良い短編小説には、作家の本性が凝縮されている。本書は、そんな短編集の一つである。全7編、どれも篠田節全開で楽しませてくれる。怖い話あり、ちょっと良い話あり、でもやっぱり基本は怖い話だな。
東京で起こった大震災。それによってペンション村に暮らす男の価値観が次々に崩壊していく過程を描く『幻の穀物危機』。
パチンコ狂いの母に代わり、3人の弟妹の面倒を見る少女に同情した男の運命を描く『やどかり』。
義母の介護のために導入された最新型の介護ロボット。そのロボットの手は…。篠田作品には珍しい、主観の切り替えを使った作品『操作手』。
脳梗塞で痴呆かした老女が語る街の風景を伝えたものは…。ゴーストストーリーとして読むこともできる『春の便り』。
職を失い、パッチワーク作家の妻の収入で日々を送る男。飼い犬が死に、妻は食生活に変調を来した。ある日男が食事を人のために作る喜びに目覚めたとき…。彼ら夫婦の運命を描く『家なり』。
自分は人生に成功したと信じていた、高卒たたき上げの証券マンの運命を描く『水球』。
理想を掲げる原始共産農村型共同体に預けられた被虐待児・光。彼は、周囲に全く興味関心を示さなかった。ただ、豚だけを除いて。他6編とは若干違った読後感を残す表題作『青らむ空のうつろのなかに』。
「運命を描く」という表現が多くなってしまった。私の語彙力のなさを表すものであり、通常であれば手直しすべきなのだが、敢えてそのままにした。この短編集の作品群に対する感じ方を、そのまま残したかったからだ。
空気のように当たり前に信じて疑わなかった物事が崩壊していくときの恐怖、カタルシス、そして奇妙な幸福感。『水球』の水槽、『家なり』の太った妻など印象的な一つのオブジェクト。農業への傾倒。「理想」への疑問。
初出はそう新しくないのだが、現在の篠田節子の各断面がよく現れた短編集と言える。
さて内容だが。うーん。こんなこと言うと怒られるかもしれないなーと思うのだが、なんだか、50年代の頃のSFを彷彿とさせる作品が多いような。古き良き時代のSFの雰囲気を感じるのだ。ネビュラをとった『ラセンウジバエ解決法』も、「驚愕すべき作品!」だとか「女性ならでは!」なんてのは書こうと思えば簡単なのだが、それよりも僕は、ティプトリーの持つ昔ながらのSFの血のようなものを、本作品集には感じてしまった。
だから、伊藤典夫氏による宮沢賢治との比較を試みた解説も思わず納得納得。
それにもともと僕はティプトリーの作品って「女性ならではだなあ」って思いながら読んだことないんだよね。SFを読むときに、女性性を探しながら読んだりしないし。他の人達の感覚とはだいぶずれているのかもしれないけど。
しかしなぜティプトリーの作品は(一部の)女性に熱狂的なまでの支持を受けるのか。謎だ。
追伸:余談を一つ。
ラセンウジバエの話は元々有名で、たとえばメイ・R・ベーレンバウム『またまた99匹の跳ぶ、這う、かじる仲間』にも出ている。
という始まりかたである。この始まりかた、その後のRPGやゲームブックを意識した展開といえば、僕が思い出すのはシマックの、えーと、なんだっけ、タイトル忘れた(笑)。創元推理文庫から出ていた奴なんだけど。目録とか持ってないから分からないや(思いだした人、いたら教えて下さい)。というわけで、そういう話、プロット的にいえばSFにはよくあるパターンの話である。
やがてこの「ゲーム」の参加者が複数いて、なおかつゼロサムゲームであるらしいことが暗示される。藤木は生き残ることができるのか? このゲームの目的は? 主催者はいったい誰だ? といった謎と展開、心理的なドラマでストーリーは進む。数多くのイベントで読者を飽きさせない。ゲームの舞台に関する蘊蓄披露のうまさはさすが貴志祐介である。なおゲームの舞台がどこであるかは、『いきもの地球紀行』や『神々の詩』を見ている人ならほどなく分かる。
エンターテイメントとしてはさらさら読めるし、読んでいるうちは全く飽きはこない。だが、どうだろうか。読後感がちょっと物足りないかなあ。なお著者自身は「このミス」で、この小説は敢えて分類すれば「サイコホラーの変種」だと言っている。まあ、そういう読み方もできるけど、昔だったらこれはSFだよなあ、なんて思ったのでした。
PS:
ここで挙げたシマックの小説、『超越の儀式』でした。教えてくださった海法紀光さん、どうもありがとうございました。
で、その結果はというと。
つまらなかった。がっくり。
本編は目まぐるしく視点(主観)を切り替える形で進んでいく。それが単に切り替わるだけではなく、もう一度同じ部分を別のキャラクターでなぞりなおすという形が取られているのだ。
こういう手法は、短編小説ならばあるいは効果を発揮するかもしれないが、長編全部をこれでやられるときつい。はっきり言えば、うざったい。著者の文体はどちらかというとテンポ重視なのか軽めなので余計うざったく感じてしまった。
ストーリーもねぇ。これ、ゲームやった人なら面白く読めるの?
とりあえず、風野さんの感想と違うところを書いておくことにしよう。森岡浩之「A Boy Meets A Girl」は、確かにそこそこの出来で、なおかつ著者が何を書こうとしているかも分かった。本書の作品の中では随一である。だが描写が説明的で、今ひとつ感動を呼ばない。もっとも、これは本書収録の他作品が同様に抱えている問題である。
それはSFならばある程度は仕方ないという意見もあるかもしれない。だが私はその立場をとらない。たとえばA.C.クラークの作品は淡々とした描写で説明を行っていながら、圧倒的な迫力と感動を醸し出すことに成功している。比べる相手が悪いとは言わせない。そんなのはただの言い訳でしかない。本書で言えば、「星喰い鬼」の横山信義は、そこで失敗していると思うのだ。大建造物を描写したいなら、単に直径○キロ、というだけではダメなのである。
あ、それとこれはどうでもいいことなんだけど、もし人工的に作るなら6じゃなくて2だと思うな>「A Boy Meets A Girl」。
貴重な企画なので売れて欲しい、という思いは僕にもあるのだが、人に無理矢理買わせて読ませるほどの出来じゃない、残念ながら。早狩武志「輝ける閉じた未来」なんか、ある意味最悪じゃないかな。あれ読んで感動できる人いるの? いったい何が書きたかったんでしょう。同人誌掲載作品なら許せるレベルだけど、プロになったんでしょ? 厳しい言い方かもしれないけど、顔を洗って出直してきてください。
辛口になってしまったついでに言っておくと、表紙には「新時代のSFがここに幕をあける!」とあるのだが、「新しい」ってイメージのものは全くなかったような。残念だけど。
以前にも書いたと思うが、私はどうも朝松健氏の作品が好きになれない。本作品集でも、彼の作品が僕には一番面白くなく感じられた。これは他の人(あるいは本人)がどう言おうが仕方ない。つまんないんだもん、俺にとっては。じゃあ面白かったのはというと、飯野文彦『襲名』、図子慧『ウツボ』、立原透耶『はざかい』かな。あれ、今のホラー界の大御所二人の作品が外れちゃったよ。
なんでこの二人の作品を僕があんまり評価しないか自分なりに考えてみると、要するに、読者に甘えているように思えるからかもしれない。読者と作家が、最初から共通のイメージを抱えていることを暗黙の前提として文字を連ねているような気がしてならないのだ。そこらへんの「甘え」が、なんだか肌に合わないのかも。
もっとも最近のクトゥルー神話ものの場合は、普通のホラー、その他のホラーと違って、ある意味で水戸黄門的な面白さを期待してこっちも読んでいるところがある。来るぞ来るぞ、ほうら来た、ってあれね。だからそれはそれで良いのかもしれないけど…。
なおそれぞれの小説の間には高橋葉介、山田章博、諸星大二郎3氏によるイラストが挟まれている。僕はこの中では山田氏のイラストが一番好きなんだけど。ていうか高橋葉介のイラストはねー。僕の一世代上の人には怒られるかもしれないけど、もう、今の時代や今の若い人の持つ「クトゥルー」のイメージからは(ギャグだとしても)遠すぎるんじゃないのかな。
舞台は架空の日本。この世界の日本は「大東亜共和国」と名乗り、「総統」によって統率されるファシズム体制がひかれている。だがある程度の自由は認められており、それによって逆にファシズム体制は安定政権を保っていた。ロックは敵性音楽として禁止されてはいるものの、実際には黙認されているといった具合だ。
香川県の中学3年生・七原秋也らは、修学旅行の退屈なバスの中にいた。他愛ない会話、気の置けない仲間達。それがずっと続くはずだった。ところが…。バスの中で気を失ったあと目覚めた場所、そこは「プログラム」の舞台だった。
「プログラム」。この国では毎年任意のクラスを選び、生徒達を拉致、最後の一人になるまで闘わせるという殺人ゲームを行っていた。それが「プログラム」。国防上必要なものとして国民全員が知っていたが、まさか自分たちの身にそれが降りかかってくるとは…。こうして、お互い見知ったもの同士による殺人ゲームの幕は切って落とされた。
政府の役人・坂持金発(長髪で「加藤」という名の生徒に手こずったことがある。「おいこら加藤ーう!」)をはじめ、各運動クラブのエースに「男女不良代表」、はてはオカマまで、学園ものの定番キャラを全てそろえ、殺人ゲームを行わざるを得ない状況に放り込む。それが本書の内容である。ノベルス版で666ページ(これは何かのしゃれなのだろうか?)という長丁場だが、読んでいて飽きない。主人公達が中学生の割に大人びすぎていたり(高校生くらいにすれば良かったのに)、若干、同じパターンが続くところがあったりはするものの、著者の筆力とケレン、そして何より状況設定のうまさのたまものである。
ただ、グロテスクな話、イカレまくったスプラッターな話を期待すると外れる。そういう話ではない。敢えて分類するならば「活劇」ではないだろうか。それもちょっと違うか。要するにノンジャンルなんだよな。
本書『バトル・ロワイヤル』を読んでいると、似たような文体、似たような感覚の小説が他にもあったことを思いだした。中井拓志『レフトハンド』、戸梶圭太『闇の楽園』の2冊である。この3冊の作者はいずれも若い。というかオレと年齢が近い。そのせいか、妙にハマるのだなあ、これが。
この3冊に共通しているところは何か。それは例えば、これまでの小説では「ケレン」とされていた部分が、ケレンではなく、あって当たり前の要素として溶け込んでいるところなどかもしれない。ジジ臭くていやだけど、良い意味で「マンガ世代」の書いた小説、という気がする。これはもちろんマンガを小説にしている、ということではなく、もちろん活字でしかあり得ないのだけど、活字の中にマンガのダイナミクスや、面白いと思ったら何でも詰め込むところとか、そういう感覚を文字に載せて表現しているところとか、そんなところが似ているように思うのだが、あなたはどう思いますか?
ああ、なんだか分けが分からないが、買って読んで、そう損はないのでは。先に挙げた作家らも含んで、「濃厚エンターテイメント系」と名付けたいところである。