本書で一番面白いのは終章。裁判形式で、例のアレが生命の痕跡なのかどうか、架空の研究者達がヴァーチャル討議をする。ここは結構面白い。肯定派・否定派それぞれが、どういう立場で意見を述べているのか良く分かる。これはお遊びだが、架空の研究者名から実物を推察するのも、また一興だ。
火星の生命探しは、バイキングで終わったわけではない。著者は言う。
「生命を探すとき、環境の条件を無視してはならない。空を見上げて、ウマを探してはならないのである。何をバカなことを言っているのかと思う読者もいよう。私の言いたいことは、火星のバイキング実験のとき、われわれは大空にウマを探してはいなかったかという疑問である」
とにかく、行って調べてみなければ分からない。
つまらなくはない。だが、面白くもない。あまりにコンパクト過ぎたのかもしれない。
本書の面白さは、かなり薄味のエッセイとしての面白さに過ぎない。冗長なのだ、全体的に。進化論にある程度通じている人なら、読む必要は全くないだろう。少なくとも、これで1800円は高すぎる。
本書で引かれていた「つわり」の解釈は、まあまあ面白かったけど。それと「(昔は進化を早めているものを探していたのに)現在では、何が進化をこれほど遅くしているのかを考えるのが流行りだ」というくだり。この二つは面白かったかな。
まあ、読みやすいことは本書の良い点の一つに挙げてもいいだろう。
追記:
「つわり」について興味を持っている方がいらっしゃるので、ここに引用しておく。一言でいえば「つわり」は胎児を防御するためにある、というものである。
「…1988年に、当時カリフォルニア大学にいたマージー・プロフェットが、それまでにない新しい提言をした。プロフェットによると、吐き気などの症状は、血液中を循環する毒素に反応してそれを探知する脳のメカニズムが再調整されて起こるという。妊娠の初期に、それはホルモンの変化によって、吐き気をもよおす条件の設定を変更する。そして、ほんのわずかな毒素にも敏感に反応するようになるが、毒素の多くは、植物が草食動物から身を守るために進化させたものだ。母親の組織はこうした毒素に耐性があるが、胎児はそうではない。妊娠の最初の3ヶ月間で、胎児の器官の形成や組織の分化が一気に行われるが、その期間は、大人なら問題にならない濃度の毒素でも、胎児にはすぐに悪影響がでかねないのだ。つわりは、正常な発育を阻害する毒素から胎児を守るための適応ではないかと考えられる」 P175よりこの説がもし正しければ、つわりを無理矢理おさえたり、食べ物の好みが変わってしまったことに逆らったりはしないほうがいい、ということになる。あとは、本書を読んで下さい。
そもそも、温暖化は本当に起こるのか。人間活動に伴う温室効果が存在することそのものに疑問を差し挟む人はほとんどいないが、これがイコールで地球温暖化に直結するかというと、必ずしも確証のあるものではない。もともと科学という世界は断言することを非常に苦手とする。仕方ないのだが、この世界的気候変動の問題──グローバル・チェンジは、「仕方ない」ではすまない問題なのだ。我々全てが住む惑星全体の問題であり、このカケは、負けるわけにはいかない。
ただし、惑星そのものの問題ではない。しばしばこの手の問題の主体を「地球」という言葉にしようとしている人がいるが、私はそれには反対だ。地球の気候が変動したところで「地球」はなんともないのだから。主体は人間、せいぜい生物程度にしておくべきである。地球がどうしたこうしたといえるほど、人間様は偉くない。そんな台詞は、惑星の傾きをいじるとか、公転軌道をずらすとか、そういうことができるようになったときに取っておくべきである。
「せいぜい生物程度」といったのはなぜか、付け加えておく。
例えば、バクテリアは日々新種が生まれ、絶滅している。環境の変動に応じて。でもそれを問題視する人はいない。バクテリアだって地球40億年の歴史を背負った生き物なのに、だ。だが対象とする生物のサイズが少々大きくなると、途端に人間はそれを問題視し始める。
そのことそのものをどうだこうだ言うつもりはない。よかれあしかれ人間という生き物は、自分中心の視点を持った我が儘勝手な生き物なのであるということに自覚的であるべきだ、ということが言いたいのである。人間は、地球システムの大きな要素の一つとなった。だが、他の生き物達もそうなのだ。
地球システムはまだほとんど解明されていない。多くのパラメーターはブラックボックスの中であり、モデルの信頼性は高くない。「風が吹けば桶屋が儲かる」的な、玉突き的なメカニズムも存在するようだ(だから何が起こるのか分かりにくいのである)。何より、人間抜きの地球がどういうリズムを持っているのか、ほとんど解明されていない。だが、いまの人間が大きな要素の一つであることは間違いない。人間は、そのことに自覚的でなければならない。でないと、自分たちの文明を絶やすことになる。気候変動の影響が想像以上に大きいことは、歴史を振り返れば明らかである。
本書の主張は要するにこういうことであり、ある意味で当たり前である。だが、本書のような本が出ることそのものは評価したい。これからの気象学、地球観測学は大きな役割を背負っている。地球システムは、いったいどういう挙動を持っているのだろうか。
サメは鮫と書く。交尾するからである。名は「態」を表しているわけだ。そして、良く知られているように卵胎生である。一部のサメは子宮内で共食いをする。壮絶だ、とどうしても思えてしまう。
なぜ進化について書いて欲しかったかというと、コールバート「脊椎動物の進化」によると、サメの軟骨は二次的なものだ、とあるからである。この辺についても知識を仕入れたかったのだが、そこまで本書に望むのは我が儘だったようだ。
参考:
埼玉自然史博物館のサメリンク
本書を読むと、日本が世界中の海に影響を及ぼしていることが良く分かる。例えば、カリフォルニアのウニを食っているのは日本人なのだ。そのウニ漁が始まったのは、ウニを餌としていたラッコが、毛皮のために乱獲され絶滅寸前になり、ウニの数が増えたからである。そしていま再び、ラッコと人間はウニを取り合っている。
インドネシアではいまでも爆弾でナポレオンフィッシュを捕っているという。もちろん禁止されているのだが、なくならないのだという。この漁法を教えたのは、日本軍であるという。そして、獲られたナポレオンフィッシュを食っているのも日本人なのだ。そのために他の生き物達まで巻き添えになっているという。
実際に海で生きている生物たちの姿を、どちらかというと淡々とリポートすることにより、本書は環境──海について考えさせることに成功している。好著。
なお今年は国際海洋年である。
著者は現実主義者だ。砂漠化を引き起こした住民の生活を重視しつつ、乾燥地緑化、生態系の生産力回復を試みる。つまり彼は「手つかずの自然」を残そうとしているのではない。著者はこう語る。
「(森林伐採は環境破壊だという声に対して)しかし、われわれが地球上で生活をしている限り、自然はやはり利用すべき対象である部分が大半を占めるのであり、まず地域住民の生活があったうえでの自然保護であるべきだと考える。焼き畑をするな、薪を伐るなというのは、ベルサイユ宮殿の前に集まった民衆に「パンがないのなら、ケーキを食べればいいのに」と言ったマリー・アントワネットと同じ発想ではないだろうか。(略)ノイジーマイナー、サイレントメイジャーという状況はいたるところで起こっている。サイレントメイジャーの代弁者となることを、いわゆる科学者や文化人がいさぎよしとしないのはどうしてだろうか」「現地の空気を指のさきまで吸い込んで研究してきた」著者の、これが実感なのだろう。
森林にしろ砂漠化土地にしろ、今の生態的平衡は、気候、地形、生態系そのものの安定性、そして人間の活動など、総体の結果としてそこにある。大きな理由は人口増大と食料・エネルギーの必要性。それを、ただやめろといっても止まるはずはない。生産力を増大させながら、生態系を維持する道を探すしかないだろう。
この著者、安易かつヒステリックな環境保護論にはかなり批判的である。たぶん、逆に迷惑している、ということなのだろう。本書では湾岸戦争の話も出てくるのだが、そこにはこうある。
「しかし、感傷にふけるだけではなく、そうした油の影響を正確に把握し、対策を立てることが必要である。ウを石鹸で洗うことが環境保護ではなかったのだが、無垢な命を守るというキャンペーンは人びとの注目を引きやすい。しかし、洗ったあとの洗剤の混じった水をどうするのかというほうがむしろ問題は大きいのだ。まだわれわれは環境に配慮した思考に慣れていないのかもしれない」
著者によれば、一時期大いにもてはやされた高分子吸収剤は必ずしも有用なモノではないそうだ。なんと、植物の根がそこをよけて生えていたという。難しいものだ。
本書のタイトル、特にサブタイトルなどは、もうちょっと考えてつけた方が良かったのではないか。どうもタイトルで損をしている気がする。
こういう手の本の、一番の「実用」は、自分が読んでない本で、読む価値のある本を探すことにある。本書ではかなりの数の本が紹介されているので、それなりに役には立つと思います。
書評の内容については、どうなんだろ。それぞれってところではないでしょうか。ただ、まえがきを読むとどうだかな、と思うところもある。
そうだなー。僕自身の書評に対する考え方も、どこかでまとめておこうと思うんだけど、いまはちょっと時間がない。そのうち、まとめます。
一瞬の化学反応を止めて見るレーザーフラッシュフォトリシス、音で材料表面を見る光音響、分子レベルの凸凹とマクロな性質の関係、分子ふるいに分子鋳型、超分子工学、マイクロマシン、酸化チタン、光による磁性の制御、人工SOD、水のクラスタの話まで。一つ一つ挙げていくのは面倒だ。目次を見て欲しい。ブルーバックスだし。物性や化学の面白い話がいっぱいだ。
かえすがえすも、誰が何を書いているのか分からないのは残念。それと、マイクロマシンの話はちゃんと章立てされているのに、どうしてナノマシンの話はちょろっとしか出てこないの? 残念。
ついでに本書で紹介されていたリンクを張っておこう。東京都立大学工学研究科応用化学専攻。
著者の主張は結局、多重人格否定派のものと同じだ。当人は否定しているが。つまり、多重人格はセラピーによって生まれた虚偽の意識だ、というのである。
ある単語・用語が生まれると、その言葉それ自身が力を持ち始める。概念を規定し、我々の記憶やそこへのアクセスの文脈を支配する力である。著者はその力の影響を、多重人格や児童虐待の歴史の中に見る。要するに著者は、多重人格は昔だったらヒステリーと分類されていたものであるに過ぎない、だが一度レッテルを張られるとそれは実際に機能し始める、と言いたいらしい。
浅い読み方だと批判されそうだが、私には不満が残った。こんなことを言って、何か意味があるのだろうか? なるほど、ある種のセラピーが多重人格を作り上げてしまうことが、もしあるとすれば、それを防ぐ役割は果たせるかもしれない。だが、だからといって、いま実際に苦しんでいる人に何か実効があるのか? 自分が自分自身の記憶にアクセスするとき、絶えずある文脈を作り上げている、といったことは言わずもがなに思えるのだが。問題は、それがなぜ(見かけ上であろうが実際そうであろうが)複数の人格(のようなもの)を発現させているのか、ではないのか。
やはり僕は、記憶の科学に基づいた本を読みたかった。
だが著者は、臓器移植反対論者ではない。臓器提供者は生きている、死んではいない。だが、生命はみな全て等価ではない。生きてはいるが、もう2度と意識を取り戻さないのであれば、その生命は他の生命よりも価値が低い。だから他の生命を生かすためであれば、臓器を取り出しても良いのだ、そう考えるべきなのだ、という。たとえ提供者が「生きて」いても、である。そういう新しい倫理観が必要であると著者は言うのである。
既存の生命倫理は綻び続け、ほとんど詭弁だというのが著者の立場である。長くなるが直接引用しよう。
コペルニクス以前の宇宙論と同様に、「人命の神聖性」という伝統的な教えは今では重大な困難をかかえている。この伝統的な教えを擁護する人たちは、当然のことながら、この教えにほころびが生じるたびに何とかそれを繕って対応してきた。第一に、彼らは、まだ暖かくて呼吸している身体から鼓動を打っている心臓を取り出して、それをもっと予後のよい患者に与えることができるように、また「自分たちは死体から心臓を取り出しているにすぎない」と自らに言いきかせることができるように、死の再定義を行った。第二に、不可逆的昏睡状態の患者から人工呼吸器を取り外す決定は患者の生命の質の低さとは無関係であると自ら納得できるように、彼らは「通常の」治療手段と「通常以上の」治療手段とを区別した。第三に、生命を短縮することがわかっているほど大量のモルヒネを末期患者に与えても、表向きの意図は痛みの緩和なのだから、そのような行為は安楽死にはあたらないと彼らは言い張った。第四に、重度の障害児にたいして「治療停止」を選択し、乳児が確実に死ぬ措置をとっても、そうすることは乳児を殺すことではないと彼らは考えた。第5に、「生命の神聖性」の教えのもっと柔軟な信奉者は、「誕生以前に個体としての人間は存在するようになる」という考えを否定することによって、女性の生命、健康、福利を胎児のそれらより優先させることができた。そして最後に、人間と人間以外の種との違いは種類の違いというより程度の違いであるという明白な証拠があるにもかかわらず、彼らは知的障害者と人間以外の動物との比較をタブーとすることによって、種の境界を「生命の神聖性」の倫理の境界として温存したのである。 P.233より著者は、これらの行為をするな、と言うのではない。その逆さまで、これらの行為を倫理的に認知する、あるいは倫理と整合させるためには、新しい世界観、新しい倫理観が必要だというのである。つまり見方の方を変えるべきだというのだ。
医療技術の進歩により、無脳症児やこれまでは助からなかった乳児が助かるようになった。意識が戻らないと考えられる患者を、数十年生かしておくことも可能になった。なるほど、彼らは「意識がない」。だが、意識がない=死んでいるわけではない。意識があろうがなかろうが、彼らは依然として誰かの子供であり、親である。そこには意識はなくともある種の「人格」が存在する。受け手側の幻想だ、そう言ってしまうことはできる──現代医学が言っているように。だが、それは本当に正しいことなのだろうか。受け手側の幻想に過ぎない、なるほどそれは正しいかもしれない。だが、それがなんだというのだ? 生きているものは生きているではないか。
ここに、倫理観の衝突が起こる。我々はこれまでの倫理観のみでは解決できない事態に直面している。あちこちに矛盾が生じている。「生命はみな神聖だ」と言いながら、その論点を良く見て見ると、あちこちに穴が空いている。その綻びは大きくなるばかりだ。著者は「生命の神聖性」に基づいた既存倫理の実効に、激しく疑義を唱える。そして、それよりも「生命の質」に基づいた新しい倫理が必要だと主張しているのだ。
「生命の質」を言い出すと、優生学その他の、影どころか本体がどうしても見えてくる。だが、著者の主張の本質はそこにあるのではない。だがそのように使われかねないことだけは頭に入れておく必要がある。著者は、死の幇助が認められているオランダの例を引き、実際にはそのようなことはない、そう言っている。だがしかし、その危険性はやはり極めて高い。少なくとも著者が言うように、高度な医療と福祉を収入などを問わず皆が受けられる社会以外には導入不可能な概念だろう。
17ページにわたる<訳者あとがき>にもあるように、「そういう発想をすること自体が間違っている」と指摘することは簡単である。だが、現実を直視することも必要だ。いまや我々は生と死の間、人格と無人格の間に線引きを引く時には、何らかの「理由」を編み出さなければならないとことを知っている。それ──例えば、妊娠間もない胎児は人格がないから堕胎してもよい──が、ある種の詭弁であるかもしれないことも知っている。また、この作業には何らかの考え方──倫理──が必要であることも知っている。
では、どう考えるか──これが問題なのだが、一概には言えないだろう。私自身、ここで何か言えるほど、実際にはどういう倫理観を持てば良いのか自信がない。卑怯かもしれないが、何らかの選択を迫られたとき、自分がどう行動するのか分からないのだ。
本書を読んでいると、何より考えさせられることは「倫理とは何か」という問題である。倫理とは、倫(みち)の理(ことわり)。どう生きるべきか、そしてその理屈や根拠、といった所だろうか。自分はどう生きるか。生きていくとはどういうことか。そのことを考える上でも、本書には一読の価値があると思う。我々は、既に多くの倫理問題に直面しているのだから。
死とは何か。
生とは何か。
人格とは何か。人間とは何か。生きるとはどういうことなのか。
著者は我々は既に「生命の質」の倫理を受け入れつつあるのだという。ただ、それを認めていないだけだと。引用した部分だけ、またこの感想文だけからだと、一方的・功利的な強者の論理・倫理が展開されている書物のような印象を受けるかもしれない。だが、著者の主張の本質はそういうところにあるわけではない。現実、そして生と死を直視せよ、自らの気持ちを誤魔化してはならない。これが著者の主張の核心だ。
「それでは、生命とはなにか?」
「生命とは何か」という問題は現象面から見ても科学史面から見ても認知的な問題であって、確固とした回答はない。
しばしば、彼女らの主張のキーワードは「共生」ということで括られて語られている。だが本書(特に前のほう)を読んでいると、共生というよりは、様々な生命体の間に境界を引くことはできないのだ、というのが本当の主張なのではないかと思えてきた。これは一見同じ事を言っているように見えるかもしれないが、そうではない。最初から「境界」を持っているものが混ざることと、最初から境界などないのだ、と考える見方の差は大きい。
本書の訳について一言。固有名詞や用語だけでも最低限ちゃんと訳して欲しい。気になって仕方ない。
著者は、動物にも心象を描いたり、ある程度先を予測したりする能力があると考えている。彼はその証拠の一つに、動物の多くに「模倣」が見られることを挙げている。時には全くの別種である他者の行動を模倣するには「自分自身の身体についてなんらかのイメージ」を持っていなければならないからである。
本書の連続する二つのテーマのうち、もう一つは一元論VS二元論である。二元論に対する反論として著者はデカルトの弟子だった人物エリザベート王女の主張を引いている。面白いし、良くまとまっているのでここにも引用しておこう。
もし、非物質的で純粋に心的な構造が身体からの情報を受け、ついでそれに反応し、体内の物理的事象の流れを変えると仮定するなら、この相互作用の境界面から一連の問題が生じてくる。我々は、自分自身の心の働きで、いろいろと思いを巡らしている、そう考えている。いま読んでいるこの文章、次に訪れるあのサイト、モニターに張り付けてあるポストイット、そのように移り変わる心の働きも、自分で決断して「思い」を切り替えているのだと考えている。だが、一元論によるとそうではない。先に神経系の発火パターンが変わり、そのあと、その切り替わりの結果が「思い」の変化として意識上に現れてくるのだ。じゃあ、オレタチに自由意志はあるのかないのかという問題が出てくるのが面白いところなのだが、それは本書にはあまり関係ない。本書はあくまで意識の状態や意識の進化をめぐる本である。P49より
- どうして原子や分子という実在の物質が、物質界に属さないと定義される心によって、押されたり引っ張りまわされたりしうるのか?
- どうして非物質的存在である心が、全く別個の存在である物質界から情報を得ることができるのか?
- 仮に心が身体から情報を得ることを認めるとすると、どうして心がきわめて多様な身体的条件によって、たとえば中毒によってこれほど全面的に影響を受けるのか?
以下は全くの僕の空想で科学でもなんでもないのだが、「意識」というのは本当に「高度な」機能なのだろうか。自意識や身体イメージ云々も含めて、どうも、そうではないような気がするのだが。実はもっと神経系一般に存在するモノなのではなかろうか。なるほど、人間の「意識」の機能は、他のモノに比べてずば抜けているように思える。でも本当にそれは「意識」の作用によるものなのだろうか。実は意識以外の、何かもっと違う要素によるものなのではなかろうか。そんなことを最近思っている。
あんまり書くことないな。かなりすーらすらすいすいと書かれた本(でも、そんな風に読める本を書くには、実は相当な筆力が必要)なので、物足りなく感じる人も多いかも。でも入門書としては良いと思う。そうなると問題はこの定価だが、こればっかりは…。
本書は、監修者がちゃんと「監修」しているのが分かるのが嬉しい。「あれ?」と思ったところには必ず監修者がチェックを入れている。やっぱり監修者は本好きの人が良いよね。
中でもやはりホンダの「広瀬真人さん」の話は無茶苦茶おもしろい。抱腹絶倒。廣瀬氏が「鉄腕アトムをつくって見ないか?」と上司に言われたのは86年のことだったという。ホンダはモビリティー、移動手段の会社だ。86年に、4つの新しいモビリティを模索するプロジェクトが発足したのだという。4つとは超軽量車両、自動運転車、航空機、そしてロボット。
転職してホンダに入社した廣瀬氏が入社初日に技術研究所の所長・田上勝利氏から言われたのがその言葉だったのだそうな。笑えるのはここから。曰く、当時の様子はこうだ。
「翌日、案内されて研究室に行ってみると、メンバーは室長、工学博士の資格を持った40代の人、20代の若手、そしてぼくのたった4人。で、いきなり廣瀬氏は、明日の企画会議のためにアンドロイドの構想図を今日中に描いてくれ、と言われたのだそうだ。適当に描いて出したところ、案のじょう、当日の企画会議で、当時技術研究所の社長だった川本信彦氏から叱り飛ばされたそうだ。そりゃ無理だって。
物置から運び出したばかりの茶色くよごれた机を、”これ、君の机だよ”ってスタッフの一人が一生懸命みがいてくれていました。プロジェクトなんていうのもおこがましいほどの小所帯だったんです。
部屋には机のほかに本棚があるぐらいで、そこには『鉄腕アトム』のマンガ本が全巻ズラッと並び、人体の解剖図鑑や子供向けの本もいくつかありました。あとはゾイドという恐竜のロボット、四谷シモンの人形、オモチャが置いてある程度。”本当にやるのかな?”と心配になるような雰囲気でしたね」(P.17から)
そこでまじめな研究が始まった。取りあえず足だけで歩くロボットは、意外と簡単に2,3ヶ月後にはできてしまったという。そこで次に、どんなロボットを作るかという研究が始まった。カール・ルイスよりも早く走るロボットか、あるいは怪力ロボットか、となって、取りあえず現実的な怪力ロボットを目指すことになった。とにかく歩くものならなんにでも興味を持った。動物園に行ったり、自分の子供を撮影したり(だから当時のビデオを見てもほとんど顔が映ってないそうだ)、TVで美人コンテストの番組をやっていたら必ず見ていたそうである。また行商のおばちゃんをビデオ片手に追いかけ回したりもしたそうである。
86年以降、ロボットはだいたい毎年一年につき一台づつくらいのペースで作り続けられていったそうである。そして96年12月に、ようやくP2が公開された。その間、やっぱりストレスがたまったときもあったそうだ。そんなとき、彼はガンダムのプラモを買ってきて、子供と一緒に作ったりしていたそうだ(本当みたいで、50体のガンプラを前にした写真がちゃんと掲載されている)。だが一番の喜びは、やはりロボット自身が与えてくれたという。ものをつくっている人ならではの昂奮があったのだろう。これからの課題は、如何に動きを協調させていくかにあるとまとめられている。
その他の人の話は面倒なので省略。まあ、値段も安い?本なので読んで下さい。
「できる」という信念と、「想像力」を武器にして常識を打ち破った人達の話です。
で。
やっぱり面白いじゃないか、ちくしょう、というのが率直な感想である。一気に全部読んでしまった。ちくしょう、と思うかどうかは主観の問題なのでどうでも良いのだが、やはり面白い。というわけで読みましょう。内容については触れません。読んで下さい。仕方ないよ、これは。
まあそれだけで終わっても仕方ないので。この手の本の、ちょっと変わった読み方を。
言うまでもなくこの本は、研究者への取材・インタビューを元に書き上げられている。書かれた文章は当然一人のジャーナリストを通したものであり、それぞれの研究者をダイレクトに反映しているわけではない。だがよく読むと、実際に会ったときにはどんなことを喋る研究者なのか、文章を通して透けて見えてくる。
直接会っての取材時間は、如何に立花氏とは言え限られているだろう。本書の内容から察するに、おそらく長くて丸一日くらいか(それでも私のような者からすると羨ましい限りだが)。おのずと直接聞ける話は限られる。当然、記事のうちかなりの部分は紙資料をもとに書くことになる。で、どこからどこまでが実際に出会って聞いた話なのか、どこからどこまでが論文などをベースに書いたものなのか、読みながら、そんなことを推測するのである。
もちろん普通の読者にはそんなことはどうでも良いのだが、まあ、そんな読み方をしてみるのも面白いかも。面白くないか。でも、本書で登場した人達にこちらが会いに行ったりするときには意外とそういう作業も必要だったりする。なんせ普通のライターの場合、1時間かそこらしかもらえないから、如何にコンパクトに、「書ける」話を聞き出すかがポイントになるのだ。
閑話休題。まさにどうでも良い話ですいません。
さて、この本は「立花隆」が書いた科学書なのだが、どのくらい売れているのだろうか。今、科学書は売れないという。じゃあ「立花隆」とガーンと打った場合、どのくらい売れるものなのだろうか…。もしそれでもあんまり売れていないとしたら、どうすれば売れるのだろうか。
だが、遺伝子の組み替えや遺伝子重複による進化、遺伝子変換など、扱われているテーマそのものは非常に面白いものだ。それだけに残念だった。なんていうのかな、結局書き方の問題なんだよなあ。
イルカは集団レイプをし、ゴキブリは子育てを行う。ピットを持つ蛇はタマゴを守る。働きバチや働きアリは見かけほど働きものではない。熊は大食して太っても高血圧にはならない。多くのホルモンの働きは時と場合による。「すべての物質がいくつもの作用をもつ」のだ。線虫に寄生されたカタツムリは普段行わない有性生殖することで多様性を生み出して対抗する。不浄とされた月経には殺菌作用があるらしい(これまた『生物はなぜ進化するのか』でも紹介されていたマージー・プロフィットの説である。読んでみたいな、彼女の本)。
というわけで、気楽に読める本である。暇つぶしに最適。文章から見て、おそらく何かに連載されたものか?著者が行った何人かの科学者へのインタビューも収録されている。
進化論の究極の謎どうですか、面白そうでしょう。曲者は、「一つの解決を提案する」。このフレーズにあったのです。
生物というブラックボックスを開き、細胞内の分子、遺伝子のDNA、さらにその分子構造そのものを解明し続けてきた分子生物学。しかし分子レベルでの生物システムの精密さと複雑さは、それらの起源をどう説明するかという課題を化学者にもたらした。ダーウィン以来の進化論を分子生物学から問い直し、生命の謎の解明に対して一つの解決を提案する。
本書は、「創造主義者ではない」と主張する、創造主義の本だったのである。著者は生化学の視点で見ると生物は決して単純化できない複雑さを持っており、漸進的に進化してきたとは到底考えられない、よってこれは「知的デザイン」の産物である、と主張する。
前半の生化学の解説のあたりは(自分はどこに連れて行かれるのだろうか)と思いながらも、けこう面白いのだが、後半はすっかりこういう調子である。ここに大きな論理の飛躍があることは言うまでもない。
著者は科学者であるが、こういう考え方を持てる人なのである。日本ではあまりいないが、海外にはこういう人は多いと聞く。どうしてそういう考え方が共存できるのか知りたい、そういう奇特な要求を持つ人は読んでもいいと思うが、僕としては、この本に2800円と数時間を費やすくらいなら、別の本を読むことをおすすめする。
とにかく謎というかちんぷんかんぷんなところが多すぎる本書だが、そのいくつかを上げていこう。著者らは「水の電気双極子の凝集場」を細胞が作ることが重要だと考えているようだ。そういうものができているのかどうか、私には判断できないが、一つだけ言えると思われることがある。仮にそういうものが産まれていても、それはあくまで結果として産まれているものであり、それを生み出すために細胞内環境があるはずはない。私には、著者らの思いこみの激しさは感じられたが、それ以上の説得力は感じられなかった。
本書の後半はそのような記述に溢れている。たとえばこうだ。
「梅沢博臣博士と高橋康博士の量子場脳理論では、脳の中に量子場がいくつか存在しなくてはいけません。二人はそれをコーティコン場とスチュアートン場であると考えました。
そして、コーティコン場の波動を場の量子論の枠組みの中で捉えたものがコーティコン場の量子であり、コーティコンと呼ばれました。また、スチュアートン場の波動がスチュアートン場の量子、スチュアートンなのです(P.167)」
なお「コーティコン場」も「スチュアートン場」も、ここで初めて出てくる言葉である。で、こういう記述なのだから、これはもう、はいはいと言うしかない。
で、このあと、記憶とは、心とはといった話が展開される。僕には、少なくとも本書に書かれた内容からは、著者らのいうことに妥当性があるとは全く思えなかった。もっとはっきり言えば、トンデモ本と区別がつかなかった。少なくとも僕には。あるいは、著者らの別の本にはもっとちゃんと書かれているのだろうか?そちらは未読なのでなんとも言えないが。
本職の物理屋さんが読むとどう見えるのだろう?