うーむ。こういう本は眺めて楽しければオッケーだからなー。オッケーなんじゃないでしょうか。取り上げられている情報も、さすがに新しいし。
つまり、世の中の事象をモデル化できる機械としてのコンピュータ、そしてそれの登場に伴って扱うことが可能になった複雑な系、予測不能なエージェントどうしが相互作用しあう系をいろいろと取り上げた本である。
生物の形や株式の変動、言語や文法の生成、いわゆる巡回サラリーマン問題、蛋白質の折り畳みの問題。これらはまだ問題であって、答えはない。ただ、それらが「問題」なのだ、ということははっきりと認識されるようになり、「複雑系の科学」という名前でひっくくられて扱われている。著者らは、これらの問題への「答え方」を探している。
邦題は大げさだが、一つ一つのトピックスの取り上げと分析が具体的で、意外に面白い。
本書の内容構成、著者は以下の通り。
H-IIを語るときに、なぜ「国産」という言葉が強調されるのか、なぜ「国産」にこだわっていたのか、この本を読んでようやく分かった。あのロケットがどんな人々によって作られたのか、事故ばかり報じられていたLE-7エンジンがどのようにして組み上げられていったのか、そして1号機が、どんな人々のどんな思いを載せて飛んだのか、ようやく分かった。私は、この本を読んで初めてH-IIとはどんなロケットであったのかを理解したような気がする。
語られる裏話の数々も、実に面白い。具体的な内容はここでは触れない。この本のページをめくって頂きたい。
また、これは著者の脚色もあるのだろうが、登場してくる人々みんなが無茶苦茶に格好良い。そのままドラマに出来る格好良さ!である。日本の技術者達に向けた賛美の本とも読める。
「H-II?たかがアメリカの後追いをしている日本のロケットだろ?」と思っていた方には、この本を一読することをお勧めする。今年、強くおすすめの一冊。
「開発過程の映像データを収録したCD-ROM付き」。僕はいまCD-ROMを見られる環境にないので、見てないけど。ハードカバーの中に入れ込む造りはマル。
内容が良いね。ありきたりの「だからどうしたんですか?」と言いたくなるような内容ではなく、かなり一般人の気持ちも考えて構成されていながら、最新の情報もきちんと盛り込んでいる。そして、将来の夢。夢がないと、やっぱりダメだ。
ところで、人類は、本当に宇宙に出ていけるのだろうか?というのは、人類は宇宙に出ていけないのではないか、と考えている人は多いようなのだ。あなたは、どう思いますか?
序文、緒言、まえがきと、なんと本文の前に3つもおまけが付いている(さらにプロローグもある)この本、かなり分厚い。本文の後には索引や参考文献リスト、用語解説、登場人物解説、そして年表までついている。資料としても、価値が高い。本文の描写や話の運び方は実に丁寧で、詳細な描写が面白いドキュメンタリーの必須条件であることを感じさせてくれる。なにせ著者自身が物理学者で、その渦中にいたのだから、道理で面白いわけだ。
アインシュタイン自身がその存在を認めなかったように、ブラックホールが認められるまでには紆余曲折があった。逆に言えば、そのこと自体が、科学がなぜ大勢によってなされなければならないのか、という理由でもある。一人一人の能力には限界があり、必ず間違いを犯す。本書の登場人物達──みな錚々たる科学者達だが──も、多くの間違いを犯す。だが、それは議論し、検証できるものなのだ。それが科学である。
近来のX線天文学の進歩は新たな情報をもたらし、荒々しい宇宙の様子を描き出した。天文学は理論と観測の両輪で、極めて健全に進んでいる学問に見える。これから、天文学は量子レベルでの重力の働き──量子重力論によって、宇宙開闢の秘密と、特異点の謎に更に迫ってくれるのだろう。
最後に著者は「物理法則が、無限に進歩した文明になすことを許しているのはどんなことか、物理法則がそれに禁じているのはどんなことか」と問い、ワームホールの維持(「コンタクト」!)と、それに伴って導き出されるタイムマシーンの可能性について論じる。ちなみに、SFの形を取って書かれているプロローグでは、ブラックホールのエネルギーを利用した文明についても描かれている。
しかし、本当に分厚い本でした(笑)。面白いけど。
本書は、これから5世紀の内にどんなことが起こり得そうか、述べた本である。来年の事を予測するのは難しい、というより不可能だ。が、「これから500年の内に、何が起こりそうか」、これならある程度の検討はつく──これが著者の取る立場であり、その立脚点にある思想は「長期的に見た場合、歴史を動かすのはテクノロジーである」という考え方だ。
かくして、本書にはSFファンにはお馴染みのアイデアが溢れる──宇宙開発、テラフォーミング、恒星間宇宙船…。もちろん、バラ色ばかりではない。小惑星の衝突、氷河期の再到来などの災害はこれからも人類を襲うだろう。だが、それらを乗り越えて、人類は前進していく。これが本書のビジョンである。
著者は「現代人を近眼にしているのは政治家だ」となじり、真の予言者は「SF作家」だ、と語る。SFファンなら泣いて喜ぶこの文句、だがしかし、一般にも受け入れられるのだろうか。SF=ホラ話くらいにしか思われていないのが今の日本だ。この、60年代、70年代的な楽天的未来観に、共感できる人はどのくらいいるのだろうか。
解説の茂木氏はこれからの我々には「未来感覚」が必要である、という。「未来感覚」。
しかし、この解説者、最近やたらと見るけど何故?こういう本の解説・監修なら、他にもふさわしい人は、いっぱいいるだろうに…。
追記:
↑について、ご本人からメール。茂木氏自身が企画を持ち込んだから、とのこと。
人類がチンパンジーと分岐したのはいつだったのか、アジアへ進出してきたのはいつだったのか、それはどのように行われてきたのか、旧人と新人の関係はどうなっているのか、そして日本人とはどのような民族なのか。
本書の考え方にのっとると、現代人の故郷の地はアフリカである。そして、アフリカを出たのはおよそ14万年前である。彼ら──我々の祖先──はその後、ベーリング陸橋を渡ってアメリカ大陸に進出し、カヌーを作ってオセアニア全域へ進出し、またある者は、<サフール>大陸に進出した──当時は氷河期で、海水面は100mも低下していた、その結果、オーストラリアやニューギニア、タスマニアは全て繋がっていて一つの大陸を形成していたのである。
日本には、大きく分けて3つの民族が住んでいる。アイヌ、本土日本人、琉球人である。本書に寄れば、まず最初に分岐したのはアイヌであり、その後中国人と琉球人が分岐。そしてさらに韓国人と日本人が分岐した、という。そして、これらの人々が融合してできているのが、「日本人」と言われている総体である、ということになる。
人類の歴史は、これまでは分岐の歴史であった。既に人類学の世界では「人種」と言われる概念は存在しない、ということになってはいるが、種内変異が広がってきたことは、自然の流れだろう。しかし、今日、その流れは逆転しつつある。交通や情報の流通が加速するに従って、人々の交流が増してきている。その結果、遺伝子の交流も再び起こりつつある。遺伝子だけみれば、人類は、再び融和しつつあるように思える。
我々の身体を成す細胞は、分裂できる回数が決まっている。これが、細胞、組織、器官、そして個体の老化の主たる原因の一つである、と著者は考える。なぜ細胞分裂できる回数が決まっているのか。これははっきりしている。染色体が、細胞分裂の度に短くなるのである。
染色体の末端には「テロメア」と呼ばれる、TTAGGGの繰り返しがある。テロメアは、科学界で現在もっとも注目を浴びているものの一つである。このテロメアが、細胞分裂の度に短くなっていく──回数券のチケットのように。つまりテロメアが、細胞の中の時計なのである。
じゃあ──と考えるのは人間の本性であろう──テロメアを直してやればいいじゃないか。実際、テロメアを合成する酵素を持っている細胞もある。ガンである。ガンはテロメアーゼを持っており、それによってテロメアを修復する。だから、ガン細胞は不死なのだ。
本書の主な内容は、テロメアに着目した老化のメカニズム、そしてテロメアをもし修復できるようになった時に防げる疾病(もちろん、テロメアを直したところで全ての病を防げるわけではない)、そして、それが人類にもたらす影響について考察した本である。
テロメアを直してやれば、ハゲを治すことはできないが、細胞の老化を防ぐことができるだろう。ぼろぼろの肌が若々しく蘇り、内臓の機能が回復するかもしれない。逆に短くする技術を獲得すれば、ガンを治療することも可能になるだろう。
理想の人生は、死ぬ直前まで全く老化せずに生きて、ストンと死ぬことである、と著者は言う。これは、ヘイフリックも全く同様のことを言っていた。Quolity of Lifeが不死であることよりも大切だ、というわけである。その通りだ。ただ長く生きるだけでは仕方ない。どう生きるか、こっちの方が問題だ。
老化防止技術は、もし実現すれば、世界にまさに革命としか言いようがない影響をもたらすことになる。その影響を予測することは──著者は試みているが──おそらく全く不可能に近い。だが、今のうちに議論を始めないと、間に合わないかもしれない。今までは純粋に「もし」だったのだが、これが「もし」ではなくなりつつあるのだ。老化防止技術の恩恵は、21世紀の早い時期に可能になるかもしれないのである。すなわち、この文章を読んでいる人の多くは、間に合ってしまうかもしれない。
これは夢でも絵空事でもない。この本の著者はかなり楽天的だが、そうでなくても間に合うかもしれないな、と思わせるスピードで実際の研究も驀進中である。他の本も読んで、考えて頂きたい。
著者は本書冒頭でこう語っている。
私たちはいま、永遠に歴史を変えようとしている。
内容は教科書なり。ピュアな意味で「面白く」はないが、科学、あるいはジャーナリズムの世界でやっていこうという人は、読んでおいて損はない。かといって、この世界の場合、こういう教科書を読んで「得」かというと、必ずしもそうではないのだが。生かせるかどうかは、人次第。
科学と、ジャナーリズム、そして一般の人々。それぞれの間には、ほとんどどうしようもないように思われる「溝」がある。その「溝」の深さは、信じられないほどだ。初めてこの世界に入った人、入りたいと思っている人は、驚くかもしれない。それほどのものである。それを考えてから、この世界に入った方がいい。この辺については思うところもあるが、取りあえずここでは簡単に留めておく。
いくつか面白い文章を抜き出して紹介する。
「科学記者にとっての科学者は、科学者にとってのラットのようなものだ」 P.41より最後はテレビについて触れてまとめられている。詳細は、本書を。しかし、一般人への啓蒙という問題は必ずしも科学者にとってプライオリティーの高い問題ではない。ある科学者は、それは自分たちの責任ではないと考えている。(中略)「突き詰めれば、なぜ科学者が流行歌手と競いあうようなことをすべきなのかという疑問がそこに残る」 P.63より
政治記者は批判と分析をするのに、科学記者は解説と説明しかしない。……こうしたことを考えあわせると、私には二つの疑問が残る。どうして科学報道は科学に無批判なのか。そして、どうして科学者たちはこうも新聞報道にて批判的で、反科学の意図が働いていると信じこんでしまったのか。 P.75より
必ずしも多くの科学記者が調査検証的な記事を思う存分に書けるわけではない。その理由のいくつかをグッデルが指摘している。
P.217より
- 科学と科学者は、報道側の多くにとって権威ある存在である。
- 編集者と記者は、科学的な調査検証について確信をもっているわけではない。
- 科学記者は、科学界が批判に対して神経質であることを熟知しており、取材源を失うことを恐れている。
- 科学記者は、科学と科学の意義に関する熱意を科学者と共有しているため、両者は共感しやすい関係にある。
- ほとんどの科学記者は、科学のもつ政治的、経済的に関心をもっていない。
- 科学記者と科学者は双方ともに、何が望ましいことかということより、技術的に可能かどうかということに焦点をおく傾向がある。
- 日刊紙の編集者は、科学の本質を誤って理解しており、掘り下げた記事を書くために時間と余裕を持たせようとしない。
上段で地上からそそり立つ、と書いたが、それは正確ではない。軌道エレベータは、上に遠心力によって引っ張られ、下へは重力で引っ張られるのである。だから、実際には地上へぶら下がるような建造物になる。当然、それを構成する材料は、引っ張り力に強いものでなければならない。現在の技術では、その力に耐えられる材料はない。
だが、その強度の不足分は、工学的テクニックによってカバーすることができるという。また新しい材料が開発される見込みもある、という。
その他、変形型の軌道エレベータのアイデアなども過不足なく収録されている。軌道エレベータについて知りたい人には必携の一冊である。
工学・技術とは「人類はどれだけの事を為し得るのか」を指し示すものである。本書の内容を、ただの夢で終わらせるかどうか、それは我々人類の能力と想像力のキャパシティーにかかっている。
本書の内容構成、著者は以下の通り。
全般に内容は難しい。普通の人にはとっつきにくだろう。少ない紙幅で欲張りすぎなのだ、このシリーズは。
それはおいておいて、いくつかの内容に触れておこう。
脳の機能や仕組みがなかなか解き明かされない理由は「脳の階層性、多様性、冗長性」にある。単純に分子レベルに還元することができないのである。まだまだ、先は長い。
「序」には以下のようにある。
中学、高校の教科書には「ここはまだ分かっていない」というような説明はなく、すべて分かってしまったことのように書いてあると思うが、実はその裏はわかっていないことだらけなのである。だからこそ科学は面白いのである。
「現代においては、テクノロジーが時代を先導する原理になった」と編者は言う。コンピュータの登場と発達は、知の世界を根本的に変えた。科学も無論例外ではない。最初は、コンピュータは科学の外にあった。単なる計算機であって、科学を補助するものでしかなかった。しかし、現在は違う。コンピュータそのものが研究対象と化している。
自然系の研究と、コンピュータを核とした人工系研究の分離、そしてその接点のキーワードとしての複雑系。この辺りを核として科学を歩けば、それはすなわち科学のパラダイムが渦巻く空間となる。それぞれのジャンルは一見すると別々のものだが、その境界は曖昧で連続している。あたかも海岸線のように。
コンピュータが登場して初めて人は新しい自然界の見方を獲得した。近年の、「カオス」の思想へのインパクトの核心もそこにある。自然界は実数で構成されている、だが人間は実数を本当に認識することは出来ない。平たく言えば、人間は「無限」を理解できない。そのことをコンピュータとカオス研究は露にしてしまったのである。ツールとしてのカオスは、これからさらに世界観を揺るがしてくれることだろう。
ところが宇宙は、というか地球近傍は意外に狭かったのだ。もともと人類にとって有用な軌道はたかがしれているし。
今や宇宙はふわふわ浮かぶゴミで一杯になってしまった。宇宙では相対速度が問題になる。猛烈な相対速度で衛星やシャトルにゴミが当たったら──。大きさはあまり問題ではないのだ。ごく小さいものでも大事故になることがある!
これは大変だ、というわけで、各国は宇宙のゴミの監視を始めている。その現状と、デブリとはどういうものかを過不足なく(不足があるとすれば、関連サイトのURLが記載されてないことくらい)収録したもの。興味のある人には資料として役に立つだろう。