上・下巻だが、僕は一気に読んだ。この小説は、それだけの力を十分に持っている。合計定価2800円だが損をした気にはならない。97年、日本SF・モダンホラー界に最大の話題を振りまいた本だけのことはある。
本書への指摘は既に多くのメディアで為されているし、私自身個人メールなどで感想をもらっている。どうも、多くの人が似たような感想を抱いたようだ。
肯定的な感想としては「いやあ、面白かった」「久しぶりに興奮した!」というもの。
否定的な感想としては「科学用語が頻出して…」「登場人物の心理背景に納得できない」「科学からオカルトへの転換についていけない」「下巻の展開が急すぎる」といったところ。
否定的肯定的感想を同時に同じ人が抱いた、というのが前作「パラサイト・イヴ」と大きく違うところだろうか。つまり、かなりの人が「おもしろさ」を認めた、ということだ。これは私自身も含まれる。
前半部分の科学的知識解説については、ネット上の感想などを見ると、あまり良い形では受け入れられなかったようだ。「読書に熱中する妨げとなった」という意見も見た。
私自身はというと、あんまり気にならなかった。このくらいなら別にどうということはないというか、いわゆる「演出」の範囲内だと思う。ただ、あまりSFや科学書を読みつけない人には苦しかったのかもしれない。難しいね。
では、どうすればより多くの人の共感を得ることができたのだろうか。これは本作のみならず、多くのSF、特に「ハードSF」と呼ばれているジャンルSFが共通に抱えている問題であると思う。ちょっと考えてみよう。
本作でいえば、同じようなシチュエーションの繰り返しで、説明が繰り返されていることが気になった。もっと違う形で「専門用語解説」を行えば、ずいぶん印象が違ったのではなかろうか。例えばマイクル・クライトンは、ウィットに富んだ登場人物の会話によって、コンパクトに必要な知識のエッセンスを伝える。彼の小説の中で各登場人物が行う解説は(中には首をひねるものもあるが)比喩表現などが抜群にうまく、概して面白い。またそのほとんどは「会話」によって行われていることから、通常の表現にごく近い形で、ストーリー展開に必要な専門知識伝授が行われている。そのシチュエーションはだいたいにおいて「科学者同士の会話」だが、その会話が行われるまでの過程がごく自然で、飽きないようになっているし、あまり繰り返されないように工夫されているように思う。
一方本書の場合は、たとえば昔刊行されていた<ブルーバックス>に出てきそうな、「少年との会話」といったシチュエーションなどを用いて、脳の機能が解説されている。この少年が小学5年生とは到底思えないほど「ものわかりが良すぎる」という問題もあるのだが(笑)、それは指摘するにとどめておく。
この場面では場面の<切り返し>などを用いて頻繁に場面切り替えを行うなど、ずらずらと説明が続くことを防ぐ工夫がなされている。マンガ世代、映像世代の感性である。とはいうものの、やはりくどいような印象があるのは否めない。専門家が自分だけが納得して独り言を呟いているように、多くの人には読めてしまったのではなかろうか。この辺りには改善の余地があると思う。
またいわゆる「ト書き」や「地の文」で、この手のことを解説するのはやめたほうが良い。特に本作の場合、説明はどこか1人称的な印象がある。たとえ3人称の形をとっているところであっても、そういう印象を感じてしまう。そこの辺りが、多くの読者に「とっつきにくさ」を感じさせてしまったのではないか。これは、手法の問題+描き方の問題ということになるだろう。
まあ、僕的にはあまり気にならなかったので、本当はどうでも良いことなのだが。正直言えば、難しい難しいと聞いていたもんだから、変に期待しすぎていたくらい。SFファンの中でも「理科ばなれ」が進んでいるのか?もっと無茶苦茶やってくれても良かったな、と個人的には思う。
ただ、その無茶苦茶のやり方にもいろいろと手法があると思う。もうちょっとオリジナリティーが欲しかった。実はこれは本書を読んでいる最中も、ずっと感じていたことなのだが。どういうことかというと、本書の中で披露される様々な事柄のほとんどは「どこかで聞いたことがある話」なのである。
作者はかなり勉強して本書を書いたらしい。それは良く分かるのだが、本書の中で披瀝されるそれらは、所詮借り物でしかない。小説というのは所詮「ウソ」なのだから、もっと「オリジナルのウソ」で読者を鮮やかに騙し、空飛ぶ絨毯に乗っけて飛ばせて欲しいのだ。少なくとも僕が「小説」に期待することは、ノンフィクションの張り合わせではない。「如何に騙してくれるか」、これがモダンホラーやSFに期待することである。ありあわせのものを張り合わせて物語を紡ぐのではなく、今後はもっとオリジナリティーを求めたいと思う。
「科学からオカルトへの飛躍」に関しても、まだちょっとウソの付き方がぎこちないなあ、と感じてしまった。これでは「ただ誤魔化しているだけ」、と批判されても仕方ないところがあると思うのだが。その辺は皆さんがお読み頂いて判断して欲しい。
とはいうものの、これだけ勉強して物語を語れる作家は、多分そうはいない。そういう面では、この第二長編によって、ある種の「安心感」が出てきた。だからこそ、「次」を求めたいということだ。SFの面白いところは、ひととき、世界の認識を擾乱してくれるところである。モダンホラーの面白いところは、空前絶後の見せ場を活字で表現してくれるところである。瀬名秀明はこれらの面白いところを十分理解している作家だろうと思う。今後に期待したい。
おまけ。
最後50ページほどは、ちょっと「AKIRA」を思い出してしまった。
本書がどういう範疇の小説なのかは言い難い。普通の意味でのSFではないが、別にここで取り上げてもバチはあたらんだろう。SFといってもおかしくはないし。直木賞も捨てたもんじゃないなあ。
さて。
主人公・東野はチェリスト。音楽家だ。適度に才能はあったが目立つほどではなく、地方都市で生徒をとって糊口をしのいでいる。ある日東野は、療法士から頼まれ、精神障害者のための社会復帰施設にやってくる。音楽療法をある女性に施すためだった。その女性・由希はサヴァン症候群様の能力を持っていた。しゃべることも感情を表に現すこともなく、他人とコミュニケーションを図ることも、その意欲もなかったが、音楽に関してはある種の天才だったのだ。東野は彼女に音楽を教えはじめる。基本を教え終わると彼女は、一度弾いて聞かせただけでそっくりそのまま弾くことができるようになった。そしてめきめきと腕を上げていくが、結局それは自動機械としての能力に過ぎなかった。だが、彼女の能力はそれだけではなかった…。
と、まるでつまらない内容紹介のような文章ですいません。この小説の場合、ネタばれになったところで別に問題はないと思うのだが、ここまでにしておこう。
女性を描かせたら比類なしという評判もある作者。細やかな心理描写や葛藤、情感を描かずに描き出す行間の筆力など、作者の筆は変わらず冴えている。理解できない対象とのコミュニケーション。人が生きていくこと。「幸福」に関する著者の問題意識。それを超えたところの考え方。これらも見事に描き出されている。傑作だ。少なくとも俺はそう思った。
まさに感想文だな、こりゃ。すいません。
子供だましのストーリー、陳腐きわまりないプロット、描写の欠如。語り口にも工夫がない。これじゃあ駄目でしょう。こんなレベルでは目の肥えた最近の読者はのれない。少なくとも僕は駄目。
全部の収録短編が駄目なわけじゃないけど…。
良かったと言えるのは牧野修「罪と罰の機械」くらいかなあ。語り口の勝利か?でもこれは「ラヴ・フリーク」の方がハマるような気がする。
せっかくSFテーマでのホラーが読めると思ったのに、がっかりしてしまった。怖くもなければ面白くもない。とにかく、プロットを「読ませる」んじゃなくって、うだうだと「説明」しているような作品が多すぎる。こんなレベルなのか、今の日本SF界は?これじゃあ駄目でしょう。だって、書評するとか以前の問題で、つまらないんだもん。
次はなんとかして欲しい。
見事に物語は「ループ」し、昇華した。まさか「リング」の物語がこういう手を使うとは、「やられたなあ」というのが率直なところ。基本アイデアは、ホラーとしてもSFとしても、それほど珍しいものではないが、まさかこのシリーズがこういう手を使ってくるとは、正直思っていなかっただけに、綺麗にやられてしまった。柔道の技を綺麗に決められてしまった時のようだ。日記の方にも書いたけど。ネタが割れた時は、思わず笑ってしまった。これは笑うしかないでしょう。
噂どおり、瀬名秀明「ブレイン・ヴァレー」と内容が若干かぶっている。だが、かぶっている部分は、ほんのちょっとだけだ。「ブレイン・ヴァレー」は、科学から入ってオカルトにいってしまう。「ループ」は全く逆で、オカルトを科学の言葉で語ってしまった。それはおそらく著者のねらいではなく、そうなってしまったからそうなっただけだろうと思うのだが(著者の志向はSFといったジャンルではなく、エンターテイメント一般だろうと思えるので)。落ち着くべきところを探すとこうなった、ということなのかもしれない。
しばしば同列に取り上げられる瀬名秀明作品と鈴木光司作品には、それ以外にも対照的な点がいくつかある。特に、両者の書く作品の構成はまったく逆さまだ。瀬名秀明は小説の最後でウソをつき、鈴木光司は前半でウソを付く。本作を読後、そういう対照的な面についてつらつら思いを巡らせたのだが、なかなか興味深かった。
本編の話に戻ろう。
「らせん」のストーリーに一部破綻を感じた人も、本作でそのあたりには納得がいくと思う(俺だ)。なるほどねー、と思わされてしまう。ただ、本書のまさに昇華したイメージのある読後感からすれば、ごくごく細かいことだと思うのだが、いくつかの謎はやっぱり残ったままだし、いまひとつ主人公キャラクターの落ち着き先に疑問が残らないでもない、まだ。ひょっとしてまだ続編があるのだろうか?
まあ、その辺りは読んで個々人で考えて下さい。感じ方の問題かもしれない。
鈴木光司の描く小説は、肉体感覚・身体感覚をまた大きく増した。特にスケール感の描写のグレードが上がっている。スケール感を身体で感じる描写、とでも表現すれば良いのだろうか?アメリカ旅行での体験が大きかったのだろうか?これまでどおりの身近な身体感覚描写──においや音、視線などの生々しい描写のグレードも上がっているようだ。ラストシーンの余韻も、これまでの著作を連想させるものながら、なかなか感ずるものがある。次回作はどんなものになるのだろうか。全く分からないが、期待したい。
日本でもこういうSFを書ける人がまだいる、と分かって嬉しいのが正直なところだが、著者・鈴木光司の興味関心は、多分ジャンルとしての「SF」にはない。最近、どうもジャンルSF以外の人の書く「SF」の方が遙かにSFらしく、エンターテイメントとしても面白く、質も高いように思う。それでいいのか、日本SFは。1読者としてはそれで良いような気もするが、SFファンとしては思うところがなくもない。「SF界」という閉じたジャンルに問題があるような気もするのだが。