「NEWTYPE」掲載<森山和道のサイエントランス>第9回

2003年12月号掲載

『人の「こころ」の遺伝子改変』

 番組改編期で最終回ばかり。いまもっとも人気があると聞いている『ガンダムSEED』も最終回を迎えた。作品の内容に関しては良い視聴者ではないのでさておき。この番組の設定を聞いたとき、私は違和感を覚えた。無粋な設定批判めいた話だが、番組も終わったことだし、お許し頂きたい。

 引っかかったのは「コーディネーター」という存在のありようである。コーディネーターは遺伝子組み換えで作られたデザイナーベイビーで、両親が選んだ特性が組み合わされて生み出される。目の色、髪の色、体格、身長など、肉体的能力は「ナチュラル」を上回る。ただしその隠された副作用として実は繁殖能力が低い、と設定されている。

 設定そのものは特段目新しいものではない。おそらく<ジーンリッチ>と<ナチュラル>いう言葉で、遺伝子組み換えを行ったものと行わなかった者との間に生まれる階層社会を想像した『複製されるヒト』(リー・M・シルヴァー/翔泳社)や、遺伝子によって選別された社会のなかのマイノリティーを描く映画『ガタカ』等々からインスパイアされたアイデアだろう。ガンダムシリーズの<ニュータイプ>を換骨奪胎したこの試み事態は評価されていい。

 私が違和感を感じたのは、遺伝子改造を受けているはずの「コーディネーター」たちの精神が、何ら「ナチュラル」と変わることがないという点だった。

 遺伝子が規定しているのは外見・容姿や肉体的能力だけではない。脳も遺伝子産物であり、性格や知能も遺伝的だ。環境要因だけで決まるわけではない。もし自在に外見や身体能力をデザインできるのであれば、精神的能力もデザイン可能なはずだ。

 両親は子供にどんな性格を望むだろうか。他人を蹴落とし、見下す、排他的で傲慢な性格?

 いやいや、まずそんな性格を望む親はいないだろう。ある程度の向上心や競争心は持ちながらも他人を許容する包容力、やさしさを持ち、全体を見渡す洞察力を備え、語学や数学にも見事な能力を発揮しつつ異文化理解や芸術にも能力を発揮する−−。おそらく、そんな性格・精神的能力を望むのではないだろうか。そして、自分たちに怒りや嫉妬心を向けてくる相手に対しても、その頑なな心を溶かすだけのネゴシエイター的能力も望むのではなかろうかと思うのである。

 つまり、遺伝子改変された人々は、肉体的な違いだけではなく精神的にも「ナチュラル」とは大きく違うだろう、ということだ。

 ただし、デザイナーベイビーというと、どうしても美しい外見に優れた頭脳と考えがちだが、実際の人間の好みはバラバラだから、遺伝子組み替えによってどんどん多様性が増す可能性もある。逆にやたら攻撃的な方向へ改変したがる人たちもいるかもしれない。そんなことできるわけないと思う人は、人間が犬に対してしてきたことを思い出すといい。犬種によって性格があれほど違うのはどうしてか、考えてみるといい。

 どのような方向性であるにしろ、もし人類が自分たちの生殖細胞質の遺伝子にまで手を入れるようになった場合、本当に大きなインパクトを持つのは、身体的特徴の改変ではない。遺伝子組み換えの道を選んだ人たちとナチュラルの間の差はどんどん開いていき、やがて子供ができない生殖隔離にまで至るかもしれない。だが仮に外見は大きく異なったとしても、中身は現在のヒトと同じであれば、それは人類であると見なされるだろう。しかし、精神のありようが全く違っていたらどうだろう。単にちょっと気が優しいとか、逆に喧嘩っぱやいといったことだけなら、あまり差は感じられないかもしれないが……。


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