地震予知に関しては、関東大震災前の大森房吉×今村明恒の論争を出すまでもなく、相変わらず議論が続いている。主流の地震研究者の予知に対する態度は、だいたい、1)地震予知はできない。将来にわたってもできる可能性は全くない。2)東海地震に関しては、長期予知は出来るかもしれない。だが現時点では短期予知は無理。他の地震は全く無理。に二分できるようだ。
現在は「地震予知に対する悲観論が台頭し、前兆現象の観測による短期予知は、手の届かないところにあり、基礎研究こそ促進されるべきであるという風潮が」強いと見る著者は、「歴史は繰り返している」という。現在は経験主義的な手法や観測を軽視しすぎているというのである。そして、予知の可能性はある、とこれまでの地震の観測データから言い切る。著者が根拠にするのは主に前震と直前の地震空白域の出現である。
それらのデータを兵庫県南部地震、伊豆大島近海地震、日本海中部地震、そして大正関東地震などの事例から拾い、予知は可能であったかもしれない、というのである。
一方、予知は100%確実にできるようなものではなく、確率的なものに留まるであろうから、地震注意報のようなものを、と主張する。
本書全体を通読しての感想は、言い訳がましい、の一言に尽きる。もちろんサイエンスとしての地震予知が非常に困難であることは承知の上だが、やっぱり本書は言い訳がましい。たとえば大震法の問題に触れているところも、「私はこう言っていたのに」的な話ばかりなのだ。
地震注意報の件もそうだ。注意報的なものが必要だという主張は至極当然なのだが、その肝心の内容がスッカラカンなのは、がっかり。「新幹線や高速道路はストップさせずにスローダウンにとどめ…」とあるのだが、これではまるで子供のアイデアである。そんなことで本当に震災が軽減可能だと考えているのだろうか。単に責任逃れをしたいだけではないかと言われても仕方ないのではないか。
著者自身は<あとがき>で「よく『あとで考えると、あの地震は予知できたかもしれない』という報告に対して、あとからではしょうがないという意見が出るが、こういう事例のしっかりとした積み重ねが重要なのである」と言っている。それは確かにその通りで、「あとから研究」は非常に重要だ。しかし、世の中が期待していることはそれではない。
素人の私が地震学の現状を横目で見ていて、少し感じていることがある。今の地震研究者たちには「危機感」がない。「神戸(兵庫県南部地震, 1995)」があったにも関わらず、だ。もしあれが東京で起こっていたら、どうだったろうか。
おそらく関東大震災直後の地震学研究者達には、実学をやらねばならぬ、という危機感があったのではないか。サイエンスとして地震が非常に面白いのは分かるし、その研究も重要だ。実際、科学ファンの僕としてはサイエンスとしての地震の話も聞きたいと思う。理学は実学とは関係ない、という人もいるだろう。だが世の中からの期待はそこにはない。社会的関心は何よりも予知、あるいは防災にある。そして、そのためにお金は落ちているのだ。そのことを忘れて欲しくない。もし予知ができないならば、地震予知研究という名目を掲げてお金を取ることは許されないだろう。
もっとも、地震研究に落ちている予算は「国防」という視点から見ると、呆れるほどわずかなものでしかないのだが。さらなる観測網の充実はもちろん必要だし、理論面の研究も必要だろう。だがしかし、研究のベクトルが予知に向かわない限り、まず予知はできないだろう。
おそらく何らかの形で地震予知が可能なところは東海だけだろう。それも、おそらくは数ヶ月のスパンの予知に留まるだろう。もちろんそれだけでも大変なことなのだが、世間と研究者との温度差はあまりに大きい。そんなことを実感させられる本であった。
科学捜査の上でもっとも重要なことは何か。それは「犯人である者を犯人でないとする誤り」と「犯人でない者を犯人としてしまう誤り」であるという。当たり前といえば当たり前であるが、本書ではこの文句が繰り返し出てくる。人はともすれば先入観に支配されてしまいがちだ。だが、真実が直感通りとは限らない。犯罪捜査は科学的合理主義のもと、進められなければならない、これが科学捜査の大命題である、ということらしい。
実際の捜査がどう進められているかは分からないが。
幅広く各種科学捜査を扱っている。科学書が好きで、ミステリが好きな人なら、かなり楽しめる一冊でしょう。だが、興味のない人も思わずつり込まれる、というタイプの本ではない。
しかしそっか、舐めただけで「上物ですぜ」とか言っているのはやっぱり嘘なのか。ふーん。
他のクモを食べる脚の長いユウレイグモ。オスがメスに寄生するハチ(さらにメスはコナジラミに寄生する)。青虫が食べる葉っぱには、たいていの動物には有害なグリコシド化合物が含まれているが、青虫はそれを逆に好んで食う。ナナフシは姿のみならず、様々な方法で敵を欺く。シロアリの天敵、ケカゲロウ…。まあ、こんな調子である。
また本書では飛ぶ昆虫の不思議についてのエッセイもある。ここはなかなか面白かった。真面目に勉強しようと思ったらでかい専門書を買わないといけないけど。
もう一つ。本書でちらと触れられているのだが、蚊はどうしてあれほど多くの伝染病を媒介するのだろうか? 蚊にはいったいどんなメリットがあるのだろうか? これは結構面白そうなテーマだなあ。
本書は、ウリミバエという害虫を「不妊虫放飼法」──一言で言えば、不妊オス(変な言い方だけど意味は分かるよね。でもこれは正式な用語らしいのだ)を作ってそれを放つ、という方法──で根絶した人々自身による苦労話。
ウリミバエの根絶は1972年に久米島で始まり、1993年に八重山で終わった。投じられた予算は169億6400万円、放たれた不妊虫は、なんと約530億7743万匹にのぼったという。実に激烈な闘いであったのだろう。
こういう話は、本来非常に面白いはずだ。ところが本書はやや混乱した構成のため、話の全貌と展開、それと何がポイントなのかが非常に分かりにくく、せっかくの興を削いだものになってしまっている。苦労の息づかいもあまり聞こえてこない。要するに描写が足らないのだ。もし、それなりの腕を持ったノンフィクション作家が書けば、非常に面白い話になったのではなかろうか。残念である。
第10章の交尾忌避剤の話はちょっと面白かったかな。当人達の手になるものだけに、資料としては貴重だが、本としてはいまひとつ。
もはや問題は、大規模な衝突が将来起きるかどうかではなく、いつ起きるかということにある。それが今から1000年先のことだとしても、どういう備えをしておくべきかを考えれば、問題を立てる意味はある。そろそろ、何千年の単位で将来を考えるべき時かもしれない。われわれは人類の末長い繁栄を望んでいるだろうし、だからこの問題は考慮に値するだろうという前提に私は立っている(P.348)。本書はこのような立場で書かれた、小惑星・彗星など地球近傍物体(NEO)衝突の可能性を巡るエッセイである。敢えてエッセイと言い切ってしまうのは、本書の雰囲気とその構成。もちろん彗星とはなんぞや、小惑星とはなんぞやといった科学的内容は含まれてはいるし、図表も多い。だが、科学書というよりも、ひたすら思いの丈を伝えたくて書いた、って面が強いようなんだよなあ。
小惑星衝突ものの本は多く(例えば『小惑星衝突など』、科学面だけに興味を持つなら、必ずしも本書はおすすめではない。著者の思いこみが極めて強く、データも整理された形で呈示されていないからだ(でも図表の多さは嬉しい、先にも書いたが)。
だが、著者の<衝突>への思いを綴った本としては悪くない、というのが僕の評価。「読み物」としては面白いです。
あ、そうそう、火球に伴う音の話は面白かった。隕石落下のとき、ヒューとかシューとかいった音が聞こえるそうだ(実際に聞いたことがないので)。この音は、衝撃波と同時ではなく、火球と同時に聞こえるらしい。そのため(音が光の速度で伝わるはずがないので)長らく幻聴だと考えられていたそうである。
ニューキャッスル大学のコリン・キーは、これに疑問を抱いた。彼は「無響室の中で低周波電波を用いた実験を行った」。その結果をベースに「火球の軌跡でプラズマが生じる過程で電波が発振される時に、ほぼ確実に発生すると結論づけた」。つまり、彼の結論はこうだ。プラズマから電波が発する。電波がもじゃじゃの髪の毛、メガネのフレーム、ヘルメットなど、その電波に反応できるものにあたると、電波が音に変換される。それが「火球の音」として聞こえるのだというのである。つまり周囲のものがいきなりアンテナ+スピーカーになり、音をがなりはじめるわけだ。それはまるで「あたり一面から音が聞こえるような感じ」だという。
一言。
最近僕は気が長くなり、本の本筋に関係ないところには目くじらを立てないようになった。だが、本書の恐竜についての記述はあんまりだ。ひどすぎ。知らないことは書かないで欲しいものだ。
まず前半のドキュメントがなかなか面白い。おそらくは子供向けに書かれたものながら、丹念に科学者、技術者、宇宙飛行士たちの姿を追っていることで、優れたドキュメント作品として成立している。多くの人々の手によってミッションが成立していることを、生き生きと描き出すことに成功しているのだ。
後半は毎度お馴染みの内容だが、こちらも丁寧に書かれている。説明、写真の選び方ともに良し。
丁寧なつくりの、品のいい本である。本当に、こういう本は図書館に入れて欲しいなあ。アメリカではいろいろと賞を取っているらしい。
数学の世界には「NP完全問題」と呼ばれるモノがある。巡回セールスマン問題とか、中国人郵便配達問題とか呼ばれるものがそれだ。最近ではRSAなどインターネットの暗号の原理としても使われているし、算数教育で有名な秋山仁氏が専門にしていることでも有名なので、どこかで聞いたことはあるだろう。「原理的には解くことが可能であっても、天文学的な時間を費やさないと解答が得られない問題」である。
こういう問題を解こうとすると、「計算時間が爆発」する。その爆発を回避するために、工学からのアプローチとして「並列計算、ニューロコンピューティング、ファジイ計算、遺伝的アルゴリズム、DNA計算など、現在のコンピュータの計算原理を転換しようとする研究を行っている」。
一方、本書は、「計算とは何か」ということを常に頭に置きながら、この問題に対して主にコンピュータサイエンスの側から二つのアプローチを紹介するものだ。二つとは、ニューロイダルネットと量子コンピュータである。
「一般向けの解説を掲載するのは、本書が初めてである」というのは著者の単なる思いこみだろうが(だいたい、何をもって一般向けというのか)、こういう本が出るのはそれなりに有り難い。
ニューロイダルネットとは脳を模倣した(と、この立場にたつ研究者は考える)ネットワークで、あるしきい値を持った論理素子(ニューロイド)を使った回路である。つまり、脳をしきい値回路であると考えるのである。それぞれの素子はあるしきい値を越える入力があった時に出力を行うようになっていて、それを多数結合させて、計算を行わせる。この回路は学習できる動的な計算モデルである。つまり重みづけを変更し、自ら回路モデルを獲得していくことができるのだ。
著者らはこれを使って「脳の中間レベルのモデルの構築」を目指し、言語認識のモデル化などを行っているという。研究の進展を期待したい。
量子コンピュータについては他の本を読んでもいいように思うが、研究の流れを研究者の立場から(ざっとだが)追ってくれているのが嬉しい。量子コンピュータとはどんなもので、何ができて、何が出来ないか(「計算可能」なものしか計算できない)、何が問題となっているのか(デコヒーレンスと誤り訂正)が書かれている。
最終章『計算機科学の未来』にはペンローズ批判、若き研究者たちへの檄などの他、著者の主張と思想が書かれていて、これはこれでまた面白い。「森羅万象すべてが計算」なのだ、計算機屋の目で見れば。そして計算とはひたすらに論理なのである。
文章はいかにも計算機屋さんが書いたものらしく、淡々としてはいるが読みやすい。一見とっつきにくそうに見える本文だが、のんびり読んでいけば問題はない。あまり一般書を書いてくれない計算機屋さんが、こういう本を書いてくれたことそのものを評価したい。まあ、これが一般向けかどうかは評価が分かれるだろうが…。計算機の「理論」をやっている人達がどんなことをやっているのか、ちょっとだけ分かったような気がした。
しかし、チューリングとファインマンは本当に偉大な人だったのだなあ。しみじみ。
内容は以下の通り。著者名を見ればだいたい内容の見当はつくだろう。書いている内容がいつも同じ人達ばかりだから。
「生物の論理」と「精神の科学は可能か」の二つは、多少読めるかな。あとは面白くなかった。いやまあ、単に僕が興味がないだけなんですが。
なおこのシリーズは、以下のような視点で編まれるものらしい。カバーから引用。
二〇世紀に科学/技術は驚異的な発展をとげ、著しい専門化にともなって、いまや聖域とさえされがちである。また日々の暮らしの中で科学/技術が従来の価値観・倫理観を根底から覆すという事態も生まれている。科学/技術と人間の新たな関係を築くことなしに、二一世紀の地球は存続しないといっても、過言ではない。本講座は、まず科学や技術の意味を十分明らかにしたうえで、自然科学と人文・社会科学の両面から、この課題を徹底的に究明する。ということらしい。
うーむ、他に付け加えることがないな。図版がなかなか良くできている点が良いところだろうか。少なくとも、悪い本ではない。取りあえず、新刊紹介ということで。
SFの大家ベルヌから現代の寵児ゲイツまで、有名科学者や作家たちは科学技術や社会の未来をどう予測したか?過去140余年間に発表された98編の未来予測で振り返る「20世紀の社会発達史」なかなか、言い得て妙の文句だ。
もちろん、SFファン以外も楽しめる。帯の文句の通り、見事に「20世紀の社会発達史」となっているのだ。1858年から1996年までの社会そして技術の発達が、未来予測によって描き出されている。実に数多くの予測が──しかも意外なほど早く──なされている一方、思いこみによって嘲弄された予測もある。人間のあさましさや偏狭さも透けて見えるのだ。
また、メディア関連の予測とその結果に関する記事も多い。本書のような視点を持って、いまのマルチメディア社会やインターネットを取り巻く状況を俯瞰してみるのも面白いかもしれない。
一気に読むタイプの本ではないが、暇つぶしには最適である。
天体観測の歴史はすなわち、人間の宇宙認識拡大の歴史である。今後、どう宇宙像が変わっていくのか。楽しみである。
カーボンナノチューブとは、文字通り炭素からなるナノスケールのチューブ構造のことである。その多くは六員環がらせん構造をとって構成されている。もちろん中は中空、直径は1ナノメートル。近年は量子細線を作るための鋳型として使われたり、別のものを入れて複合材料などを作る研究などが推進されている。また、ナノチューブは半導体としても使用できるという。その他、メモリや水素貯蔵材料、マイクロサージェリーの材料としても使えるらしい。実に多様な可能性を持っているわけで、いろんなところで研究されている。
その他、メゾスコピックスケールの面白い話など。
著者はナノチューブの発見は幸運な偶然、いわゆるセレンディピティー的発見だったという。本書を読むと、確かにそういうこともあったようだ。どんなものでも「天の時」というものがある。だがそれを掴むのはやはり実力なのだ。
「地震発生の危機を語り、その恐怖をあおっていると思われるものがほとんど」といった世間の風潮を苦々しく感じていたことが、本書執筆の理由の一つだと<あとがき>に書いている。もちろん「地震はおそろしい」。だが大震災にあう確率はそれほど高くないことも同時に強調したい、という。要するに冷静に対処せよ、というのが著者の主張なのだ。
地震予知ができようができまいが、地震は来るのである。そのときどう対応するか。国家や自治体レベルの対応を考えることももちろん重要である。だが個人個人の心構えや行動力、意識や教養がタメされるのもまた非常事態なのだ。そういう意味では、防災とは個人の問題であるといってもいい。当然のことだが。
以上。実際、本書の主だった内容はこれだけだったりする。その他、地震予知に関しては、著者は現時点では極めて困難、という態度である。
本書は今後20年間で50兆の市場を産むと考えられているITSビジネスならびに技術の現状を分かりやすくまとめたものである。もともとはITS産業に乗り出そうと考えている企業向けの本だが、知能道路技術AHS、自動運行技術ASVなどを初めとして、これまで実現しているITS技術の数々が紹介されているので技術本としても面白い。
海外の事情もコンパクトにまとめられている。日本がどの分野で進んでいて、どの分野では遅れをとっているのか、通読しただけで掴むことができる。
ITS技術には様々な応用が考えられる。既に実用寸前のETC(料金自動収受システム)は単なる料金収受のみではなく、車両運行管理にも使える。ASVやETCのようなもの以外でも、たとえばエアバックが起動したらすぐさま自動で救急に連絡を入れるシステムなどは、既に海外では実用化されているという。私はITSの話でしばしば言及される渋滞緩和には懐疑的だが、これなどは確かに使えそうである。
現時点でも、車は既にコンピュータの塊である。内部に搭載されたCPUは車内LANで結ばれている。車は既に制御工学の成果の塊なのだ。
たとえばトヨタの「プログレ」はナビ協調シフト機構なるものを搭載している。これはナビゲーションからの道路情報・位置情報から道路状況を認識、それに車両走行状況、運転者操作情報を加えてオートマの変速を最適に制御するものである。具体的にはコーナーで自動的に最適なシフトを取りながらコーナーに進入、コーナー立ち上げ後、ふたたび元の状態に復帰させるということができる。
いまですらこんなことができるのだ。将来はいったいどんなことができるようになるのだろうか。
しかし気になるのがITS関連5省庁の投資額割合である。通産、郵政、運輸はあまりカネは出していない。実は全体のおおよそ3分の2は建設省が出しているのだが、残り3分の1は警察庁が出しているのだ。この辺があまり報道されないことも含め、非常に気になるところである。