ここでいうコントロールの主体は特定のプログラムのことだけではない。「マトリックス」の世界では、中のオブジェクトのふるまいは必然的にコードで規制されている。ログインしている人間も同じだ。つまり、世界そのものが最初から完全に自由なものではない。
いっぽう物理世界での物体のふるまいは、物理法則に規制されている。人間の思考も同様だ。思考は、分子機械である脳の生理特性に支配されているからだ。人間は、脳の生理的な特性以上のことは考えることもできない。つまり、存在することそのものが不自由の始まりであり、最初から完全な自由はあり得ないということだ。「マトリックス」は、それらの古典的かつ抽象的な問題を、計算機が作った仮想現実という新しい袋の中に放り込むことで具体的な問題に落とし直し、分かりやすく明示しなおした映画なのだ。なぜそこを突っつくような評論が登場しないのか、一映画鑑賞者としては非常に不満である。
映画評論家各位には「自由意志はあるのか」という議論は馴染みがないものかもしれないが、脳に興味を持っている人間ならば、これまでにも何度も出くわしたことがあるはずだ。
自由意志をめぐる実験で、一つ興味深いものがある。カリフォルニア大学のベンジャミン・リベットが行ったものだ。被験者は頭皮に電極をつけ、自分が好きなときに指を曲げる。指の動きはもちろん計測される。同時に被験者は自分がいつ指を動かそうと思ったのか記録する。その結果、面白いことが分かった。リベットは、被験者が指を動かそうと決める「前」、およそ0.3〜0.4秒前に神経系の動き(準備電位という)が観測されることを発見した。
この実験は、「意志」が発生する前にまず神経回路網が活動を開始し、そのあとで「意志」が発生することを示している。ちなみに指が動くのはさらにあと、意志が発生した0.2秒後のことである。
人間の心は脳でしかあり得ないのだから、考えようによっては当たり前だが、この意味は考えれば考えるほど重大である。つまり、我々は自分で意識して行動を始めていると思っているが、実は意識は無意識の中から出現するというわけだ。自発的な行動である、と自分で自覚しているものも、後づけでそう思っているだけなのかもしれない。自由意志は単なる思いこみ、幻覚に過ぎないのかもしれない。
ただ、意識の奇妙なところはここから先である。意識は、発生するときは確かに無意識のなかから出現するが、ひとまず発生したら、今度は逆に神経回路網の活動に影響を与えられるようなのだ。つまり、指を動かそうと思ったあとに人間はその動きをやめることができる。また運動開始の意志決定が、運動を始める前であることには変わりない。これはまさに意識の役割であるように思える。
もっとも、その意識もまた別の神経回路網の働きであるに違いないわけで、そうなるといったい何がどこから自分の意志で、何がそうではないのかますます分からなくなってくるわけだが……。
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