どれもしばしば書籍で見かけるし、実際に動かしてみたくなる興味深いものばかり。各章ではシミュレーションの見所と注目ポイントも解説されている。ソフトを使えない人間にとっては面白くもなんともない本だが。うむむ、やはり今やWindowsはソフトのプレイヤーとして持っていなければならないものなのか?
本書は、各種薬物を解説し、中毒になるとどうなるか解説する、ありがちと言えばありがちな本。だが、ありがちではすまないのが薬物中毒の世界なのだ。現在、各種薬物はあまりに手軽に手にはいるようになり、あちこちでごく普通に体験談が語られている。依存症患者もどんどん増えているのだろう。
また最近は、各種神経症に対して処方される薬物を、複数の医院を訪れて大量に収集し、それを摂取して薬物中毒になっている人もいるという。著者は、薬物依存をくい止めるための医療チェックシステムを構築すべきだという。
なお巻末で紹介されている薬物依存リハビリ施設ダルク(ドラッグ・アディクション・レハビリテーション・センター、DARC)はTV番組などでも紹介されているのでご存じの方も多いと思うが、連絡先一覧がhttp://www2u.biglobe.ne.jp/~skomori/daruku.htmlにある。
「老い」という意識はつくられる、というのが著者の考え方である。本書の基本的内容は「老い」の意識がいかにして作られるのか、そして高齢者はどういう意識を持ち、あるいは持つべきなのか、そして周囲の社会環境はどうあるべきなのかというものだ。
高齢者になるほど、表情にメリハリがなくなり、主観的1秒が長くなっているという実験を解説したり、自分自身の身体感覚の変容、アフォーダンス知覚と自らの行動との間のズレが高齢者独特のイラツキに繋がっているのではないかと考察したりしながら、話は進んでいく。
一つ一つの話はどこかで聞いたことがあるような気がするが、こういう話がまとめて語られるのは比較的珍しい。もともと文章のうまい著者だけに、それなりに読めるものにはなっている。だが内容的には、まとまる前の序論的な感じがする。
ただし、買いじゃないと言ってるわけじゃない。
本書で展開されるアフォーダンスの話は分かりやすい。身体制御とアフォーダンスのピックアップは表裏一体である。我々は「自分が何ができるか」という観点で環境を評価し、情報を汲み取っている。
たとえば、ある高さの棒の下をくぐりぬけようとしたとき、我々はすぐにそれが可能かどうか、分かる。ではリュックか何かを背負ったときはどうだろうか。試行錯誤する必要があるのが普通だ。だが数回やれば、ほどなく成功する。経験によってからだに生じた変化に知覚パターンが対応するからだ。ところが老人になると経験による情報フィードバックがなかなかうまくいかなくなるのではないかと著者は言う。というか、著者が言うまでもなく、体が「昔のようにはいかんわい」となることは老人ならば誰しも知っている。
問題は、それをどう受け止めるかなのだ。高齢者のみならず、周囲の社会がどう受け止めるかも問題である。
というのが本書の内容なのだが、この環境の生態学的値の話などは、他の分野(たとえばロボットとか)にも応用展開されそうな(もうされているのだろうか?)話であるような気がするのだが、どうなんだろう。
残念ながら、あまり面白くない。環境関連の解説記事はもはやお馴染みだし、せっかくの観測隊同行記なのに、生々しさがまるで感じられないのだ。良くも悪くも新聞記者の文章ってこんなもんなのかな。自費出版なら分かるが、こういう本が刊行されてしまうとは、なんだか不思議な気すらしてくる。期待して読み始めたのに、残念。
本書は、BBCのドキュメンタリー番組をもとに書かれたもの。日本でもNHK海外ドキュメンタリーの枠で放送されたそうである。著者は調べるに従って「フェルマーの最終定理こそはまさしく数学の中核なのではないか、それどころか、数学の発展そのものを映しだす鏡なのではないかとさえ思うようになった」。そして証明者ワイルズは言う。「フェルマーの最終定理には、まるで小説のような歴史があるのです」。
とにかく買いであると言いたいのだということは、もう伝わったと思う。よって書評はここまで。前フリは終わりにして、本書の内容の概略に移ろう。
まず最初の一歩を記したのはフェルマーの走り書きからおおよそ百年後、オイラーであった。フェルマーの走り書きの一つに、背理法の一種「無限降下法」という手法でn=4のときの証明がなされていることが見いだされていた。それを拡張しようと試みたのである。その手法は、これまでもほかの数学者がやっていたことだったが、みな失敗していた。オイラーはそこに、虚数を組み込めば無限降下法がn=3の場合も使えることを示したのだった。ただし、この手法はn=3の場合にしか使えなかった。
それから半世紀。今度登場したのはソフィー・ジェルマンという女性数学者である。敢えて女性と記した理由は、時代が時代だからだ。1776年生まれの彼女が数学の才能を活用できたのは、ごく僅かな期間だった。そこは本書や『男装の科学者たち』(北海道大学出版会)を読んでもらうことにしよう。さてジェルマンの功績は、どれか一つの場合ではなく、より一般的な場合を証明しようと試みたことであった。ジェルマンは、素数の切り崩し方を示したのである。
そののち、フランス科学学士院はフェルマーの最終定理の解法に、賞金をかけた。もちろん数学者たちの喜びは賞金にあったわけではないが、ここにさらに金銭という誘惑も加わったわけである。ところがドイツの数学者エルンスト・クンマーは、当時有力視されていたコーシーとラメの証明は、素因数分解の一意性に依存しているという根本的な問題を抱えていると指摘した。素因数分解の一意性とは、ある数を表現するときの素数の積の組み合わせは一通りしかないというものである。ところが素数の中には非正則素数というものがあり、これはそれには従わないのだ。そして数が無限にある。当時の数学では非正則素数をまるごと扱う方法はなかった。つまりクンマーは、当時の数学のテクニックではフェルマーの最終定理は解けないことを示したのである。いよいよ解けるかもしれないと期待していたという当時の数学者たちが受けた衝撃の大きさは、想像するにあまりある。1847年のことである。
こうして、多くの者はこの問題から離れていってしまった。ところが1908年、一つの事件が起きた。登場するのはドイツの資本家パウル・ヴォルフスケールである。事件の発端は、失恋であった。当時の彼は絶望し、自殺を決めた。決行の日も決め、遺言も書いた。彼は最後のひとときをゆったりと過ごそうと、趣味であった数学の本を読み始めた。それはクンマーの本であった。夢中になって読みふけった彼は、そこに小さな論理のギャップを発見した。ひょっとすると、フェルマーの最終定理は証明可能なのではないか? ヴォルフスケールは夜を徹して検証作業を行った。その結果、クンマーの証明は修復されたものの、やはり現在のテクニックでは無理だと分かった。そしてヴォルフスケールは、自殺することを忘れていたのである。
そして時が流れ、1908年がやってくる。彼の死に際して、遺言状が読まれた。ヴォルフスケールは財産のかなりの部分をフェルマーの最終定理を証明したものに与えると遺言していたのである。それは、失恋の痛手をいやしてくれた謎への恩返しであった。当時の金額で10万マルク、現在の貨幣価値では百万ポンド以上という金額は、数多くの人々を、ふたたびフェルマーの最終定理に挑ませるに十分であった。だが謎は立ちはだかったままであった。その後コンピュータも登場したが、謎の解明には計算力だけではダメだ。
1975年。アンドリュー・ワイルズはケンブリッジの大学院生になっていた。彼は既にフェルマーの最終定理を証明する決意を固めていたが、まずは研究対象を選ばなければならない。指導教官コーツが選んだ分野は「楕円曲線論」という分野だった。ディオファントス、フェルマーが研究していた分野である。2000年の長きにわたって研究されていたことから分かるように、楕円曲線の世界には、まだまだ未解決の問題があった。楕円方程式から導出される系列をE系列と呼ぶ(この本では)。やがてこれが、フェルマーの最終定理を解く貴重な道具の一つとなる。
ここで登場するのが二人の日本人数学者である。志村五郎、谷山豊の二人である。「谷山−志村予想がフェルマーの最終定理において重要な役割を果たした」という話を聞いたことがある人は比較的多いと思う。本書ではここがしっかり描かれている。著者は志村五郎に直接取材し、綿密なインタビューを行ったのだ。本来これは日本人のライターがやるべき仕事であった、と思う。
話を元に戻そう。1954年、図書館で貸し出しされていた一冊の雑誌を通じて、志村五郎は谷山豊と知り合った。まさに小説のような出会いだが、事実はときにこんなものなのだろう。意気投合した彼ら二人はやがて「モジュラー形式」と呼ばれる領域を研究し始めた。西洋では既に見限られていたそれは、極めて高い対称性を持つ、ある演算形式のことである。白状すると僕にはよく分からなかったが、谷山は「ある楕円方程式のE系列は、おそらくどれかの保型形式のM系列になっているのではないか」と考えた。保型形式とはモジュラー形式を含む関数のことで、M系列とはあるモジュラーがどのように構成されているかを示す系列のことである。彼らは楕円方程式とモジュラー形式は実質上同じではないのか、すべての楕円方程式はモジュラー形式と関連づけられると考えたのである。
数学の世界では、関係なさそうに見える分野の間に橋をかけることは大いに意味を持つ。それまで違う言葉で語られていたものが同じ言葉で語れるようになり、数学の世界そのものが拡張されるからである。これは非常に魅力的な考え方であったが、一つの悲劇が起きてしまう。谷山豊が自殺し、さらに彼の婚約者があとを追って自殺してしまうのである。志村は今でも、自殺の理由が分からないという。その後彼は谷山の考えを推し進め、この考えは単なる希望的観測から「谷山−志村予想」と呼ばれるものへと成長した。
1984年。ドイツの数学者ゲルハルト・フライは「谷山−志村予想」を証明することは、そのままフェルマーの最終定理を証明することに繋がると主張した。フライはフェルマーの定理が成り立たないと仮定したらどうなるか考えた。つまりフェルマーの方程式が一つ解を持つとどうなるか考えたのである。彼はフェルマー方程式を楕円方程式に変形してみせた。ところがそれは極めて異常で、モジュラーではありえない。そうすると「谷山−志村予想」は成り立たない。これがフライの論理である。
数学の証明には背理法という手法があることを覚えているだろう。つまりフライの論理は逆転させられるのである。「谷山−志村予想」が証明されれば全ての楕円方程式はモジュラーである。するとフライが示した方程式は存在しない。ということはフェルマーの方程式は解を持たない。ゆえにフェルマーの最終定理は成り立つ。
と、こういうわけで「谷山−志村予想」の証明ができるかどうかが、フェルマーの最終定理の証明と等価であるということになったわけだ。
疲れた。ちなみにここまでで、本書の3分の2も来ていない。このあと数学者たちのドラマはまだ続く。門外漢としてはもうちょっと数学について詳しく教えてもらいたかったが、とにかく面白い本である。著者の力量に脱帽。
邦題だけ見ると自伝みたいに思われるかもしれないが──帯にも自伝とあるし、確かにワルガキ時代の話などもあるのだが、どっちかというとエッセイ集的な要素が強い。テーマに挙げられているのはHIVは本当にエイズの原因なのかといった話から、環境問題、物理学のありよう、O・J・シンプソン裁判などなど。彼は星占いにある程度信憑性があるのではないかといった話も書いているのだが、本気で言っているのか冗談で言っているのか、さっぱり分からない。その他も、詳しくはふれないが怒り出す人がいっぱいいそうな内容ばかりだ。彼は意図的にそういうことをやらかすタイプの人物らしい。
本としてどうかというと、微妙なところ。奇人変人科学者たちの話を収集している人なら文句なし買いだろうが。
公としての歴史に関してはこの本よりも良い本がいくらでもあると思うが、この本のポイントは、四方田犬彦氏が裏表紙に寄せた文章で的確に指摘されている。
(前略)本書はこうした個人的な物語を語っていながらも、同時に一八世紀フランス啓蒙思想における生物観や、発生学における前成説と後成説の対立の系譜といったぐあいに、科学史的な叙述にも満ちている。その意味で、戦前の関西のブルジョワ家庭の貴重な記録であり、また戦後の一科学者の思索の歴史でありながらも、発生学の入門書でもあるという複数の側面が、この書物には見受けられる。なかでも特徴的なのが、戦前のブルジョワ家庭としての岡田一家のありようである。彼の家では科学は「ハイカラ趣味」として楽しまれていたのだという。後ろのほうの話は個人的にどうでもよかったが(優等生的な「科学のコンサートホール」などといったコンセプトは好みじゃないし時代にもそぐわないと思うし)、ここの部分が非常に気になった。日本にどのように科学が流入し、変容していったのか知るためには不可欠であると思うからだ。
というわけで、その部分を読みたい人は買えばいいと思う。
最近の技術は大したもので、髪の毛の移植もできれば、あざどころかシワのたぐいも消してくれる。たかがあざじゃないかと周囲が思っていても、本人は心に深い傷を負っていることもある。著者は形成外科になるべきかどうか悩んだときのことを回想して、こう書いている。
だが、命はおろか昨日にも別状ないのに、形を整えるためだけにメスを入れることが許されるのだろうか。しかも数ミリの仕上がりのために汲々とするのが男子一生の仕事だろうか。著者が言いたいことは、結局この部分に全て書かれているように思う。
悩んだ私は、たまたまアパートに遊びに来た商社マンの友人に、そのためらいを話した。
「くだらない仕事だ」と言われるのは覚悟のうえだったのに、彼は「素晴らしい仕事だ」と答えた。そして驚いている僕の目の前でズボンのすそをめくり、脛毛に隠れたほんの数センチの傷痕を指差し、子ども時代にこの傷痕のためにどれほど悩んだかを語った。
肉体のほんの小さな傷痕の奥に、本人にしかわからない心の傷痕が潜んでいる。形成外科はそれをメスで癒してくれる立派な仕事だと励ましてくれたのである。(34ページ)
将来的なビジョンとしては、「胎児外科」というものが挙げられている。胎生期のある時期までは、キズができても瘢痕組織、つまり傷痕ができるのではなく、再生能力によって修復されるという能力を利用できないかという考え方である。たとえば超音波診断で唇裂(いわゆる三つ口のこと)を発見した場合、それを近年進展の著しい内視鏡技術など何らかの手法で治療してやれば、傷痕はまったく残らずにすむという(動物実験による)。形成外科ではまだ行われていないが、腎疾患や脳外科疾患では胎児への手術を行われているそうだ。
そして、もし再生のしくみが分かれば、傷痕を残さない治療もできるかもしれない。それこそ夢の治療だ。
これだけで片づけるとあまりにもなので、一番分かりやすかった伊藤正男氏のところから「9つの忠告」を抜き出して紹介しておこう。
それぞれどういう意味かは、本文を参照して頂きたい。
- 第一に、初めの動機を忘れないこと。
- 第二に、何をやるのかをよく選ぶこと。
- 第三に、何とか屋にならないこと。
- 第四に、日本人であることを過度に意識しないこと。
- 第五に、競争を避けないこと。
- 第六に、対決を恐れないこと。
- 第七に、全力を三〇代に出す頃。
- 第八に、自分と同じスタイルで研究している人以外を馬鹿だと思わないこと。
- 第九に、よく眠ること。
高校生対象なので、僕が面白いとかつまらないとか言ったところで意味はなかろう。ただ個人的にはトヨタやモンサントで働く研究者たちへのインタビューが面白かった。
さて。朝日選書っぽいタイトルではあるけれど、内容とあんまりリンクしていない。内容はやや中途半端か。著者の実際の研究分野であるらしい白色わい星やパルサーのところは面白いが、他は今ひとつな感じ。分かりやすいわけでもなく細かいわけでもない。宇宙物理の教養書を書くことが著者「永年の夢」であったという。そういう気持ちを持つ研究者がいることは有り難いし嬉しくも思う。だが残念ながら、気持ちだけでは面白い教養書は書けない。ただ、一般的なことを知るだけならこれでも良いのかもしれないが…。
面白かったと書いたところを、引っ張って紹介しておこう。
白色わい星は高密度によって電子が縮退した星である。どういうことか少し説明する。フェルミ粒子である電子は一つの状態に二つ以上の粒子は存在できない。いわゆるパウリの排他律である。電子はエネルギーの低いところから埋めていくが、白色わい星のように密度が高いと、そういうところは全部埋まってしまう。ではあぶれた電子はどうなるか。仕方ないので上の軌道を埋めていくしかない。よって電子の全体としてのエネルギーは0にはならない。この状態を縮退と呼ぶ。
エネルギーが0にはならないということは、暴れ回るということである。その結果、縮退圧という圧力が生じる。密度が高いほど縮退圧は高くなる。白色わい星とは、自己重力による収縮を縮退圧で支えている星なのだ。
縮退は身近な金属で起こっている現象だ。よって、白色わい星は高密度の金属の固まりとして考えることもできる。というわけで、白色わい星の冷却過程は、金属の熱伝導の研究成果に基づいて計算されているそうだ。最近ではもろもろの基礎データが揃い、白色わい星の冷却過程は精密にシミュレーションされているという。
さて、もう一つ、パルサー。これの正体はもちろん中性子星である。縮退圧で支えられる限界をチャンドラセカールの限界質量と呼ぶのだが、それを超えるとさらに収縮してより高密度になり、異様な星・中性子星になるのである。これが高速で回転して電磁波のパルスを出すとパルサーになるのだ。パルサーは一秒以下という恐るべきスピードで自転している(中には一秒間に700回転というものもある)が、こんなスピードで回ってもバラバラにならないのは中性子星の高重力のためである。
中性子星は半径おおよそ約10キロメートル。中心密度は1立方センチあたり10億トン。外殻は「裸の原子核が結晶格子を組み、そのあいだを高密度の電子の液体が充たしている。超高密度の金属状態と考えればよい」。その内側は内殻。外殻の要素に加え、中性子の超流体がある。中心核は中性子超流体と電子液体、超伝導陽子液体で構成されている。「中性子星全体は、粗っぽくいえば原子核の巨大な塊と考えてよい」そうだが、相当おかしな天体であることは素人がちょっと聞いても分かる。だがそれでも内部構造があるのだ。そして著者らの研究により、内部の状態も、だいぶ明らかになってきたという。
それはたとえばグリッチと呼ばれるパルスの「とび」──すなわち、あるとき突然パルサーがスピンアップしてまた元通りにゆっくりと戻っていく現象──を詳しく観測することによって分かる。グリッチは内殻の中性子超流体によって引き起こされる。中性子流体は自転のため、超流動量子渦と呼ばれるものを作っている。これは通常、内殻の原子核にピン止めされていて自由には動けない。そしてこの渦がピン止めされている間は、内殻の自転速度は一定に保たれる。
さて、外殻はエネルギー放射によって自転周期がだんだん遅くなる。すると当然、内殻と外殻との間に自転速度には差が生じてくる。それによってピン止めされていた渦が突然なだれ的に外れてしまうことがある。渦はそれ自身が角運動量を持っていて、内殻から外殻へ角運動量を与える。その結果、パルサーの自転速度が突然増す。これがグリッチであると考えられているのだそうである。これは研究者である著者らの名前を取り、「アンダソン−伊藤理論」と呼ばれている。現在ではおそらく、じゃあどういうふうにピン止めがはずれてその後また安定化するのかといったことが研究されているのだろう(よく知らないが)。
まったくの個人的余談だが、いまバクスターのSF『フラックス』早川書房を読み直したら、もっともっと楽しめるのかも。
田口は複雑系研究の本質は「20世紀の科学である数理科学と復権しつつある博物学との激しいせめぎ合いに他ならない」という。法則探求型の数理科学と、事実列挙型の博物学。この二つが融合を夢見、接点を求めて激しく絡み合っている、それが複雑系研究であるというのだ。
今世紀のほとんどは数理科学全盛の時代だった。ところが研究者達は、いくら法則を追求しても、それがイコール「理解」に繋がらないことがあると気づき始めた。それがカオスやフラクタルなど非線形科学の領域である。
また同時に、博物学の側からも動きがあった。コンピュータの登場に伴い、法則追求とは違う形での数理科学的アプローチへの接近が始まったのである。系統解析やシミュレーションなどがそれにあたる。そして誕生したのが複雑系の科学だと著者はいう。
ところが、一つ問題がある。複雑系の科学は、法則探求型の科学からも知識蓄積型科学からも「現実との摺り合わせ」の手続きを導入しなかったと田口は指摘する。この理由の一つは、複雑系の科学が扱う領域のほとんどが、実験が不可能なものを対象とすることが多いからだ。そこで今後は、統計的手法を使って、できる限りの事実とモデル計算を摺り合わせていくことが必要だという。
ここまでは、複雑系科学の話である。ではそれが対象とする<複雑系>とは何だろう? いまでもときどき「複雑系とは何か」という質問はネットでもよく見る。それに対する誰もが納得する答えは、まだない。田口は以下のように原稿を結んでいる。
結局のところ、複雑系とは、それ自体あるものではなく、我々の科学の発展段階と現実の自然とのギャップの部分にあるものに過ぎない。複雑系、という呼称自体は、ほとんど我々が理解できていない現象すべて、という意味でさえある。そういう意味では、複雑系は決して解かれることがないだろうし、どちらかというと、我々が持っている知性と自然現象とのギャップの大きさそのものを複雑系と名付けているに過ぎないのである。複雑系の○○というセンテンスはそういう意味ではほとんど意味がないのである。Part2(カオス・フラクタル・人工生命)、Part3(遺伝的アルゴリズム)も、それぞれ歴史も追って解説されているし、実際の応用についても触れられている。ちょっと難しいが、興味を持つ「本職」に近い大学生、大学院生などには、このくらいのほうが良いだろう。
本書はこれらの問題−−昆虫における温度の問題を扱った、実にユニークかつ面白い本である。昆虫は単なる変温動物ではないのだ。飛ぶ昆虫のほとんどは、強力な飛翔筋によって内温性を獲得している。また飛翔前に筋肉をウォーミングアップするために多くの昆虫は「身震い」することによって、自らの体温を上昇させる。そして巧みな血管機構ほかによる熱消散機能。そして昆虫の多くは温度を感知し、涼しいところを飛んだり、暖かい太陽の光を吸収したりして、温度に対して能動的に反応している。これらによって彼らは広い範囲の温度に対応することができるようになった。
本書をひとたび通読したら、昆虫行動を観察する目がすっかり変わってしまうことだろう。昆虫の温度への対応の話となると、本書でも触れられているニホンミツバチによるスズメバチの蒸し殺し、シロアリの巣やミツバチの巣の空調の話などがよく出てくるが、深く踏み込んだ本は少ない。ましてや代謝について触れた一般書などほとんど皆無だろう。そういう意味で、非常に面白い本である。
と、いう本である(『SPA!』に書いた原稿をちょっとだけ改変)。まあ、エッセイ集だ。相変わらず筆は立っている。
人間は、可能性を伸ばすというより「可能性を削り取るようにして」発達していくと著者はいう。文化を習得していくことで、行動が限定されていくのである。この「文化」という奴、なかなかくせ者だ。文化のために人は結束もできるが、異文化を排除するのもまた文化による。人は「理性=文化」を持つ存在だが、それゆえにお互いに対立するのだ」という視点が、あまりにも認識されていないと著者は慨嘆している。人は「文化というオリのなかに飼われている動物にすぎない」と。
たしかに、そういうところはあるかも。理性こそが素晴らしいという考え方は、無意識のなかにかなりの人の心の中にしみついている。だが、まず自分たち自身がどんな生き物なのか把握しないことには、いつまでたっても同じ事の繰り返しになってしまう。
そのほか、手話の話などが面白いかもしれない。あと、いわゆる『学級崩壊』は小学校や中学校から始まったのではなく、大学から始まったのだ、入試をなくして一貫教育にすれば教育改革はオッケーだといった話はちゃんちゃらおかしい、という意見には賛成。
本書はファラデーの評伝だが、特徴がいくつかある。箇条書きでまとめてみる。
1)彼が研究を行った王立研究所設立の経緯などにかなりの紙幅を割いていること。
2)ファラデーの師であったデーヴィにもかなりの紙幅を割き、散発的な研究者であったデーヴィを描くことで、間断なき研究者であったファラデーを浮き彫りにしようとしていること。
3)これまで純粋科学者として見られることの多かったファラデーが実際には膨大な量の技術的業務をかかえ、こなしていたということを明記し、彼にとって科学研究はあくまで私事だったことを強調していること。
4)ファラデーはサンデマン派と呼ばれる、小さな厳格な宗派に属しており、徹底して宗教的な人であったこと。そして全ての力は一つのものからという彼の信念や数学軽視はそこに端を発しているとしていること。
5)ファラデーの病気について触れていること。彼は神経症的なところがあったらしい。
と、なるだろうか。
「サイエンティスト」という言葉が生まれたのは1834年、あるいは1840年のことである。だがファラデーはこの呼び名を好まず、フィロソフィカル・ケミスト、広い意味ではナチュラル・フィロソファーと自らのことを考えていたという。彼にとって科学は金儲けの種にしてはならぬものであり、あくまでプライベートに行うものであった。それゆえに純粋研究であった。それには、科学を職業にし、給料をもらうことすら含まれた。彼はとにかく、ありとあらゆる面で科学をすることで金銭的報酬を受け取ることに対して反対した。
そもそも王立研究所は、科学研究機関であったかのように思われているが、設立時、そのような趣旨はなかったのだという。あくまで王立研究所は科学の普及機関であった。
本書は、そのような背景まで幅広く目をやったファラデー伝である。既に述べたように描かれるのはファラデーのみならず、ファラデーを中心として当時の科学者や科学のありようを描き出そうとしたもの、というべきだろうか。読み物としても結構面白い。
またファラデーやブラッグによる講演術のためのノートは、当然、いまでも立派に通用する。講演する前には一読の価値あり、だ。
ただ、ファラデーが宗教的理由によって数学を軽視していたという記載に関しては、ややすっきり納得できないところがある。軽視していたのは確かなのだろうが、ファラデーがマクスウェルに書いた手紙(『巨人の肩に乗って』(翔泳社)142ページ)などを見ると、必ずしも数学を軽視していたわけでもなさそうだと思われるのだが…。そういえば、この本にはマクスウェルは出てこないな。
というわけで改めて『巨人の肩に乗って』のファラデーの項を読み直してみたが、やっぱ『巨人の肩に乗って』は良い本だな。なんて思ってしまった。でもこの本もまあまあだよ。
01.1.8追記:この本はいわば盗作のようなものではないかという(趣旨だと僕は読んだ)厳しい書評がhttp://www.bun.kyoto-u.ac.jp/phisci/Newsletters/newslet_32.htmlに掲載されている。
著者二人はそれぞれの世界では有名な人たちである。
平林氏は電波天文学の研究に長年従事してきた人物で、現在は<はるか>と地上の望遠鏡を使ってVSOP計画(http://wwwj.vsop.isas.ac.jp/)という国際ミッションを推進している。
いっぽう黒谷氏は生物物理から宇宙生物学の研究に従事するようになった人で、TBSの秋山氏によるミール搭乗の際、アマガエルはどんな行動をするか、という実験を提案した人物である。その後、カエルのほかにスペースシャトルでのイモリやメダカの宇宙実験にも参加している。なお宇宙生物学とは、一般的に微少重力下で生物がどのような挙動をするか、また発生過程などにおいて──いや、地球上の生物にとって、重力がどう影響しているかを調べる学問である。ちゃんと学会もある(http://surc.isas.ac.jp/JSBSShomepage/JSBSS_main.html。ウェブサイトは残念ながらほとんど停止状態のようだ)。なお余談ではあるが、宇宙実験全般については日本マイクログラビティ応用学会編『宇宙実験最前線 DNAの突然変異から謎の対流の出現まで』講談社ブルーバックスが手頃である。
さて、本書は基本的に、この二人がやりとりし、異分野交流をする過程でお互いの研究を紹介していくという形式をとっている。そのため内容構成は、まずおおざっぱなところを説明し、そのあと段階を経て中に踏み込んでいくという形式になっている。最初は回り道じゃないかとも思ったが、読み進むに連れ、これは意外と良いかもしれない、と思えるようになった。
二人はこの本を書くことになるまで、ほとんど会話することもなかったという。その二人が一冊の本を書くという出来事をきっかけに、こうして交流したということそのものが既に面白いと思うのだが如何だろうか。
まあ、気持ちは分かるような、でも世の中とはズレているような主張である。さらにホンダのロボットをP1、P2と書いているのを見たあたり、つまりド頭の段階で私はかなり脱力した。さらに後ろのほうでは西原克成『生物は重力が進化させた』講談社を取り上げているような始末である。あーあ。
本書はいわば、ロボット右翼、あるいはガチガチの正当派からの苛立ちの声なのだろう。ロボティクスが解決すべき課題は実世界の記述(いわば実世界のモデル化)が未完成であることと言っているあたりからかも、そんな空気が漂ってくる。まあ、確かにそのとおりだとは思うのだが。
一般人からすれば、サールやドレイファスによる人工知能批判など、極端に言ってしまえばどうでもいいのである。少なくとも、工学の人にはいろいろ哲学をこねまわすのではなく(しかももう何年も前の話じゃないか)、さっさとモノを作ってもらいたい。そしたら反論もへったくれもないでしょ。以上。
さて。本書はセロトニンへの興味から腸神経系研究に一生を捧げるに至った研究者の物語である。腸壁には反射に必要な神経が全て集まっている。いわば腸は自己完結している。もちろん、腸は脳からの指令も受けている。だが全面的に支配されているわけではない。「腸神経系は自律神経系の三番目の系統であり、しかも交感・副交感神経系とは対等な関係にある」のだ。
著者は、末梢神経系の神経伝達物質が二種類しかないと思われていた当時、セロトニンが腸神経系の伝達物質であるという仮説を持ち、それを証明していく。その過程が本書の中心である。
著者は現在、腸神経系と脳とがどのようにコミュニケーションし、お互いの働きをコントロールしあっているか探索している。腸神経系がどのように腸の動きを調節しているか分かれば、異常な便通を元に戻すことができる。本書後半では、そのことを頭に置きながら、脳と腸神経系、そして腸管の驚異的な仕組みが語られていく。腸と脳のクロストークのさまは驚くべきもので、腸は脳から命令が来てもそれを「現場」で判断し、無視することもあるという。すごい。
本そのものは結構面白い。やっぱり抄録にされたのが残念だ。
腸神経系は、腸管をぐるりと、それこそネットのように覆っている。女性のストッキングを連想してもらえばいい。あんな感じだ。食物を摂取し、消化することは動物にとって何より重要だ。消化のためには数多くの酵素や、酵素が働く環境を制御しなければならない。それを管理するのが腸神経系の役割である。
おそらく腸神経系は始原的な、あるいは起源的な神経系なのだろう、と思いたくなる。だが著者は反対のようだ。真相は今後の研究が明らかにするだろう。
余談。
本書の献辞がすごい。なんと「合衆国政府ならびに政治家諸氏に捧げる」とされているのである。「彼らの科学への信頼と研究に対するたゆまぬ支持がなかったなら、この本に書かれている発見はあり得なかったであろう」ときたもんだ。むむむ、なんか凄いぞ。
さらに巣穴を掘る奴の中にも変わり種がいる。巣穴から四方八方に溝を掘る種がオーストラリアにいるのだ。彼らの巣穴は車軸あるいは☆のような形をしている。なんでこいつらはこんな巣を作るのか? 素朴に不思議だ。
本書はアリジゴク研究に従事してきた研究者による、多様なアリジゴクの生態と行動に迫る一冊である。
アリジゴクは砂粒をあごで飛ばしつつ、後ずさりしながら円弧を描いて、あの巣穴を作る。巣穴の角度は安息角を形成し、落ちたアリはどんなにもがいても外へ出ることができなくなる。
さてこの巣、実は完全な円形ではない。中心が少しずれた形をしている。なぜなら答えは簡単、アリジゴクが埋まっているからである。アリジゴクが埋まっている側の半径のほうが少し長いのだ。
そのため斜面の角度もちょっと違っている。アリジゴクの後ろが斜面角度がもっとも「ゆるやか」で、前のほうが最も急なのだ。ただし人間の目には、ごく微妙な違いでしかない。しかしこれが、餌のより効率的な違いに役立っているのだという。自然はよくできたものである。
アリジゴクは餌を大アゴで挟み、体液を吸う。そのとき同時に毒液を注入するという。その毒性が凄まじい。抽出液をチャバネゴキブリに与えたところ、ジョロウグモの3670倍、フグ毒の130倍の毒性を示したという。どうやら節足動物に対しては圧倒的な毒性を持っているらしい。だから巣穴の中心まで落ちてしまった虫は、あっという間にぐったりしてしまう、というわけだ。まさにアリにとっては地獄である。
このほか、ウスバカゲロウの産卵行動、卵の状態、アリジゴクにさらに寄生するハチ、巣穴の温度環境、さらに固体密度や降雨による巣穴移動など興味深い話が続き、オーストラリアでのフィールド活動での発見物語に至る。
最後は「岩壁およびその下のテラス」を舞台にアリジゴクの進化に思いを巡らす。後半はややだれるが、それでも非常に面白い本である。
最初、著者は単なる研究材料の一つとして捉えていた。ところが研究を始めるに従ってのめりこんでいったのだという。そんなものなのだろう。
以前は森林調査の際には2,30m四方の「標準地」をとり、その折りには木のない場所は避けるように言われていたという。ところが最近では、木のないところも森林にとっては重要なのだ、という考え方に変わってきたため、こういう手法は採られていないそうだ。大きな樹木のない場所こそが、森林にとって更新がもっとも活発な場所なのだという。
日本には、いわゆる天然林はあまりない。ほとんどは二次林である。二次林とは人の手がかつては入っていた林のことである。今日の林の生態学にとっては、圧倒的な面積を占める二次林の動態、つまり「ありよう」を調べることこそが重要だと著者は言う。
逆に素人目からすると、そりゃそうだろう、と思ってしまう。この辺が、本書がいま一つ退屈な理由の一つであるように思われる。ただし、続くマングローブ林の話は面白い。
最後は、「森と人のゆくえ」と題され、主として二次林のありようについて考察。森林問題とは森林が減少するということだけではなく、森林が変質することにもあるという。つまり量的変化と質的変化である。森林は、人間ともともとの自然との接点だ。人間社会の変遷、そして人間的視点よりもはるかに長いスパンでの自然環境の変化、それらがあいまって、森林が形成されている。それをどう科学の目で分析するのか。その基礎研究こそが森林生態学であると著者は主張したいらしい。
そんなことは分かっている、と言いたくなってしまった。気持ちは分かるのだが、もどかしい何か、かべのようなものを読みながら感じた。
日本の国土の7割は森林で形成されている。森林管理は国土管理だという。ともあれ、森林生態学の役割が縮小することはなかろう。