著者はゴリラ社会におけるシルバーバックとは、「子どもたちが対等につき合える場を演出し、それを監督することに違いない」という。母親のようにつかず離れず面倒を見るわけではなく、少し距離を置き、子どもにつきまとわれてもどっしりとしているように見せかけるのが彼らシルバーバックの役割だと。
もう一つゴリラの群れの特徴は、ニホンザルなどと違い、メスが子ども同士の争いに介入したり、近親者同士で同盟を組んでケンカするといったことがないことだという。それもやはりシルバーバックがにらみをきかせているからだという。そしてシルバーバックがそういう地位にいられるのも、メスや子ども達がシルバーバックを支持するからだ。こうして家族の秩序が守られているのだという。
本書はゴリラの話半分、人の話半分の構成。この手の本、つまり子育て本を読むたびに、勝手に気持ちまで類推されていろいろ書かれている子ども本人はどう思っているのだろうかと疑問に思うのだが、この本の場合はどうなんだろ。それこそまさに大きなお世話か。
遺伝的にはきわめて近く、生活様式や集団の構造もよく似ているのに、発情を長期化させなかったチンパンジーとボノボ。これらを比較すれば、子づくりに縛られなくなった性が、集団の構造や社会関係にどのような変化をもたらすのかを知ることができる。そしてその研究の結果は、ヒトの祖先に起こった性と社会の関係について、重要なヒントをもたらしてくれるに違いない。このタイトルでこうきて、なおかつ河合雅雄による帯で「ヒトを進化させたのは、エロスの力だった」と来られると、ヒト進化の話をすごーく期待してしまう。だが本書は看板に偽りあり。本書の中心は結局のところボノボの野外調査の話であって、ヒトの話は「付け足し」でしかない。もっとも、最初からそういう本だと勝手に期待するからいけないのであって、ボノボの話だと思って読むとそれなりに面白い。また「付け足し」の話も付け足しだと思えばじゅうぶん面白い。
本書ではまず、誕生から現在に至るヒトの進化の歴史を概観し、解かなければならないヒト誕生の謎がどこにあるのかを考える。つぎに、ボノボの性と社会について、野外調査やチンパンジーとの比較でわかってきたことをしっかりと整理しておきたい。そしてそこで得られたヒントをもとに、性と二足歩行の進化がヒトを誕生させたとする、新しい人類進化論を検証してみよう。(<はじめに>から)
類人猿はゆっくり大きく育つ。栄養が豊富である熱帯多雨林では親が面倒を見さえすれば子どもをかなりの確率で生かすことができるし、体が大きいほうが捕食の危険を避けることができるからである。そのため類人猿は少産多保護の戦略を採っている。長い育児期間にはもう一つ教育学習時間としての重要な役割があり、これらが相まって、類人猿の知性へと繋がっている。
ところが、地殻変動によりヒトの祖先はサバンナに出ざるを得なくなった。サバンナは乾燥地域である。大型肉食獣による捕食の危険性も高い。このような環境でヒトの祖先は「ゆきすぎた少産」を多産に戻す必要性に迫られた。だが育児期間を短縮することは、長期の学習期間が必要な類人猿の場合不可能である。残された方策は一つ、多産多保護のみ。そのため育児期間の重複が起こった。これがヒトの繁殖戦略なのだ。
だがメスがかけられるエネルギー投資は限られている。重複育児によって時間もエネルギーも奪われたメスは、広く遊動できるオスのエネルギーを必要とした。オスの協力を確実にし餌を持ち帰らせるためには、生まれた子どもを自分の子どもだと認知させるのがもっとも手早い。そのためにヒトメスの発情期は消滅し(単に発情期が長くなったわけではない。詳細は本書参照)、いつでも性交渉を持てるようになった。
その結果、高順位のオスが優先的に発情メスと性交渉するチンパンジーなどとは異なり、オスの数と性交渉可能なメスの数が近くなった。このためオス間のメスをめぐる競合は比較的抑えられ、その時間はメスと自分の子どものために食料を得る時間に当てることができるようになった。おおざっぱに、これがヒト家族の誕生だと著者は考えているようだ。つまりメスによって「プレイボーイからマイホームパパに」進化させられたのがヒトである、と。
順番が逆さまになってしまったが、著者の興味は、父系社会においてメスの発情長期化が起こったときに何が起こるかということにある。それが起こったのがボノボであり、起こらなかったのがチンパンジーであるというわけだ。そしてそのことはヒトの祖先、ヒトの進化を考える上でいろいろなヒントを与えてくれるであろうと。
というわけで本書の大半はボノボの野外観察の話であり、上にあげたような「お話」を描き出すまでの話が中心となっている。だからボノボの本を読みたい人になら、おすすめする。あまりヒトの話を期待しすぎて読むと、ちょっと退屈かも。
「他者」とは「私」にとって感覚世界を定義上感じることができない存在である。「他者の心」という言い方があるが、「他者の心」を感じるのは結局自分である。自分が感じた瞬間、それはすでに「私」のものであって「他者」のものではない。よって「他者の心」というのは論理的に矛盾しているということになる。ところがこれは我々の日常感覚に完全に反している。これはなぜか。「論理的に考えて、決してのぞき込むことができない『他者の心』を、われわれはなぜ感じてしまうのだろうか」。本書はこの問い、つまり「他者」に「心」を感じてしまうのはなぜかという問題に答えようとした自然科学からの思索書である。
著者は「モデル」を重視する。モデルと理論は異なる。理論は公理体系のことであり、それだけでは無意味。その体系に解釈を行うとき、はじめてその公理体系は意味を持つ。その「対応付けの発見こそが、モデルということだ」。モデルとは現実認識のための枠組みである。それがなければ何も意味がないと説く。
そして「心の理論」の歴史と反論を展開する。心の理論、つまり他者の心を推測するような能力に関する話がガッと注目を集めたのは1985年、バロン=コーエンらによる自閉症児の8割が他者の知識を適切に類推することができないことが示されたときからであったという。バロン=コーエンらは、人には他者の心を推論する「心の理論」モジュールがあり、自閉症とはそのモジュールが欠落していることからくる人間関係障害であるとしたのだ。
ところが近年、「心の理論」は批判にさらされているという。たとえば自閉症児に「心の理論」を教えてしまうという試みが可能であることが示された。これは「心の理論」にとって大きなダメージであった。なぜならそうやって他者の心を推論する知識を身につけても、彼ら自閉症児の社会的能力はほとんど向上しなかったからだ。どうやら他者の心を推論する能力というのは、当初考えられていたほど簡単ではないらしい。そもそも2割の自閉症児は詰め込み教育を行わなくても課題に成功できるのである。人はどのように他者の心を推測しているのかという問題に対して取りあえず実証的に考えることができた「心の理論」はその役割を終えつつあると著者はいう。
著者が新しい研究方向として提案するのはスペルベルとウイルソンによる「関連性理論」というものである。これはコミュニケーション研究における記号論的アプローチに対する批判として提出されたものである。記号論的アプローチとはコミュニケーションをメッセージ→メッセージの記号化→記号送信→記号受信→記号解読→メッセージ受信という形で捉えるものだ。一般的にはこれへの批判は記号の意味が文脈によって変わってしまうことが問題とされているが、著者は「場が重要だ」とか「文脈が云々」といったものいいそのものも、しょせんは記号論的アプローチの枠内であると切り捨てる。
「関連性理論」ではコミュニケーションとは「相手の認知環境に対し、刺激を提示することによって、ある想定を顕在化すること
」とされる。そして著者は関連性理論における<推論モデル>のオリジナリティーを強調するのだが、ここは率直に言ってよく分からない。コミュニケーションとは受け手の認知環境の顕在性を刺激提示によって別のパターンに変化させようという試みだというのは確かに納得なのだが、記号論的アプローチとの違いがいま一つ明瞭ではないと思うのだ。
文脈というものがしょせん文脈コードをもってないと解けないように、コードを延長拡大すればいいだけのことではないのか。つまり、相手に刺激を提示することによって相手の認知環境が変化する、それに応じてまたコードも変化する、と。そう考えた場合、これもまた結局は記号論的アプローチの枠内だと思う。もっともこれをなんと呼ぶかはどうでもいいことなのかもしれないが、つまり私には、情報の発信者・受信者とも結局はコードに照らし合わせて明示的/非明示的に行動しているだけだとしか考えられないのだ。ただ著者の主眼は「認知環境の変化」という漠然としたものを扱えるという点を評価することにあるのだろうから、これはこれで良いのだろう。
だいぶ疲れてきた。ちょっとすっ飛ばしてしまうが、最終的に本書は「私」とはなんだろうかと考察する。
著者の主張は結局のところ、「他者から見た自己」という表象をもつようになると、環境の中にある自分の身体という物体に自分の感覚を帰属させることができるようになる。これは実は当たり前のことではなく、積極的な情報処理であろう、そしてこの感覚を帰属させる作用というものそのものが「自己」と呼んでいるものなのかもしれない、ということである。なるほど。
だが、他者の目から見た自分、という像をそれが持っていたとしても、それで「私」があることになるのだろうか。
どうにも分からない。しかしながら著者独特の言い回し、自己とは虚数みたいなものだという話にはなんとなく納得。ラストの心身問題とはニセの問題であり、感覚情報こそが宇宙だという主張は過激だが、面白い。
全体を通して、こういうまとめ方で心身問題を捉えた本はなかったように思う。興味のある人は必読。
で、はじめに戻ると、15名のうち6名がII、9名がDI、DDは0だったのである。なお比較のために一般人1900名からデータを取ったところ、最も多かったのはDIで、IIとDDはDIの半分くらいだったという。どうもDDは無酸素登頂に不利らしい。いわばACEは「無酸素登頂の遺伝子」なのだ。
元が連載だから当然かもしれないが、えらいセンセイがオモシロ話を語る、といった感じの本。遺伝子で決まっている部分もあればそうでない部分もある。それをいろいろと述べた本である。まあ面白い本ではあるのだが、ここまで言っていいのかなあと思うようなところもある。なお著者は現在、日本人類遺伝学会の理事長である。
なお冒頭の話には続きがある。これは、無酸素登頂というある種極限状況でのみ効いてくる効果だということだ。ただし、イギリス陸軍で調べたところ、筋肉の耐久力テストにも明瞭な差が出たらしい。だから、マラソンのように持久力が必要とされ、なおかつそこらへんの部活動レベルではない訓練を要する場合には、(それ以外が全く同じであれば)II、またはDIの人を選んだ方が、強化合宿などの効果が上がりやすいということだ。サッカーなども同様だ。「根性」だけではいかんともしがたいものもあるのだ。
この本書冒頭のエピソードは本書全体のトーンをもっともよく表している。遺伝と環境という形で分けて考えるのはナンセンスであることは当然として、現在ではいわゆる遺伝病や先天異常のみならず、ありとあらゆる病気の「かかりやすさ」などの「素因」に遺伝子が絡んでいることが判明しつつある。性格(というか、そのなりやすさ)もある程度遺伝で決まっている。著者は「楽観的にものを見る」という傾向が遺伝するとすれば、いわばそれは「幸福の遺伝子」とんでもいいだろうという。
21世紀には遺伝子スクリーニングなどが活発に行われるようになるだろう。この流れはおそらく止まらないし、技術の進歩は早い。精神面も含めた幅広いケアができる遺伝子カウンセラーが必要とされている。
どちらも金子隆一がかねがね言ってきたことなので、あまり目新しさがない。ただ、恐竜絶滅説のいろいろが、これまでの本よりもより詳細に描かれていることが特徴と言えば特徴である。ラストはSFの人でもある金子ならではのものだが、こちらもやはり彼自身があちこちで言いまくっていることなので、金子隆一の著作に親しんできた人間には逆に旧聞に属する。とはいうものの、知らない人はやはり知らないのだろうし、恐竜はとにかくでかい隕石が落ちてきたせい「のみ」の理由で絶滅したと思っている人は思っているのだろうから、こういう本は次々に出していかなければならないのかもしれない。
これだけでは何なので付け加えておく。ガイア仮説についての話である。
ガイア仮説はラヴロックらが火星探査の枠組みで言い出したものなのだが、ちまたには、ラヴロックの意図を離れて俗説化した、いわば「ニセガイア仮説」が横行している。「地球が(生命が生きているような意味で)生きている」という考え方などはその最たるものだ。そもそもラヴロックの本を読めば、彼の考え方が根本的にそういう類のものではないことは一目瞭然であるのに、である。
問題は、そういう思いこみが研究者と呼ばれる職業の人にも見受けられることである。オリジナルの本も読まず、風聞からの勝手な思いこみだけで判断してしまうような人は研究者失格だと思うし、そういう偏狭な視野の持ち主に良い研究ができるとも思えない。私は別にラヴロックの支持者でもなんでもないし、マーグリスらと組んで共生がどうしたこうしたと言い出したラヴロックにも思想的な責任はあると思うが、この手の風潮には、ただがっかりする。
ただし「失敗」とは言っても、普通の意味での失敗談ではない。どちらかというと、あることに気が付かなかったのはなぜだろうかとか、あのときもうちょっと進めておけば良かったというものである。たとえば著者はコラーゲンの多様性(現在では少なくとも19種以上があることが分かっている)に気づけたかもしれなかったときにそこに思い至らなかった。また骨代謝のマーカーとしてピリジノリンが有用であるといち早く報告したが、日本の企業は振り向いてくれなかった。その後ピリジノリンは骨粗鬆症のマーカーとして注目され、さらに現在はそれらを含む骨由来の架橋ペプチドを測定することで診断に使われているそうだ。
全体として、研究を成功させるには「思いつき」や「腕力」「情熱」などすべてをひっくるめた「総合力」が必要なのかもしれないという。ま、これは研究に限らず全般的に言えることだろう。
最後は江上不二夫と利根川進の、それぞれ相反するような研究への心がまえを二つ引用して締めくくられている。研究者を目指す人向け。
3部構成で、第一部は著者自身の研究対象を身近な対象から語り、第2部では科学者とはどうあるべきか思想を語り、第3部は科学を学ぶとはどういうことなのか思索を巡らせている。
ではまず第一部から。著者は「硬い物質」から「やわらかい物質」へ研究を転じたわけだが、主にゴムや液晶など、やわらかい物質の話が中心。ポリエチレンオキシド(PEO)と呼ばれる水溶性高分子をごく少量水にまぜると、管を流れるときの摩擦が減少する。その結果、消防士の放水はより高くまで届くようになり、下水管はより流れやすくなる。まるで魔法の物質だが、もちろん秘密は高分子の構造と乱流との関係にある。その中身については本書を読んで欲しい。
そのほか、インク壺の中のアラビアゴムの役割、水を浄化するためのエマルジョンの破壊、液晶のメカニズム、シャボン玉の膜の話などなどが解説されている。
著者が繰り返し強調するのは「基礎研究と応用研究」のバランスである。どちらへ傾いてもいけない。著者のように、それをうまくとっている人もいるわけだから、できないわけではないのだ。難しいだろうが。
研究現場にいない私が言っても説得力ないだろうが、著者の強調点その2である「ベンジャミン・フランクリンの精神」つまり智恵を使い、ごく簡単かつ明解な方法で実験するという話については、ぜひ多くの研究者のたまごの方々にもお読み頂きたい。
後半は著者の科学者かくあるべしという話(これには異論ありという人も多そうだ)や、フランスの「理論偏重」の教育システム、中でも数学帝国主義への批判になる(ただし彼が批判しているのは大学でやっているような数学ではなく、入試に過剰に数学が導入されていることである)。
でも僕が一番笑えたというか、これは笑えない話だと思ったのは本書冒頭に書かれていた話。
著者はノーベル賞を取る以前から、高校で講演したいと考えていたのだそうである。ところが自分の学院の宣伝をしたいためだろうと疑われて、受け入れてもらえなかったとか。
権威主義は、どこの国でも蔓延しているのだ。
本全体としては、一風変わってはいるが全体的に見るとおすすめできる、といったところか。
ま、お茶はおいしいから風味を味わって飲めばいいんじゃないかとは思うけどね。
間に入っている、お茶の種類とか飲み方とかが書かれたコラムのほうが面白かったと言ったら怒られるかな。
本書は、「進化心理学」の書である。つまり、われわれの正常な社会動因を、自然淘汰による進化の産物として理解しようとする試みである。われわれ人間の精神を作り出したのが自然淘汰による進化であることは疑いもない事実であるが、心理学者は、自分たちの学問領域にとって、それがどんな意味をもつのかについて、ほとんど自問することがなかった。私たちは、その意味するとこは非常に大きく、親が子に対して抱く愛情と拒絶、兄弟間の競争心、興味や性向における性差、社会的競争や地位に対する動因、正義感、ものごとに対する感じ方が年齢とともに変化すること、そして、自己を意識するという現象など、すべてのことにかかわっていると考えている。と、いうのが進化心理学、あるいは「人間の進化的理解」における基本的な考え方だ。本書は中でも、「殺人」にテーマを絞り、それを進化心理学的アプローチで理解しようとした試みである。本書を通読して、それが有効な試みであると感じるかどうか。問題が問題だけに、意見が分かれるところではあるだろう。
なぜ殺人なのか。「殺人は、人間の激しい感情と人間関係の葛藤に関して、他に類を見ないほど多くのことがらを明らかにしてくれる」からだと著者らはいう。だが殺人といってもバラエティに富んでいるし、500ページ近い本書の内容は広い。血縁者に対する殺人、嬰児殺し、子殺し、親殺し、動機としての口論や名誉、なぜ男に殺人者が多いのか、夫婦間の殺し、復讐、殺人者の責任や文化、倫理観などが分析の対象である。
「親による現代の子殺し」と題された第4章から少し内容を紹介する。基本は簡単である。
「AのBに対する愛情は、Aの適応度に対するBの貢献の期待値に正比例するだろう」。
つまり親が子に抱く愛情は、親の適応度に対する子どもの貢献の期待値に正比例するだろうと推測される。「適応度」とは要するに子孫の数だ。平たく言い直せば、子孫を残してくれそうな子どもに親は愛情をかけるということである。
この原理に従えば、親は子供の年齢が増せば増すほど、その子の評価を増すことになる。なぜなら生まれたばかりの子どもより思春期を迎えた子どものほうが子どもを残してくれる確率が高いからである。親から見ると価値が高いわけだ。
この結果、親による子殺しの危険性は、子どもの年齢が低ければ低いほど高いと予想される。子どもを残す可能性が低いからだ。
そしてこれは、カナダでの統計によって実証されているのである。もっとも顕著な差は1才未満とそれ以上との間にある。1才未満の嬰児殺しの確率は、それ以降に比べてずば抜けて高いのである。しかも、非血縁者による子殺しとは全く様子が違っているのだ。
これだけでも非常にショッキングに感じる方もいるだろうが、話は続く。
「親が世話をしようと思うかどうかが、子どもの質や母親の状況の評価を反映したものだとすれば、見込みのない繁殖行動はなるべく早く中止し、そのうち放棄せねばならなくなるような仕事にかまけるのを避ける評価メカニズムがあるはずである(P.131)」。
興味深いことだが、子殺しの危険性が母親自身の残存繁殖価(=要するに母親の年齢)によって変化することが裏付けられている。どう変化するかは予想できるだろう。母親が遅く産んだ子どもほど、子殺しによって殺される確率は減少するのである。
ここまででお分かりだろうが、進化心理学では基本的に大枠の予測を立て、統計的分析を行っていくというアプローチをとる。言うまでもないが、個々の殺人者の個別の理由まで進化生物学で論じることはできない。一般的なことだが生物学的というと、決定論だとかレッテル張りだと思われやすいようだ。だが進化心理学が目指すところはそういう方向性ではなかろう。
また強調しておくが、進化というアプローチで考えようというときには、基本的にどういう振る舞いをする個体が子孫を残しやすいかということだけを考えるのだということを念頭においておく必要がある。「適応的」という言葉はそういう意味で使われているということも含めて。
進化心理学は、まだ20年経っていない若い学問である。だが「人の本性」に迫ろうとしている学問分野だ。著者達も言っていることだが、まだデータそのものが取れていないポイントもたくさんあるし、考えが逆転することもあるだろう。これからどういう展開を見せるのか? それも含めて、注目しておきたい学問分野の試みを覗くには、うってつけの本である。
→訳者の一人、長谷川眞理子氏とアットホーム株式会社松村社長との対談へ(at home こだわりアカデミー 教授対談シリーズ)
邦題の相対論VS量子論というのは外れてはいないが完全にピタッとくるわけでもない。本書で展開する世界観の違いを巡る議論は、相対論対量子論というよりはむしろ実在主義と実証主義それぞれの立場から行われており、それぞれの理論から読みとれる科学(「世界」と言い換えてもいい)に対する姿勢の違いにまで及んでいるからだ。
なお本書はガリレオの『新科学対話』のように、マニー、モー、ジャッキーという3人による8つの対論の形で構成されている。マニーは「主流派」で実証主義、経験主義者である。一方ジャッキーは「異端派」で実在主義者である。そしてモーは中道で、それぞれの議論を補強し進行する役目を持つ。異端者ジャッキーがどうも著者サックスの代弁者であるらしい。
それぞれ立場の違う3人による議論によって、科学者同士でもそれぞれ違う立場で研究を行っていること、そして本質に対する接し方が違っていることが見えてくる。繰り返しになるが議論は啓発的で非常に面白い。それぞれの立場からの議論もしっかりしたもので、予定調和的ではないし、押しつけがましくもない。だから逆に特定の主張だけを抜くのは難しい、というか興を削ぐと思うので、ぜひ一読をおすすめする。
著者サックスが3人に語らせる言葉はどれも印象的なのだが、ここでは(陳腐になってしまうかもしれないが)一般的な部分を抜いておこう。少なくともサックスの考えの一部はお分かり頂けると思う。
ジャッキー 確かに、私たちの科学的観測行為とは独立して存在する実在というものを証明することは不可能だわ。でもね、実験データの背後に潜む実在を信じるのは、科学者としての信条だと思うの。だって、科学者は、単にデータを集めるだけでなく、それを解釈することに時間をかけて努力しているわけでしょう。自然現象の説明は実在に基づくものなのよ。
単なる実験事実だけでは何もわかったことにはならないわ。つまり、自然を説明したことにはならないのよ。あのね、マニー、科学の一番大事な目的は、自然現象を説明することでしょう。私たちが何かを「わかる」というのはこのことを指しているのよ。(後略)モー 結局、僕たちはまた「科学とは何か」という問題に戻ったことになる。いったい、科学とは何なのだろうか。自然に対するもっとましな記述方法を探ることなのか、それとも自然を説明することなのか、どっちだろう。(P.151)
ジャッキー(略)…私の考えではいかなる自然現象に関しても理解すべき事柄は数限りなく多くある、つまり無限大だということなのよ。一方、私たち人間の能力は、明かに有限だわ。どんな自然現象でも完璧に理解しようとすると、無限大の理解力が必要になるわ。私たちは全知全能ではないから、これは不可能よ。したがって、いかなる自然現象に対しても、完全に理解することはできない相談だということになるの。
だから、本当に重要な問題を解決したとすると、さらに別な問題が浮かび上がってくるのは避けられないことなのよ。このようにして、私たちは、完全な認識という極限には到達しえないけれども、自然の客観的真理に限りなく近づくことが可能となるのよ。したがって、問題がそれ自体で閉じていて別の問題に結びつかない場合は、その問題は自然現象の真理とはまず関係なく、そもそも重要な問題ではないということになるわけなのよ。(P.164)
我々個々人を特徴づけているものは何なのかということが遺伝子のレベルで探られつつある。まだまだ先は長いが、現状ですら様々なこと──多くの遺伝病の素因のみならず、生活習慣病のリスクや、そればかりか性格のベクトルを決める要素までが遺伝子の中に見つかりつつある。実に多くのものが、遺伝子によって確率を与えられ、リスクを測られようとしている。
本書の主張は極めて単純で、ざっくり言ってしまえば以下のようものだ。
近い将来胎児や胚に対する遺伝子治療が行われるようになるだろう。いやそればかりか現在既に中絶が行われているではないか。そうなるとナチスがかつて行ったような優生主義が自由市場のもとで復活するのではないか? 一般社会は科学を監視し、議論しなければならない。そして倫理を構築しなおさなければならない。
至極当然の主張で、そう目新しいものではない。だが目配りが良いのとなかなか読ませる切れ味で、退屈はしない。だから読んでも損はない。面白い本である。
優生思想の根本問題は、著者に答えてワトソンが言っているように、われわれ皆がもともと持っているものであるというところである。良い男や良い女と結婚し、健康な子どもが欲しい。こう考えるのはごく自然なことだ。だがこれこそが優生思想の大元に繋がっている。
何がいいのか悪いのか、それは極めて曖昧かつ状況依存的であり、一概に決められはしないと反論する者もいる。だがこれはある意味無意味な反論である。確かに何が良くて何が悪いかなぞ神様でなければ分かるはずもないのだが、だからなんだというのか? 結局人は現在の状況に合わせてでしか判断できないのである。
そして生物学は、私たちヒトの間に差異があることを明らかにしつつある。いやそれは違う、遺伝子のレベルで見ればほとんど同じだということを明らかにしつつあるのだという主張は、著者も指摘しているように、この場合無意味である。なぜなら現在問題にしている、あるいはこれから問題とされるであろうポイントは、同じところではなく、わずかに違う差異によって生み出される違いのほうなのだから。
著者の重要な指摘は、現在の優生思想の問題は、かつてのような国家による規制から市場競争、市場原理、個人の欲望によるものへと移りつつあるというものだ。優生思想がいけないことは、いまや誰もが知っている。だからおそらく(希望的かもしれないが)国家権力によって優生学が復活することはなさそうだ。だが、自由市場によって、人々がごく自然に抱いている感情によって、優生学が復活するかもしれないというのが著者の主張なのである。
そもそも現在の遺伝子研究も、もともとは病気で苦しんでいる人々を助けたいという感情から生まれているのである。だがそれが、結果的に優生思想の復活に繋がるかもしれない。自由主義でなんでもオッケーというわけにはいかない、より広い社会的影響──より長いタイムスパンと言い換えてもいいかもしれない──を見据えて、市民の間でコンセンサスを、と著者は言う。
そして続ける。科学的知識がもたらす結果は、私たちが望むようなものではないかもしれない、と。現在の価値観は大なり小なり「科学社会の産物」と言ってもいい。そして多くの人はそのことにすら気が付いていないと指摘し、科学以外のところに足を置いた価値観、価値体系を構築すべきであるというのである。
今までにも何度か書いたが「倫理的に問題がある」という場合、その「倫理」とは一体なんなのか、ちゃんと考えないといけない。この辺の話には『生物改造時代がくる』共立出版などが参考になる。
一つだけ繰り返しておくと、たぶんこの手の問題では「なんとなくイヤ」という感じ、論理とか倫理とかそういう難しいこと以前の「あの感じ」を大事にすることが重要なのだと考えている。
それともう一つ。
最近ぼんやり思っていることがある。こういう場合、しばしば、二つの道があるという人がある。やる道と、やらない道の二つがあると。だが、二つの道はないのではないか。実は道は一つしかないのではないか。
残されているのは、その道をどんなふうに歩んでいくのかということだけなのかもしれない。
臓器移植、中でも臓器売買と生命倫理を扱った本である。本書のタイトルに、基本的な問題は織り込まれていると考えて良いだろう。つまり、人体を「部品」として扱うことと、「ビジネス」の対象とすることの二つである。
これらは倫理的にどうなの?ということを、著者は迷いも含めて率直に、かつ論理的に分析していく。特に立ち位置の迷いも含めて素直に書かれている点は、専門家が書いた倫理の本としては非常に珍しいのではないか。だがそれが逆にこの問題の難しさを絶えず身近なものとして、決して遠い世界の出来事としてではなく僕ら自身の問題であることから離れずに、浮き彫りにすることに成功している。
私が見たところ大きく分けて3部構成で、それに補論がついた構成になっている。
まず第一部として、死体から心臓や血管、腱などを取り出し加工する人体部品加工会社クライオライフ訪問記と、その他、死体からの部品利用、移植医療、人体部品の国際移動の現状などの概略が語られる。つまり人体部品商品化の実態だ。なお商品ではなくサービスを売っているのだと主張するクライオライフの製品で救われた人は、既に2万人にのぼるという。
第2部は人体部品の商品化に直接関係する臓器売買の実態が取材されている。舞台はフィリピンの刑務所(刑務所が実質的にコーディネーターになっているのだ!)と、インド(著者の推測によると世界中の腎臓売買の7割以上をインドが占めているのではないかというくらい、インドでの腎臓売買はビッグビジネスになっているそうだ)。
取材は極めて生々しいが、淡々としたものである。矛盾した表現ではあるが、そんな感じなのだ。なぜかというと、たぶん、臓器売買が日常と化した世界の取材だからだろう。登場するドナー、レシピエント、そしてブローカーやコーディネーターたちにとっては、それは「日常」なのだ。日常はいつも生々しいが淡々としている。
実態取材のあと、<中間考察>が行われている。ここでは人体利用の歴史と近未来が描かれる。人々は昔から人体を利用してきた。大昔の骨笛やどくろ盆は言うまでもなく、近代でも人体実験が行われていた。かつては死体を使った自動車衝突実験も行われていたそうだ。ダミー人形を使うより安上がりだからというのが、その理由だった。
そして、新しい「死体」が現代には登場している。脳死身体だ。脳死身体の利用は、今までのところ臓器移植のみに限られているが、その利用価値は既に1970年代から指摘されていたという。解剖実習用、薬の人体実験用、そしてホルモンや抗体の生産用などなど…。
欧米では既にこれらの一部は実際に行われている。著者が指摘するように、臓器移植の次にくるのは脳死身体の利用だろう。現在は市民権はとても得られない発想だろうが、臓器移植そのものが、ついこの間までそういう考え方であったに違いないのである。
たとえば現在では脳死身体から臓器のみが取り出されて搬送されている。だが、脳死者ごと搬送したほうが生着率は高まるのではないかという見解は既に示されているのだという。確かにそのとおりかもしれない。効率と合理を求めると、そのほうが理にかなっているような気がしてくる。おそらくこうして、脳死身体の「各種利用」は進められていくと著者はいう。
医療テクノロジーによる人体部品の利用を正当化するものとして、著者は理由を3つ挙げている。
1)生命功利主義
2)物的人体論
3)自己決定の原理
である。
著者は特に生命功利主義を批判する。こうだ。
功利主義は、行為の道徳的価値の基準をその行為の有用性(Utility)におくものである。現代の医学や生命科学を支える生命功利主義は、「行為の有用性」評価のタイムスパンが短すぎるように思われる。「物的人体論」とは著者の造語で、要するに人体はモノであると見なす考え方である。「自己決定の原理」については言うまでもないだろう。提供するのも受けるのも自分が決めることだという考え方である。
この後第3部へと話はうつる。著者の本領が発揮されるのはここからで、人体利用・商品化の「意味」に関する考察が行われる。人体にはどんな意味があるのか。なぜ商品化が行われるのか。法と倫理はどうあるべきか。と、話は展開する。
まず<人は死んでもゴミになれない>という章立てから始まる。つまり、人体は「物」なのかどうかということである。著者の結論は、生きている人間は物ではないが、人体は物、つまり利用交換可能なものとして見なさざるを得ない。だが、物であるということと、物として扱って良いということはイコールでは結べない、というものだ。
問題は結局ここにある。物として扱うことには、精神的に抵抗があるのだ。それはなぜか。
おそらく本書でいうように、それが「人間の尊厳」の「担保」のような気がするからだろう。だが、著者自身迷いがある。人体商品化に著者は抵抗を感じているのだが、
ただ、なぜそう(註:人体の商品化は人間の尊厳を汚すことになるのではないか)いえるのかとさらに問われると、私はうまく根拠を提示できない。敢えていえば、私の「感情」がそういわせる(これは答えになっていないが)。と迷いを吐露している。だが私は、こういう視点が結局いちばん重要なのではないかと思っているので、本書の書かれ方になんとなく共感したのだ。ただし、それと主張そのものへの意見はまた別問題だが。
本書のキーワードは「テクノロジーの発達」と「市場経済」である。この両者により、人体に「経済的ないし商品的価値」が生じたのだ。これは『優生学の復活?』とも共通している視点である。著者は<おわりに>で、
二十世紀は、欲望が、テクロノジーと市場経済に支えられて、爆発的に肥大化した時代であった。人体の徹底利用や商品化はまさにその象徴であるといえる。そもそも、文明自体が欲望の充足システム(より正確には、欲望の火を点け、それを充たして消す、そしてそれを繰り返す、というマッチ・ポンプ式の欲望の拡大再生産および充足システム)である以上、「欲望爆発」は、少なくとも当分は、収まりそうにない。二十一世紀も引き続き、「欲望の世紀」か。と語っている。確かにそのとおりなのだが、医療テクノロジーによって数多くの命が救われていることもまた事実。こうして生命倫理をめぐる議論はグルグル回るのである。ともあれ、本書そのものはバランスが良く面白い本である。
最後に補論として、カニバリズム(人肉食)、そしてさらに著者がネオ・カニバリズムと名付ける概念が披露されている。死体の徹底利用の行き着く果てとして、著者は真面目に考えているようだ。詳細は本書を。
内容はゲノム研究の現状、そこから分かることなどの解説。単にゲノムのみに留まらず、生命誕生の話やバイオベンチャーへの危惧、「ポストゲノム生物学」など幅広い。特に読み物としての本書の核は、やはり著者が昔から力説している生命誕生の話だと考えていいだろう。あと、著者らが開発したタンパク質間の相互作用解析のためのツールの話とか。
巻末には柳川弘志×今田高俊×松井孝典という面子での<遺伝子技術の可能性>と題された座談会記録が付けられているが、この座談会のまとめ方もひどい。まるで素人の仕事である。
本文の内容の繰り返しには著者にも責任があるが、正直いってこんなレベルの編集では著者も可哀想だ。それとも既存の原稿を張り合わせたものなのだろうか? わからんが、とにかくもうちょっと真面目に本を作って欲しい。
私自身、小学生の頃は代掻き前の田んぼに咲き乱れたレンゲ畑の中をミツバチに混ざって走り回っていた人間である。そういう風景がなくなったことは確かに寂しく思うが、水田そのものが大規模な環境破壊であることがあまりに明白である以上(これは本書前半の主題でもある)、著者が強調する「水田の中の多様性」には今ひとつ(著者が言うほどの)意味が感じられないのである。著者自身も自覚していると思うのだが、著者の頭の中ではどういう繋がりになっているのだろうか? 通読しても今ひとつよく分からなかった。
本書の内容を紹介しておこう。
本書は基本的に、人が手を加えた生態系、「人為生態系」の歴史と現状をイネから見る本である。まず日本の稲作とそれに伴う人為生態系拡大・変化の歴史が語られる。次にアジアの稲作と食糧事情の現状が描かれ、最後に上記のような人為生態系の安定のために云々、という話で締めくくられている。私自身は、前半は興味深く読んだが、後ろに行くに連れて著者の主張が理解できなくなった。
縄文時代の終わり頃に稲作があったことはイネの葉に含まれるケイ酸体であるプラントオパール出土などから既に常識となりつつある。だが稲作があったこと=水田稲作があった、とはならない。畑の稲作、陸稲があるからだ。縄文稲作がかつて否定的に考えられていたのは水田跡が発見されていないからだが、陸稲であったと考えれば納得がいく。日本に水田稲作が渡来したのはおよそ2500年前〜3000年ほど前のことで、これが弥生時代へと日本をシフトさせていったらしい。
日本は生態学的に見るとおおざっぱに二つに分けられるという。もともと、西南日本は照葉樹林地帯、東日本は落葉広葉樹林地帯であると考えられている。水田稲作が渡来するまでの西日本は原始の森が広がっていたが、水田稲作が渡来し開発されはじめてから、わずか一千年ほどで切り開かれてしまったという。
こうして水田稲作が始まったのだが、当時の稲作は我々がイメージするような整然としたものではなく、様々な植物が混在した雑然としたものであったという。中には休耕田も多かったようだ。著者らは、この雑多さゆえに当時の水田(と森)は、多様性と安定性をもっていたというのだが、この辺が僕には理解できないのだ、ということは既に書いたとおり。あくまでその「安定性」というのは人為的な安定性でしかないのだから。
なお著者らは登呂遺跡の時代、つまり弥生のころの稲作を再現し、どのくらいの収量があるか実験している。それによると、おおよそ現在の六割ほどであったという。これが多いか少ないか。それは主観によるのかもしれない。
要するに著者らの主張は、人類は、生態系が適当に回復できる程度に搾取する智恵を持たなければならない、そのためには効率ばかりを追求することは問題だ、ということであるらしい。
その他、野生イネの自生地保全活動なども著者らは行っているという。
だが一番わたしが納得いった言葉は、本書96ページに出てくるカンボジアの研究者・チョードリー博士の言葉のほうであった。それは「無農薬、無化学肥料栽培といった発想は、物の余った先進国のたわごとで、食料事情が逼迫して生産をあげることが至上命令のこの国ではいっさい通用しない議論だ」というものである。率直に言って、僕もそう思う。
日本では、「量」は充たされた。だから消費者は「質」を求めようとしている。それが「安全な食品」願望へ繋がっている。「安全な食品」を求めるのは当然である。だが、限りなくそれを求めることは、パンがないと苦しんでいる人たちの前で菓子を求める行為になりかねない。手間をかけた無農薬野菜は確かにおいしいし大いに結構なのだが、それ以前の大前提として、現在の「無農薬ブーム」は「量」を保証された飽食の上にあるのだということを自覚しておく必要があると思うのだ。無農薬農作物とは、それを作るためにマンパワーが回せるようになってはじめて作ることが可能な農作物なのだということを。現実問題として世界には人口問題がある。そしてアジアには著者が言う「二つの顔」──飢えに苦しむ国と、生産過剰に伴う問題が発生している国──があるのだということを考えておかないと、今後の農業をどうのこうのと言うことはできないように思う。
とにかく、全てはバランスなのだ。人の欲望には限りがない。欲望が森を収奪し、一様な水田による多収穫を求めた。その結果、生態系の破壊はさらに進んだ。著者は少し後戻りしても良いのではないかと主張したいらしい。だが、本当にそれで良いのだろうか? 分からない。
では組み換え作物はもうダメかというとそうでもない。現在の組み換え/非組み換えを分別するやり方だと、どうしても手間がかかる非組み換え作物の値段は高くなる。そこに価値を見いだし消費者が支払っている間はいいのだが、揺り戻しが来るのではないかという声があることもまた確かである。また今後は第2世代、第3世代の組み換え作物が開発され、マーケットに出てくる可能性が極めて高い。そうなったときどうなるのか、気になるところである。
と、いうのが僕のおおざっぱな遺伝子組み換え作物の現状の捉え方である。
さて。本書は主に組み換え農作物批判派の声を拾いながら、遺伝子組み換え食品、アグリビジネス最新状況を探る本。モンサントの戦略についても一章まるごと割かれている。その一方、遺伝子組み換え作物の巨大マーケットである中国の話はまったく触れられていない。また遺伝子組み換え作物の将来展望や予測なども、もっと鋭いものを期待したかった。また著者は遺伝子組み換え技術が未完成であることに驚いたなどと掻いているが、本書に書かれているような内容ならば既に本がいっぱい出ている。わざわざ副題に「ジャーナリストの取材ノート」と掲げる割には今ひとつか。
また著者はPA(パブリック・アクセプタンス)活動の必要性を訴え、市民運動の人たちの考えも汲み上げろというのだが、そんなことは誰もが思いつく話でしかないし、いかにも「ジャーナリスト」と自称する人たちが新聞記事とかのまとめに使いそうな文句である。繰り返すが、そんなことは(ある程度の知識ある人ならば)誰もが分かっているのである。農業取材数十年のジャーナリストにそれ以上のものを求めるのは酷なのだろうか。
まあ、ダメな本じゃないんだけどね。第12章での著者の話(p.216)、ならびに最終章での著者の主張──かつて公共性の高い財であった「種子」が、今や莫大な利益を生む財へと性格を変えた、という話には、まあ賛成。「まあ」というのは、だからなんだ、そんなこといまさら言ってどうなる、という気持ちが僕の中にあるからだ。
結局、本書で検証されているのは「食品」ではない。食品を取り巻く、というか、「種子ビジネス」という形で食品を取り巻こうとする企業のあり方のほうなのだ。
だからまあ、そういうことに興味のある人はどうぞ。
こういう形で著者が自分の考えを吐き出す本は、読み手が「自分だったらどう考えるか?」と考えるきっかけになることに一番の意味がある。そういう意味では、ある面では極端な著者の意見は、きっかけとしてちょうどいいかもしれない。
著者は「自然」という概念が極めて曖昧であることを自覚している。だが、やはり「自然」のものがいい、という立場であるらしい。自然のものはとにかくいじらないで欲しい、これは多くの人の考えでもあろう。
研究の資金源は公的機関から民間産業に移行しつつある。本書によれば、たとえば大学におけるバイオや臨床研究における企業の研究予算支援は「この十年間で四パーセントから七パーセント、つまり、ほぼ二倍に増加している」そうだ。多かれ少なかれ、民間企業は市場での利益を求める。研究者は自分が行う実験が、そういう目的のもとで行われているということに自覚的でなければならない。
また治療をどこまで行うのかという問題もある。医療にはコストがかかる。もちろんコストが論点になるときは、治療が効果を発揮しないときだけである。だが、そういう事態になったときでも、どこまで、そしていつまで医療行為を続ければいいのかという問題は難しい。一方、医療保険制度による受給者手当切りつめが検討されているときに、一人に大きなコストを支払うこともまた倫理的に問題があるのではないかという話もあるのだ。
テクノロジーと市場原理、この二つの単語が生命倫理を考える上で大きなキーワードであることは間違いなさそうだ。
そこには蚊や小さなハエ、そしてバクテリア、カビ、原生動物などさまざまな生物が住む。特に蚊の対策のためにはファイトテルマータの実態把握が非常に重要だと著者は説く。本書はごく小さな生態系の多様性を調査研究している著者自身による本で、ほとんど唯一の「ファイトテルマータ」に関する本だそうである。
内容は、なにせ知らない話ばかりなので非常に興味深い。さまざまなバクテリアが住むとはいっても、彼らにもそれぞれ要求する栄養物が違うので、ファイトテルマータによって構成種が違う。切り株に溜まった水でも、切られた竹が若いか年をとっていたかで水たまりの性質が変わってくる。溶け出す成分が違ってくるからだ。また浅いか深いかによっても変わってくるのだという。もちろんそれによって生物構成が変わってくる。「水たまり」にも色々な種類、多様性があるのだ。
また熱帯では「ボウフラがいる水は飲める」という生活の知恵が伝わっているのだという。ボウフラがいるファイトテルマータではバクテリアや原生動物が減る。ボウフラがそれらを食べるからだ。その一方、ごくごく小さい生態系であるファイトテルマータには生物の排泄物によって、すぐに有害物が溜まってしまう。餌と有害物のフローがどうなっているかによっても棲むボウフラが変わってくる。ボウフラにも、飢えに強い種類と、毒に強い種類がいるのである。熱帯の蚊の種類が多様な理由は、ファイトテルマータそのものが多様であるからというのも理由の一つであるらしい。
そのほか、高い位置の樹洞と低い位置の樹洞とでもまた構成種が違うそうだ。高い位置を好むものと、そうでないものがいるのである。実に多種多様な原因によって、多種多様なファイトテルマータが作られることに感心する。
このあと、ファイトテルマータに住む生物から見たウツボカズラ(あの袋そのものがファイトテルマータである)の進化といったことからのファイトテルマータ研究の今後の展望が語られ、最後はやはり小さな生態系というアナロジーで地球環境の話にちらっと触れられてまとめられている。
個人的には、今後は化学生態学的なアプローチや探索をすすめてもらいたいと思う。たとえば、タイのウコン属の花序の中(ここにたまる水の中)にいるボウフラの中には、採取して容器の中の水に入れると、「水から出て壁をはい登っていく」のだそうである。彼らは「水の中に戻らない限り死亡してしまう」のである。なのに這い出てくるということは、花序の中にあるのは、ただの水ではないに違いない。何らかの成分−−花が分泌しているのか、それ以外のバクテリアなのかは分からないが、何かが効いているのに違いない。今後、その辺の具体的なことが分かってくるとさらに面白いのだが。
と、内容そのものに興味がある方は必読なのだが、冒頭<隠れた水たまり−序にかえて>で触れられるテレシコワの話にはずっこけてしまった。著者は、テレシコワは「私はカモメ!」と宇宙での感動を伝えたと言っているのだが、実際にはそうではなかったことは中村浩美『最新 宇宙開発がよくわかる本』などをお読みの方ならお分かりのとおり。
あれは彼女のメッセージではなく、コールサインである。しかもテレシコワは疲労で寝込んでしまっていて、地上からのコマンドでライトを点滅させたところ、ようやく目覚め、慌てて叫んだもの、というのが真相だったという。
せっかくの本の頭が勘違いから始まるというのはあまりにもなので、できれば次版では削ってもらいたいなあ。
現在の僕らにはなかなかウイルスの脅威はわかりにくい。だが「天然痘だけで、二〇世紀には、三億といわれる人の命が奪われたが、これはこの世紀に戦争で死んだ人の数の三倍である」。二〇世紀はしばしば「戦争の世紀」であったと言われる。確かにそのとおりなのだが、実は有史以来続いてきた病原体との戦いに人類が勝利を収めはじめた世紀でもあるのだ。そう、屍の山を越えて──。
有名な例は天然痘だ。ソマリアで最後の患者が報告されたのは1977年である。だが、天然痘根絶は必ずしもまっすぐ進んできたわけではない。1966年、WHOが提案した天然痘根絶予算は多くの先進国に反対された。予算案はわずか二票の差で認められたそうである。
ウイルスの歴史は世界の歴史であり、世界を生きた一人一人の歴史でもあると著者はいう。数多くの人々の努力の結果、多くの人を屠ったウイルスの多くが制圧されつつある一方で、テクノロジーの進歩により新たな病原体や流行パターンが登場しはじめている。今後もウイルスとの戦いは続く。
まず冒頭、そして本書の最後まで登場するのがアフリカ・ボツワナの北部にあるオカヴァンゴ大湿原と呼ばれる三角州地帯である。ブッシュマンという名で知られるサン族が住むこの地はは古代人類の化石が多数発見されている場所であると同時に、人類による乱開発と(人間活動というよりは自然な)気候変動によって絶えず擾乱され、生態系が危機にさらされている地域でもある。つまりオカヴァンゴは、我々の過去・現在・未来の象徴的な場所であり、現在我々が直面している世界の縮図でもあるとエルドリッジはいう。
話はシロアリをはじめとしたオカヴァンゴの生態系を支える生物相や状況の紹介にはじまり、生物多様性や進化の概念そのものの解説へと移っていく。この辺にはエルドリッジがグールドと唱えている「断続平衡」の考え方が「ときには意図して、しかしときにはほとんどひとりでに顔をだしている(訳者あとがき)」。 たとえば、こうだ。
現在の古生物学者は、生態系──およびその生態系に含まれる種の個体群──が驚くほど本質的に安定であることを理解している。(中略)何百万年もの間、これらの種は明確な進化的変化を、(まったくないわけではないが)ほとんど行っていない。本書は基本的にこういう思想のもとで書かれた多様性保全を訴える本である。結局のところ結論はいつもどおりで、持続的利用のためにどうバランスをつけるかということなのだが、その例にパナマ運河を持ってきて説明しているところがちょっと面白い。
しかしこのような安定した群集の中で、次の安定的な生態系まで生き残ることができるものは、平均するとわずか二〇パーセントしかない。境界期において生態系が突然に崩壊し、大部分の種が失われ、新しい異なる種が登場して絶滅した種の場所を占めるというのが、ここでの鍵である。急激かつ深刻な変化の後にさらに崩壊が続くことがなければ、生態系と種の両者は比較的不活発な長期の安定状態に落ち着く。(中略)進化は、それに先立つ絶滅に大いに依存しているように見える。前に存在していた種と生態系が大崩壊したとき初めて、新しい種や新しい適応が現れるようである。(P.102)
最後に以下の6つの提言がまとめられている。
巻末には付録として<1600年以降の絶滅動物>リスト、<不可欠な微生物、菌類、動物、植物>リストがついている。現在の見積もりでは、人類は毎日40,000種以上の種を利用するのだそうである。そのうち1%のリストである。思いもかけない生物の名前が並んでいる。
生のインタビュー記録が収録されているわけではなく、あくまでその分析結果の報告と考察である。一部収録されたインタビューを読むと、これは誘導ではないかと思われる部分も見受けられたが(たとえば258ページ。意識調査の場合インタビュアーから水を向けて相手に「そうそう、それ」と言わせるのは絶対にしてはいけないことだ。もともと相手の言葉を「待つ」のはインタビューの基本中の基本である。どれだけ「我慢」できるかがインタビュアーの資質といっても過言ではないと僕は考えている)、基本的には非常に興味深い内容だ。不妊への視線・意識、家族観、ジェンダー観、自然観など医者が持つ多様な価値観、そしてそれらがないまぜになって生まれる医師−患者関係、生殖医療観、技術の受容・拒否の論理がかいま見られるのである。
たとえば、医師としての態度と「個人」としての態度の違いも面白い。
結論からいえば、医師の「医師」としての態度は、「個人」としての態度よりも技術受容的である。本書に登場する医者の中のかなりの数が、「個人(つまり自分が患者となったとき)」としては受け入れられないような技術でも患者に適用していると語っている。
その倫理観の根元にあるものは「患者のため」という考え方である。患者が悩みや苦しみを訴えるのであれば、個人としての考えには反しても、職業人としては応えたいという善意によるものだ。つまり医者は「患者のため」に行動しようとすることによって、個人としての立場と医師としての立場を切り替えているということになる。
不妊症は別にほっておいても当人に何か害があるわけではない。そういう意味で不妊医療は一般医療とは違う。だがインタビューされている医師の一人が語るように、不妊症は社会的・精神的な苦しみが大きい。そういう目で見ると病でもある。これが医師たちの基本的な考え方だ。
社会的・精神的にしろ苦しむ患者を前にして「何とかしてあげたい」と思うのは自然な感情だ。だが人はあまりにも簡単に自分の意見が一般的な考え方だと思いこむ。患者のニーズを理解していると思いこむことによって弊害がもたらされることはないのか。「患者のため」というレトリックが、患者に苦痛をもたらしていることはないのか? これが著者の問題意識であるらしい。
ただし本書は生殖技術の是非を問うものではないと著者は繰り返し述べている。なぜ生殖医療技術が議論を巻き起こしながらも開発され続け、社会に受容されていくのかを探っていくことを目標としている、と。技術は開発される。問題はそれとの「つき合い方」なのだ。
もうちょっと本書の内容を紹介する。
医師達というより社会全体の考え方を示しているのではないかと思うのだが、特徴的なのが「自然である/ない」という表現が医師達にも重視されている、あるいは価値観の大きなベースにあるらしいことだ。「自然であるほうが良い」というお馴染みの考え方がここにも登場するのである。「自然ではない」という言葉は否定的な意味を持っていることが多い。これはどうも我々すべてが抜きがたく持つ感情であり、非常に根の深い問題であるように思われる。
著者が本書でこだわりを見せるのもここで、この観点がどのように不妊治療技術観に関わり、技術の進展にどう関わっているのか考察している。
不妊治療技術など生殖医療技術は「自然でない」と言われることが多い。だが「自然/不自然」の弁別は各人によって異なる。また技術が運用される過程で、「自然でない」技術が「自然な」技術へと(実施者の頭の中で)移行することが多いという。さらにこれに「医師」としての「患者のため」という観点が加わる。これらがないまぜになっている。「自然/不自然」という考え方は技術批判に用いられることが多いが、その一方、技術支持にも使われていると著者は指摘する。
また重視されているのがジェンダーである。不妊は男女ともに原因がある。だが技術開発や医療の対象は、まず女性に対して行われていると指摘されている。そのため、男性医師−女性患者という関係になることが非常に多い。それが技術開発にある種の偏りを持たせているという。
先行研究によると日本の医師の多くは「患者との相互関係の中で態度を決定し、診療を行う」ことが多いという。これは「患者のため」にと考え、行動している結果であるとも言えるが、同時に技術がなし崩しに導入されていくことにもなりやすいという。なぜなら思想的な原則がなく、「患者のため」という言説によって、技術導入によってもたらされる影響を深く考えることなく実施していくことになりがちだからだというのである。
そして著者は「患者のため」という言葉を再考する。医師のいう「患者のため」は、患者にとっても「患者のため」となっているのだろうか、という問題である。実際、多くの患者は生殖医療に受容的だという。
だが、患者の技術受容的な態度はどのような状況から発生しているのか、という問題がある。また医師の患者へのまなざしは十分なのか。著者は患者への意識調査をもとに患者と医師それぞれの論理のすれ違いを指摘し、「医師は、患者がなぜ技術を求め、受容していくのかについては、あまり感心がない」とまで言い切っている。
そしてどうやらインタビュー調査の結論らしい言葉が登場する。
医療技術の進展を「患者のため」として合理化・正当化する医師の意識こそが、先端医療技術を開発・応用する際の社会的検討を妨げてきたといえるのではないだろうか。(P.362)実際、多くの医者は「患者のため」と考えているのだろう。だが、それが本当に患者の思いと合致しているのかどうか、という問題について著者は疑問を抱いているのだ。
不妊治療技術は子どもを生もうとする努力の1選択肢である。だが不妊の医療化は、1選択肢であることを忘れさせ、不妊を問題にしているのは社会だという事実から目をそらさせてしまうと著者は強調する。
たしかにそうかもしれない。不妊治療を強いるような社会はあってはならないと思うし、別に夫婦に子どもがいてもいなくても良い社会を目指すべきだという話には反論はない。
だが、著者の結論には個人的に疑問を感じた。確かにそのとおりだとは思うし、不妊は不妊で別に病気ではないとは思う。だが、子どもを欲しいという欲求は、社会的・文化的な外圧によるものだけではないはずである。もっと素朴に、子どもが欲しいな、と考えている夫婦もいるはずである(著者らに言わせればそれは文化的産物ということになるのかもしれないが)。
つまり「不妊という状態を問題化しているのは、あくまでもその文化・社会である」とまで言い切ってしまうのは、ちょっとおかしいのではないか、ということである。個々人の欲求はもっと素朴なものであることも多いのだということを、著者はどこかすっぽり忘れてしまっているようにも思え、違和感を感じた。
とはいうものの、トータルにはやはり面白い本ではあるし、不妊治療技術の開発のみが「不妊」という問題の解決方法であるかのように扱うことはおかしい、我々の社会全体が変わるべきだという指摘は当然、納得できる。
要するに著者は、新たな問題を生みだしがちな安易な技術適用を続けるのではなく、我々がどのような社会を形づくっているのか自覚的になり、真の問題、問題の本質は何かよく考えた上で、技術は使えと言いたかったらしい。
これから技術開発はどうなっていくのだろうか。新たな技術が開発され、規制されつつも利用されていくことになるのだろう。
著者は本書でこうも言っている。
規制というのは、当然、特定の価値を優先し、異なる価値を退けることになるからである。つまり規制とは、価値観と価値観のぶつけ合いの結果の妥協点であるべきだと著者はいうのだ。
なお内容に直接は関係ない話だが、本書264ページにあるように卵核の遺伝子を2nにしたところで、ゲノム・インプリンティングの問題があるので正常な胚は発生しえないと思う。ゲノム・インプリンティングの問題は、今後のクローン技術の発展の中でも大きな課題となる(というか色々なことが分かってくる)だろう。
折り込みに用語集が附属。これは非常に便利。付録資料も充実している。
という視点をまず強調する本書は、地球温暖化問題を取り巻く現状と、その拠り所となっている気候モデルの実際、そしてなぜ今対策が必要かということを述べた本。次世代気候モデル開発の話などもふれられている。
全体的に「 地球が暖まって何が悪いの? 実のところ何がどうなの?」といった素朴な問いに対して、気象学の立場から素直に応えられている形になっており、実に面白い。
このシリーズの常として、巻末には座談会が付属。松井孝典、石弘之、著者の3人。それぞれの立場から忌憚ない意見が述べられていて、これまた面白い。
地球温暖化にどの程度人為的な影響があるのか、それはまだ実証されていないので分からない。気象というのは実にややこしく、分からないことが多いのだ。
たとえばかつては温暖化すると台風が増えると言われていたが、最近の研究によるとそうでもないことが分かったという。こんな状況なのである。
だが一方で、実証されてからでは手遅れになる。だから取りあえず気象モデルを信じて何か対策を打ちましょう、というのが現在の実態である。
仮に地球が温暖化したらどうなるか。温暖化といっても地球全体が温暖化するわけではない。主に極地方の気温が上昇する。その結果氷河が溶けて海面は上昇するが、いっぽう、温帯域は広がる。長期的に見た場合、ヒトという種にとっては生きやすい世界になるかもしれない。
だが人間が作り上げた経済社会は、温暖化に伴う変化に過剰に応答する可能性が高い。平たく言えば崩壊しかねない。だから何とか現状を守りましょう、と言っているのが現在の温暖化問題であるということを自覚しておかないと、地球温暖化の何を議論するにしろ、議論の本質がかみ合わないことになる。
自由主義経済あるいは近代文明は、欲望の追求と解放を是として今までやってきた。それはもはやどうしようもない。賽は投げられている。そこをどう押さえ込むのか。まさか我慢を国が強要するわけにもいくまい(たとえば本書によれば、環境政策のみに注目すれば、ナチスは非常に良い政策をしいたと考えられるのだそうである。今のドイツにもその影響は残っているのだという)。我慢だと国民が感じないような形で、成長を抑えていくしかない。だがそんなことに耐えられるのか。
とにかく化石燃料を燃やしてエネルギーを使えば温暖化は進行するのである。現在、日本をはじめ先進国はCO2など温室効果ガスの放出を如何に抑えるかということに躍起になっているように見えるかもしれないが、景気が良くなれば温暖化は進むのだ。じゃあ不景気のままでいいじゃないかというわけにはいかないのが、温暖化にもっとも影響を受ける経済社会なのである。だから話はややこしく、堂々巡りになりがちなのだ。
問題は複雑で(ある意味単純とも言えるが)、いまのところ解決の糸口はほとんど見えない。
著者は長期戦だと思ってのんびりやればいい、と語っている。やれることからやり、あまり効果が出ないようでも続けてやれ、ということだろう。
チベットモンキーとは中国に住むニホンザルと近縁のサルだ。彼らはニホンザルよりも「ごしゃごしゃした」つきあい方をして暮らしているサルで、いくつか変わった行動を持つ。
中でも面白いのが「ブリッジング」と研究者らが呼ぶ行動である。一頭のオスがコザルの足を持ち上げ、もう一頭のオスは肩口を持ち上げる。コザルは二頭によって仰向けに橋のように持ち上げられるわけだ。そしてコザルの性器をなめたりさわったりする。オス同士が仲良くなるための行動らしい。
またオス同士もまた、ペニスを見せたりなめたりする。メスがオスの性器をなめる行動は見られないということなので、これもなにやらオスザル同士のコミュニケーションらしい。
本書はその社会行動の調査ノート的な本。チベットモンキーがいかにその社会の中でたちまわっているかが描かれている。
基本的に、普通のサルの本、という感じ。「他者と他者の関係」を理解しているらしいチベットモンキーの社会行動の記載や考察は興味深くはあるが、今ひとつ深みに欠けているように思えた。サルの行動に関する考察も、仰々しく書かれている割には推測の部分が多すぎるような気がする。
それと、普通の本にするときにはもうちょっと改行してはどうだろうか。弱い頭で延々と形式段落なしの文章を読まされるのはしんどいのだ。
本書は、惑星形成論の現在の成果をコンパクトにまとめた本である。まず一般的な惑星系形成の話から始まり、そこから太陽系の形成論の現在、観測によって明らかになった実際の惑星系、意外なその姿、さらにそこから発展する惑星系形成理論の展開がまとめられている。その他、月形成の話、そして「地球」がどのくらい銀河系に存在しうるかなどなど、結構盛りだくさん。また太陽系形成論の発展の歴史も面白かった。文体が硬いのが気になるが(特に前半)、気軽に読める形式でまとまったのは嬉しい。
月形成についてはページのはしに、パラパラマンガの形でシミュレーション結果がまとめられている。これはナイスアイデア。やっぱり動きがあるものは「動く」形で表現されないと分からないのだ。
現在の太陽系形成論にもまだいくつか難点がある。ダストから微惑星への形成過程や、ガス惑星形成の時間、原始惑星ができたあとの惑星形成過程とその後の円軌道への移行などなどのことだ。本書はその辺のどこがどう問題なのかということも淡々とではあるがちゃんと描かれているところが面白い。科学書一般に言える話だが、どこからどこまでが分かっていることなのか、そしてどこからは分からないことなのかということをきっちり描いてくれる本がやっぱり面白いのだ。そういう意味では、もうちょっと分かってないところや問題点を強調してくれると、個人的にはなお面白かったかも。
観測からの問題提起も面白いところである。理論の人たちは太陽系以外の惑星系も何となく太陽系みたいなものだろうと思っていたのだが、実際に発見されたのは恒星のすぐ近くを回る巨大なガス惑星とか大離心率を持った惑星系とか、「異形」の惑星系ばかりだったのだ。しかも、どうやらこれは特殊ケースではないらしい。だがその一方で、太陽系形成の「標準モデル」も間違ってはいないようだ。いったいどこがおかしいのか?
どうやら形成過程を考える上での仮定にある種の「思いこみ」があったらしい。惑星は中心星からの位置を変えずに成長するわけでもないし、必ずしも安定した状態で恒星の周りをぐるぐる回っているわけでもないらしいことが逆に分かってきた。こうして繰り返される再検証仮定を経て、太陽系形成論はより一般的なものに、そしてよりダイナミックで面白いものになりつつあるように見える。著者らの表現によれば「太陽系形成論」は「汎惑星系形成論」へと脱皮しようとしているのだ。
後半はジャイアント・インパクトのシミュレーションを中心とした月形成の話になる。そこはあちこちで紹介されているので省略するが、月がないと地球の自転軸が安定せず、その結果、安定した気候が保証されない、という話は何度読んでも面白い。月がなかったら地球に現在のような生態系はなかった可能性が高いのだ。天文の世界から見る生命観は独特である。
というわけで、基本的にはお買い得な本だと言えるだろう。パラパラマンガを見るだけでも楽しいし(笑)。
なお手前味噌だが<ネットサイエンス・インタビュー・メール>で行った、著者の一人・井田茂氏へのインタビュー録がhttp://www.moriyama.com/netscience/Ida_Shigeru/index.htmlにあるので、興味がある方は参照して欲しい。
本書は、科学批判の本である。<はじめに>によると「本書は末期的な症状を呈し始めた科学と、それがもたらす文明の危うさを実証的に描き、科学と人間の関わりを問い直すことに主眼を置いたものである」。科学史をざっと追い、科学の「発展」ではなく「進化」を提唱する。
著者は元日経の記者で『日経サイエンス』編集長などを歴任、現在は日経産業消費研究所の事務局長であり、日本科学技術ジャーナリスト会議の理事だそうな。
どうも僕は「日本科学技術ジャーナリスト会議」というところで役職を担っている人たちの著書とは相性が悪いのだが、本書もそれが的中してしまった感じ。なんていうのか、基本的には同じ様な考え方(あるいは問題意識)を持っているように思われるのだが、どこかで何かが決定的に違う、という印象を受けた。また、科学の「進化」を期待して非線形科学の話が出てくるところなどにも、むちゃくちゃ違和感あり。既になんだか違うんじゃないのかと思うのだが。
本書のトーンのまとめが著者自身によって語られていると思われる箇所を引用しておく(290ページ)。
本書は、科学文明の危機の原因を、科学の悪用・誤用に求めるのではなく、科学そのもの、科学者のあり方そのものに求めるという観点から、その描写を試みてきた。十九世紀から二十世紀への移行を境に、科学者集団は質的に変化し、道徳性や倫理を問われる存在になったこと、また、科学は現在第二次革命期にあり、線形科学の時代とは比べものにならないほど広大な知の地平を開き始めたこと、科学の肥大化の進行に伴って危険性も増大していること−−等々を見てきた。この辺、欲望の拡大再生産を問題視するところなどは個人的に興味がある点でもあり、だいたい一致しているのだが、何かが僕とはずれている。全体的に、冒頭で感じた「いまさらなに言ってるの」的な印象が最後まで抜けなかったこともあり、あまりおすすめはしない。
このような実状認識や上述の問題意識を踏まえたうえで、科学文明の本質にさらに迫るため、ここで次の点に触れておきたい。
一、科学は欲望を拡大・再生産する。
一、科学技術は解決すべき課題を増殖させる。
一、科学は人類存亡のカギを握っている。
しかし、この辺の「ズレ」の感覚はどこから生まれているのだろうか。私個人の中から生じる違和感であり、私個人の問題なのだが、具体的には一体なんなのか、私はまだ突き止めるに至っていない。そこを言葉にできなければ、この手の本の書評などできないのだが、何かが違うのだ、それだけははっきり感じる。いったい何なんだろう。
今後の課題として、真面目に考えていくつもりだ。
本書の内容は『脳のなかの幽霊』(角川書店)と共通している。つまり近年のブレインマッピングの成果をベースに、心の働きの不思議を脳に追う本だ。
右脳と左脳の連絡がとぎれたために片腕が勝手に動く症例「エイリアン・ハンド」。猥雑な言葉を口走らずにはいられないジル・ド・ラ・トゥレット症候群。大脳辺縁系と新皮質との連絡が絶たれると物事を感じることができなくなり、評価ができなくなる。自分が死んだと思いこむコタール妄想。五感が混ざり合ってしまう共感覚などなど多彩な症例もやはり登場する。
こちらはカラーで図版も多い。だがラマチャンドランのようにキャラ立ちした「主人公」がいないところが違うところだ。だがそれでも、じゅうぶん面白い本である。間にちょいちょいと入っている脳研究者からのコラムも面白い。
この本でも幻覚は大きく取り上げられている。自分を虐待した父親の姿につきまとわれていた女性の話は特に面白い。彼女の脳を計測した結果、非常に面白い反応が見られた。彼女の前に電球をつける。そしてその前に人が座っているところを思い描いてもらう。すると、電球を示す反応が消えたのである。つまり幻覚が電球を遮ったのだ。幻覚はありありと、まるで実物のように感じられるというのは本当だったのだ。
現在では、幻覚は主に新皮質の働きで作られ、大脳辺縁系は影響を受けないらしいことが分かっているという。その結果、子どもがしばしば口にする「空想上の友達」は、子どもにとっては実在するのだが、感情面にはあまり影響が出ないことが説明できるという。
いっぽう、フラッシュバックはこれとは違う。フラッシュバックは激しい恐怖などを伴うことが多い。これは、フラッシュバックは幻覚ではなく、既に意味づけされた記憶であるからだという。
なるほど。分かったような分からないような話だが、いちおう納得はできる。今後、より細かい話が分かってくると、より面白くなりそうだ。
著者が最後に意識の座として注目して取り上げているのは前頭葉、特に前頭眼窩皮質。辺縁系から生まれる衝動を抑圧し、長期の計画を実行するために不可欠と考えられる部位だ。だが、衝動はそもそも行動の原動力である。何を選択し、何を抑圧するのか、それは具体的にどのような形で機能しているのか。今後の研究を待ちたい。
内容は初心者から専門家まで幅広い読者層が楽しめる深さととっつきやすさを持つ。ヘビの五感、脱皮の不思議、生態、行動、進化、ヘビにまつわる伝承、大蛇、そして毒に至るまで。
巻末には文献リスト、用語解説、日本語のヘビ本リスト、研究施設リストなどが付けられている。ストレートな本なので、これ以上は付け足すことなし。気軽に読める。