本書の編者であり、Edgeの主催者であるブロッグマンは出版プロデューサーでもある。草思社<サイエンス・マスターズ>シリーズも、彼がプロデュースしたものだという。彼の科学者たちとのつき合いの広さと深さ、そして行動力が結実したのがEdgeであり、本書であると言える。
「2000年間で最も重要な発明は何か」。この問いに答えがないことは初めから分かっている。理由は簡単、「重要」の意味が人によってバラバラだからだ。
重要とはどういう意味か? 人類の幸福に役に立ったという意味か? それとも生活を根本的に変えたものか? あるいは歴史を変えたものという意味か? 新しい考え方や世界観を人類にもたらしたものという意味か? それとも今後の未来に重要な意味を持つという意味か?
おそらくブロッグマンは、最初から答えが別れることを予想して、敢えて定義しなかったのだろう。「発明」とは一体なんなのか、という問題に関しても同様だ。
だから科学者達の回答は、自ずから彼ら自身の文明観(あるいは柔らかく言えば、彼らのセンス)が問われることになる。
つまり本書は「2000年間で最大の発明は何か」という問いに対する答えを探すために読むものではない。回答している科学者達は皆、その筋では名前の知れた人物である。その彼らが、この問いにどう答えたのか。それを気軽に観賞するのが正しい読書態度だ。
たとえば「鋤(すき)」だと応えたのは『動物達の箱船 動物園と種の保存』(朝日新聞社)の著者コリン・タッジである。スキがなければ大規模農業は始まり得なかった、というのがその理由だ。また馬がなくては都市文明は発達しえなかったという理由を挙げて「乾草」だと答えたのは、なんとフリーマン・ダイソンである(彼は「わたしの独創ではない」と言っているが)。重要なのは過去ではなく未来だとして「プログラム可能なコンピュータ」を挙げたロレンス・M・クラウスは『SF宇宙科学講座』(日経BP)の著者。
かなり本気で答えていると思われる人物もいれば、軽くジョークで答えているものもいる。ちょっとだけ自分自身の文明観も考えつつ、ページをめくるべし。
20世紀は相対論と量子論の誕生によって物理学が広さと深さを一気に広げた時代だった。そこで得られた成果がトランジスタや原爆といった形で応用されるのと歩調を合わせて、物理学は姿を変貌させていった。著者が例として挙げているものが面白い。1900年にはアメリカ物理学会の会員は約100人しかいなかったのだという。ところが1999年には4万人もいるのである。これは「優雅でアカデミックな探求から世界経済の欠かせないコンポーネントへと科学の世界が転換したことの兆候でもある」と著者はいう。
研究者たちの意識も時代によってそれぞれ違っていたようだ。ごく最近、といっても1961年に刊行された武谷三男『物理学は世界をどう変えたか』には「物理精神」で社会を革新すべしとあり、著者は感銘を受けたそうである。当時の時代風景そのほかを考慮に入れても、物理を志すのは「面白さ」ではなく「使命」であると感じる時代があったことを知るのは改めて驚きだ。「物理帝国」が展開期にあったこともまた、こういう考え方が出てきたことと無関係ではあるまい。
現在、物理学は圧倒的な影響力を保ちつつも「物理帝国から物理文化へ」と移行しつつある。「帝国の誇り」として著者は「知的影響力」を挙げる。物理学の成果による「ものの見方」。来世紀には統一論が完成し、目の覚めるような「ものの見方」が生まれるの かもしれない。
だが、通読しても今ひとつ本書での著者の主張は明確ではない。歯切れが悪いというべきか。それも少し違うような気がする。
まあ、世の中には簡単な答などあるはずもないのだが。なんとも言えない読後感が残った。
ただし、環境へのやさしを実現するには高密度高集積化が必要だという著者の主張はいま一つよく分からないところがある。ごく素朴な疑問だが、著者は都市生活者がより高い家賃を払っていることをどう考えているのだろうか? より高いコストを支えるために、よりエネルギーを使ってグルグル色んなものを回しているのが都市の人間だと思うのだが?
「人は人を求めて都市に集まる」、確かにその通り。その結果、よりエネルギーを使う生活を選ぶようになりつつある。ハイパービル構想ではでかいビルを建ててその周囲には自然を残すというプランらしいのだが、現実問題としてそんな状況が訪れるとも思えない。また莫大な資産と資源を一点に集中することにもなる。そんなことが許されるのかなあ。
と、いろいろな疑問はあるものの、そういうところに全部目をつぶるか割り切って読めば、楽しく読める本ではある。
インフルエンザと風邪の違いは、症状の重さと伝染力の強さにある。普通かぜは空気感染せず、基本的に接触感染なのだそうである。ところがインフルエンザは空気感染する。
新型インフルエンザが登場したらどうなるか。1997年に厚生省が出した報告書によると、新型インフルエンザ出現時には全国民の25%、おおよそ3000万人〜4000万人が発病。死亡率0.1%だと3〜4万人が死ぬ計算になる。場合によっては死者10万人超と推定されているそうである。一見むちゃくちゃな数字だが、今までの経験からするとこういう数字になるのだそうである。
そんな馬鹿な、現在これだけ医学が進歩しているのに?と考えるのは早計だ。
実は専門家の間でも、進歩した医学によって新型インフルエンザの被害はそう高くはならないのではないか、という考えがあったのだという。だが、その幻想は患者18人中6人が死亡した香港のH5N1インフルエンザ出現によって脆くも崩れた。しかも実際には全ての人が優れた医療を受けられるわけでもなく、流行状況を正確に追うことは極めて困難であり、企業はインフルエンザ・ワクチン市場から撤退しつつある。
著者はワクチンの安全性と必要性を何度も何度も強調する。
なおワクチンの集団接種は、個人を守るというよりは耐性を持つ人の割合を増やして集団全体の安全性を守ろうとするもの、集団防衛という考え方によるものであるということは、もっともっと強調されても良いのではないかと思う。そういう書き方をすると色々言われるのだろうが、実際問題そうなのだから仕方ない。国中でもし10万人が死んだらどんな事態が発生するか、疫病の恐ろしさを知らない私たちには想像もできない。だからこそ、その恐ろしさを知る人々からの率直な訴えかけが必要になってくるのだと思う。インフルエンザ対策は個人の問題であると同時に、いわば国防問題でもあるのだ。
最初のほうはなかなかうまく繋がっている。燃料電池はコジェネレーションに適しているし、コジェネレーションなど廃熱利用に代表されるエネルギー問題改革は大深度地下利用に繋がる。といった具合。
だが、どうもこの著者の論調には、なんとなくズレを感じるんだよなあ。前著『21世紀の技術と社会』(朝日新聞社)を読んだときにも感じたことなんだけど。この本の場合は内容がおかしいとかじゃないんだけど、なんだか本質的なことがスカッと抜けているような気がする。現代は技術に夢を託すことができないというのも気に入らないし。
まあ、それぞれの技術のザクッとしたことを知りたい人だけ。でもそれならイミダスとか見たほうが良いような気もするな。悪い本じゃあないようにも思うんだけど…。
擬態とは「擬態者が信号受信者の認知システムを擾乱して、自身の適応度をあげる」現象として定義されている。いくつか分類されており、有毒なモデルに無毒な擬態種が似る「ベイツ型擬態」、お互いがお互いのモデルとして信号受信者に学習される「ミュラー型擬態」、捕食者が無害な種を装って獲物に近づく「ペッカム型擬態」、弱毒性の種が致命的な種のモデルになっている「メルテンス型擬態」などがある。
オオシモフリエダシャクの工業暗化の話は有名だ。隠蔽擬態の例としてあちこちで紹介される一方、批判も出たりして、なかなか門外漢には話の全貌が掴みにくかったのだが、本書ではその辺を丁寧に解説してくれている。この話が古くて新しく、擬態という現象がなかなか一筋縄では捉えられないことを教えてくれる。そもそも最初の報告は正しいのかといった話から、背景色選択のメカニズム、自然の状態で捕食者である鳥からはどう見えるのか、そして遺伝子から見た変異の維持などなど、絡み合った要因が様々な角度から検証されている研究の現状が紹介されていて、非常に面白かった。
その他も面白い。というわけで、『擬態2』に続く。
「こっちも面白いので読め」で終わってもいいのだが(ただ、ぜんぜん文句がないわけじゃない。もっと面白い本に仕上げることも可能だったんじゃないかという気もしなくもない)、それもなんなのでもうちょっと内容を紹介しておく。
一番最初の話は魚の擬態の話だが、その後のコラムで紹介されている話も面白い。「別の種類のメスに擬態してオスを誘い、近づいてきたら食べてしまう」という魚の話である。作ったような話だが、こんなものがいるのだから大自然は面白い。
その次のサンゴヘビの話では、バンド模様の起源として、ヤスデの擬態なのではないかという新仮説が紹介されている。本当?と思ってしまうような話だが、確かに見た目はよく似ている。しかもそういう爬虫類は実に多いのだ。ヤスデは爬虫類が進化してくる前の古生代からいたので、確かに状況的にはそういうことがあってもおかしくない。もちろん検証実験も行われているのだが、否定的な結果が出たそうだ。だが、仮説そのものが死んだわけではないという。
ヤスデの一種は白黒バンド模様だが、どうも、白と黒が警告色であるのは他の動物でも共通らしい。黒い鳥はまずいものが多く、捕食者は避ける傾向にあるのだそうである。カラスもその類らしい。そうなると当然ベイツ型擬態する奴も出てくるわけで、その話が「鳥の警告色と擬態」で取り扱われる話である。黒だけでなく、白黒の鳥もそうらしい。だから白黒の鳥は、河原など目立つところにいても大丈夫(=捕食されにくい)なのではないかという。そのほか、「美しさ」の捕食者に対するシグナルとしての意味についても考察されている。捕食者に対して目立つことで、逆に獲物としては不適当であるということをアピールしているのではないかというのである。ウソか本当か分からないが、面白い話ではある。
「アリをめぐる化学情報戦」では、アリの巣にいる異種の昆虫の話が紹介されている。アリは同種でも違う巣のものは中に入れない。なのになぜ?という話だ。彼ら(「蟻客」とよばれている)は外見をアリに擬態しているのはもちろんだが、アリのフェロモンを自在に操ることによって巣に侵入しているらしい。アリヅカコオロギという虫の場合、体表の炭化水素組成がアリの巣にいる間に変わるのだというから面白い。他にもこういうものが多く紹介されている。
むしの話は本当に面白い。「ナゲナワグモは三度奇跡を起こした?」では、性フェロモンに似た物質を出して獲物を引き寄せるクモの話が紹介されている。ナゲナワグモはTVでも紹介されたことがあると思うが、粘着性の球をつけた糸を振り回しガに投げつけて捕まえるという、ただそれだけでも面白い生き物だ。彼らはさらに巧みな戦略を採っていたのである。まさか自分で呼び寄せていたとはねえ。面白すぎる。
「パートナーシップから”だまし”へ」はニホンミツバチを引き寄せるキンリョウヘンというランの話である。ミツバチのオスは通常、訪花しない。ところがキンリョウヘンには彼らも引き寄せられてしまう。しかもセイヨウミツバチは引き寄せられないのである。誘引活性物質はいったいなんだろうか? 最近その物質が笹川浩美氏らによってニホンミツバチの集合フェロモンに似た物質らしいということが分かった。ここから逆に、ニホンミツバチとセイヨウミツバチの集合フェロモンの成分系が全く異なるということが分かったのだ。
最後の「鳴き真似の世界」という話は、要するに人の声をまねるオウムとかキュウカンチョウは自然界では何をしているのかという話である。この話がむちゃくちゃ面白いのだが、キュウカンチョウはサルの声をものまねしているという。どうも彼らは自ら環境音を発することで、その中に紛れようとしているらしい。
他にも鳥の音響擬態の世界は続く。カッコウがヨシキリに托卵し、生まれたカッコウのヒナが他のタマゴをみんな落としてしまう話はよく知られている。ところでヨシキリのヒナは、餌をねだるとき「シッ」と鳴く。もちろん連続して鳴くので「シッシッシッシッシッ」と鳴くわけだ。巣内のヒナが一斉に鳴くと「シシシシシシシシ」と聞こえるのだという。
さて、カッコウのヒナはどう鳴くのだろうか?
もうお分かりだろうが「シシシシシシシシ」と鳴くのだという。進化おそるべしである。
と、このように、進化の産んだ自然の驚きを堪能できる本である。
だが、おそらくその筋の人たちには非常に面白い本なのだろう。本書は、メーザーとレーザーの発明によってノーベル賞を受賞した著者による自叙伝である。可能性を信じなかったものも多かった(だが著者らの20年前に発明されていても、おかしくなかった)レーザー発明までの道のりはもちろん、その特許をめぐる泥臭い科学者同士の争い、そして冷戦時代の軍と科学者集団との関係までが、淡々と描かれている。
カール・ジェラッシ
腹の底から正直になれば、自分は科学のために科学をやっていると言える科学者はそれほど多くないはずだ。もしも本当に科学のために科学をやっていると言うなら、「では匿名で論文を発表したまえ」と言いたいね。ロアルド・ホフマン
還元主義は非現実的だと思うね。あれは科学が信じたイデオロギーにすぎないのだよ。ジャレド・ダイアモンド
もし記述的であって、非理知的な科学を批判したいのなら、現代の分子生物学や実験化学の大半が、まさにそういうものだということです。単にクローニングされた一万個めの遺伝子を記述するといった研究は、まさに記述的であり、たいていは知的興味など何もありません。リーロイ・フード
発明をするのも好きですが、私がいちばん情熱を感じるのは、何ができるというはっきりした見通しを持った上で、技術的に解決できる問題のまわりに人を集めて、そういう問題に注目してもらい、熱中してもらうことです。サー・デーヴィッド・ウェザーオール
たぶん私は、はたから見ればばかばかしいほど長い時間、仕事をしていると思います。サー・ジェイムズ・ライトヒル
私が勉強した学問分野はたった60ほどですから。ジェイムズ・ラヴロック
こう考えてみたらどうだろう。今日科学者と呼ばれている人たちは、実は科学者ではないということだ。広告のコピーライターが文学者でないのと同じようにね。ピーター・ミッチェル
私たちが科学をやっている理由は−−科学者だからやっているのでも、科学のためにやっているのでもなく−−人間だからやっているのです。ジョン・ケアンズ
本当に好きな部分は、序論を書くことかな。たった二つの文で、読者を問題の核心へ投げ込むにはどうすればいいかと、考えるんだ。リチャード・レオンティン
進化論的な世界観を信じるということは、ある社会思想を信じることであり、生物学に関係してくるのは、このプロセスの最後の最後なのです。アントニオ・ガルシア・ベリド
科学は、維持されていないと、たっぷり栄養をもらっていないと、生き続けられないんだ。いったん崩壊したものを回復させるのは、とても難しい。サー・ジェイムズ・ブラック
私は、いつも何かの後を追いかけているだけです。いつも、単純な問題に答えを出せばすぐに解決できるようなことを研究目標にしています。ジェラルド・エデルマン
私はその図を見た時、抗体がこんな形であるはずがないと確信した。マイケル・バーリッジ
もし私が、防音室にこもって実験をしていて、誰にも内容を話せないとしたら、興味はすっかりなくなってしまうでしょう。エルウィン・サイモンズ
私はいつも学生に言っているんだが、化石が思ったとおりになることは決してない。それはあり得ないことなんだ。細かいことに目をつぶって過去を予想しても、決して考えた通りになりはしないのだよ。マレイ・ゲルマン
私はいつだって不安に耐えてきたのだよ。何を考え出した時でも、私はそれを疑い、間違っていたりつまらないことだったりしたらどうしようと恐れていた。どんな考えであれ、発見であれ、まぎれもない本物の喜びというものを経験したことはないね。シェルドン・グラショウ
その通り、狂気の沙汰に振り回されている。それでも、最後に手に入れるものはとても美しいんだ。ニコル・ルドワラン
美しいのは、目に映る色彩だけではありません。見えるものの背後に知性で感じ取られるものが美しいのです。ジェラルド・ホールトン
テマティックな前提が大きな役割を果たしているということに初めて気づいた時、私にはそれが、これまで教えられてきたことの一切に反しているように思えました。カルロ・ルビア
私は自分に特別な才能があるとは思っていないよ。単にしつこい性格なんだ。職業人としてではなく、知的にしつこい。デーヴィッド・ピルビーム
古人類学は進化を調べる学問であって、それ自体は科学ではない。それは一つの問いかけなのです。アン・マクラレン
どこかに一人で押し込められていたとしても、やはり周囲で起こっている現象を理解したいと思ったでしょうから。アヴリオン・ミチソン
良い実験を考えたことのある人は、良い実験の考えが浮かんだらすぐに分かるものだ。もちろん、思いつく実験すべえ良い実験ではないが、良い実験を思いつくというのは、実にすばらしい。
分かるところはすごく分かるし、まず特化してその後で汎化せよというのにも賛成だし、ましてやアプリケーション主導というのには諸手をあげて大賛成だし、一気に読めるくらい面白い本だった。だが、肝心の自分の研究への評価が甘いのだ。著者がやっていることも素人目から見ると「だからなんだ」と言われてしまうような気がするし、それは意外と本質的な問題だと思うのである。
さておき、本そのものは確かに面白い。AIやらロボットやらコンピュータの可能性やら人工生命やらに興味関心がある素人は必読だ。著者は筑波大でSFをネタにしたユニークな講義を行っていると聞く。それをベースに『月刊ASCII』で行った連載を、一冊にまとめたもの。
1956年に開かれたダートマス会議から、はや40年以上。1968年に公開された映画『2001年宇宙の旅』のHALは未だ気配すら見えない。AIは状況を限定できる領域では実用化されており、人工知能といえばその手の研究のことを指すようになっている。だが逆にHALみたいなものを作ろうという機運は、どこにも見えなくなってしまった。
本書の前半は、なぜHALみたいなものができないか、という話の解説。この種の本ではお馴染み<フレーム問題>と<記号着地>という二つの言葉がキーワード。世界を記号化することができるかどうかという問題が記号着地。フレーム問題はその一部分。いかに関係あるものと無関係なものを切り出すか、という問題だ。
人間もこういう問題にぶつかっているはずなので、その手法をまねられればAIは実現できるはずだ。だが脳がやっている処理を再現できるほど、我々は脳自身のことを知らない。
著者らがこれらの問題の解決方の一つとして紹介するのが状況づけAIや行動AIと呼ばれるもの。行動と周りの環境が一体となって目的を達する、これを「状況づけられている」と呼ぶ。知能を状況の中での行動、その相互の絡み合いの中で獲得させようというのが状況づけAI、行動AIの立場だ。また進化的なやり方で、知能を発達させようというアプローチもある。この辺は著者自身の研究の紹介になる。
そのあとはゲーム理論や複雑系の話が続いて(間には<ファウンデーション>シリーズに登場するハリ・セルダンの心理歴史学の紹介なんてのもある)、チューリングテストの話へ。この辺が中盤。
個人的にはその先の「コンピュータとはなんぞや」という話が(現在の個人的興味とも重なり)面白かった。歴史を交えて紹介されている。最後には<自己改変型軟化コンピュータ>という話をいろいろと提案紹介し、将来の夢、コンピュータの真の能力なるものが語られてまとめられている。
というわけで、個人的に勉強になるところもあり、著者自身が何をやっているかも分かりやすく紹介されていて、そういう面では非常に有り難かった。だが、こういうやり方だけでは絶対に<人工知能>なんてものは生まれないだろうなあ、と改めて思ってしまった。著者は最初からそんなものはできない、と言っているのだから、この本にそんなことを求めても仕方ないのだが。しかし、それに対して著者が出しているものが(著者だけではない、認知ロボット系全般に言えることだと思うが)、正直言ってショボいのだ。進化だなんだと言われたところで、あまりに単純だし。こんなやり方では、せいぜいアメーバみたいな「知能」しか獲得できないでしょう。それも「知能」だと言っちゃば確かに「知能」かもしれないし、まずはアメーバからなんです、というやり方も分かるのは分かるんだけど。「話」は、本当に面白いんだけどね…。
と、いうのが認知ロボット系や現在の人工知能系の研究に対して感じていることなんですが、どうなんでしょ。やっぱり「せっかち」ですか? あるいは「お前はコンピュータの本質を理解していない!」と言われちゃうかな?
でもねえ、だったら、もうちょっとなんとかならないのかなあ。
1899年、売国特許局局長は「発明されるものは、すべて発明され尽くしてしまった」と述べているそうである。まあ、いつの時代もそんなもんなんだ、ということだろう。
だが、それでも気になる。この閉塞感はいったい何だろう。未来を夢見ようと思ったら、過去を振り返らなければならないとは。
宇宙を究極的に説明する希望はあるだろうか。「万物の理論」は存在するだろうか、そしてそれは何を教えてくれるだろうか。このような理論に実際に包含されるのはいったい何であろうか。(p.4)本書は上記引用部分のうち、特に「実際に包含されるのはいったい何であろうか」という部分を探索しようとした本だ。いったい我々は何を問わねばならないのか、ということを、一つ一つ丹念に考察していく思索の書である。
問われる項目は以下の八つ。
内容は決してやさしくはないが、自然法則と宇宙の関係に対する5つの関係を明示した33ページの図解に見られるように、バローの文章と解説は分かりやすく実に巧みで、林一氏の訳も読みやすい。インフレーション宇宙における初期条件の問題や、ゲージ理論の登場による法則と力と粒子、3つのあるべき関係などなど、一つ一つ、いちいち納得させられてしまう。通読することで、現代物理の世界で、何がなぜ問われているのか、ざっとしたことを把握できる。内容はいわゆる究極理論についてのみではなく、複雑性や人間宇宙原理まで(こっちは当然か)。
なぜ物理学者は究極の理論、万物の理論を求めるのだろうか。バローは、以下のように言う。
科学者の仕事は発見すること−−宇宙について新しいアイディアを想像したり、新しい事実を発見すること−−にあると一般の人々は考えているが、科学者が発表する書物や論文の多くは、これとは別の第三の目的のために書かれている。それは、既存のアイディアをより単純で、より直観的な理解しやすい形に洗練すること、そして複雑なものを取り除いて平明なものにすることである。(P.150)当初分かりにくく、世界で数人しか理解しえないと言われていた多くの発見が、どんどん大衆化していくことを我々は知っている。いつか万物の理論が発見されたときにも、同じ事が起こるのだろうか。
あとは、林一氏の<訳者あとがき>をお読みいただきたい。相変わらず、単なる訳者あとがきに留まらない、優れた書評である。
しかしながら、ソフトとしてはどうかとなると、「これはちょっと」と言わざるを得ない。全体的に、素人くさいのだ。作者たちは、他社が出しているソフトを少しは研究したのだろうか。資料性は高いと思うので、それだけにこのユーザーインターフェースの悪さが残念だ。
読み物としては読みやすい。さらさらと読める。ただ、言葉はそれほど雄弁ではない。やっぱり、自分でやらない限りは決して分からないだろうな、という気もした。
血液は「最も高価な天然の液体資源」であり、同時に、文化的な背景と歴史を持つ不思議な物質である。「血は水よりも濃い」という言葉に現れているように、「血液」というのは、しばしば「命」と等価に扱われていたし、現在もそう思われているところがある。もちろん医薬品としてもっとも重要な品であることは別にして、である。
この考え方がしばしば純血主義に繋がったり、また我々の安全観念に深く関わっていることを著者は冒頭でずばっと指摘する。何のことか分からない? たとえば「この国の血液から作ったものだから安全」という全くの思いこみが血液製剤被害を拡大したことはなかっただろうか? 僕たちの気持ちの中に、こんな感情は残っていないだろうか? 純血主義は、現在も我々の観念の中に脈々と息づいているのだ。
本書は3部構成。第一部は「血液と人間」と題され、17世紀頃からの輸血の歴史が生き生きと描かれる。まったく凄まじい実験が行われていたものだと思うかもしれないが、当時の人々にとって輸血はまさに驚異的なことだったのだろう。しかし改めて驚かされたのが、いわゆる近代的な輸血というのは本当にごくごく最近始まったに過ぎない、という事実だった。
その過程が描かれるのが第2部、「血液と戦争」。血液供給システム、保存血の誕生、品質管理問題、血液製剤。これらは戦争によって必要とされ、数多くの問題の噴出、そしてその解決なども、戦争によって図られていった。中にはむろん、人種差別問題も含まれる。
第3部は「血液と経済」。大戦後の状況が描かれる本書の後半は、731部隊の話から始まるように、日本に対する記述も多い。著者の視野の広さは驚きだ。いや、戦後経済は国際流通の時代であり、血液もその枠組みで捉えなければならないのだから、当然といえば当然なのかもしれないが。血液業界に続々と参入してくる業者、ビジネス、その結果生まれる品質管理問題などが指摘されている。そしてAIDS。
まず量、次は質、これは血だろうがなんだろうが変わらないのだということを、つらつら感じた。
血なら動物だろうが人だろうが何でも良かった時代から血液型の発見、さらに血漿、アルブミン、抗体、凝固因子へと血液は「分解」されていった。著者は、今後もその歩みはさらにさらに進んでいくだろうという。
血液はさらに価値を増していく。血液収集の必要性は今後も増すことはあっても止むことは決してないだろうし、それに合わせて、リスクもまた続くだろう。
あまり魅力を伝えられていないと思うが、本書は読み物としても非常に面白い。おすすめ。
昔はイヌに樟脳を飲ませてその尿から強心剤を造っていたなど単純に面白い話も多いが、やはり本当に面白いのは、研究開発過程を自分の体で覚えていく過程である。ここは一般の研究者はもちろん、おそらく企業内にて研究職に就いている人々ならば、私とはまた違った興味で読み進めることができるだろう。自らの生き方を探る上で、一つの指針ともなるかもしれない。また逆に反論などもあるかもしれない。それぞれ、自分で読んでの感想が聞きたいところだ。
また著者は「薬は、人類の知的能力の進化の過程を最も端的にあらわしているといってもよい」と語る。20世紀は「薬の世紀」であるとし、20世紀の主な薬の歴史なども振り返って解説されている。ペニシリン、抗生物質ストレプトマイシン、利尿剤、コルチゾンなどステロイド、そして抗精神薬トランキライザーや、インターフェロン、生活改善薬などなど。「薬の発明の進歩のあとを辿ることは人類の願望の変遷を知ることで」あるので、ここは誰にとっても興味深い内容となっている。
研究の有り様を知りたい人ならば、基本的に読んで損はない一冊だろう。