老朽化し、停電などは当たり前、火災が発生したり、冷却剤が漏出したり、ハッチがしまらくなったり、さらにはニアミスまで、次から次へと事故が起こり続けるオンボロ宇宙ステーション・ミール。
念のため繰り返すが、全ては宇宙ステーションの中での出来事である。宇宙ステーションで停電…。それだけでおおよそ信じられない出来事に思えるが、本書をめくると、しょっちゅう停電しているのだ、本当に。ほとんど笑うしかないような話が次々と続いていく。
ミールを巡るトラブルは下巻で描かれるプログレスとの衝突事故で頂点を迎える。ここではっきりした米ロ双方の宇宙に対する考え方の違いが面白い。まったくあてにならない地上斑。自らの機転で危機を乗り越えざるを得ない米ロ双方のクルー。それぞれの組織の動き。政治家・官僚たちの思惑。実に赤裸々に宇宙開発の裏舞台が描かれている。
著者バロウは、以上のような出来事をリアルタイムに関係者らに直接インタビュー、本書を構成している。描写はまるで「見てきたようなことを言い」という感じでともすれば過剰演出にも見えるが、事故時の緊迫感やクルー達の驚きを生々しく表現することが大きなウリの一つである本書に関しては、十分成功していると言える。
ただし「表」を知らないと「裏」は楽しめない。本書は詳細な描写があだとなり、「表」がやや見えにくくなっている。できれば「表」の状況もちょっと勉強してから読めば、本書が単なるゴシップ本ではないということが分かるかもしれない。
もっともかく言う僕も、それほど表の話を知っているわけではないのだが十分楽しめたのでオッケーかも。
悪くいえばいい加減、良く言えばタフなロシアの宇宙開発は今後どうなるのだろう。原書が出た時点では、ミールは1999年に大気圏に突入させられるはずだった。だが、ますます老朽化しつつも未だしぶとく飛び続けている。まさに、あれこそロシアの宇宙開発のタフネスの象徴なのかもしれない。
どこを刺しても血が出ることから分かるように、われわれ動物の体をメッシュのように多う血管は、内膜・中膜・外膜の3層から成り立っている。ほとんどの人工血管は一層から出来ている。これは体の中に人工血管を植え込むと、周囲の組織が人工血管を取り囲むように成長させるためだ。つまり人工血管は中膜の代替物として作られている。
ではその実体は何かというと、ダクロンやテフロンといった合成繊維による織物なのだ。本書にはあちこちに人工血管の顕微鏡写真が登場するが、本当に織物なのである。メリヤス織りや平織りにされている。そして、ほんの少し水が漏るように作られている。血液が全く染み出さないと、人工血管の周囲を多う生体の組織が生きられないからだ。組織が生着しやすいようにという工夫なのである。
現在では人工血管の編み目は血液であらかじめ埋められてから使われているが、骨髄がかなり役に立つということが分かって来つつある。将来は心臓の血管のようなごく細いものも人工血管で手術できないかと研究中とのこと。
人工血管の歴史が極めて古く、19世紀素には象牙、マグネシム管、アルミニュウム、金、銀、さらにはガラス管なども人工血管の候補として研究されていたという話には少々驚いた。
また著者自身が立ち会っていた昔の人工血管手術の様子──執刀医が動脈の太さは何ミリというと、側に控えていた著者らがそれをスケッチ、すぐさま隣の部屋で待機するおばさんが、ワイシャツ生地のナイロン布を裁断、それを消毒して使っていたというのだから、これまた色んな意味でびっくり。時代の進歩は大したものだ。
読者対象が誰だか今ひとつ分からないが、僕はけっこう楽しめた小冊子だった。
可逆現象にはどんなものがあるのか。物質を構成する原子や分子の通常の動きは可逆である。時間が逆に流れるわけではないが、その運動のようすは、順再生した場合も逆再生した場合も区別がつかない。これは実際確認されている。
ここでおかしなことが起こる。可逆な運動をしている原子・分子から構成された巨視的な物体の運動は、なぜ不可逆なのか? 可逆な運動をベースにしつつ、不可逆な運動を説明するにはどうすればいいのだろうか? これを「不可逆性の問題」と呼ぶ。
本書はこの問題の実体を明らかにし、「ギッブスの統計集団」と「カオス」の二つの概念から不可逆過程が生じることを証明すしようとする本である。微視的運動がカオス的であれば巨視的現象からは「時間の矢」が生まれるとする。
…のだが、私はどうも、本書の肝心の部分の内容が読みとれなかったような気がする。どうも、理解できた気がしない。そのうち再読することにするので、現状ではこの本の評価はお預け。取りあえずウェブのやり方に従って「自分にできないことは他人に任せる」ことにする。というわけで他の人よろしく。
ウミウシは後鰓類と呼ばれる軟体動物の一種である。巻き貝の仲間だが、貝殻はない。貝殻がないから、実に多種多様な色や模様を持つ。文字通り「殻破り」だと著者は言う。
ウミウシはぶよぶよしていて如何にも弱そうだ。だが食えない。なぜならまずいからである。なぜまずいのか。その秘密は彼らが食うエサにある。ウミウシは海藻や付着動物を食う。だが彼らとて黙って食われているわけではない。実は彼らウミウシのエサ自体がマズイのである。つまり様々な防御物質を作り出して身を守っているのだが、ウミウシはそれをものともせずに食ってしまうのだ。
しかも、ただ食うだけではない。なんと、付着動物たちが作る防御物質を体の中に選択的に蓄えて、自分自身の身を守るために転用してしまうのだ。中でもすごいのがミノウミウシ類による盗刺胞である。読んで字のごとし、刺胞動物が作る毒液を備えた針付きカプセルを盗んで我がものとしてしまうのだというから凄い。その選択ならびに運搬メカニズムなどは不明だという。
しかしそれに環をかけて凄い奴もいる。なんと葉緑体を盗んで利用してしまう奴までいるのだ。嚢舌類の一部は、エサの海藻から葉緑体を取り込んで使うのだという。海藻をちぎりとるような食べ方をする連中なのに、どうやったらそんなことができるのだろう。生き物は本当に不思議だ。
後半は、ウミウシの発生や進化の話になる。ウミウシの幼生は巻き貝によく似ている。しかも面白いことに、いちど巻き貝のようにねじれて成長した体を、変態のときになると逆にねじり直して、あの姿になるのだという。「ねじれ戻り」と言われているそうだが、この角度の違いによってウミウシ類の多様な姿が生まれるのだという。まさに進化はアリモノを適当に組み合わせて使うやりくり仕事だという一つの証拠のようで面白い。
本書は毎日新聞の記者である著者が、ゲノム計画前夜からの遺伝子研究の模様ならびにその知見を探り、様々な倫理的社会的法的問題(ELSI : Ethical, Legal, and Social Implications)を少しだけ考える本である。著者自身の遺伝子治療・遺伝子診断への態度調査の結果もレポートされている。面白いことに遺伝学関連の知識が高いほど肯定イメージが低く、慎重な態度が形成されているという結果が出たそうだ。
本としてはごくごく普通なのだが、極めて広範囲にわたる遺伝子関連の問題をコンパクトに網羅しているし、日本のいろいろな研究者達にもインタビューしている。ちょっと高めだが「お買い得」と言えるのではなかろうか。
この本では、という本。うーむ。難しいなあ。という感想。いろんな意味で。
「害虫はなぜ生まれたのか」
「農薬はどんな問題を引き起こしたか」
そして
「農薬にかわる防除方法はいったいあるのか」 という素朴な疑問に答えてみたい。(<まえがき>より)
ウンカという昆虫がいる。田舎の人なら誰でも知っている稲作2大害虫の一つで、小さいセミみたいな奴だ。この虫の最初の大発生の年表を作った人がいる。すると西暦1600年代までは、ウンカの大発生はたまにしか起こっていなかったと分かった。1700年以降、いったい何が起こったのか。
稲作技術が大きく変わったのだ。それまで田は人力で耕されており、肥料は堆肥が中心だった。ところが元禄年間(1688〜1703年)に入ってから、牛や馬を農耕に使うようになり、肥料もイワシや油粕などに変わった。その結果米の収量が増えた。そしてウンカの大発生も起こりやすくなったのだ。
もう一つの大害虫はメイチュウである。こちらは蛾で、幼虫が茎を食い荒らす。戦後日本では、窒素肥料の投入、早植えの増加、これらによって米の収量は増えた。そして収量を増やすため茎の太い品種も増加傾向にあった。その結果、メイチュウが増えた。ところが減反ならびに消費者の嗜好の変化によって茎の太い品種は減少に転じた。するとメイチュウの数は減っていった。
もともと「害虫」という虫はいないのだから当然といえば当然だが、害虫の増減は人間自らの行動に大きく影響されているのである。つまり害虫は「自然に発生するものというよりは、むしろ、作物の栽培条件を通じて人間がつくり出してきたものといってもよいのではないだろうか」と著者はいう。
「人間の活動が必然的につくり出してきた」害虫。本書はその害虫との闘いの当事者でもあった著者の手になる本である。著者は『害虫殲滅工場 ミバエ根絶に勝利した沖縄の奇跡』(小林照幸、中央公論新社)、『農薬なしで害虫とたたかう』(伊藤嘉昭・垣花廣幸著 岩波書店)の2冊にある「不妊虫放飼法」の話、あの当事者の一人でもある。本書でも一章が割かれている。
「虫送り」の話から始まり、注油駆除、奇跡の薬と呼ばれたDDT、パラチオン中毒、そしてレイチェル・カーソン『沈黙の春』の出版など、激動の当時の模様を、研究者として走り始めたばかりの視点を想起しながら書かれているので、現在の若い研究者にも興味深く読めるのではなかろうか。
研修に行ったときに「君はいつまでアワヨトウの研究を続けるつもりなのか」と言われて「頭をガンとなぐられたような気がして、一言も返事ができなかった」というエピソードは、当時の農学と農業の状況を端的に示しているようである。
そのほか、天敵などを利用する話は素朴に面白い。
ただ、難しいなあと思ったのは、以上のような話だけを読んで感じたことではない。著者は最後にこう語る。
農産物を工業製品のように生産し消費するという現在の農業を考えなおす時期が来ていると思うのである。農業は自然の力を利用して成り立っている産業である。自然条件は一定不変ではない。その中で生産される農産物はある程度ふぞろいになることは避けられないであろう。土地によって季節によって、異なる自然条件のもとで、病害虫のなるべく出にくい農産物を生産するならば、農薬の必要性はいまよりはるかに少なくなるに違いない。それによって、天敵など自然の防除力に頼ることもできるようになり、私たちの提唱する「総合的害虫管理」もいっそう容易になるに違いない。正論である。しかも、長年害虫防除に携わってきた人の実感がこもった正論だ。だが、なかなか難しいだろうなあと思うのは僕だけではないだろう。おそらくこれは、著者自身の「願い」あるいは「夢」でもあるのだろうが…。
このように農薬使用を前提にした工業のような農業生産から、自然の力をもっと利用する農業生産に切り替えることが、これからの害虫防除への道であると私は思うのである。
ニューメキシコ、ロスアラモスとサンタフェ。新旧二つの研究所がある場所。そしてニューメキシコは昔から「インディアン系、ヒスパニック系、アングロサクソン系の3文化」が入り交じった土地柄である。いまやそこには、さらに科学と芸術が加わり、思想の混沌の地と化している。宇宙はどのように誕生したのか? 生命とはいったい何か? 進化とはなんだろうか? 意識はどのように生じるものなのか?
本書では素粒子物理、宇宙論の研究が という視点で語られたのち、ロスアラモスとサンタフェ二つの研究所の成果が、主に「情報」という視点から紹介される。そして最後にはやはり情報をキーワードに、生命進化の道筋が語られる。
本書は科学研究現場の紹介の形をとった本だ。だが、先にも述べたように、本書は実際には「科学書」というよりは、サイエンスライターである著者自身の、思想の遍歴の本である。ニューメキシコという思想の混沌地における、サブカルチャー遍歴の旅だ。著者は、科学やネイティブアメリカン達の物語の中から、混沌とした世界から「秩序」を読みとろうとする点において共通点を感じている。「それは何かの偶然でこの宇宙に産み落とされた者が、自分の居場所を見つけだそうとする強い衝動にほかならない」。
正当と異端、科学と思想、それぞれが入り交じる土地。だが全てに共通しているのは、宇宙はなぜ現在このような姿であるのか、という謎を解きたい、と思う心。科学者たちの思想的背景にもそれはある。そこへの「迫り」としては弱いが、多様な世界観が沸き立つ辺境の地の雰囲気を味わいたい人にならおすすめ。「科学的」な読み物としてはおすすめしない。
でも今となっては、訳出されるのが遅すぎ。
しかしなぜ<歴史文化ライブラリ>? いや良いんだけど。文系の人も読んでくれるかもしれないし。
パーキンソン症候群は「振せん、筋肉の硬直、運動機能の退化、無動性、姿勢保持困難」などの症状を示す病気で、脳の一部の損傷によって起こる。中には、オン/オフスイッチがあるかのように、いきなり動けなくなってしまう人もいる。体が丈夫だろうがなんだろうがかかる人はかかる病気である。かかった人は筋肉の制御ができなくなってしまう。
パーキンソン病の原因はドーパミンの不足によるらしい。有名なLドーパはそれを補う薬だ。だが効果がだんだん薄れていく。デプレニルはその作用を高め、持続時間を延ばすという。具体的にはドーパミンを破壊する酵素を阻害する。そのため、老化防止にも効果があるのではと言っている研究者も中にはいるらしい。これは少しマユツバというか、単純化しすぎだと思うけど。
なおデプレニルは最近になって日本でも認可され、使われているそうだ。なぜ認可に時間がかかったのかという話は訳者あとがきにある。個人的には、こちらの部分をもっと膨らませて誰かに書いてもらいたい気がした。
で、肝心の内容なのだが…。面白くない。
かといって、つまらないわけでもない。だが、もともとの期待値が高すぎたのだろうか、僕の望んでいたような、エッジの効いた本ではなかった。確かに扱っている内容は「物質、生命、世界」と非常に広いが文章は至って分かりやすく、大したもんだとは思うが、これなら、そこらへんのサイエンスライターでも書けるのではないだろうか。つまり、『ネイチャー』元編集長が書いた本にしてはぬるい内容にがっかり、といったところ。
まあ、僕の期待値が高すぎただけかもしれない。悪くはないから。
本書は壮大な宇宙の物語、「原子の起源の探求物語」を描く一冊。ギリシャ時代における原子という概念の誕生、さらに近代に至って原子が原子より小さいもの(素粒子)から構成されていることが判明し、原子そのものがエネルギーを潜めていること、核融合の発見、それが恒星のエネルギーであると分かり、原子がそこで生み出されていることが徐々に分かっていく過程が、歴史を丹念に追って描かれている。文章はなめらかで分かりやすい。
1936年、宇宙の元素の存在比曲線がゴルトシュミットらによって描かれた。彼は恒星の元素存在比を隕石などの値で修正し、宇宙の元素の相対存在比を明らかにしたのである。元素の存在量は重い元素ほど少なかった。だが、そのラインはなめらかではなく、炭素、窒素、酸素や鉄は多かった。だがリチウム、ベリリウムホウ素などは少な目だった。この存在比曲線のカーブは、各元素が持つ結合エネルギー曲線と一致した。結合の度合いが緊密な元素ほど、宇宙には多かったのだ。では、この元素はどこで作られたのだろう?
原子を作った「魔法の炉」を巡っては、大きく分けて、二つの説があった。まず一つは、星の内部で作られたという説。もう一つは、宇宙開闢のとき、超高温のビッグバンのときに作られたという説だ。著者は、元素生成をめぐる物語は、この二つの学説の間を振り子がいったりきたりする過程であったという。
1930年代後半には、元素を生成するためにはおおよそ10億度という途方もない温度が必要であると考えられていた。そして、恒星の内部にはそんな高温はないとも考えられていた。そのため、ジョージ・ガモフは「魔法の炉」を宇宙誕生の直後に求めた。元素生成の魔法の炉は、まさに時の始めに存在したのだという考え方である。彼はその計算をラルフ・アルファーとロバート・ハーマンにやらせた。二人の計算の結果、ヘリウムまではうまくいった。ところが、重い元素は作れないことが分かった。元素生成をビッグバンにまかせる考え方は行き詰まった。
こうしていったんビッグバンに大きく触れた「魔法の炉」をめぐる振り子は、また戻ってきた。恒星のほうに。ここで登場したのがフレッド・ホイルとレイ・リトルトンであった。彼らは赤色巨星の巨大な大きさと出力の謎、その進化の謎を解き明かした。そしてホイルは、ウォルター・バーデと出会う。バーデはフリッツ・ツビッキーと共に1934年に「超新星」という用語を考え出した人物である。ホイルはバーデにもらった論文を読みながらいろいろ考えた。そして、ここでもう一つの歴史の偶然が加わった。原子爆弾である。それが、一つの考え方をもたらした。星がその最後の瞬間、爆縮するという考え方だ。恒星は、やはり超高密度・超高温の環境をつくり出す「魔法の炉」なのかもしれない。
その後、彼らは核反応の連鎖を研究し、大きな障害や困難を乗り越えつつ、「熱平衡」「アルファプロセス」「Sプロセス」「Rプロセス」といった元素生成の核反応の主立った過程を発見、説明するに至った。ここが本書のメインストーリーである。
現在では、水素とヘリウムなど軽い元素はビッグバン、宇宙最初の数分間でつくられ、重い元素は超新星で作られたと考えられている。だが銀河系の古い星にも重い元素は含まれているし、銀河と銀河の間の希薄なガスにも重い元素は含まれている。中には、宇宙誕生後10億年足らずの間に既に存在していたと考えられるガスの中にも重い元素は含まれている。重い元素が超新星によって作られたとするなら、これらはどこから来たのだろうか? 時の夜明けに燃え尽きた星があったと考えられている。銀河が誕生する前、最古のクエーサーが生まれる前に天寿をまっとうした星だ。だがその星のかけらが、われわれ生命の存在を可能にしたのである。われわれは、比喩ではなく文字通りの意味で、星のかけらなのだ。
本書には数多くの研究者達が登場する。本文中には研究者達の顔写真も多い。人類が生まれながら持つ好奇心に突き動かされたかのような、長い探求の旅の物語だが、私たちの体を構成する原子が持つ「複雑で豊かな歴史」を、これほど体感させてくれる本はあまりなかろう。
内容は時として専門的にもなるが、そこがまた読み応えに繋がっている。今月のおすすめ。装丁もなんだかいい感じ。
この<ニューズ・アンド・ビューズ>邦訳版そのものに関する感想は、前回と変わらない。では本書はどうかというと、内容はやはり極めて専門的である。だが、それだけに面白いとも言える。『ネイチャー』は読んでいても、本書に収録された6つ全部に目を通している人は、専門家でも、いや専門家ならなおさら、いないだろう。ともすればタコツボに陥りがちな知識と視野を広げるためには、通読しておいて損はない。
向精神薬を服用する人も多くなった。だがもともと向精神薬の有効率は60%〜70%。また副作用も個体差が大きい。またそもそも、(絶対に必要とするという人以外が)薬をある種の精神安定薬として使うことは、「性格の弱さの現れ」である。また現状の向精神薬のもてはやされかたの裏には、製薬企業の世界戦略や、消費者の偏った「健康」志向がある。
いまや商品化されているのは病気ではなく健康という世の中である。これからも向精神薬はどんどん開発され、消費者もそれを望むのだろう。そのこと自体は別に悪くない。だが、我々はもっと自覚的であるべきだと思う。
個人的には「石油の掘削とインベージョンパーコレーション」という話が面白かった。石油を岩盤から取り出す作業は、パーコレーションの応用なのだ。簡単に言えば石油がある岩盤に二つ井戸を掘り、一つの井戸から水を流し込み、もう片方の井戸から石油を押し出すという手法で掘削されているのだが、多孔質の岩石のなかで、どの程度水が流れるのかといったことを考えるためには、パーコレーションの考え方が必要なのだ。
ところで、著者によると一人の人が4.5人以上に情報を伝え続けると、情報はあまねく行き渡るんだそうな。この本の売り上げはどの程度だったのだろう?
父がアルツハイマー病になったことをきっかけに、物理学から分子生物学の世界に入っていた著者は「科学のもつ力に対するのと同じくらい、その限界にも関心を持つようになった」。本書はDNAやゲノムといったことを分かりやすく解説するというのが内容の中心ではあるものの、著者自身の本当のねらいは、DNA研究の社会的思想的意味を考えることにあるようだ。
著者は生物学には新しいパラダイムが必要だと語る。DNAなりゲノムなりは生物の設計図であるという捉え方ではなく(著者自身の言葉を借りれば「…DNAは、ひじょうに複雑な分子群ではあるけれど、法則を導き出すことができ、それを解読すれば個性もわかり、子供の遺伝的性質がすべてわかる新しい方策が見つかる」といったものではなく)、「DNAは歴史性を持ち、地球上の生き物たちの相互の関連性を示すテキストであると見る」べきだという。
彼が何を言っているのかは、たぶん、一般の人のほうがピンと来ないのではなかろうか。だがある程度の視野を持った研究者の方なら、だいたい彼が何を言いたいのか、どういう思想背景を持った人なのかということは、上記引用部分だけでも分かるのではないかと思う。
この本に関しては、中村桂子氏が訳者あとがきに書いていること──まず1章、6章、結論を読め、というアドバイスがあたっているような気がした。僕自身はそういう読み方はしなかったが(笑)。
後ろのほうの、細かい質問、あるいは専門的な質問、多少難しめの質問のほうが、答えるのは簡単である。実際、回答も後半部ならこれで良いと思う。頂けないのは前半、素朴な質問に対する答えだ。どうも、質問を発した子ども達が、本当に知りたかったことに答えてないような気がするのだが…。
さて。
光周性とは生物が日の長さに反応する性質のことである。本書は、概日時計の発見・仕組みから光周性のメカニズム、その適応的意義などを解説する本。今までの研究史から著者自身が研究材料(アゲハとホソヘリカメムシ)を選ぶ様子までが書かれていて、おおむね「はじめに」で著者が書いたとおりの内容になっている。高校生にはちょっと難しいんじゃないかなと思うところもあるが、これはまあこれでいいか。
多くの生物は体内に「時計」を持つ。有名な例が、フリッシュの弟子・ベリングによるミツバチの「時刻学習」の研究である。彼は、ミツバチが太陽の光や位置、温度や湿度によらず、時刻を覚えることを示した。1920年代後半〜30年代前半のことである。さらにその後、1955年、やはりフリッシュの弟子・レンナーによって本当に「時計」はミツバチの体内にあるとしか考えられないことが示された。「概日時計」の発見である。
概日時計がきっちり24時間でないことはよく知られている。その理由は明かでない。だが「同調(時刻合わせ)」には普通、昼夜、明暗のサイクルが使われている。だが中には変わった動物もいる。ジャマイカにはコウモリのフンや死体で繁殖するハエがいて、そのハエはまったく日が射さない洞窟に住んでいる。彼らは何で体内時計を同調しているのかというと、コウモリの飛翔音を使っているのだという。もっとも、これはさほど珍しいとは言えないのかもしれない。ヒトでも他人との相互作用など社会的要因が同調に関与していることが知られているのだという。
さて、問題は「時計」は体のどこにあるのかということだ。最初に明らかになったのはゴキブリである。複眼に繋がっている視葉と呼ばれる部分に概日時計があるということが分かった。その後この成果は、コオロギにおける視葉だけの培養と、それがつくり出す電気信号の計測結果(およそ24時間周期があった)から確かめられた。またガを素材にした研究によって、視葉から信号が送られている脳葉もまた重要な役割をしていることが分かった。
そのほかもろもろの研究の結果、結局、昆虫には脳の中の二つの部分、視葉と脳葉、2種類の概日時計が存在していることと、視葉の時計の同調には複眼の光情報が使われており、脳葉の同調には、脳葉にある光受容器からの情報が使われていることが分かった。それぞれの時計は使い分けられているらしい。だが、明確なところはまだ分かってないそうだ。
なお最近進展著しい遺伝子関連の話は『生物時計の分子生物学』(海老原史樹文・深田吉孝 共編、シュプリンガー・フェアラーク東京)が詳しい。
さて、ここまではいわば序章である。本書の主題はここから展開される「光周性」。光周性の研究は、タバコの収量を増やすための研究から始まった。動物ではやはり昆虫、イチゴの害虫のアブラムシの休眠周期から発見された。現在では脊椎動物、さらには単細胞生物でも光周性が発見されている。
光周性はなんのためにあるのか。おそらく季節の変化を知るためだろうと考えられる。季節変化を示す指標には温度などもあるはずだ。なぜ光だったのか。年による違いや変動が少ないからだろう。また日長の変化は環境の変化に先立って起こることも光周性を生物が持つことの理由の一つだろう。
実際、卵、幼虫、蛹、成虫など多様な発達段階を持つ昆虫は、光周性を示すことで季節変化に巧みに適応している。そのため研究素材として使われるのだ。
さて、では彼らはどのようにして日長を測定しているのか。単に時計があるだけでは日の長さを測ることはできない。明暗と時計が指す時刻を「照らし合わせ」する必要がある。
ここで出てくるのがビュンニングの仮説である。彼は「明暗のサイクルに同調した概日時計の示す時刻と光の関係が重要」だと考えた。
と、話が続くのだが、あとは本を読んで下さい。過剰?に複雑化していくモデルに対する著者の不満/危機感が興味深い。
筒井康隆と科学者達の対談集。相手は村上陽一郎、養老孟司、中村桂子、日高敏隆、森毅、根本順吉、佐藤文隆、奥谷喬司、そして立花隆。
ほとんど期待せずにページを繰り始めたせいか、逆に面白かった。意外とちゃんと、対談相手の人柄(の一部)が引き出されているような気がする。暇つぶしにはちょうどいい。