これは本書の目次である。本書は、極限の環境における人間の生理学的な反応を説明しながら人間が生き延びる限界を探るものだ。
高いところに登るとどんなことが起こるのか。1862年、気象学者のジェイムズ・グレイシャーは気球に乗り、高度8500m以上の高さに上がった。おそらく1万1000mに達していただろうと言う。なぜ正確にわからないかというと、気圧計の目盛りが既に彼には見えなかったからだ。それどころか相棒の顔すらよく見えず、喋ることもできず、手足も麻痺してしまった。最後に彼は意識を失った。幸い相方が何とか気球を降下し、彼らはことなきを得た。
高山に登ると空気が薄くなることは誰でも知っている。肺の酸素分圧は大気中よりもさらに低くなる。肺の中で水蒸気が発生するからだ。そうするとその分、運べる酸素の量はさらに少なくなる。肺のガス圧のうち水蒸気による圧が占める割合は、高度ゼロでは6%だが、エベレストの山頂では19%になる。これに合わせて肺の中の二酸化炭素、酸素の分圧も変化するが、呼吸の量そのものが変化するので、直線的に変わるわけではない。
卵が固ゆでになり、ステーキが焼ける温度でも、人間は耐えられる。もちろん汗をかくからだ。汗をかくことで、およそ20倍の熱を放出できるという。普段、暑さを感じてないときでも一日に約0.8リットルの水分を汗として放出している。
体内の温度調節システムが狂う熱中症のとき患者の体を冷やす上で最も適切な方法は 、生ぬるい水に浸したスポンジで全身を拭うことだという。冷水に水を浸すよりも、水の気化熱で体温を奪ったほうが、よりはやく体を冷やすことができるのだ。冷水につけると、血管が収縮し、体の熱を運ぶ血液が体表に届かなくなってしまうのである。より重症の場合は、首やわきの下、足の付け根などにアイスパックをあてる。
水分が不足するとどうなるだろうか。砂漠で水分を一切取らず七昼夜の後、救出された人は、手足の筋肉は縮んでしわだらけ、唇は跡形もなく、聴力はほとんど失われ、目はまばたきもせず見開き、暗闇で救助隊のライトが見えないほど視力も失っていたという。 普通の人はこの前に死ぬ。
そのほかスプリンターの秘密や、スタミナの限界、宇宙飛行への道のり、岩石の中の生命、クマムシの話など。普段は気にもとめない体のメカニズム。それを自覚せざるを得ない極限状況での生理学的事実一つ一つが面白い。一般科学書の正統派的本だと言えるだろう。
著者は日本にも知人が多いようで、ところどころに挿入されているコラムの中でも温泉初体験のエピソードなどを紹介している。
「トウ差し」という牛の脳にしなりのある棒(あるいは藤)を差して牛を動かなくする作業がプリオン病の危険によって禁止されたとき、著者は「しかし、屠蓄場を見たこともない者がこの問題をどのように理解するのか」と問う。トウ差しが行われるようになった理由は、牛がバタバタして作業員をケガさせてしまう危険から身を守るためだ。だが、狂牛病の専門家たちは屠場での安全面にまで考慮しているわけではない。
また関連する調査の結果、ソーセージのなかには多くの脳や脊髄が含まれていることも分かった。多くの豚肉製品は、牛の腸で包まれていた。
そしてやがて、「いわゆる『狂牛』病」という表現が、カギカッコなしの「狂牛病」へと変わっていった。医学的、社会的、疫学的重大さが増せば増すほど、用語は大衆化し、普遍化していく。そして逆に、普遍化してしまうと、また世間からは不透明になっていく。
プリオンは「動物と人間とが利害や運命を共にして見えない糸で結ばれていることを、われわれに悟らせた」と著者は言う。本書を通読していてつらつら感じるのは、僕らは本当に世の中をブラックボックス化して生活しているということである。家畜がどのように育てられ、どのように屠殺され、どのように流通し、どのようにステーキになって目の前に並べられるのか、その過程をまるで見ていなかった。そのことを眼前に突きつけたのが狂牛病だった。
この本を読んでいて思い出したのだが、数年前に『ドキュメント屠場』(岩波新書)という本が出て話題になったことがあった。そもそも昔ならば、あの本が話題を呼ぶこともなかったはずだ。誰もが屠殺場のことを知っていたからである。だが現在の世の中では、見えないように見えないようにと工夫されている。「食」という大事なものでさえ。
関連
http://europa.eu.int/comm/food/fs/bse/index_en.html
78万年前に人類の祖先が出会ったはずの全地球的イベントをプロローグに据え、高校生の研究室訪問という形で地磁気研究を紹介していく。この手の物語形式の本は失敗していることが多いのだが、本書は比較的成功した部類に入る。まあやっぱり、「そんな質問する高校生いないよ!」と突っ込み入れたくなるところはあるのだが、そんなことどうでもいいくらい、本文の内容そのものが面白いのだ。
地球に地磁気があるのは地球の中心にある外核が液体でできて流れているからだ。溶けた鉄は大小の渦をつくりながら秒速1センチ程度で流れ、100兆アンペアの巨大電流を発電している。この電流は地磁気から逆に推定されたものだ。地磁気が変動することから、中心核の電流も変動していると考えられている。
さて、溶岩の中の鉱物を調べることで過去の地磁気の方向を調べることができる。どろどろの状態から固化するときに、岩石の中の磁性鉱物が周囲の磁気、つまり地磁気と同じ方向に磁化して固まるからだ。
地磁気は不変ではなく、ゆっくりと変化している。方向は10度から20度くらいの方向でゆっくりと触れているし、地磁気の強さはこの100年で約5%小さくなっていることが分かっている。さらに過去に遡って調べたことで、約2000年間で数十パーセント小さくなったことも分かっている(ただし現在の地磁気は平均からすると強すぎるので、平均に近づいているだけかもしれないという)。このゆっくりした変化を「地磁気永年変化」という。
ところが、あるときに地磁気が弱くなっていき、ついに反対向きになってしまうことがある。これが地磁気逆転である。地磁気の逆転という考え方が確立されたのは1960年頃だという。1950年代に色々な岩石の「磁化の獲得機構」が研究され、そのうえで過去の地磁気が復元された。そこで、地磁気は逆転したという説と、逆転はなかったという考え方の衝突が起きた。
反対向きに磁化しているものがあったからといって、そのまま地磁気が逆転したということにならなかった理由は、火山岩のなかに自己反転残留磁化という性質を持つものがあることが分かったからだ。要するに地磁気と反対方向に磁化するのである。この性質は実験室でも確認された。地磁気逆転派は自己反転残留磁化はまれにしか起こらないと反論し、そのための戦略を立てた。彼らは火山岩の放射年代測定を世界中のサンプルで行った。同じ年代に逆向きの磁化を持っていることを示すことができれば、それは地球規模の現象であり、地磁気逆転の証拠である、というわけだ。こうして、400万年前から現在に至るまでに、何回も地磁気逆転が起きたことが分かったのである。現在では、1億6000万年の間に300回くらいの地磁気逆転があったことが分かっている。およそ50万年に一回だ。自己反転残留磁気の研究者は「磁化の獲得機構という物理学的な側面に気をとらわれすぎていて、もっと地球規模の現象に目を向けるべきだった」と言っているそうだ。個人的には本書の中で、この章が一番おもしろかった。やはり科学の面白さは仮説立論・検証の繰り返しにある。
さて、78万年前の地磁気逆転はどんなものだったのか。堆積岩の残留磁気を調べることで、ほぼ180度変わるのに必要だった機関は長く見積もっても300年ほどであったと分かっている。実際にはパツンと逆さまになるわけではなく、ふらふらと大きくふれて最終的に反転してしまった過程も現在では復元されている。棒磁石のようなイメージではなく、電磁石としてイメージすれば、電流がだんだん小さくなって、やがてゼロになり、今度は逆向きに電流が流れはじめ、磁場のNとSが反転すると考えれば分かりやすいと本書では説明している。もちろん、完全にゼロになるわけではない。地球内部の電流は大まかに言えば自転軸のまわりに流れていて、それが自転軸方向の双極子磁場を創っているのだが、実際にはもっと渦を巻いている。それらの磁場は逆転中も残っている。そのときは磁極が二つ以上出現することもあるので、赤道でもオーロラが見えるといったことが起きるかもしれない。
磁場がなくなるとどんなことが起こるのだろうか。生物圏には、どうもあまり影響はないらしい。ただし、地磁気バリアがなくなったために宇宙線が増え、それに伴ってベリリウム10という元素が増えたりしたことは実際に観察されている。
地磁気は逆転だけではなく、短い期間に大きくふらつくことがある。「地磁気エクスカーション」というそうだ。ある時期に90度くらい大きくふれて、また戻ってくるという現象だ。エクスカーションとは、遠足とか、周遊旅行という意味で、ちょっと遠出をして戻ってくるという言葉だという。もちろん短いとはいっても地球の尺度から見た場合の話で、1000年といった単位だ。つい最近では3万年前、ちょうどクロマニヨン人に人類集団が変わったころに起こった。そのときは地磁気は現在の1/5程度しかなかったという。他にも4万〜5万年前にもエクスカーションが起きたことが分かっているという。
上記のように、平均して50万年に一回程度の地磁気逆転が起きているのだが、ここ78万年の間には起きていない。だが、もっと長い期間、逆転が起きなかった時期があった。白亜紀、約1億2000万年前から8000万年前の4000万年間は「白亜紀スーパークロン(超磁極期)」と呼ばれ、まったく地磁気逆転がなかった期間として知られている。しかも当時は、地磁気が現在の2倍(過去500万年の平均からすると4倍)もあったという。つまり地磁気がそれだけ安定していたということだ。地球の中はどうなっていたのだろうか。白亜紀はプレートの運動も非常に大きく、当時は全地球的にマグマ活動が盛んだったことが分かっている。つまり地球の中の対流が活発であったと考えられる。その結果、核も影響を受け、活発な対流運動が起きていたのではないかと考えられているという。
現在、著者らは他の惑星の磁場や月の磁気異常を調べようと考えている。火星や金星は磁場を持たないのだが、過去はもっていたかもしれない。また木星や土星などは金属と化した水素によってダイナモ作用が働いている。磁場を調べることで、各惑星の成因や内部構造、惑星進化一般の秘密を探ることができるのである。
なお天体でダイナモが働くためには1)電気が流れやすい部分があること、2)その部分が溶けていること、3)溶けている部分が流れることの3つの条件が必要だ。最初にわずかに磁場があるところを金属が動くと電磁誘導で電気が流れる。その電流が新たな磁場を生み、その中を金属が動くことでさらに大きな電流が流れる。そういう理屈だ。現在では地球内部をシミュレーションすることで、南北方向に伸びた渦がどのように創られるか、そして地磁気逆転がどうして起きるのかが研究されている。中心核の流体運動と磁場を同時に考えたモデルでは実際に地磁気逆転も起きたという。このへんは、できたばかりの地球シミュレータも活用されるのだろう。
というわけでこんな内容。内容をベタに紹介するに終始してしまったが、面白いので、是非ご一読をおすすめする。
突っ込みどころ満載のエピローグはご愛敬。
本書は、人工臓器の現状と開発の歴史を総覧できる本。人工耳、コンタクトレンズ、角膜、網膜、人工神経、人工関節、人工歯、人工腸管、人工肺、人工血液、人工心臓、人工血管、腎臓、肝臓、脾臓、皮膚、硬膜、乳房、ペニス、毛髪に至るまで、ありとあらゆる全身の臓器・組織を置換するための技術の現状や問題点を知ることができる。
これだけ幅広く人工臓器を、しかも手軽に総覧できる本はないと思う。興味があれば必携の一冊だ。一言で人工臓器といっても再生技術を利用したものから純粋に工学的なものまで、実に多種多様であることが分かる。数字もいろいろ挙げられていて資料としても便利だ。
人はなぜミイラに惹かれるのだろうか? 本書はミイラ研究者が集う「ミイラ会議」に出席したことを契機としてミイラの世界、「生者と永久不変の死者とのあいだの親密な関係」の謎にハマったジャーナリストが描く、ミイラ学のはなし。もちろん、ミイラそのものの製法の話や、ミイラから発見された麻薬使用の痕跡をめぐる学問的騒動、かつて薬や絵の具として使われていたミイラの話、キリスト教で聖人とされる「朽ちない死体」、日本の即身仏の話なども扱われている。登場するミイラは実に多種多様で、よくこれだけミイラとミイラ研究者にあたったものだと呆れるほど。ミイラの消化管の寄生虫専門の研究者の話などはやはり面白い。
だがやはり中核は、なぜ人はミイラにこれほどまでに惹きつけられるのかという疑問だ。ミイラは今でも考古学界のポップスター的地位を維持し続けている。それはどうしてなのだろうか。覗き見根性やグロテスク趣味も当然あるだろう。だがそれだけなのか。
著者は死体をまく布をはぎ取っていく行為を見物しながら、死者への冒涜という嫌悪感を感じつつ、高まる一方の好奇心を感じる。
……この好奇心はそれよりもはるかに本能的で、じりじりと迫ってくるものだった。それは太古の死者とつながりをもち、時のトンネルのようなものをくぐりぬけてみたいという生来の願望だった。歴史の知識や紙に書かれた味も素っ気もない言葉を超えて、見知らぬ世界に生きていた人とじかに接してみたいという欲望である。(中略)ミイラはどう見ても絶対に人間であり、一個人である。そおの男性ないし女性が、虚ろな目で私を見つめていようと問題ではない。私は時間という障壁の下に潜り込み、失われた世界との境界線を超えてみたかった。(55ページ)王、独裁者、聖人、そして歴史の偶然によって、たまたま永久に保存されることになった人々。多くの人がミイラとなって残っている。ミイラには、「永遠」に憧れる人の願望が投影されている。同時に、発掘した現代の人々も、永遠をミイラに見るが故に、ミイラに惹きつけられる。ミイラは、人の願望の象徴であり、具象である。だが同時に、限られた時間しか生きられない人の哀れさをも象徴した、アンビバレンツな存在でもある。永い時を経ても姿を留めてはいるが、二度と返らぬ時間の象徴。だが、現在に自らの存在を主張する「過去」。それがミイラなのだと思う。
カラー口絵14ページ付き。一番最後の、幼い子供のミイラの写真には、やはり胸をつかれる。時を経ても変わらぬ、普遍的な気持ちが残っているのかもしれない。
低タール煙草は体にいいと信じている人。宿便取りを信じている人。そういった人を笑う人でも、薬物の代謝を遅くする作用のあるグレープフルーツとクスリを一緒に飲んでいたりするし、虫歯は母親から感染ることが多いことは知らなかったりする。
逆にアスピリンが血小板凝集抑制作用があり、現場では結構使われていることもあまり知られていない。血栓ができやすい人は飲んだほうがいいのだけど、そのことを知らされるのは発作を起こしてからだったりするのだ。抗血栓薬として長期間服用する人は100ミリグラム/一日が普通だそうだ。バファリンなどは500ミリグラムなのでそのまま飲むと多すぎるし、小児用バファリンの成分はアセトアミノフェンなので抗血栓作用はないとのこと。やはり心配な人は医者でちゃんと処方してもらったほうが良さそうだ。
本書は、その他、夏バテ太りすることもあるとか、最近「隠れ乱視」の人が多いとか、アジア人のほうが糖尿病のリスクが高いとか、カレーライスは高齢者におすすめといった面白話の類もいろいろ収録されている本。
健康観は人によって違う。日々の生活や嗜好が違うのだから当然だ。取りあえずできるだけ正しい情報を仕入れることが必要だけど、それをどう判断して生活に生かすかは人それぞれだ。これが正しいといったものはない。必要なことは、自分にもっともあった健康観を確立することだ。
どういうことかというと、ゴールまでの距離を25m、スピンは毎秒8回転程度、スピードは時速70km程度だとする。選手の「壁」は身長180センチで、ボールから9.15m離れた位置に並んでいると考える。ボールはディフェンダーの壁を超え、ゴールに収まる必要がある。そのためには18度〜30度程度の角度をつけてボールを蹴り出せば良いという結果が出てくるのだという。
ところが、プロだとそうもいかない。ゴールキーパーの腕をかいくぐるためには時速100km程度が必要になるのだそうな。で、エネルギーは速度の2乗に比例するのでボールにその速度を与えるためには、30km増しの場合、ほぼ2倍のエネルギーが必要になる。さらに問題は、その速度では最適な蹴りだし角度は15度〜17度へと、一気に許される誤差が1/6になってしまうのである。実際には選手は180センチよりデカイこともある。そうなると許される誤差はより小さくなるし、さらにどこへ蹴りこむかという問題もある。というわけでプロは大変なのだ、という話から本書は始まる。
あとの内容はだいたい予想どおり進む。キック動作においてボール速度に及ぼす体のしなりやスイング速度の問題、インパクトの瞬間、足首は固定したほうがいいとか、ボールのカーブの話、それをコントロールする微妙なインパクトポイント、飛んできたボールをピタリと止めることができる理由、プロのドリブル、トッププレイヤーの眼球運動、エトセトラエトセトラ。
確かにタイトルどおり本書に挙げられたような知識を知っていれば「見方」が変わることは間違いない。たとえば、人間が反応するまでにかかる時間は200ミリ秒。時速110kmのボールが200ミリ秒に進む距離は6m。だから至近距離からのシュートに対応するためにはボールが蹴られるのを見てからでは間に合わない。事前に反応しなければ無理だ。では、PKのとき、キーパーがもっともセーブしにくい場所はどこだろうか。本書によれば、高さ1.9mの位置の到達時間は0..92秒であり、0.95mだと0.87秒、0mでは0.96秒だという。つまり上に蹴られた場合と地を這うようなシュートの場合とでは、0.04秒の差が出るということだ。時速90キロのシュートだと0.04秒の間にはボールの移動距離にして1mの差が出てくる。これが決定的な差になることは言うまでもない。
後半はストイコビッチ(ピクシーという愛称のほうが知られているか)のインサイドキックと、日本人の蹴り方の違いの話。
ま、基本的に悪くない本なのだが、敢えて挙げておけば本書の問題は、著者たち自身がサッカーファンだということ。ストイコビッチとの2ショット写真などはまあご愛敬なのだが、サッカーファンであるだけに、ある選手のプレーを紹介するときに、最初から「驚異的だ」と言ってしまうのである。だがサッカーファンでも何でもない僕のような人間からすれば、許される誤差範囲が何度であろうが、それを実現するのがプロなのだから、そんなの当然だろとしか思えない。一般人にできなくてもプロができるのは当たり前。せいぜい「ふ〜ん」という程度である。人間は訓練次第でかなりのことができることはみんな良く知っている。その能力がどれに発揮されるかが人によって違うだけだ。「驚異的」という表現では何が驚異的なのかさっぱり分からない。
また、著者らのサッカーの研究が、他に応用が効くものかどうなのか分からないところも科学の本としては不満が残る。たとえば同じ岩波科学ライブラリに入っている姫野龍太郎の『魔球をつくる』は、変化球の科学を解説した本だが、流体力学の面白さを感じさせてくれる本でもあった。実際、姫野は血管内の血液の流れをシミュレーションし動脈瘤の手術などに応用するという研究もしている。この本の著者らの研究は、サッカー以外に応用が効くのだろうか? まあ、そんな疑問はあるものの、サッカーに多少興味がある人ならば、読んでもいいだろう。
基本的な内容は前著と同じようなものなのだが、海洋生物の話や、ホエザルが交尾の前後に普段は食べない植物を食べることがあり、それでオスメスの産み分けをしているのではないかといった、他の研究者による話なども今回は収録されている。
人間の血を吸うトコジラミが化膿の治療に使えるとか、関節炎の治療にアリ毒が使えるといった話は相変わらず面白い。また、冬眠して動かないクマはどうして骨粗鬆症や床擦れ、尿毒症にならないのだろうという話も、言われてみれば思いつく不思議な話である。いつかその謎が解明されれば、多くの寝たきり患者に恩恵がもたらされることになる。自然の不思議や恩恵は、シャーマンがいるような森にだけあるわけではない。新薬発見の話も面白いが、身近なところに疑問を抱いてみるという視点を得られるところが、こういう本の特徴ではないだろうか。
本文の前に訳者二人による<解説>がついている。人類進化に関する本を読む際にどうしてもひっかかる、人類種の名前や分類、おおざっぱな歴史が解説されていて、非常に有り難い。なにせ化石の解釈がしょっちゅう変わる業界なので、読むこちらは、現在、主流の学説がどれなのかすらいまいち分かりづらいのが正直なところ。また発見が続く業界でもあり、研究者たち自身にも、いつ重要な化石が発見され、人類進化の系統樹がどう変わるか分からないという。というわけで、この解説だけでも目を通す価値がある。
というわけで、まえがきから借りて人類進化の歴史をおさらいしておこう。なお実際の本書には図がついているので、本を読んでもらったほうがいいことは言うまでもない。
さて、まず一番重要なことは、人類進化は「猿人→原人→旧人→新人」と段階的に進んできたわけではないということである。現在の認識では、実際には多種多様な人類種に分岐し、分散し、多くが絶滅した結果として、今日のホモ・サピエンス・サピエンスがあるのだということになっている。
その間には三回の大きな分岐・放散があったという。
第一は600〜500万年前。前人類(猿人)が誕生した。直立二足歩行をしていたが、脳は類人猿と同じくらい小野400立方センチメートル程度。少なくとも5つ以上の属(オルロリン、アルディピテクス、アウストラロピテクス、パラントロプス、ケニアントロプス)があり、さらにそれぞれに5つ以上の種があったらしい。
第二は300〜200万年前。アウストラルピテクスの一種から、いわゆる原人と旧人に対応する初期のヒト属(ホモ属)が誕生した。だいぶ足が伸び、脳容積が600-800立方センチメートルへと拡大した。アフリカ、ユーラシアへと拡散していった。ヒト属は8種を含む(ルドルフェンシス、ハビリス、エルガステル、エレクトゥス、アンテセソール、ハイデルベルゲンシス、ネアンデルターレンシス、サピエンス)。
第三は20〜15万年前。アフリカでホモ・サピエンスが誕生し、世界中に急激に放散していった。
だいたいこのように考えられているという。著者のコパンは、1975年にエチオピアのオモ川の堆積層の化石を分析し、300万年前から気候の乾燥化が進み、それを多用な食物を獲るという戦略で乗り切ることでヒト属が誕生したという仮説を提唱した。この乾燥化を「オモ事件」と呼んだのだが、最初は受け入れられなかったという。だがやがて多くの研究によって支持されるようになり、ヒト属誕生に気候乾燥化が影響していたと認識されるに至った。
また、アウストラロピテクス類が誕生した理由、ゴリラたちと人間とが別れるに至った理由を、アフリカ大地溝帯の東側の気候が乾燥し、森林が草原へと変わったからだという仮説を1982年に発表した。「イーストサイド・ストーリー」と名付けられた仮説はマスコミでも大きく扱われた。この仮説には東大の諏訪元らによる反論もあるが、それなりにエポックメイキングなものとなった。
その他いくつかポイントがあるのだが、あとは本を読んでもらいたい。
有名なルーシーだが、身長1.1〜1.2m程度、体重は20〜25kg程度、脳湯関は400立方センチメートル未満といったことは、意外とイメージされてないのではないだろうか。ルーシーは腕も随分長い(というか足が短い)。要するに直立はしていても、「サル」だと思ったほうがイメージとしては合っているのだ。その辺を発見者自らの筆で確認できるのが楽しい。
要するにこの著者の言うことは単純だ。無駄を省けば企業にとっても得になるし、当然、環境にもやさしくなるというわけだ。だが、それで「利益」が出るのは一時的なものでしかないことは明白。少なくとも企業というものが成長を求めるものである限り、この著者の理屈だけでは無理だ。
前半の講義はそれなりに面白いが、タイトルの内容に至るまでが長すぎ。それでもちゃんと実質が着いてきていれば問題なかったのだが。とにかく期待値が高かったぶん、がっくり。
なお「5つの方法」とは、以下の5つである。
本書の内容はこれに沿っている。最後の、安らかに死ぬ人の話をもうちょっと考察してもらいたいような気もした。
「ES細胞」という言葉の知名度は、科学や医学に興味がある人の間では高いが、一般にはまだまだ知られてないらしい。そこで、本書の内容を引っ張って、少し丁寧に解説してみよう。
ES細胞はいろんな種類の細胞に変化させることができる細胞である。しかも無限に増やすことができる。たとえば糖尿病の治療のために膵臓の細胞を作ったり、視力を回復させるために網膜細胞を作ったり、脳の利用のために神経細胞を作ったりすることが、遠くない将来、できるようになるかもしれない。そのため、万能細胞、夢の細胞として研究が活発にすすめられている。
ではそのES細胞はどこから取るのか。ES細胞は「胚性」の幹細胞である。胚とは要するに発生の進んだ受精卵だ。ES細胞は100個程度の細胞からなる「胚盤胞」という段階まで発生が進んだ胚の中の「内部細胞塊」の細胞群を取り出し、フィーダー(給餌)と呼ばれる細胞の上で培養してやることで作られる。内部細胞塊は胎児の身体を作る細胞である。ほうっておけば各種組織の細胞へと文化するので、培養液には「LIF(Leukemia Inhibitory Factor)」という因子を加え、分化を止める。
ヒトの場合は、当然ヒトの受精卵を使わなければならない。具体的には、不妊治療のための凍結胚から取り出すことになる。
ここまで言えばもう分かるだろうが、ES細胞には倫理面の問題がある。というわけでこの本は、そのへんも含め、研究の流れと将来の可能性を解説し、一般に理解を求める内容となっている。
ES細胞は1981年に、イギリス・ケンブリッジ大学のエヴァンス、カウフマンの二人によってマウスから培養された。ほぼ同じ頃に米国のマーチンも同様の論文を発表、確認された。これ以前に、未分化のまま増殖する細胞としては、卵巣や精巣に発生する悪性腫瘍から培養された「胚性腫瘍細胞(EC細胞)」というものが知られていた。これは要するにガンなので染色体に異常がある。ガンになった細胞だけが未分化のまま増殖を続けると考えられていたのだが、ES細胞は正常な染色体を保持したまま、増殖し続けることができるのである。しかも、正常な胚のなかに戻すと、胚細胞としてふるまい、成体は細胞が混じり合ったキメラとなることが確認された。ES細胞は、長期培養のあとも正常な胚細胞としての性質を維持し続けると分かったあのである。
その後、1995年に米国のトムソンによって霊長類のES細胞が作られた。続いて彼らは1998年にヒトのES細胞株樹立に成功。こうして、俄然、医療への応用が期待され始めたのである。本書は、上記のような研究の流れや、著者らのサルES細胞株作り等を通して研究の実際を伝えてくれる。
もちろん実際には簡単に応用できるわけではない。まず、ES細胞から作られるのは細胞であって臓器や組織ではない。組織構造を試験管で作り出すことは今後も難しいだろうと著者も言う。できるのは「せいぜい単純なシート構造、管構造や球構造に近いものにすぎない」という。ある程度大きな組織構造作りには、ハイブリッド再生医療のような複雑なテクニックか、より難しいテクニック−−たとえば動物の体そのものを工場として使うようなテクニックが必要となる。たとえば、こんなの。
……まず、目的となる臓器が欠損するような遺伝子改変ブタを作ります。その胎仔またはもっと早い時期にヒトES細胞を注入します。受け入れ側のブタの細胞は目的の臓器をつくれませんから、この胎仔の中では、ヒト細胞だけからできた、目的の臓器ができる可能性があると考えられます。(63ページ)もちろんそんなに簡単ではないし、内在性レトロウイルスの危険性もあると本書でも続けられている。
サイエンスとして面白いのは、もう一つの多能性幹細胞、EG細胞だ。生殖細胞への分化をはじめた始原生殖細胞が脱分化(分化した細胞が元の状態に戻ること)した多能性幹細胞となったものだ。1991年に発見され、1998年に細胞株が樹立されている。
このEG細胞は、ES細胞と似ているが、生殖細胞の性質を残しているために、一部違う。つまり、ES細胞、EG細胞、そして始原生殖細胞の3種の遺伝子発現その他を比べることで、生殖細胞という不思議な細胞の本質に迫ることができるかもしれないのである。
本書は、専門用語やカタカナが頻出し、少々読みにくい。だが、今後、ES細胞を応用した医療が実現する日もそう遠くない。ある程度のことは知っておくべきだ。
みずほファイナンシャルグループが今年4月に引き起こした情報システム障害の真の原因はいったい何か。1999年のみずほグループの経営統合発表記者会見の場で三銀行の頭取は統合後は情報システムを重要視し、米国銀行並みにIT投資を行うと発表していた。ところが実状は無茶苦茶だった。なぜそんなことになってしまったのか。本書は雑誌「日経コンピュータ」編集部がシステム統合失敗の原因を探り、また事故が繰り返されぬよう緊急出版された本。
3部構成になっている。まず弟一部は、今回の情報システム障害はどんなものであったのか、直接原因は何か、なぜ防止できなかったのか、その後の二次トラブルの発生まで、大手マスコミも書き立てた体制の問題等を解き明かしていく。直接的な諸悪の根元は、三行の情報システム部門に統合計画を策定させたことだったという。つまり「現場まかせ」にしてしまったことが今回の事態を招いたのだと説く。おまけに各銀行システムの不毛な機能比較から始まった、方針迷走の過程を再検証していく。事実上、最後の最後まで迷走のままゴールへ飛び込んでしまったことがよく分かる。
第2部は、みずほ以外の銀行の情報システム統合ケースのルポルタージュである。成功した事例、失敗した事例、双方の取り組み例を紹介し、統合を成功させるための「勘所」を探す。
第3部は教訓。「システム障害と闘う」と題され、人材の払底やシステムが分からないトップへの警鐘と、今こそ「プロジェクトマネジメント」が必要だと訴えている。
プロジェクトマネジメントとは、納期、コスト、品質だけではなく、プロジェクトの範囲、投入すべき人的資源、メンバー間のコミュニケーション、リスクまで、統合的にマネジメントしていくことだという。確かに今回のケースは、プロジェクトマネジメント欠如の最たるものかもしれない。
みずほ内部に不毛な対立があり、システム統合が二転三転したことは既に新聞報道等でもよく知られている。では、なぜそんなことになったのか。まず、みずほにはシステムが分かる役員がいなかった。とりあえずCIO(チーフ・インフォメーション・オフィサー)の肩書きを持つ役員はいたが、途中で何度も人事異動があった。おまけに実際に勘定系システムの開発を担当したことのあるCIOはいなかったとういう。つまり事実上CIOは不在に等しかった。さらに三行の情報システム関連会社は、未だに統合・再編されていないという。
にも関わらずCIOは「大丈夫」と宣言していた。どこをどう見て大丈夫だと思っていたのか、不思議な気持ちすらしてくる。
情報システムはインフラである。だが水道や電線のようには目に見えない。そこを当事者までが「分からない」ままの状態で放置していたこと、それが今回の事件の遠因なのではないかと思えてならない。
そういう意味では、もうちょっと「銀行の情報システム」そのものについて、詳しく書いてもらいたかった。その部分が残念。