本書は3部構成になっており、第一部ではフィネアス・ゲージの症例に始まり、主に脳損傷により情動を失った人間の意志決定や推論への問題と画像診断の結果、そしてその考察が展開する。
第2部は「探求」と題され、原題の副題にある「情動、イメージ」の重要性について、さらに深い考察が展開する。<ソマティック・マーカー>仮説で締めくくられる。第3部は検証。
<ソマティック・マーカー>とは非常におおざっぱに言うと、推論や意志決定には<ソマティック・マーカー>とダマシオが呼ぶ、ある種の身体感覚が不可欠の役割を果たしているという説である。
「われわれの意識にとってシナリオは多数のイメージ的情景で構成されている」。われわれは様々な種類のイメージがあふれ、次々に閃き続ける状況の中で意志決定を行わなければならない。さまざまな選択肢を「比較のために必要な利益と損失の数多くの元帳を記憶にとどめておくことは容易ではない」。「あなたがいま記憶にどそめたばかりの表象が、つまり論理的推論を続行するうえで必要な象徴形式に翻訳するために吟味しなければならない中間段階の表象が、記憶基盤からあっさりと消えていく」からだ。いわばAIの世界でいう<フレーム問題>を人間は解決しなければならないのである。我々はどのように様々な選択肢に評価を下し、選択を行っているのか?
そこでダマシオが提案するのが<ソマティック・マーカー>だ。彼はこういう。「問題解決に向けて推論をはじめる前に、あるきわめて重要なことが怒る。たとえば、特定の反応オプションとの関連で悪い結果が頭に浮かぶと、いかにかすかであれ、ある不快な『直感(gut feeling)』を経験する」というのである。これをダマシオは「ソマティック(身体的)な状態」と呼び、この感情は一つのイメージを「マーク」しているという意味で<ソマティック・マーカー>と名付けた。つまり身体的な感覚のことだ。
ダマシオによれば<ソマティック・マーカー>は「特定の行動がもたらすかもしれないネガティブな結果にわれわれの注意を向けさせ」る。そして「自動化された危険信号」として機能するという。つまり選択肢の切り捨てに<ソマティック・マーカー>が使われているのだというのだ。そしてこれこそが、推論なしに問題を解決する「直感」の正体であるという。
要するに人間は「なんか嫌だなあ」という感覚で一種のフレーム問題に陥るのを防いでいるというのである。で、それは身体に張り巡らされた自律神経系から発する信号であり、だから脳と心と体は不可分なのだ(=デカルトの誤り)というのが本書の第2部だ。
ダマシオによれば、脳は「外界が身体に引き起こす変化でその外界を表象する」。そして、ある特定の情景を見たり聞いたりしたときの記憶は、身体と脳に起こった変化全体の記録である。心は脳のみにあらず「一つの有機体」としての身体全体から生じるという。まあ、神経系という言葉はもともと脳だけを指すわけではないから、当たり前といえば当たり前なのだが。
さて、<ソマティック・マーカー>のために必要な神経システムは前頭前野にあるという。彼は理由として以下の4つを挙げる。
そして<ソマティック・マーカー>のメカニズムにも二つあると続ける。身体を介するものとバイパスするものの二つである。彼は後者を「あたかも」的メカニズムと呼び、本物の身体状態が生み出すような感覚を体性感覚皮質が作り出すことによって意志決定に影響を及ぼすものだという。
まあともかく、情動が意志決定に重要な役割を果たしているのだ、そしてそれには身体から発する感覚が重要な役割を果たしているのだ、というのが彼の主張である。今後の研究成果を待ちたいところだ。
ウェブ日記にも書いた話だが、本書には「きんさんぎんさん」らセンチュナリアンこと百寿者の話が出てくる。彼らには面白い話がある(財)岐阜県バイオ国際研究所の田中優嗣氏らの研究によるとミトコンドリア遺伝子の5178番目がアデニンであるA型の人と、シトシンであるC型の人がおり、その型の違いが、百寿者と一般人では有意に現れたというのである。百寿者にはA型の人が多かったそうだ。なお、先日亡くなったきんさんもA型だったそうである。他にも第6染色体のDR遺伝子などが長寿に関係あるらしい。ただし、相関関係は分かっていても、具体的な因果関係の解明はこれからだろう。だが寿命という良く分からないものにも、徐々に科学の目が入りはじめたことだけは確かだ。
ま、そういう本。パラパラーっと読める。
写真も通常の写真集とはまた一風違ったものも多数収録されており、また分類・解説されているので改めて興味深く見ることができるだろう。
また最終章のオーロラ観察ガイドもかなり充実。オーロラの写真撮影のコツや飛行機からオーロラを見るための座席の取り方まで、丁寧に解説されている。
オーロラに興味がある方なら手元においといて損はない。
内容はだいたいお馴染み。生体膜の話、エントロピー、非線形と非平衡、リズム、パターン、神経活動、シャジクモのアルカリバンドパターン、細胞性粘菌と真性粘菌、神経インパルスとの比較、植物、人工脂質膜、カオス、人工生命、複雑適応系、マイクロマシンの可能性などなど。
著者らはセンサーやバイオエレクトロニクスなどが専門。本そのものは読みやすく、適度にまとまっているので別に悪い本ではない。ただ、なんとなく思ったのだが、本書のように一般的な内容ではなく、著者らの専門内容を詳細に解説してもらったほうが面白かったのではなかろうか? 味覚センサの話や人工光合成素子や成膜の技術の話、そして最後に紹介される疑似生命的な「マイクロケモマシン」のビジョンを読んでいたら、ますますそんな気がしてきた。
今回まとめて通読してみても、評価はそれほど変わらない。一冊の本にまとめられたこと自体は嬉しいが、インタビュー内容そのものにあまり魅力が感じられない。インタビューしている意味がほとんど感じられない、これならば全て地の文で良いではないか、と思ってしまう。いわば研究者の持つ「熱気」や「深さ」のようなものが感じられないのだ。
この辺、先頃ブルーバックスから刊行された『科学者の熱い心』と対照的である。本書のインタビュー内容は、おそらく『科学者の熱い心』ではほとんどカットされてしまうようなものだ。逆に言えば『科学者の熱い心』では生かされた話をほとんどカットしてしまっているのが本書だと言える。
それぞれのライターによって編集方針や話の聞き方が違うのは当然だし、多様性のためにもそうあるべきだと思う(またライター的なことを言えば、こういう無難なまとめ方ができないと仕事が限られるのも確か)。だが私は「ふつう」のインタビュー記事だったらカットしてしまうようなところばかりを生かした『科学者の熱い心』のほうを評価する。
なお、参考のためにインタビューされている22人の名前とそれぞれのインタビュータイトルを紹介しておく。
解剖標本はもともと人体の構造を理解するためのものである。だが一般人は「生命や人間を思い起こすことが多い」。当然だろう。
中には変わった標本もある。「ムラージュ」と呼ばれる蝋模型では、皮膚の疾患を模型にとどめることができる。たとえば今は幸いにして見ることのない天然痘患者の腕の標本などが作られている。
まあ、要するに解剖なんでも本である。興味のある方はどうぞ。
屋久島は言わずとしれた世界自然遺産に指定された島である。だが全島が自然遺産に指定されているわけではない。指定地域は21パーセントに過ぎないのである。島では既に開発によって、多くの植生が失われているからだ。そして80年代に入って猿害が増加、毎年500頭のサルが射殺されているそうである。
屋久島ではサルたちの群間競争も比較的厳しいという。豊かに見える屋久島だが、調査研究の結果、群れが意外ともろく、簡単に消滅してしまうことがあることが分かっている。また屋久島のサル・ヤクシマザルには、本土のサルに比べてサイズが小さく、群れの規模も小さく(本土が50〜60頭であるのに対し、ヤクシマザルは20〜30頭)、オトナオスの割合が比較的多い(本土ではオトナ雌一頭あたり0.55頭のオスに対し、屋久島では0.86頭)という特徴がある。この生態学的意味はまだよく分かっておらず、調査中であるという。
その他、「ニホンサルの声は『ウッキー』ではない」などサルの音声コミュニケーションの話、サルによる種子散布など植物との関係、分布要因、屋久島の自然保護の歴史、猿害など。最終章では<屋久島オープン・フィールド博物館(http://www.dab.hi-ho.ne.jp/yakuofm/index.html)>という構想が紹介され、研究者とフィールド(社会と言い換えても良いだろう)との関わり方、そして人と自然の関わり方の一つが提案され、締めくくられている。
個人的には、各研究者にはもうちょっと赤裸々に思いを語ってもらいたかったような気もするが、まあいいか。
魚類から進化した手足を持つ「四肢動物」。脊椎動物が上陸したとき、いったい何が起こったのか。骨格はどの部分からどう変わったのか。たとえば「首」は、「手首」は、「指」は、いつ生まれたのか。エラはいつなくなって、何になったのか。筋肉はどうか。腰はどうか。耳や鼻など、感覚器官はどうだろう。最初に上陸したのはいったいどんな動物だったのか。そもそも彼らは、なぜ上陸したのだろうか。
本書はこれらの疑問に、主に解剖学の視点から進化上の類縁関係を探ることから始まる。イクチオステガやアカントステガの解剖学的な特徴の話は非常に面白い。たとえばイクチオステガの大きな肋骨はいったい何のためにあったのだろうか、とか、指が8本あったアカントステガの足は陸上で使われていたというよりは水中で水掻きとして使われていたのではないかとか、頭蓋のバランスがどんどん後ろにずれていくところとか、うろこの進化とか。最初の四肢動物は、指が前ではなく真横を向いていたという話だけでも面白い。
また古気候との関連から進化イベントを見直す本でもあり、生態環境や生物地理、すなわち植物や無脊椎動物の話や当時の大陸の状況なども解説されている。四肢動物が出現したと考えられるデボン紀から、現生の動物の主な系統が出現したペルム紀に至るまでの歴史が考察されている。
この分野で有名なローマーの仮説−−環境が乾燥化して四肢動物の祖先たる肉鰭類が干上がった池に取り残され、乾燥化した地面を乗り越えて別の池に飛び込むために四肢が発達したという話への批判も面白い。この話はあまりに有名で、そのまま信じている人も多いと思うが、本書ではこれへの反論の歴史が丁寧に解説されている。
たとえば現生の魚類の中には鰭条や鰭膜を失って、残った部分で海藻などに捕まったり歩いたりするものがいる。これは逆に言えば、鰭条や鰭膜の喪失と陸上への進出には何の関係もないということだ。そこで色々な説が考えられた。捕食魚類から逃げるため、また陸上に餌を求めて、などなど。中には夏眠用の穴を掘るために発達したのではないかという考えもある。だがどの説も単なる説に過ぎない。
最初に登場したのがどんな動物であれ、四肢動物が出現したのはデボン紀中期の終わりから後期のはじめ、およそ3億7000万年前のことであるらしい。著者は当時出現した落葉性の植物の登場が、陸上四肢動物出現に関係があるのではないかという。落葉が腐ることによって植物性の有機堆積物が増加し、その結果、浅水域の酸素濃度が周期的に低下したことが脊椎動物の空気呼吸を促進したのではないかというのだ。もっとも、それがイコール即上陸、となるわけではないが。
どうやら四肢動物の特徴たる「四肢」は、陸上歩行のために発達したものではないらしい。先にも述べたように諸説あるのだが、とにかく化石資料によると、四肢は上陸する前からあったらしい。なお最初にできたのは「指」であって「手首」ではないようだ。もちろんなぜ四肢が生まれたのかという話には諸説紛々で、実際問題として科学的に検証されたものは一つとしてない。著者は魚類と両生類の産卵行動の中での一番の違いとして「包接」を上げ、包接が四肢を発達させた理由ではないかという説を提案している。もちろんこれも、科学的に検証されているわけではないのだが、そういうこともあったかもしれない(他説と同じく)。
その後四肢動物は、造山活動が活発化し温暖化した石炭期に、適応放散し多様化していった。足のない欠脚類や(この形はよっぽど適応的なのだろうか)、得体の知れない姿のクラッシギリヌス・スコティクスの復元図には、ただただ驚き。
とにかく「四肢動物の解剖学的構造と生活様式」、そして「上陸に関する証拠と推論」に興味がある人は必読である。我々自身の話でもある本書の内容に、興味がない人がいるとは思えないが。頻出する解剖学の用語はあまり気にせず、とにかく読んで欲しい。
本書には二つの内容が収録されている。まず前半は、『手足を持った魚たち』と基本的に同じ内容、すなわち脊椎動物の上陸を扱う。
『手足を持った魚たち』との違いは2点ある。
まず一点目は、こちらのほうが研究者たちの姿や声、化石発掘時の模様などを生かして描かれているということ。博物館の標本の山の中からアカントステガの「再発掘」が行われるところなどは非常に面白い。この辺の描写は研究者ではなくサイエンスライターである著者ならではのものだ。
もう一つは、ホメオティック遺伝子の話などで形態進化の考察が行われているところ。いわゆるEvo./Dev.系の話だ(ただ、結構ざっくりしてるので、その筋の人は期待して読むとがっかりするかも)。鰭から手がどのように作られていったのか、軸形成がどのように変更されたのかといった話。最近になって、指の進化が遺伝子のレベルからスムーズに説明できるようになってきたのである。この辺の話は個人的にも非常に興味のあるところなので、できればもうちょっと詳しく、そしてもうちょっとうまくまとめて欲しいように思った。
本書でも主役はアカントステガで、陸上生活での適応に見えた四肢そのほかは、既に水中生活を行っていたときにできあがった、いわゆる外適応、前適応であったとされている。
いっぽう後半は再び海へ帰っていった動物、すなわちクジラの進化の話を扱う。クジラ類はこれまでメソニクス類から進化したとされていたが、やはり分子レベルの系統解析の成果と形態解析の成果が組み合わされて新しい成果が生まれつつあるのだ。この辺の話は岩波『科学』2月号にもクジラはカバと近縁だ、メソニクス類ではないという話が掲載されていたりしているので、聞いたことある人も多いだろう。ただ本書ではその辺の話はほとんど触れられていないし(317-319ページにちらちらと書かれている程度)、当然のように日本人研究者の話は全く出てこない(また直接本書の内容には関係ない話だが『イルカに学ぶ流体力学』オーム社出版局にある<グレイのパラドックス>は考慮に値しないとバサッと切って捨てている。だが瞬間だったらそのくらい出せるさ、と言わんばかりの著者の切り捨て方はちょっとおかしいのではないか? それとも本書著者のほうが正しいのだろうか?)。
また本書全般に言えることだが、図版が少ないのが寂しい。解剖学的な記述の多いこの手の本は、やはり図解がないと理解しにくいところがある。『手足を持った魚たち』が新書でありながら多数の図版を工夫して収録していたのを考えると、非常に残念だ。
とはいうものの、読み物としては非常に楽しめた。『手足を持った魚たち』とこちらと、どちらが面白いかは人によるかもしれない。読み比べてほしい。
時は1950年代後半。ソ連がスプートニクを上げた頃。舞台は閉山を迎えつつある炭鉱の町ウエストバージニア州コールウッド。ここに生まれたものは、誰もが炭鉱夫になるものと思われている、そんな町。
アメリカ映画を見れば分かるとおり、アメリカの高校生は落差が激しい。コールウッドでも、大事にされるのはアメフト選手ばかり。女の子にもてるのもアメフトの選手だけ。そして、奨学金を得て町から出ていけるのも。
アメフトのスタープレイヤーである兄にコンプレックスを抱き、その兄と比べて自分のことをまったく認めてくれない炭坑の現場監督である頑固な父との葛藤を抱えながらも、聡明な母、理解ある女性教師、町の人々、そして何より友人たちに恵まれた一人の少年が、手作りロケットの打ち上げを通して、力強く、人間として成長していく様を描く。
まず上巻は、何の取り柄もない、いわばオチこぼれ高校生だった著者ホーマーと、幼なじみの3人、シャーマン、オーデル、ロイ・リーと、変人で嫌みな奴だが根は良い奴で頭は抜群に切れるクウェンティンの5人が、夜空を横切るスプートニクを見てロケットを打ち上げはじめるところから始まる。はじめはちっぽけなアルミの筒だったが、度重なる失敗にめげず、燃料を改良し、理解ある大人たちの協力を得て、より大きなロケットを打ち上げ始める彼ら。彼らはやがて<ロケットボーイズ>と呼ばれ、町の人気者(?)になっていく。ついにホーマーは、頑固者の父を振り向かせることすらできるようになった。ここまでが上巻。
下巻は、労使が対立し、厳しくなっていく炭鉱状況を背景に、町全体の希望(?)となった著者らロケットボーイズが描かれる。炭鉱の技術者たちの手と、必死で勉強したボーイズたちの設計によるロケットは、ますます高く上がる立派なものとなっていく。だが父は相変わらず炭鉱の技術者になることを望み、一度も打ち上げを見に来てくれることはなかった。だがホーマーは、ロケット技術者になりたかった。憧れのフォン・ブラウン博士からの直筆の手紙を手に入れてくれた母や病魔と闘う女性教師の応援を受け、かれは<ロケットボーイズ>代表として科学フェアに参加する。はたして田舎の高校生に栄光は訪れるのか。そして、ホーマーの父は打ち上げを見に来てくれるのだろうか…。
おおざっぱに言ってしまえば、こういう話だ。これに、ホーマーの初恋や初体験やら、落盤事故の話が絡んで物語は展開する。
本書は、事実に忠実な自叙伝というよりは、脚色を加えて、より読み物らしくしたものであるらしい。だが、十分読むには値する本だ。個人的には、もう一回リライトして小中学生が読める程度の分量にジュブナイル化し、全国の学校の図書館に置けるような本にしてもらいたいと思った。
「このままではいやだ」と思うのならば、とにかく最初の一歩を踏み出さなくてはならない。
何よりもまず夢を持つこと、そして夢に向かって努力すること。そんな当たり前のことが、すごく、すごく大切なんだということを感じさせてくれる本だ。彼らが空に打ち上げた銀色に輝くロケットは、その具現であり象徴なのだ。
下巻巻末に寄せられた宇宙飛行士・土井隆雄氏の小文がまた泣かせる。
家族ものでもあり、少年友情ものでもあり、誰もがお互い知り合いだった古き良き町、古き良き時代を描いた小説でもある。ワルガキたちがはね回り、大人たちはその成長を厳しくも暖かく見守る、そんな時代、そんな場所。僕は、むかし読んだある小説を思い出したのだが、それはまた別の話。
夢を持ち、貫きとおそうとする一人の少年。それを理解し、支え合う周囲の人々の優しさ。そして、ついに訪れる父との理解。
なんかこう、しっくりくる良い言葉が見つからないのでダラダラと長くなってしまったが、とにかく、いい話である。
本書は「分子生物情報学」の現状を伝える非常に興味深い本である。遺伝子発見、機能予測、タンパク質立体構造予測の領域で、実際にどのような手法で解析が行われているか解説してくれている。本の内容は遺伝子配列の解析、それによって作られる蛋白の話、そしてさらに細胞内のネットワークと進む。適度に詳細で、適度に分かりやすい内容が嬉しい。
個人的に驚きだったのが、音声認識の世界で使われている幾つかの手法−−隠れマルコフモデル、動的計画法などが遺伝子探しや配列の定量的な比較に使われているということだった。隠れマルコフモデル(HMM)は遷移状態を表現する確率モデルの一つ、要するにある単語の次に何が来そうかということを確率で表すものなのだが、それを使って遺伝子らしき場所をDNA配列の中から探し出すことができるのだ。しかも外来遺伝子とそうでないものを、非常にはっきりと見分けることができるという。
DNAはでたらめに並んでいるわけではないので、よく考えればなるほどそういうこともできるか、と思うが、HMMが使われているというのは、ちょっとした驚きだった。一方の動的計画法はDNA配列やアミノ酸配列の類似性を測るのに使われているそうだ。音声認識の手法が遺伝子の解析に使えるとは、色々と思いを巡らしたくなる話だ。
続くのはタンパク質の機能解析の話。タンパク質の立体構造の研究は難しい。現在、3つの手法が採られている。1)分子シミュレーション、2)ホモロジー法、3)フォールド予測法である。それぞれについては本書を直接参照してもらいたい。なんでやたらと難しい、難しいと言われているかが良く分かる。
最後は、遺伝子ネットワークの話。遺伝子はネットワークを作っている。こうなると解析が大変だということは誰が考えても分かる。現在、「E-Cell」と呼ばれる汎用細胞シミュレータ上で、仮想細胞や仮想赤血球といったものが構築され、細胞の挙動の研究が行われている。つまり細胞全体のシステムをモデル化しようという試みだ。まだまだ実際の細胞には遠いのだろうが、今後に大いに期待したくなる研究だ。
付録のミニガイドや参考文献リスト、WWWリストも充実している。必要十分な内容がコンパクトに収まっている。
たとえば「静脈急性閉塞」という病気がある。手術後、深部の大体静脈、膝窩静脈などが血栓で閉塞することがあるのだ。特に、血液凝固能が高いスポーツマンは虫垂切除や大腿骨の整形外科手術や長期仰臥の副作用として起こることがあるという。なんでも、筋肉量が多いため下肢の血行が手術や安静によって、よどんで固まりかける(らしい)ことが原因だとか。横綱・玉の海が虫垂炎手術後に、これで死んだという。手術後の安静によって深部静脈に血栓ができ、これが歩行開始時に流出、肺塞栓症を引き起こしたのだそうである。怖いね。
なんだスポーツマンじゃないから関係ないや、と思ったあなたには話の続きがある。この深部静脈血栓症、長時間の航空機による旅行によって誘発されることがあるのだ。特に座席が狭いエコノミークラスに多く、イギリスのシイミントンはこれを「エコノミークラス症候群」と呼んで警告しているとのこと。航空機に限らず、長時間座るという行為がよくないらしい。「旅行者血栓症」とも呼ばれるとか。対策としては、ときどきは、ふくらはぎを揉んだりすることが必要だという。なんとも笑っちゃうような対策だが。
なお本書そのものは丁寧にしっかりと書かれている本である。ただ、読み物として特に面白いわけではないので何とも言い難い、というか、言うことが何もない。できれば索引があれば良かったかな。
本文は著者も自負しているように、確かにやさしく、ざっくりと書かれている。大枠として、技術がどのくらいのキャパシティがありそうかということを説いた本である。著者によると、今以上にエネルギーを使いながら、緑を豊富に残した地球の姿も十分に可能であるという。
いろいろと突っ込みどころもありそうな内容なのだが、出発点としてはこれで良いのかもしれない。
本書は、20年にわたって動物行動学、中でも東アフリカに住むヒヒの行動と整理の研究を行っている著者による精神医学、神経科学、内分泌学のカテゴリに関する16のエッセイである。「ディスカバー」や「サイエンス」に掲載されたものを一冊に編集したもの。
だが話題は広い。たとえば確率に関するエッセイ<生命の測り方>では確率をなかなか理解できない人間の基本認識を斬ると同時に、「分数」でものを考える科学者達にもチクッと針を刺す。死体解剖をテーマにした<貧者の贈りもの>では、解剖学の歴史を扱うふつうの本ではあまり出てこない、遺体盗難や略奪によって解剖が行われていた歴史を紹介する。このように、なかなか読ませる。
だがやはり真骨頂だな、と思わされるのは東アフリカでのヒヒの研究をベースにした話だ。中でもヒヒがゴミ捨て場の残飯によって栄養状態が変わっているという話は栄養状態と人間の生き方を考える上で、独特で面白い。残飯を漁るヒヒは栄養状態がよくなり干ばつにも有利になり、思春期が早まってベビーブームが訪れた一方、コレステロール値があがり血管と心臓には脂肪が蓄積され、病気感染の危険を抱えている。糖尿病と心臓病の危険性が高まっているかどうかは分からない。何が有利で不利かは分からないというお馴染みの話だが、具体的な話はやっぱり面白いのだ。これと関連する話は<欧米化には危険がいっぱい>でも触れられている。
また<群れの黄昏>で紹介される老年期のヒヒの過ごし方は、人間の老人にも参考になりそうだ(笑)。ヒヒの場合、半数のオスは群れに留まり続けるが、半数は群れに居続る。居続けられるオスは何が違うのか。研究者たちの観察によると彼らは、他のオスとの連合や闘争ではなく、自分の壮年期に「有人であるメスとの関係を優先させている」のだそうである。
そのほかインターロイキンの働きを分かりやすく解説した<病気になるとなぜ気分が悪くなるのか>、宗教の起源に思いをめぐらす<やめたくてもやめられない>など。分量的にも内容的にも気楽に読めるエッセイ集。
内容は非常に幅広い。どうご紹介したものか、なかなか難しいので、目次を適当に紹介する。
大きくわけて七章から構成されている。
おおざっぱに各章を紹介する。
<季節適応の生理学>では昆虫の概日リズムや光受容器、蛹休眠などについて。
<行動を制御する内的因子>では行動遺伝子やホルモンの話。
<細胞と生体防御機構>はあまり知られていない昆虫の免疫機構、細胞防御や抗菌性ペプチド遺伝子の発現について。
<化学防衛システム>はオサムシやハムシ、チョウ・ガ類、ヤスデなど様々な虫の化学的な防御システムの話。
<寄主選択と植物成分>はコクゾウの産卵選択やチョウの産卵刺激・阻害物質などの話。
<化学交信>はコナダニの警報フェロモンや集合ホルモンの話や、ミツバチの女王物質の作用、カイコの神経メカニズム、各種性フェロモン、アリの体表炭化水素の話など。
<音響交信>は読んでそのまま、音を使った交信である。昆虫はなぜ音響を交信の手段として使うのかといった基本的なことから、各論まで。
僕が今まで別の本の感想文で面白い面白いと書いていた話がもろもろまとめて収録されている。8500円という値段はどう考えても高い。だが、それなりの価値はある。ただし、一般人向けではないので念のため。
さて、なぜこの本の評価が難しいのか。もし本書に書かれた内容が全て真実であるのならば、本書は文句なし感動の一冊である。問題は、ここにある。本書の内容は全面的に信頼できるものなのだろうか。果たしてチンパンジーは、手話ができたのだろうか。
本書の内容のみから判断すれば、ワショーは完全に手話ができたことになる。しかし、これに対して猛烈な反発、そして反論があることは、この領域の別の本を読んでいる人ならばご存じのとおりだ。中でももっとも強烈な反論者はスティーヴン・ピンカーである。彼の反論は『言語を生み出す本能 上・下』(NHK出版)にはっきりと書かれているので、そちらを見てほしい。
なお、この辺の状況をもっともうまくまとめているのは『神に迫るサイエンス』(角川書店)に収録された金沢創氏のエッセイ「霊長類学──チンパンジーはことばをしゃべるか? そして死の観念をもつか?」である。そちらも合わせて読むと、さらによく状況が分かるようになる。 なお金沢氏はピンカーの論の進め方もいいかげんだと切り捨てる一方で、チンパンジーが言語を持つかどうかについては、何とも言えない、といった立場をとっている。多くの心理学者も、だいたいそんなところであるらしい。つまり「怪しいが、全否定ではない、何かはあるのだろう」といったところであるらしい。
さて、本書に戻る。本書が、科学書としてはあまりに心情的であることは、誰もが認めるところだろう。問題は、それをあたかも絶対的な真実であるかのように受け取ってしまいそうになる受け手である。チンパンジーが言語を操れようが操れまいが、生きた動物と長年を共に過ごした一人の人間が思ったことの記録だと思えば良いのかもしれない。
『HYBRID-Z』は太陽電池で電気をまかない、年間のエネルギー収支はゼロという住宅である。東京では年間9430キロワット時を発電し、建材も全てリサイクル可能。もちろんオール電化。ミサワは1970年代の頃から、南極の昭和基地の住宅や中東での住宅建設などを通して住宅開発技術を磨いていったという。この本に書かれた内容が本当なら、確かに素晴らしいことだ。誰もが住まないのはなぜだろう、という気すらする。
なお読み物としては全く面白くない。こういうものを書くなら、せめて現場の技術者たちの声を拾い上げるべきなのに、それがほとんどないのだ。社長がどう言っているかとか、経団連のなんとかになんとか言われたなんて話はどうでもいいのである。
また広報的な本ならばそれはそれで別にいいのだが、それならはせめて口絵写真は付けるべきだ。また各種データの表くらいは最低限欲しい。
著者の考え方は基本的に単純である。産官学から構成される技術─経済のシステムを、テクノシステムと著者は呼ぶ。それが世の流れに合致した場合は技術は大きく発展する。そぐわなくなり始めると技術発展は停滞する。そのときうまくテクノシステムを転換できれば再び技術は発展成功しはじめる。つまりアメリカが90年代に入って成功したのも、テクノシステム成功に転換したからだという。
アメリカは戦後<冷戦型テクノシステム>、簡単に言えば軍需を中心にしたテクノシステムで大きく成長した。月面着陸などもその成果だ。だがやがて時代は変わる。冷戦型の構造は破綻を来し始めた。一方で産官一体となって目標を見定めた<日本型テクノシステム>が台頭し始める。日本は大成功を収めた。しかし、その成功もいつまでも続かない。アメリカはパソコン産業、情報通信産業に代表されるように。軍需先行から民需先行の技術を主体とした古くて新しい<グローバル19世紀型テクノシステム>を生み出すことによって、再び覇権を握った。いっぽう、マーケット主導に移行しきれなかった日本はいびつな形のまま衰退していった。これが著者の考えたかである。議論はややおおざっぱに感じたが、おおむねは著者がいうとおりだろう。
さて、私がなぜこの本をここで紹介したのか。いくつかの技術分野に関しては、この本の中で著者が主張していることがそのまま当てはまっていると思うからである。民間、マーケットの声を聞かない産業は歪な形になってしまう。しかし、そのことに気が付いていない業種のいかに多いことか。
また著者は日本でベンチャーが生まれない理由なども、解説している。合わせて参考になるかもしれない。著者の専門は日米経済安全保障、アメリカ経済史。
ぱらぱらめくりながら読んでいて僕が好きなライターが分かった。編者のニコラス・ウェイドと『クローン羊ドリー』の著者ジーナ・コラータだ。この二人の文章は本質がスパッと書かれている。同時に、科学者達の問題意識、本当に面白い所に踏み込む術を心得ているようだ。
こうして世界中で記事が読まれる科学記者。大したもんだ。凄いなあ。
ありふれた言葉だが、本書は確かに、一人の女性の魂の遍歴、魂の旅路を描いた本である。彼女がなにゆえ今のような活動をするに至ったか知りたい人は必読だ。ただ、ひょっとすると彼女がなにゆえ今のような状態に至ったかについては、また別の表現手法のほうが分かったかもしれない。そんな気もした。
読んでいると分かるのだが、彼女は確かに完全にチンパンジー保護、動物保護の立場に立っている。なにせありとあらゆる動物実験の全廃を訴えているのだから。だがチンパンジーに過剰な思いこみはしてない。チンパンジーに死の概念はないように見えるし、ほとんどの場合「力が正義」だと語っている。彼女の自然保護活動は、そういう態度を保ちつつ行われているのだ。その評価は個人の自由だが、どうも日本にはその辺りを勘違いしている人が多いような気がする。
なおジェーン・グドール研究所のURLはhttp://www.janegoodall.org/である。監訳者の松沢氏も書いているとおり、訳文は読みやすい。
だが、これって科学書かなあ。微妙なところ。本書は進化心理学の本の一冊と位置づけるべきなのだろうが、話はほとんど「それってこじつけじゃない?」って反論されかねない類のものばかり。紹介される研究成果にしても、誰それはこう言っているとか、相関係数はこうだった、という話がいきなりポーンと出てくるだけで、グラフも何も提示されない。ひょっとすると原書にはデータもあったのかもしれないが(洋書が翻訳されるとき、論文一覧や図版が削られることはよくある)。
しかも登場する研究者たちが出してくる結果というのは、本当にそこらへんの恋愛本で出てくるような類のことでしかない。一気に通読したが、がっかりした。
ジュズカケバトは1シーズンのうちに25%がつがいを解消するといった、ところどころに出てくる科学トピックスは面白いけど、読んだあと何も残らない。書かれている内容があまりにも当たり前すぎる。いわば科学者同士がお茶のみ話にするバカ話や、ごく短いエッセイの域をほとんど出ていない。お話ではなく、もっと具体的な数値やデータで勝負して欲しい。
男女の配偶行動の進化と性戦略の真相について科学者が知る日は、まだまだ遠そうだ。
本書は、30年その研究をやっているという著者による本。逆さメガネだけではなく、錯視図形や図地反転図形の話なども紹介されている。知覚の不思議を感じさせる入門書といったところ。
著者の結論はこうだ。
三〇年余にわたる逆さメガネの研究を通じて得たのは、人は、目だけでモノを見ているのではなく、目から得た情報を脳で再構築して外界の情報を得ている。その情報の再構築の段階では、触角、触ることが非常に大きなウエイトを占めているという結論だった。(194ページ)つまり視覚は、触覚や運動感覚に大きく影響されているということである。外界を知るということは、単に受動的な仕組みではなく、視覚一つとっても他の感覚との共応が必要なのだ。
本書では触れられていないが、最近では左右逆転メガネをかけたときのニューロンを電気生理学的な手法で見たり、PETで脳全体がどのように異常な状況に対応しようとしているかなども直接観察されている。今後、遺伝子レベルでの神経の可塑性のしくみの探索も、ますます活発になってくるだろう。そういった「部品」レベルの研究と、心理学者らが長年積み上げてきた知見とが結びつく日は、そう遠くないかもしれない。