さて、物語はやはり『創世記機械』的なところから始まる。世界は一触即発、第三次世界大戦勃発直前の状態にある。この辺、やっぱり最近のホーガンなのだなあ。もっとも、本作では説教クサイ話は0。さっさと本題に入る。主人公ヒュー・ブレナーはQUICと名付けた量子コンピュータの研究を行っている。本書の世界では、量子コンピュータは多世界解釈の元、動作する。つまり、他の宇宙と情報を取り出して、計算結果を弾き出すわけだ。彼らは当初、これを使って全く新しい進化理論を構築できないかと研究を続けていた。というか、その結果として量子コンピュータの研究を行っていた。
ところがある日、彼らの研究は軍事機密になってしまう。だが、幸いなことに研究は続けられた。ロスアラモスに研究者は集められ、軍の監視におかれることになったものの、さらに可能性を探ることになったのだ。やがて、量子コンピュータの驚くべき可能性が徐々に明らかになってくる。マシンに接続すると、漠然と何を選択するべきかが分かるのだ。どうも、脳が量子レベルで情報をやりとりしているらしい。それだけではなかった。なんと、意識を隣接する無数の宇宙へ飛ばすことができるのだ!
で、いろいろ起こるわけである。
もし昔のホーガンなら、意識の転移に関しても、もっといろいろとウソ理論を並べ立ててくれたと思う。そこが僕には猛烈に残念だった。ストーリーも、あまりにも真っ直ぐだし。ま、そこは昔からかな。それと、キャラクターがバカなのが気になった。世間知らずではあってもバカじゃない、というのがホーガンのキャラクターだと思っていたのだがなあ。
解説:菊池誠氏。「ホーガンがハードSFに帰ってきた」というのはちょっと言い過ぎでは。十分SFではあるのだけども、もう一ひねり欲しかった。
面白くもなんともない、という以前の問題だ。これは小説なのだろうか。小説のつもりなんだろうなあ。でも、どう見てもプロの小説じゃあない。素人、それも小説を書き始めたばかりの素人の小説のようだった。悲しすぎる。
以上、読むだけ時間の無駄ということで。
どうせだったら、『ラヴ・フリーク』を3つくらい上・中・下で出して、それで終わりにすれば良かったんじゃなかろうか。せっかくそれぞれ付けているタイトルが、これでは何の意味もないではないか。コンセプトを絞るということの意味、それが作品に与えるべき影響を、編者はもっと考慮に入れ、範疇に入らない作品はバンバン落とすべきなのだ。
友成純一のように、欧米スプラッタ系のセンス・ノリの作品もあるが、やっぱり同時期に出た『死霊たちの宴』と比べて読むと、日米の違いが分かる。もっとも、まったり・しっとりした日本の作風も嫌いじゃない。だが、例えば日本の土葬文化に取材したような作品もなかったなあ。
と、このように苦情ブーブーなのだが、それでも600ページを一気に読んでしまったのは確かなわけで…。でも、このままじゃ絶対にやばいって、このシリーズ。ホラーなのに、「行間」がない作品が多すぎるような気がするんだよなあ…。
本作の舞台は、デッドタウンと呼ばれる吸血鬼が支配する町。吸血鬼の陰におびえながらも矜持をもって暮らす爺さんと、母親を吸血鬼に奪われた子供。それをそっと覗いている、過去を持つ神父。吸血鬼たちは町の支配権を巡る抗争のチャンスを狙っている。そこにミラーグラスにスイッチナイフ、革ジャンの例の彼女がやってくる…、という「ま・さ・に」のストーリー。
いやいや、いい気晴らしになりました。<ソーニャ・ブルー>シリーズは、けっこうお気に入りなので点は甘いです。というか僕は、吸血鬼ものって、だいたい好きなんですよ。
読みながらふと思ったこと。菊地秀行『ヴァンパイア・ハンター"D"』シリーズは、もし英訳or アメコミ化されたら、けっこう向こうの吸血鬼モノとタメを張れるんじゃないでしょうか。少なくとも1巻は。
そう。イカれてる。もう、そうとしか言いようがないような話だ。時空がドーナツ状に繋がっていたら、というアイデア(もともとはノンフィクションとして出したということだから、その世界ではそれなりの考え方なのだろう。情けないことに僕にはよく分かりません)をSFにしたものだ。
で、イカれてるんだな、これが。この一言しか言ってないけど、僕には本当にそうとしか言いようがないSFでした。書評どころか感想文にもなってないけど、だって、イカれてるんだもん(笑)。
古き良き時代のSFにもこういう飛び方してたのがあったような気がして、懐かしいようにも思いました。
というのが「SPA!」に書いた短評原稿なのですが、ほとんどこのまんまです。どっちかというと、アメコミか、板橋しゅうほうあたりでマンガにしてもらったほうが面白いのではないかな。
あ、こう言っちゃうと小説がつまんないみたいだけど、そんなわけではありません。でも、一部のサイバーな人達が絶賛する(だろう)ほど面白いわけでもないな。帯には「これは、90年代の『ニューロマンサー』だ」ってあるんだけど、一年とちょっとで90年代が終わる頃にそんなこと言われても困るんですよ、一般読者は。
要するに、普通です。フツーフツー。ノリで一気に読み飛ばすのが吉。
だいたい、こんなストーリーの青春小説。30才を過ぎた男たち(と一人の女性)の、ひと夏の夢を描く。
というわけで、30ちょっと過ぎた人の心には非常に「響く」みたい。ぼくは、ラストにはちょっと心を揺さぶられたけど、それ以外は淡々と読んだ。要するに、大して感動はしなかった。
だって話があまりに「ウソ」なんだもん、というのも理由の一つかな。
この本と「スノウ・クラッシュ」を続けて読んだんだけど、両者ともタイプは違えども、僕には「ファンタジー」にしか読めなかった。それが悪いというわけではもちろんない。ただ、僕にとっては「夢物語」にしか読めなかった。そこ、つまりリアリティーが感じられなかったのが残念と言えば残念。でも作者の意図は多分そんなところにあったわけではなく、あくまで「青春小説」だったのだろうから、それはこっちの問題である。
ただし。「あまりにウソ」と感じたのは、素人が集まってロケットを上げるという設定や、登場人物がみんな「七人のオタク」みたいだとかといった点にあるのではない。
キャラが描けてないのだ、この小説。それぞれの登場人物が、まるでリアリティを感じさせない。こんな奴いねーよって人間しか出てこない。もちろん、「ウソ」なら「ウソ」のリアリティがあると思うし、そういうものを書くことは可能だと思うので、設定はこのままでもいい。だが残念ながら、作者の筆力が追いついていない。キャラクターが、感情移入できるだけの実在感を醸し出していないのだ。
なお、サントリーミステリー大賞優秀作品賞受賞作。なぜこれが「ミステリー」大賞受賞なのか理解に苦しむし(ミステリ的要素はほんのちょっとしかないし本質でもない)、はっきり言ってキャラが書けていない作品に賞とは、僕はちょっと納得いかなかった。
要するに、感動させなくちゃいけない話(青春小説)なのに、人間が描けてないというのは致命的じゃないかと思ったわけ。青春小説というのは、人物もしくはシチュエーションに共感させないとダメだからね。もし次作があるなら、そこらへんを何とかして欲しい。ふわふわした人間しか出てこないのでは、小説は読めません。
そこが良いという人もいるみたいだけどね。
感動するかしないか。あまりに当たり前だけど、そこが決定的な評価の分かれ目になる作品と言える。
ここまでタイトルと違うモノを収録するのならば、もうタイトルをこういう形にするのはやめた方が良いのでは?隔月「異形コレクション」とでもすれば良いのだ。本書にはがっかりした。「ラヴ・フリーク」は良い短編集だったのに。