知的な人工物というのは要するに、CMで「賢い」炊飯器とか洗濯機とか言っているアレのことだと考えて間違いない。センサとコンピュータを積んだアレのことだ。本書でたびたび出てくる言葉を使えば、問題解決を行う人工物、それが知的人工物である。製品でもサービスでも、量が満たされたら今度は質が求められる。その結果、世の中にあふれる人工物はことごとく「知的化」しつつある。そういう知的人工物とは一体なんぞや、ということをもう一度振り返って考えた本である。
さて。通読した僕の印象だが。本書は基本的に人工物の設計を行う人たちへの一つの提言の本であるので、そういう側面は取りあえずいいだろう。工学屋さん自身の感想を聞きたいところだ。僕自身は、著者はなぜこういう本を書いたのか、ということが一番気になった。
もちろん、社会に知的人工物があふれている昨今云々といったことは本書にも書かれている。どうもそれ以上に、何か深い理由があるんじゃなかろうか…。そんな気がしたのである。
確かに設計に思想は必要だろうが、著者は、なぜここまで「人工物」を分析・考察する必要があったのだろうか。何かよく分からないが、どうもそこが引っかかる。ここについては、今後の課題として頭の片隅に置いておこう。
クリストファは特異な存在だ。彼は身の回りの始末ができないため施設で暮らしている。方向感覚が悪くどっちがどっちだかわからなくなってしまうし、手と目の協応も悪いので、ひげ剃りやボタンかけのような日常的な課題がひどく厄介な仕事になってしまう。だが、彼は15から20ヶ国語のいずれの言語をも読み、書き、それでもってコミュニケートできる。(P.1から)彼は、並はずれたスピードで外国語を学習できる。言語の天才なのだ。だが一部自閉症児に似たような症状を見せるなど、一般的認知能力に障害があるらしい。一方、言語能力はおそらく通常人以上に強化されているらしい。彼のこの症状は他の言語系のサバンにも見られるもので、いわゆる「知能」なるものが単一のものではないことを示差している。
だが、言語に関することならまったく問題なし、というわけではない。彼はアナグラムやクロスワードには優れた能力を発揮するが、いわゆるジョークの類は理解できない。語彙には問題ないが、統語にはやや問題がある。
著者らは、クリストファがいわゆる「心の理論」的な課題を苦手とすることから、表象を統合しメタ表象を作り上げる<中央システム>なるものが障害されていると考えているらしい。そしていわゆる<心の理論>モジュールは中央システムの中にある、と。
ふーむ。これだけなら、ふーむ、という形で終わりだなあ。
本書はいわゆる研究論文であり、あまりはっきりと著者らの思いや考えが記載されているわけではない。そこが個人的には残念。そこがいいんだ、という人もいるだろうけど。
一つだけ付け加えるとすると、著者が最後のほうでふれている太陽系の安定性だが、最新のモデルの一つによれば、太陽系は100億年くらいは安定に続くと予想されているそうである。だが、惑星系の安定性が実は非常に不安定だという話は非常に面白い。いまちょうどそういうインタビューをテープ起こししているところ。
本書ではフェルマーの定理を軸として、現代数学と数学者たちの歩みをおっていく。始まりは古代バビロニアからと、なかなかユニークだ。日本人数学者についても、谷山豊と志村五郎が大きな貢献を果たした人物としてかなりの紙幅を割いて紹介されている。例によって名誉の奪いあいも登場する。中身もかなりやさしく、とっつきやすく書かれているが、やっぱり書かれている数学の概念はかなり難しく、僕は19世紀くらいで既に「えーと…」って感じ。おおざっぱなことは分かったような気がするんだけど、なんだかよく分からないような気がするのだ。
でもこれ以上やさしくは書けないだろうなあ。細かいところまで説明してよ、とも思うのだが、細かく説明されたらよけい分からなくなっちゃうんだろうな、多分。数学の本って、ここが難しいんだよ。誰かいい本を書いて下さい。
さて、じゃあ僕みたいなのが本書を読んで得られることは何か。数学とはどんな学問なのか、数学者とはどんなことを考え、どんな研究スタイルを持っている人たちなのか、ということが漠然と分かる。僕が読みとったところによると、数学の歴史とはすなわち論理の拡張である。勘違いしてもらっては困るのだが、もちろん好き勝手に言うということではない。数学とは論理の世界である。数学の探究とは、数や記号や空間、数の概念の拡張そのものに他ならない、という意味だ。数の構造を拡張していく、と言い換えてもいいのかもしれない。そうして、新しい論理の構造で問題をどう記述するか、考える。というか問題を記述するために新しい数なり関数なり空間なりを考える。これが数学の世界なのかもしれない。とにかく、その積み重ねの結果としてフェルマーの定理が解かれたのだ、ということは分かる、具体的なステップというか、過程はさておき。
しかし、数学者ほど、何やってるのかさっぱり分からない研究者って、いないんじゃなかろうか。
「テクノマエストロ」とは以下、いちおう個人的な感想を。なにせ140人の科学者・技術者たちが並んでいるわけで、見ているだけでも楽しい。やや詳細に欠けるのが残念だが、それは本書の性格上、仕方ないことだろう。番組のファンだった人はもちろん買いだろうが、こんな番組があったなんて知らなかった、っていう人にも手に取って頂きたいと思う。あ、これじゃ感想じゃないな。
●テクノ=technology(テクノロジー/科学、技術)
●マエストロ=maestro(大家、巨匠、大作曲家、名指揮者)本書はフジテレビ系列で深夜0時20分からの10分間枠で放送されていた『テクノマエストロ』を単行本化したものです。同番組は1998年4月13日〜12月24日までの月曜日〜木曜日に放送され、現在はすでに終了しているのですが、その後もホームページなどへのアクセス、問い合わせの反響が大きく、一部で単行本化を期待されておりました。
番組をひと言で表すなら「科学者・技術者のプロモーションビデオ」といったところでしょうか。どんな発明、新技術を開発したかという説明よりも、伝記的に人物を紹介するところに主眼をおいた構成になっております。
合計で140組の科学者が登場します。エジソンやアインシュタインなども登場しますが、そのほとんどが存命の日本人です。彼らの発明には商品名を見知っている技術もあれば、聞いたこともないものもあります。発明や新技術に感嘆するのはもちろんですが、なによりもこれらの発見が同時代の日本人によって成し遂げられたことに新鮮な驚きを感じられることでしょう。
まずは本書を開いていただき、テクノマエストロたちの偉大なる業績を堪能していただければ幸いです。
それぞれの項目には「〜の男」という見出しが付けられているのだが、男ばかりで女がいないのが(正確には二人登場するが)、ちょっと寂しいところかもしれない。数は確かに少ないだろうが、技術系の女性もいると思うのだけれど。それを見つけるのがプロってもんでしょう。他人事なら気楽に言える(笑)。
なお実業之日本社では今後も科学系の出版を続けていく方針の模様。この本が第一弾とのことなので、これの売れ行きで風向きがいろいろと変わるのでしょう。科学書の点数はひたすら増大しているが、一冊一冊の売れ行きはどん底と言われるいまの時代、苦しいとは思うが頑張ってもらいたいものだ>各出版社 科学書担当 御中。
著者は「ヒトと動物の関係学会」会長だそうである。なお、(アニマル・セラピーものには多い)怪しい本じゃないかと警戒する人のために申し添えておけば、意外と内容はまともです。イルカはほとんど登場しなくて、ウマが中心(アニマル・セラピーが持つ教育、医療、スポーツ3つの側面すべてを備えているからだそうだ)。飼育されいてるイルカは、アニマル・セラピーにはあまり向いてない、と考えているみたい。
アニマルセラピーに具体的にどういう効果があるかは分からない。本書でも心臓病の進行を抑えるだとか、血圧を下げるだとかのデータが提示されるのだが、その具体的なメカニズムはもちろん、本当にそれが有意なものかどうかも、今ひとつはっきりしない。著者自身も認めている。
だがペットと暮らすことは、「生命観を育てる」といった教条的なものだけでなく、確かになにがしかの効果をもたらす。そんなことはペットを飼ったことのある人なら、みんな知っている。また一方で、ペットロスという問題が起こっていることも。
著者は、家畜やペットに対して根本的に違う考え方を持っている西洋と日本では、西洋のアニマル・セラピーをそのまま持ってきてもうまくいかないという。じゃあ具体的にはどうすればいいのかということについては、試行錯誤、という答えしか用意されていない。まあ、まだ歴史も浅いことだ、仕方ないことだろう。一つだけ言えるのは、本書の最後の方で述べられているように、動物自らの「意志」も尊重してやることが重要だ、ということくらいか。つまり動物への配慮が不可欠だ、ということである。「動物の行動や心理についての専門家の参加が必須」と著者は主張する。
おそらくアニマル・セラピーは一見その導入がやさしく見えることから、これから介護や医療の現場にどんどん取り入れられていくことだろう。安易な導入によって、被害が起こらないことを祈るのみである。
海外(欧米)の著者がこの手のテーマを扱った場合、「動物にも『なんらかの』意識がある」ということ、人間と動物の間には連続性があること、ただそのことを言うために相当の紙幅が割かれる。動物はまったく自分自身にも他者にも気づいておらず、外界の認知もしていない、と考えていた時代が長かったせいだろう。だが問題は、どこからどこまでが同じで、どこの何が違うのかを見極めることなのだ。連続性があるあると言っても、それだけでは前進しない。
著者はゴリラやチンパンジーの言語能力・知能を過大評価している。ココその他の話が、当事者たちが当時言っていたほどではなかったというのは、既に了解事項だと思っていたのだが、そうでもないらしい。ともあれ、著者がここで挙げている事例は、認識や洞察や認知や知能(これらの言葉が何を意味しているかは別として)の証拠にはならない。
一歳〜2歳あたりで人間は自己概念を獲得する。2歳くらいになると鏡を見て映った個体が自分だと気づくようになる。そして2歳半を過ぎたあたりから、いわゆる「心の理論」を持つようになる。自分と他者の違いに気づき、他者の中にも「自己」があることに気づき、それらの知識をベースに他者の心の中をも洞察しはじめるのだ。
本書の内容とは外れてしまうのだが、チンパンジーはかなり人に近いようだ。いまさら何を、と言われるかもしれないけど、やはりかなり近いらしい。だが「心の理論」を必要とする課題を全てクリアできるかというと、できることとできないことがあるようだ。自閉症児の症例もそうだ。できることとできないことがある。だから「心の理論」モジュールなるものがあるとしても、多分それは複数から成り立っている。ここまではみんな思っているのだが、問題はその実体である。
知的であるという言葉は、ジャンルによって定義も意味合いも違う。たとえば工学の人がいう「知的」というのは、問題を絶えず解決していく能力のことだろう。そういう意味では、生物たちはどれも優れて知的である。だが問題は、それらを統合援用して洞察しているかどうなのか、ということだが。
関係ないけど、ハトなど鳥類が回転問題(図形を回転させてもどれが同一か見分ける問題)を得意とするのは、航空機のパイロット、あるいは3Dシューティングゲームをやっている人なら、ごく当然に理解できるのではないだろうか。3D空間で戦っていると、あっという間に上下左右の感覚を失う。空中を行動する生物が、図形の認知ができなかったら困るだろう。
あ、そうそう。澤口俊之氏のことが本書p.129に書かれているのだが、氏の感じと所属が違ってます。
ドップラーシフトやアストロメトリーという方法で、系外惑星が発見されつつある。発見された惑星系は太陽系と比較するとあまりに異様であるものの、どうやら惑星系そのものは普遍的なモノらしいということが分かりつつある。著者はそれらの成果を紹介しながら、ドレイクの方程式の各項目を考察していく。それぞれの紹介は先にも書いたように結構面白い。ただ、それぞれが今ひとつ根拠に欠けるのが残念だ。
たとえば著者は「DNAが現れてから十分な時間が経てば、知性は必ず進化を遂げるのである」と書いている。いったい何の根拠があってそんなこと断言できるわけ? 知性は必ずしも生存に必要なものじゃないし、絶対に進化するなんてこと、進化の本質からいってもあるとは思えないのだが。
まあいいや、取りあえず天文関係のところはまあまあということで。
で、そこまでが前半で、後半が確率についての解説。バスの待ち時間の話などを例として引きながらインスペクション・パラドクスなるものを解説し、いわゆるフェルミのパラドックス──地球外生命体が存在するなら、なぜ我々と接触してこないのかという問題に答える。答えは、我々が宇宙でもっとも進化した文明である可能性が高い、というものだ。
ところで本書P.123に紹介されている説、地球にもし月がなかったら地軸がふらついて気候が安定しないという話について。僕は、これはほとんど反論しようがないことで、よって地球外生命体──特に交信可能な文明を持つもの──の誕生には、月のような衛星を持たなければならない、ということになるんじゃないかと思っていたのだが(岩波『科学』1998,10月号「地球・月はなぜそこにあるのか」など参照)、著者によれば<イカルス>誌の97年9月号には、地軸が安定していなくても生命体は発生する、と主張している論文が掲載されているそうだ。そりゃ生命体の発生くらいまではいくかもしれないが、そこから先はほとんど分からないんじゃないか? いったいどんな論文なんだろう。これは一度読んでみなくては。
しかし冒頭からちょっとびっくり。著者は旋盤で鉄を削りながら昂奮のあまり射精したことがあるという。将棋の対局中に名人が射精してしまうのと同じだというのだ。本当に本当なのかな。
職人がいま注目されている理由の一つは、力強い言葉を喋ることのできる(あるいは聞き手が力強いと感じられる言葉を吐ける)人間だからだろう。
本書に登場する職人の一人はこう語る。「職人というのは、人に役に立つ仕事をする人間です。その人間の仕事が楽しくないはずがない。楽しんで働けなければ、職人じゃないですよ」。だから職人は、その楽しさを惜しみなく人にも分け与えようとする。だがもちろん、見せてもらったからといってすぐ身に付くはずもない。
自らも職人である著者はこう語る。「技能とは、人間の体温を通してしか、ものに実現することができない技術のことをいう」
おれはほんものを創っている、そんな自信を持ちたいと多くの人が願っている。そんな時代が、自らの手業と知恵を持つ職人たちを求めているのかもしれない。
なーにが「時代が」だ、お前はどうなんだって言われそうだな。
僕? 僕の父方はみんな職人の家系だしなあ。オヤジも(機械工じゃないけど)職人だし、近すぎてあまり実感がわかないんだよな、本当は(笑)。でも確かに、ものを作っている人間は強い。これは確かにそうだ。なんか知らないけど、そうなんだよな。
プロローグとエピローグがついていて、この文章が硬くかつ抽象的ながらもなかなか読ませる。いったい誰が書いたのだろうか、と名前を探してみたが分からなかった。残念。ともかく、ここから何カ所か。というより簡単に要約。
工学とは「ものをつくること」である。著者は「つくる」ことは人類共通の性向の具現であるという。そして本書は、ものづくりの先端をビジュアルで示した本だ。人工物を作り出すことは人類の喜びであるが、一方で弊害も生み出した。現在の工学は、単にものをつくるだけではなく、そのものづくりの「目的」と「対象」に、広い視点を導入せねばならない。
まず対象について。
これまでの工学は目に見えるものを対象として発達してきた。だが現代工学の対象は、たんに「もの」にとどまらず、「もの」同士の関係としての「こと(現象・事象)」をも扱うようになった。つまり「もの/こと」物事を対象にするようになっている。
一方目的のほうはどうか。
これはまだ存在していないモノをつくる、つまり発明することと、存在していたが未知だったものをしること、発見することに分けられる。ものをつくることが工学の目的だが、その過程において物事の本質を見抜くこと、知ることが大切なのだ。同様に「現象の本質を知ることは、科学全般が目的とするところだ。加えて工学には、新たな現象を誘導すること、現象を新たにつくることが目的にひとつになりうる」
「強く社会的な存在」である工学は、これから新しい視座を得、さらに全く新しい学問分野に進化していかなければならない。
だいたい、こんな内容がプロローグには書かれている。
それぞれの章については、それぞれの扉の文句が内容を表している(ちょっとInterCommunication的だけど)。それぞれ引用してご紹介する。
通読して、科学と技術は再び融合しつつあるのかもしれない、とぼんやり思った。
- substance
見えるものは「識れている」だろうか。そもそも、見えるものは「見えている」のだろうか。工学の最終的な対象は「具体的なもの」であろう。しかし、本当に工学がつくらなければならないものは、その背後にあるのかもしれない。それゆえに、しっかり見ることが重要なのだ。- phenomenone
「ある」けれども見ることのできないもの、「見える」けれども識れないこと……。世界はそういった「見えないもの」で充満している。可視化することは、概念化することである。わかったときに、はじめて見えてくる。「見ること」は、そのまま研究の目標でもある。- discovery
隠されたシステムを見いだすこと、これは砂に埋まった彫刻を掘り出すこととは似てはいないか。砂の中に無数の部分に分かれて埋まっている美しい彫刻。見出し方によって「発見」される彫刻の姿かたちはいとも簡単に変わってしまう。「発見」は最新の注意を払ってなされなければならない。- invention
新しいものをつくる──。これはある種、神聖な出来事だ。出来上がったものは、少しづつではあっても世界を変えていく。変えられた世界は、もはや元の世界ではない。そして、新しい世界がより善い世界である保証さえどこにもないのだ。人がものをつくる──。たいへん厳しいことである。
ところがこの著者、どうも分かってないんじゃないかと思われるところがいくつもある。特にコンピュータ関連はそうだ。最初のパソコンの計算能力は低かったからゲームに使われた、とか。ゲームが如何にマシンパワーを使うのか、この人は理解していないんじゃないでしょうか。他にも例を挙げると、教育への情報技術応用は「CG画像、映像をフルに駆使するマルチメディアによる教育」という形をとるべきだと言っている。その直前にCAIではなく、と書いているのに、だ。こんなこと本当に情報教育やっている先生達に話したら、失笑されるだけだろう。で、とにかくインタラクティブだ、と言っているのだが、著者が言うところのインタラクティブとは一体なんだろう? さっぱり見えてこない。まさか未だに、クリックしたら絵が動く、なんてのがインタラクティブだと思っているわけではあるまい。
また、家庭への最初の情報化はテレビだったとか言っている。電話でしょう、普通。揚げ足とりだと思われるかもしれないが、僕に言わせれば電話が非常に重要なメディアであることをこの著者が全く意識できていないことを示す1例である。
要するに著者はメディアの持つ非常に重要な一面、「コミュニケーション」という要素を完全に見逃しているのである。実際にネット利用に関する記述を読んでも、電子メールを全く評価していない。そもそも取り上げていない。インターネット冷蔵庫なんかを取り上げる紙幅があったら、メールをちゃんと取り上げるべきだ。この人は本当にネットを使っているのだろうか。もし使っているならこのウェブもすぐ見つかるだろうから、ご意見を伺いたいものである。
著者の本領たる技術に関してもそうだ。「技術は複雑系に向かう」と著者はいうのだが、はっきり言って意味不明である。まあ言いたいことというか「その気持ち」は分からなくもないのだが、もっと具体的にお願いしたい。環境ホルモン問題に対する視点もおかしい。「環境ホルモンはきわめて微量で作用を持つのだが、その微量について、影響が生じるのはどのレベルであるのかをつかまねばならない」と言っているのだが、これこそまさに、環境ホルモンで問題になっているのが許容量というものが設定できないかもしれないという点であることが、全然分かっていないことを示している。また車の自走に関する技術についてもそうだ。現在の画像認識、そして将来の画像認識がどのくらいのレベルに達するか、著者は少しは調べて書いたのだろうか?
著者の意見に私が全面的に同意できるのは、これからのエネルギー技術は廃熱を如何に少なくするか、あるいは如何に利用していくかが重要になる、というポイントのみだ。
また、最後エピローグ的にこれからの技術は個々ではなく、社会の技術となる、と言っている。そして人間性やゆとり、自己実現を重視すべきだと。これもまあ反論もへったくれもないものだから、同意する。だけどねえ…。ただ、こういう本を読むことで、逆に自分の考え方が見えてくる、ということもあるからなあ。それに多分、この著者の書いていることに感動してしまうような人も出てきそうな気がするし。だからまあ、読みたい人は読めばいいんじゃないですか、ということにしておく。
巻末には資料として、報知新聞に掲載された『二十世紀の預言』がついている。
なお本書でたびたび言及される「科学技術庁の技術予測」というのはこれのことである。
…これらの課題を解く鍵が、さらに進化した化学である。現在、情報やエレクトロニクスなど先端技術に必須の新しい機能材料は分子レベルの精度に近づいており、また医学にかかわる生体も分子レベルでの理解が急速に進んできている。これらはいずれも二十一世紀の最重要課題であり、分子を取り扱う化学の最も得意とするところである。まさに21世紀は、ケミカルサイエンスの時代であるといわれるゆえんである。今後はものをつくるだけではなく、使用から廃棄にいたる間に周囲にどのような影響を及ぼすかまでを考慮して物質創製を行うグリーンケミストリーの観点も重要になる。本書の趣旨と編者らの思いは、おそらくここで言い尽くされている。
(<まえがき>より)
生命、技術、社会と、いちおう三部構成を取っているが、これはやや無理矢理わけたような感じ。まあいいけど。 第一部「生命」の内容はまるで生物学である。アポトーシス、神経系、抗精神薬、肥満遺伝子や高血圧や糖尿病、インフルエンザ。『化学の未来へ』と題された本でこの内容はやや違和感があるが、実際にやっていることは化学者の仕事そのものであり、分子レベルの作業は化学のものだ、という意識と自信が編者らにあるのだろう。
第二部「技術」。個人的にはここが一番面白かった。キラルの話や情報化が要求する高機能材料開発の話など。特に高機能材料の話。「エレクトロニクス、バイオテクノロジーとケミストリーの融合」が現在進行しているジャンルである。社会が新しい機能を要求し、化学者・技術者がそれに応える。本文中で何度か、最近はいいのができた、という表現が出てくる。さらっと流されているが、その陰には多くの人々の努力があったはず。
第三部「社会」。農薬、プラスチック、水素と、社会的にはかなり厳しい批判を受けているジャンルからの反論といったところ。特に農薬の項はその色合いが強い。だが確かに著者が主張するように、我々が農薬の恩恵を受けていることは確かである。無農薬農業などもあるが、あれもある意味では、農薬を使用した農業によって支えられた社会の余力のようなものかもしれない。おそらく農薬を使わずに今の社会の胃袋を満たすことは不可能だろう。
さて。
これは本書についてのみの話ではないのだが、メモとして書いておきたい。
化学の本には、面白いトピックスを集めた本や、こういう、何人かの著者が分担執筆している本が多いような気がする。これはこれで、もちろん楽しい。だが、個人的には強力なポリシーに貫かれた一冊が読みたいように思うし、そういう本が必要とされているようにも思うのだが。そういう本でなければ、研究を大きく方向づけることも、その駆動力となることもできないだろう。どう思いますか?
事情によりここまで。
以下目次をご紹介。
著者は農薬肯定派で、農薬を使わずに雑草を駆除することの困難さをこんこんと説いている。これ自体は動かしがたい事実なのだろう。
通読して感じたのが、この著者にはもう一度、というかもう一冊、本を書いて欲しいな、ということ。本書を読むと、著者はかなり広い範囲で興味を持っている一方、中途半端に細かいところにこだわってしまっている。つまり、構成が整理しきれていないのだ。あるいは、書きたいことと紙幅が釣り合っていない。一般科学書を書くということは<あとがき>で著者自身認めているように結構難しいのだが、書いているうちに、こなれてくるものらしい。たぶんこの著者にはそれができる。だからこそ、もう一冊同じテーマで本を書いて欲しいな、と思った。
まあ、これはこれでいいんだけどね。順番が逆になったが、簡単に内容紹介。
まず最初に記憶術の極意は集中、繰り返し、連想、そして意欲である、といったことから始まり、条件付け学習、試行錯誤学習、馴れと心理学の一般的な内容をおったあと、神経系の話、海馬の話へ入る、という極めてオーソドックスな内容になっている。学習の内容で面白いのが、免疫やバイオフィードバックの話まで触れていること。ここらへんはさすがに最近の本だ。海馬の話はまあ普通で、NMDA受容体やLTPの話が主。ただこちらにも、乳児期の記憶が失われるのは海馬が未熟だからではないかといった一般にも興味を引く話をおいたり、また海馬には以前言われていたようにやはり動機付けの役割もある(これは著者ら自信による研究をベースにしている)といった話があったりと、工夫も凝らされている。
だから、これはこれでまあまあの本だと思う。
ただ、この著者はもっと面白く書く能力がありそうだ、と感じたような次第。
最近この領域でも、特定の機能に関わる単一の細胞が、いろいろと見つかりつつあるようだ。そういうのをまとめたサイトとかないんでしょうか。
「バイオ政治学」と称する本書の内容は、大きく分けて3部構成である。だが、2部構成といってもいいかもしれない。取りあえず内容を簡単にご紹介する。
第一部は「研究中心の世界からバイオ研究の動向をさぐる」と題され、どんな研究分野が成長しているのか、どの論文雑誌がインパクトがあるのか、注目を浴びている研究室、大学、研究機関はどこか(京都大が本当に優秀なところなのだ、ということが統計データのもと明瞭に現れたのにびっくり)、賞を取りたければ今すぐ何をすべきかといったことが、各種統計データを元に綴られる。主観ではない。バイオサイエンスの分野で何が本当にホットなのか、著者はデータで示すのだ。これはわかりやすい。
第二部は「研究(者)をとりまく社会からバイオ研究の動向をさぐる」。ノーベル賞を獲得した人はどんな傾向にあるのか(これが非常に明瞭に示されるのだ、また)、研究費の配分法、大学院生、研究者の収入(日米のあまりの違いにびっくり仰天する人も多いのでは)、倫理などなどと続き、これらとバイオ研究の動向を、これまたデータを引きつつ論ずる。とにかくめまぐるしく変わる研究の栄枯盛衰など様々な事柄が、データの元ではっきりと浮き上がってくる過程が実に面白い。
第三部はアメリカにいる研究者や官僚たちへのインタビューである。これもまたかなり面白い。サイエンスを実際に推進している研究者達の生の姿や思いが伺える。著者自身も含め、計18組へインタビューが行われている。
これだけ書くとなんだか固い本だと思われるかもしれないが、そこは違うのである。なにせ本書を書いたのは「白楽ロックビル」なのだから。知っている人はみんな知っている、例の名調子でかるーく、しかし本質をズバッとクリティカルに斬る文体が本書のトーンを統一している。
ちょっと値段が張るのが残念だが、本書は間違いなく研究者(特に野心と意欲に燃える研究者)を目指す大学院生、必読の本である。いや、それでは遅いか。なにせ著者は、学部生のうちにアメリカに留学せよ、と断言しているのだから。著者の主張が正しければ、学部生こそ本書をむさぼり読み、速攻で留学先を探さなければならない。
そのくらい、アメリカと日本の研究の進め方、そしてレベルは違う、というのが著者の主張なのだ。本書は基本的にはバイオ研究の動向をあらわした本だが、その裏側では日米の研究体制の比較、そして日本が如何に情報開示や計画の面で立ち後れているかということを示している。とにかく自分の立場や意見を表に出さない国・日本と、反対だろうが賛成だろうがとりあえず表明して議論する国・アメリカ。そして国家単位で研究方向をディレクションするアメリカと、いったい何がどうなっているのかいま一つよく分からない日本。形も実質も、日本とアメリカの研究は違う。その辺へのいらだちというか怒りのようなものがあちこちに見える。
本書は「平凡な研究労働者」ではなく「スーパースター科学者」を目指す人々へ向けて書かれた本だという。つまり、癒しだの疲れている人にこの曲をだの言っている人ではなくて、24時間研究して研究して研究しまくる、とにかく貪欲なまでにエネルギッシュな研究者を目指す人を対象にしている本だ、ということである。だがその一方(あくまでフォローだろうが)、必ずしも研究だけが人生じゃない、とも言っている。要するに、自分の頭で考えて、俺はこう行きたい(生きたい)んだ、というのがあればオッケーよ、ということだろう。最近は悩める大学生たちがやたらいっぱいいるようだし。
というわけで繰り返しになるが、とにかく本書は面白い。先に大学生に、と書いたが、大学の教官たちにも是非お読み頂いて、感想を伺いたいところである。いやホントに。ぜひ感想を聞かせて下さい。
おまけ。本書で示された洋書のうち、いくつかには翻訳がある。『バイオテク世紀』はもちろん『バイテク・センチュリー』のこと。また『The Science in Science Fiction』は『科学inSF』東京書籍として邦訳が出ている(翻訳:小隅黎。知らなかったSF者は頭を丸めるように)。
紹介される一つ一つのエピソードはやはり宇宙飛行士ならではのものばかりで楽しい。双眼鏡で地表を観察する方法、長期滞在に連れて心拍数が減ってくるという話、液体をうっかり飛び出させてしまった場合どうすべきか、軌道上でガスが溜まった時どうするかといった話など、どれも面白い。ここらへんは実際に本書をめくって欲しい。
また彼が地球を観察していたときの話も一つ一つが興味深いものだ。稲光を見て地球には巨大なオゾン生産工場があると感じたり、また奇妙な「銀色の雲」を見た直後に地震が起きた、という話もまた面白い。その関係まではなんとも言えないが、観察記録一つ一つをおろそかにしてはいけないだろう。
またミールくらいの大きさでは(心理学者の判断に反して)3人以下のほうが過ごしやすい、という意見もまた然り、だ。なんだかんだ言ってもやはり現場の意見が重要なのだから。ミールの事故のときの記録もそうだ。著者はどちらかというと抑え気味に淡々と書いているが、心理的身体的なストレスは相当なものだったはずだ。
ただ本の構成面には難あり。なんだか尻切れトンボというか中途半端な印象があった。ちょっと残念。
本書は2部からなっている。もともと二つバラバラだったのを本にするために一冊にまとめたらしい。巻末には膨大な量の註が付けられているが、本書通読中には気にすることはない。ただ、後で註もパラパラでいいから見てみることをおすすめする。結構面白いことが書いてあるから。
赤緑色盲は比較的多い。だが全色盲の人というのは3万人〜4万人に一人しかいない。劣性遺伝のため、人口が多ければ出にくいのである。ところがミクロネシアの環礁島の一つ、ピンゲラップ島は人口700人のうち、先天性全色盲者の患者が5%をしめる。1775年に島を襲った台風によって人口の9割が犠牲になった結果であるらしい。彼らには眼振があり、光に過敏で強い光のもとでは眼があけていられない。中心窩にある錐体細胞を欠いているためだ。だが、
ピンゲラップの住民は全色盲かそうでないかを問わずマスクン(現地語で全色盲のこと)のことを知っていて、マスクンが耐えなければならないのは色が分からないことだけはなく、まぶしい日価値であり、細かいものが見えないことだとも知っている。ピンゲラップの赤ん坊が激しくまたたきしたり光から顔を背けたりしたときには、周りの人には医学的なことは分からなくても、すくなくともその赤ん坊がなぜそうするかについての知識がある。そして赤ん坊が必要とするものやその子の持つ能力についての知識もあり、その症状を説明する神話までが用意されているのだ。そうした意味で、ピンゲラップ島は全色盲の島である。この島で生まれたマスクンの人は、自分が完全に社会から孤立していたり無理解にあっていると感じることはないだろう。つまり、受け入れられている、ということだ。そして全色盲の人たちもまた、鮮やかな視覚の世界に生きていることが描写される。だが、この島でも完全に偏見がないわけではないことには留意すべきだと思う。
第2部は、グアムである。グアムには「リティコ─ボディグ」という風土病ともなんとも言えない神経の病がある。筋萎縮性側索硬化症と、パーキンソン病を合わせたような不思議な病気である。原因として現地で食用にされているソテツが疑われたが、どうにもはっきりしない。さらにはこの病、紀伊半島のほうにも見られるそうで、日米共同調査も行われたそうだが、やっぱりはっきりとした原因は分からないまま。いちおうやっぱり、ソテツの成分であるサイカシンが神経細胞中のDNAに結合して障害を起こしている可能性がある、と考えられているそうだが…。
島民は、この病とともに生きている。サックスを案内したジョン・スティール医師は「ある種の冷静さと運命論的なところ」が現地の人にはあるという。彼は単に調査研究だけを行うことに疑問を持ち、グアムに残って診療を続けているという。そして、この島でもまた、人々は病を持った人々を受け入れて生きている。ゆるやかな共同体として。
最後に一つ、太平洋戦争の痕がどちらの島にも残っていることをサックスは過去を引くことによってではなく、現在を描写することで描き出していることを付け加えておく。
しかしサックスがソテツ・マニアだったとは(笑)。
チンパンジーの寿命は長い。だが飼育舎その他の計画は、その長い寿命をほとんど考慮に入れていない、と著者はいう。
世代を超えるような長い時間を考慮する、計画を立てる、実行する。そのためにはどうすればいいのだろうか。30年のチンパンジー村の話を読みながら、そんなことを考えた。
過般化効果は、容貌の特製がもたらす情報に反応することに適応価値があるために生じる。アイデンティティー、種、健康状態、感情、年齢をつきとめることは進化的に重要であったため、これらの属性をあらわす顔の特性に強く反応するようにつくられ、たんに容貌が似ているだけの人にまでわれわれの反応が過般化されるのである。著者自身も認めるように進化的起源は立証できないが、顔の認知に関する神経学的なメカニズムの知見のいくつかは、これらをサポートしている。人は男女をすぐに見分けるし、赤ん坊も顔で年齢を判断することができるらしい。さらに特定の脳損傷を受けると顔で年齢が判断できなくなったりするのである。そして何より、顔は感情表現のシグナルであり、それを読むことはコミュニケーション上非常に重要である。
もちろん顔の情報のみから性格や感情を読むことができれば苦労しないし、「人を顔の固定観念にあてはめて判断すると、ほんとうに視野がせまくなり、とりわけ、性格特性を見抜けなくなる」。だが、ある種の相関があり情報があるからこそ、我々は表情を読もうとするのだ、というのが著者の主張だ。また、我々にはそういう根元的にそういう傾向があるらしい、と。ある特定の容貌は、ある特定の社会的反応を引き起こすことが多い、ということだ。平たく言えば、可愛い人やかっこいい人はいい人に見られやすい、ということである。そしてこの大きさはバカにならないと。
で、あとは様々な社会的な結果が挙げられていく。主に童顔と美貌に関するものが主。よくもまあこれだけのテーマでこんなに書けるなあ、と思わされた。だが訳者あとがきによればその全てに裏付けとなる論文があるとのこと。ふーむ。でも素人目には当たり前のことしか書かれてないように思えましたけどねえ。まあ、そういう当たり前に思えることを数字で裏付けていくのも科学の役目だけど。
もっとも、通読していてちらっと感じたのだが、これだけ童顔の効果(含・逆効果や童顔でない子供に対する社会的効果)について紙幅が費やされているのは、ひょっとするとアメリカの育児事情──たとえば幼児虐待問題の多発など──が背景にあるのかもしれない。
古賀一男氏の研究者とジャーナリズム、そして社会との関わり方には、多少なりともメディアの端くれにいる人間としても考えさせられるところがあるが、氏の考え方には全面的には納得できない。研究者の一方的な言い分という感じがする。気持ちはわかるが。
人間の進化的理解を推進する長谷川寿一氏の話は氏の目指すところが明解で興味深い。「進化と適応の理論」を様々な心理学研究を通じて柱となるものとしようとしているらしい。
そのほか坂田勝亮氏の色知覚の話も興味深い。われわれの色知覚に明るさが関わっているだろうことは誰でも予想がつくだろう。だが面積や形、奥行き感も色の知覚には関係しているのだという。おもしろいおもしろい。