は地球の未来に思いを馳せる。地球寒冷化や突発的気象変化、隕石衝突の可能性、固体地球そのものの変動による「プルームの冬」、さらには海洋消滅と地球の熱的死、そして地球外生命との出会い(著者はこれを「地球史における第8大事件」とみなせると語る)や太陽や宇宙そのものの未来にまで至る。地球外生命との出会いは意外と近いかもしれない。
ところどころ事情を知らない読者には唐突に感じるだろうなと思うところがあるが、まあ、こんなもんかな。まあまあです。気になってもうちょっと知りたいと思ったのはやはり多細胞動物出現、そして氷河期のあとのエディアカラ動物出現のあたりだが、ここらへんは今後の研究成果を待とう。期待。本書を通読した読者が、46億年の歴史の中での人類といった視点を持てることを願う。
ところでC4植物を「C四植物」と表記するのは初めて見たんですけど。第四紀を第4紀と書かれてるみたいなもんかな、この違和感は。
ユニークなスタイルの宇宙論本だ。ハッブルの弟子アラン・サンディジをメインの主人公に据えつつ、数々の研究者達にインタビュー。宇宙論の歴史から現在に至るまで、そしてその研究を行う人々の姿そのものを鮮やかにユーモラスに、この上なく生き生きと描き出している。
内容コンセプトは、<プロローグ>に書かれている。
二十世紀の後半に、宇宙論研究の場にいるというのはいったいどんなことなのか。コンピュータのチップ、地下の粒子加速器、重さ10トンのアルミ蒸着ガラスの塊、電波望遠鏡、ユーモア、そしてプライドで武装した男たち女たちが、私を少年時代に魅了した問題と今なおどんなふうに格闘しているのか。私はそのことを、この本に書いた。彼らはこのテクノロジーの時代の神官であり、神話を作る存在なのである。本書は、こうした「現代の神話」に思いを巡らしている人々とはいったいどんな人で、その思考の過程は如何なるものであるのかを描く本である。宇宙論はまさに現代の神話であり、研究者たちはまさに現代の「神官」だ。私もそう思う。彼らはこの世界が生まれた瞬間に迫り、運命に思いを馳せ、創世記を書き直している。
宇宙はおそらくほんとうに無から創成したとか、私たちの骨や血を形づくる原子は何光年も離れた星で何十億年も昔に作り上げられたとか、あるいは、そうした原子を構成するさらに始原の粒子は天地創造の間に存在したほとんど理解できないエネルギーや力が残したものだという考えほど、神話の味わいに近いものが他にあるだろうか? 私たちは何から何まで宇宙の産物であり、究極の謎の生きた記憶である。私たちは歩く塵、意識をもった星くずである。
だが現代の「神官」は、直感や神の啓示ではなく、論理と観測結果で神話を編む。徹底的に緻密に構築された論理と観測成果の発展双方が激突し、絡み合い、結果的に変化していく宇宙の描像。そして、笑い、怒り、泣きもする宇宙論研究者達の熱意と息吹。研究者たちの空気を感じ取りたい人には、これ以上の本は望めまい。
だから当然、本書には数々の失敗談も登場する。そもそも主人公級のサンディジ自身も成功者ではない。また権力争いや、つまらぬしきたりも著者オーヴァバイは余さず描き出している。著者自身が認めるように中には偏った見方もあるだろう。だがそれが実際の研究現場の空気の一つであることは確かなのだ。
物語は未完に終わったハッブルの探索──宇宙の大きさと運命を観測から推算する──を、若き研究者サンディジが引き継ぐところから始まる。1950年代はじめ、サンディジはウィルソン山の「まるで宇宙そのものの秘密の機械のようにゴーゴー音を立てて回転する」ドームの中で夜毎観測を続けた。彼はその望遠鏡を「キャンディーマシン」と呼んでいた。そう、彼はまるでオモチャ屋の子供のような気持ちだったのだ。
50年代後半。サンディジは相対論と宇宙論の勉強を始める。当時は宇宙の運命は二つのパラメーターで決まると考えられていた。一つは膨張速度を示すハッブル定数H。もう一つは減速パラメータq。これは宇宙の形を決める。開いているのか、閉じているのか、それとも「平ら」なのか。要するに、宇宙の運命は膨張率と重力の引きによる減速率との二つの値の綱引きで決まる。そのためのデータを集めるため、多くの研究者達が観測を続けていた。
そしてサンディジはクエーサーを発見する。ところが彼はその真価に気づかないうちに、シュミットが手柄をあげてしまう。怒り狂うサンディジ。だがその怒りは、クエーサーが標準光源になるかもしれないという事実によって消えていく。彼は研究成果を発表する──だがその発表にはミスがあった。あまりに性急過ぎた。彼は正しいデータに基づいて計算をやり直したが、嘲笑の雰囲気は変わらなかった。彼はそれまでとは変わって、人目につかないように引っ込むようになった。
クエーサー騒動のいっぽう、まったく違う方向から宇宙論に迫ろうとしていた一人の物理学者がいた。スティーヴン・ホーキングである。
…といった形で話は観測から理論、ブラックホール、銀河、銀河団、素粒子物理、統一論、対称性、暗黒物質などなどと続いていく。いちいちまとめていくのはあまりにしんどいので全部パス(間違いもしちゃいそうだし)。なにせ本書は本文700ページもあるのだ。読んでいると腕が筋肉痛になるが、文章はなめらかで躍動感があり、同時に人間くさい。宇宙論という「神話」を扱いながら、これだけ「人間」くさい話を描ききった著者の技量に感服。
いっぽう、文章を黙読したときの様子もPETで見たところ、声を出していなくてもブローカ野が活動し、さらに補足運動野まで活動していた。では音読したときはどうだったかというと、小脳まで活動していた。小脳や補足運動野はどうやら大脳の働きをシミュレートしているらしいという。
だが一番面白いのは音読したとき、音を感知する一次聴覚野は活動するが、理解の場である聴覚連合野は活動していないということ。つまり、声に出した自分の言葉は聞こえていても理解はしていないということだ。これは全く意外だった。
もう一つの本書のテーマは時間の流れ、時系列検出を聴覚野がやっているという話。というのは、手話や読唇など、視覚によるが時系列データが必要なメッセージの場合は聴覚野が働いているというのだ。これはもともと、聴覚が振動覚から発展した感覚であるからだろうと著者は言っている。振動を感知するには時間の流れを把握する必要があるからだ。
以上。値段をのぞけば、そこそこ面白かったので満足。