そういう本です。宇宙論研究の歴史の追い方そのものは非常にスタンダードなんだけど。
もっと色々書こうと思ってたんだけどめんどくさくなってきたのでここまで。
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精巣内精子回収法(TESE)や卵細胞質内精子注入法(ICSI)など進展著しい生殖技術。著者は言う−ごく近い将来、生殖は完全に性行為と切り離され、子供たちはテクノロジーによって生み出されるようになる。その結果、セックスは(今日よりもさらに)快楽と結びつく。子供を作る行為は淡々とした計算ずくの営みになる……。
著者が予測する未来絵図はこうだ。
男女間の性の駆け引きは大きく様変わりする。遺伝子を使った父子鑑定技術の発達により父子関係はきちんと認識されるようになる。「望まない妊娠」によって重荷を背負うのは男性になる。
体外受精と代理出産技術の成功率上昇とリスク低下の結果、不妊症は消滅する。ほどなく誰もが遺伝上の子供を作ることができるようになる。
事故で精巣を失っても大丈夫だ。ほかの動物−−本書の例ではネズミ−−の精巣を使って、人間の精子を作ることができるからだ。本書では二〇五〇年には日常の医療となった話として出てくる。そしてこれはSFではない。既に一九九六年には、ペンシルバニア大学とテキサス大学の共同研究チームが、ラットの精粗細胞をマウスの精巣に移植し、マウスにラットの精子を生成させることに成功している。異種間の精子生成は、近未来に人間にも適用されるに違いない。
また、ほかにも生殖技術に大きなインパクトを与えそうな技術にクローンがある。
一九九七年に誕生したクローン羊ドリーが世間に与えたインパクトは計り知れないものがあったが、クローン、あるいは人工的に双子を作る技術は、全く新しい不妊治療の手段として使われる可能性がある。たとえば精子や卵子を作ることができない男性や女性が、「自分の子供」を持つためにクローン技術を応用したいと考えることは十分考えられるし、既にそういう希望者は存在する。また不妊治療ではないが、不慮の事故で子供を失った母親が、その子のクローンを望むというのは、いかにもありそうなケースである。ベイカーは不妊治療目的のクローン研究は二〇三〇年頃には着手されるだろうと予測している。
その後待っているものは何か。ベイカーが言うところの「避妊カフェテリア」と「生殖レストラン」の到来だ。
現在人々は、望まない妊娠と養育のリスクを犯し、性病罹患のリスクを犯しながらセックスしている。ペッサリーやコンドーム、ピルを使用して。だが近い将来、避妊方法は劇的に変化する。そして初産時の年齢や家族構成、配偶者探しの形態は予測もつかないほど変わるだろうというのがベイカーの主張である。
ごく近い将来、人々は避妊のためにブロックバンクと呼ばれるシステムを使うようになる。卵管や精管を結紮し、卵子や精子を冷凍保存するのだ。これによって人々は、妊娠能力を維持しつつ完全な避妊を実現できるようになる。ほかにも多種多様な避妊方法が登場してくる。人々は自らの収入と見比べて、それぞれの避妊手法を選ぶことになる。これが「避妊カフェテリア」である。
子供を作るためにはまず生殖相手を捜さなければならない。だが、その相手と物理的なセックスをする必要はない。やるべきことは、メニューがずらっと並んだ「生殖レストラン」のコンピュータ端末の前に座るだけ。そこには目の色、性格、IQ、体格など、ありとあらゆるパーソナルデータが完備されたデータメニューがある。凍結卵子または精子の提供者たちのデータである。子供を作る側は、その中から好きな「メニュー」を選ぶだけでいい。こうして子供たちは精子卵子取引所の助けを借り、「オーダーメイド」で誕生する。これはまさに民主主義と市場経済とテクノロジーによる優生学の復活に他ならない。
テクノロジーによって変容した未来の男女関係、家族構成はどんな世界を生み出すか。ベイカーは本書後半で、近親相姦、浮気という考え方、同性愛の子づくり、法律面など、どんどん複雑化していく家族の未来に思いをめぐらしている。
行き着くところは結局、自然淘汰と進化の歴史の終焉である。
この未来をバラ色だと感じる人は少ないかもしれない。「自然に反する」と感じる人も多いだろう。だが彼に言わせれば「未来の悪夢も過去の因習と大差ないのかもしれない」。また「何が自然で何が自然でないか−−つまりは何に賛成して、何に反対するべきか」という問題において、自然という概念は、あまり適当ではない。なぜならその定義ができないからである。ひげもそらず服も着ないような人間はいないように、純粋に自然である人間などいない。ベイカーに言わせれば「未来の生殖テクノロジーを反自然的であるとして非難するのは偽善だ」。
こういった主張から分かるようにベイカーは基本的にテクノロジー楽観主義である。人々の心に眠る優生的傾向がテクノロジーによって表に出てくることに対しても、やはりほとんど問題視していない。
実際の未来の方向性としては、たぶん、ベイカーが考えるように向かっていくだろう。市場経済を守り続けている限り、その流れはおそらく止めようがない。自己決定による優生学が広がることになる。『優生学の復活? 遺伝子中心主義の行方』で、ブライアン・アップルヤードが歯切れ悪く規制が必要だと言っていたように思うが、彼が危惧していたことをそのまま進めると本書が描くような未来世界になる。
そもそも、生殖技術は「子供を持ちたい」という欲望から発し、それに答えるべく発展してきた。もともと欲望の産物なのだ。ベイカーが予測する生殖レストランや精子卵子バンクは今日の目からすれば寒々とした印象を受けるが、それらは結局、欲望と希望の産物であり、人々が幸福を願った結果なのだ。
もし人々が願わなかったら? 実現しないだけのことだ。
面白おかしくするためにかなり演出された本書の内容を鵜呑みにするのではなく、他の多くの本と一緒に読んで欲しい。
たとえば日本において優生政策が実施されていったのは戦前ではなく戦後であったということなどは、今後の、我々と優生思想とのスタンスを探る上で、もっともっと注目されてよい。また本書で繰り返し述べられている「優生思想=ナチズム=国家的巨悪という枠組みからいったん離脱しないと優生思想の真の歴史的な流れも実態も、そして今後我々が直面する問題の真の姿も見えてこない」という主張も納得できるものである。
ワイマールからナチズムへの連続性、北欧の福祉国家での優生政策実施過程など、本書を通読すれば、どのような思想から優生思想がうまれいづるのか、だんだん分かってくる。優生思想は、独裁政治や全体主義、あるいは人種差別主義的な考え方から生まれてくるのではない。むしろ往々にして「人道主義」や「社会福祉」の考え方から生まれ出るのである。優生学が「悪」とされるようになったのは一九七〇年以降に過ぎない。さらに「本人同意」が優生政策を広めることもある。またフランスのように、国家が優生政策を推進しなくても、独自の優生学が生まれるという過程は、今後を考える上で、もっと考察する必要がありそうだ。
というわけで、本書はこれだけで既に読むに値する本なのだが、問題は、今後どうするかという話である。そこが弱い。いくつもの本、そして本書でも認められているようように、優生学はその姿を変えつつある。「公共の利益を名目に、個人が子孫を残す権利を侵害するもの(p.234)」が旧来の優生思想だとすれば、選択的中絶、遺伝子操作など生殖技術誕生以後は「自己決定に根ざした優生学、いわゆる『自発的な優生学』や『レッセ・フェール(放任主義)優生学』が問題となっている」。
つまり今までは「生殖の自己決定権」を主張すれば優生思想に反対することができたのだが、これからは逆になる可能性が高いのである。その行き着く極北が『セックス・イン・ザ・フューチャー』でロビン・ベイカーが描くような世界だろう(ベイカーは楽観的、といううより、優生思想を認める立場だが)。
この問題に対して本書はどうまとめているかというと、以下のとおり。
自己決定の結果の集積が優生学的効果をもたらしうることを、われわれは認識しておかなくてはならない。「何らかの制度的介入」? 著者らは、そんなことができると本気で思っているのだろうか。治療できると分かっている胎児に対して何もしないとか、あるいは絶対に生みたくないという母親に対して、法律で縛るようなことが、これからの時代にできると思っているのだろうか。無理だろう。
これまで、国家や行政など制度による強制に対して個人の権利と自由を対置させるかたちで、優生学は批判されてきた。しかし、今後、「レッセ・フェール優生学」に歯止めをかけるために、何らかの制度的介入が必要となってくるだろう。
先端医療技術の採用によって、人類の生殖形態が生物学的レベルで激変し、生物種の境界、自然と人工物の境界、世代の境界を乗り越える可能性が、今後いっそう増大してくるだろう。遺伝医療と生殖技術が飛躍的に日常生活に浸透することが予想される二一世紀を、優生学史の第二世紀にしないという決意で迎えるためには、生殖の意味の変質を歴史的にあとづけ、生殖の権利についての新たなパラダイムを構築する必要がある。
(235ページ)
そういう意味では、新たなパラダイム構築の必要性があるのは確かだ。また、その前にまず本書のように優生思想の歴史的実態を再確認しておく作業も必要だ。だから本書そのものは必読なのだが、この結論(めいたもの)は如何にも弱い。
かといって僕にも、どういう結論を導き出せばいいのかさっぱり分からないのだが。
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著者らの研究によるとカモシカは爆発的に増加するような動物ではなく「潜在的増加率は低い」という。また分布の拡大もゆっくりしている。また、著者はマスコミによって数字が一人歩きしたと言っている。
しかしながら、やはり被害問題が現実に存在することも確かなのである。問題はここらへんにあるような気がする。カモシカ問題に尽力してきたという著者ならば、当然分かっているものと思うが、本書を通読する限りにおいては、どこかに温度差があるような気がしてしまった。
また、時代の変遷による自然回帰の傾向とともに、カモシカ問題のマスコミにおけるトーンが被害を声高に訴えるものからだんだん変わってきた一方で、毎年千頭以上が捕殺され、その数はどんどん増えているという事実もまた、いろいろと考えたいテーマを提起している。
著者が本書を通じて言いたいことは内容的にも気持ち的にも理解できるのだけど、本書のような戦術で功を奏するのかな。なんか逆効果のような気がする。うーん…。
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それは、単に本人たちの思いだけで実現できたわけではなかった。もちろん熱烈な情熱と輝かしい才能はあった。だが、それらを持ちながらも時代の偶然によって消えていった人々も多かったろう。彼らは、幸運な人々でもあったのだ。それぞれの人生が、必ずしも幸福とは限らなくても。
のっけからきついことを書いてしまったが、これらは本書の絶対的な瑕疵でもなければ内容の中心部でもない。
本書では、二人の著者が章ごとに交互に執筆する形式で、南極へ行く前の準備、居住棟の様子や食生活からゴミの始末といった身近ネタ、圧倒的なオーロラの無音の乱舞風景や猛烈なブリザードなど南極ならではの話などなどが、ユーモラスかつ新鮮な文体で綴られている。僕は思わず、何度か噴きだして笑ってしまった。二人が「日本女性初の越冬隊員」ということをさっぴいても、ユニークな南極越冬記だと言える。
南極越冬といっても、現在の昭和基地のなかは極めて快適らしい。ただし「一年間、通信の他には外界との接触がなくなり、孤立した社会を形成すること。限られた物資と人数で、すべての設備を維持し生活していくこと。それに、自然環境の厳しさ」が普通の環境とはやはり違う。
だが本書を通読していると──確かに特殊環境のなかでの、(研究職という)特殊な職種の人々の、閉じられた社会での特殊な生活ではあるのだが──実に楽しそうに感じられる。
それは単に、競馬やサッカー、あるいはお花見を楽しんでいる風景描写だけから感じられるのではない(もちろん、それはそれで楽しいのだが)。
南極で、基本的に彼ら(著者二人以外の越冬隊員も含む)は研究しかしてない。「南極へ行く」という行為を含め、様々なハードな野外活動や基地設備の整備も、すべては研究のためである。もちろん研究対象はみんなバラバラなのだが、研究という行為を目的にしているという点では同じだ。その、一つのことだけのために40名弱の研究者たちが共同して事にあたる。しかも実に楽しげに。
そのことが、一読者たる僕には、素朴に羨ましく思えた。
ちょっと読めば分かるとおり、二人はそれぞれ全く別の動機で越冬隊に参加している。著者の一人・東野は「100人越冬すれば100通りの感想があるのです」という。かたや新婚でラブラブ、かたや天然ボケといった感じの文章を単純に楽しむだけでもいいと思う。気楽に読める面白い本だ。
ちなみに、二人はまだ現役の大学院生である。本書は確かに南極という特殊な場所での話ではあるが、他の大学院生も、このくらいの本は(自分たちなりの環境をネタにして)書けるはずだ。
なお本書の著者の一人、坂野井和代氏が影響を受けたという森永由紀氏(女性初の南極観測隊員)には『魅せられて、南極』(時事通信社)という著書がある。併読すると興味深いかも。
また東野陽子氏は自分のウェブサイト上で、また別の形式──「南極嫁入り物語り」というタイトル──で体験記を書いているので、そちらをご覧になると、なお楽しいかも。
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著者は有人探査よりも無人探査を、資源を採掘する場所としての宇宙よりも観測や科学探査のための場所としての宇宙観を持っているようで、本書も基本的にそのスタンスから書かれている。だから他惑星でのコロニー建設やテラフォーミングには、著者は反対らしい。
本書は、反物質いよるロケット推進や光子帆船、地球外生命の探査、ナノテクによる極小ロケット、宇宙開発に関する様々な技術やトピックス、そして多様な意見を紹介する本。宇宙開発というより宇宙進出の未来を描く。
特徴は、技術を紹介するだけではなく、著者の意見を巧みに織り交ぜているところにある。しかも著者は、宇宙開発に対するイケイケドンドン系の人ではない。たとえば民間主導による宇宙開発にもどうやら反対らしいし(というより無理だと考えているようだ)、クラークが言うところの宇宙への進出は人間の本能だといった意見にも疑念を表明している。また『マーズ・ダイレクト』のズブリンら資金提供を政府に頼っていてはダメだし、その必要もないとする人たちに対しても、「ズブリンの主張が正しいかどうか明らかになるのは、火星協会が人々に対し、関心だけでなく資金も寄せて欲しいと要請するときであろう」と冷静かつ皮肉な見方をしている。
宇宙コロニーに対する考え方も面白い。彼に寄れば、オニールのコロニーなど宇宙ハビタットの構想は、ちょうど人類にのしかかってきた戦争や環境破壊に対する不安感を反映して登場し、支持されたものだったという。確かにそうだったのだろう。現在では、地球脱出を本気で考える必要があると思っている人はほとんどいない。宇宙のコロニーの話にしても、基本的には地球が母星であり、地球に留まって地球の問題を解決しようと考える人のほうが、現在では確かに多いように思える。「宇宙ファン」の間ではこういう意見はあまり見られないので、それだけに新鮮だ。
さらにSFではお馴染みの小惑星帯における鉱山開発の話についても、ジョン・ルイスの『mining the sky(空を採掘する)』 の中の
太陽系に含まれる物質とエネルギーによって、人類は無限の未来を手に入れられる。地球上の険悪なしがらみを断ち切り、太陽から逃れ、その運命から解き放たれるのだ。時間と空間が満たされることが物質である。物質が満たされることが生命である。そして生命の充実は、無限の知と共感へ向かうのだ。という一節に対して、
とはいうものの、ルイス自身がまず地球上の険悪なしがらみを断ち切るべきだろう。人類最大の充実として宇宙の隅々まで自らを行きわたらせるというのは、あまりにも素朴で傲慢な図式ではないだろうか。個人的には、太陽の命がつきる五〇億年後に、太陽とともに運命をともにするような人類のほうがよいと思うのだが。(117ページ)と言っている。
ただ、著者は宇宙進出に反対なわけではない。彼のスタンスはこうだ。
人類はいずれ太陽系じゅうを旅することは誰もが認める。人間だけに可能な探査や、有望な惑星にコロニーを建設しつつ、百万倍も遠い星系の惑星への旅に思いをはせることだろう。火星にはじめて人が降り立つのは二〇三五年ごろか、それとも二〇一五年かという問題は、歴史に照らしてもごくささいな対立に過ぎない。それよりも、太陽系とその先の天体に対して人間が何をするかの方が、はるかに重要なのだ。筆者の意見としては、人間がこれまで地球をいかにめちゃくちゃにしてきたかを考えると、他の天体に大きく手を加える前に、ていねいな扱いというものを学ばねばならないと思う。天体は全人類の共有財産などではない。それは宇宙のものなのだ。(93ページ)また著者は、物質・反物質反応型のロケット推進が実現できる日も、時間の問題でしかないと言っている。
結局、彼の言いたかったことは(当然だが)本書の巻末に書かれている。
二〇世紀、われわれ人類ははじめて宇宙空間への進出を果たした。今後の世代が宇宙の地平を拡大し、いずれは同じように宇宙空間を旅する他の文明に出会うと、期待していいだろう。本書のはじめに筆者は、想像のなかの宇宙で自由に旅をしてほしいとお願いした。筆者としては、われわれが地球人であるだけでなく、宇宙市民の一員なのだという自覚をうながしたかった次第である。わが人類という種族にプライドが持てるよう、できることから行っていこうではないか。宇宙の法廷に立ったとき、人類のしていることを胸をはって弁護できるようでありたい。あるいは、せめて自分の良心に対して。(198ページ)宇宙への進出にあたって、ともかくがむしゃらでいいではないかという時代は終わり。もっと(今までよりもさらに)長期的な視点に立つべきだと著者は主張したかったのだろう。
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一昔前、1940年代まで、「カーブは本当に曲がっているのか。錯覚ではないのか」という議論が行われていたというから驚く。だが、現在でも実は変化球についてはよく分かってないことが多いのだ。
たとえばフォーク。あれは落ちているのかどうか。普通の人ならばみんな口を揃えて「落ちているに決まっている」というだろう。だが、実はほとんどのフォークは積極的に落ちているのではなく、単に放物線を描いているだけなのだという。打者との心理的な駆け引きで落ちているように見えるだけだというのだ。
どういうことかというと、いわゆる「直球」は、実は変化球だというのである。つまり、本来だったら放物線を描いて落ちる(通常のフォーク)ところを、ボールが落ちずに突っ込んでくるボール、それが「直球」だというのだ。
ボールを投げるとき、縫い目に指をかけて、球を放す瞬間、手首のスナップを利かせる。球は指でこすられて、いわゆるバックスピンがかかる。するとどうなるか。空気の中を回転しながら飛ぶボールはマグナス力と呼ばれる空気の圧力差から生まれる力を受ける。バックスピンがかかった直球の場合は上向きの力を受ける。そのため落ちずにまっすぐ飛ぶのである。カーブ、シュートなどもマグナス力によって変化する変化球だ。
では全部がマグナス力による変化球かというと違う。ナックルなど回転を殺して投げる球の不規則な変化はマグナス力によるものではない。そして、本当に落ちているフォークも、またマグナス力による変化球ではない。これらは、たった一ミリほどの縫い目パターンの盛り上がりに伴う空気抵抗の違い。そしてボールがゆっくり回転することによって縫い目パターン=空気抵抗が変化すること、これによってもたらされる変化なのである。ここが本書の白眉になる。
そして著者と本書に登場する『ピッチングの正体』の著者・手塚氏らはジャイロボールという変化球を提唱する。
ジャイロボールとは要するに回転方向が進行方向に対して垂直、すなわちライフルのように回転しながら飛ぶボールのことだ。投げるときのボールの持ち方によって縫い目の位置を変えることで、球種が変化する。剛速球にもなるし、そのスピードのまま落下するボールにもなるという球だ。松坂が投げている球がこれだと著者らは言う。最後には『巨人の星』の魔球の考察まで。
著者は車のシミュレーションから変化球の研究をするようになった変わり種である。どうして変化球の研究をするようになったかについては、本書ではちょろっとしか出てこない。そこがオモシロそうだと思うのだが。
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著者の講演がしてきたなかで、一般大衆にウケがよかったネタを集めた本、とのこと。肥満遺伝子の話とか、体内の塩分濃度の調節メカニズムとか血圧とか体温低下のはなしとか。
別につまらなくはないのだが、ちょっと科学書を読んでいる人ならば、知ってる話ばかり。そういう意味では期待はずれだった。ただ、知らない人も多いだろうし、一冊にまとめられているので便利ではあるかもしれない。
「今でも生理学は、あらゆるレベルで解剖学とからみ合った学問分野であり、ある構造物の形がその機能についての重要な手がかりを与えている」と著者はいう。それぞれ違った環境に住む生物たち。彼らが如何に巧みなメカニズムでそれぞれの必要に答えているか、思いを馳せてみるのもいいだろう。
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本書が他の類書と違うのは、各企業は、どういう歴史と背景を持って遺伝子ビジネスに乗りだしてきているのか、ということからちゃんと報告しているところ。
あとは細かい話になる。本書をネタにすれば、いくらでもニセ記事が書けてしまうくらい情報量があるので、書き始めると際限がなくなりそうなのでやめとく。とおりいっぺんの話はbk1の遺伝子ビジネス本特集に書いたので省略。
まあ、科学書という感じではないので、違う話を。
本書に多数、引用されているように、西洋の絵画にはハエを描いたものが多数ある。しかも、宗教画や肖像画のなかにハエが描かれているのだ。しばしば悪の象徴とされてきたハエは、死の象徴であると同時に、ポロリと落ちる儚さの象徴でもあるのだ。
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