というわけで、その記事を読みたい人はそれだけで本書を買う価値はあると思うのだが、あとの8人については目次から紹介しておく。
どれも、結構面白い。僕はそれなりに楽しんだ。
ただ、ページを繰っていて、インタビューものが売れない(と、出版業界では言われている)理由がちょっと分かった。インタビューは基本的に言葉のやりとりだから、そのテンポが生理に合わないと、読みづらくなってしまうのだ。本書の場合、僕は比較的平気だったのだけど。
とはいっても、興味がある人ならば読むしかないのだが。面白いのは面白いしね。大学へ入学したときに勉学に励むために友人に絶交を申し出たとか、月に2,3度は爆発事故を起こしていたといった話は、やっぱり笑えるし(でも、こういう話も全部『日本発トップを切る科学者たち』に収録されている)。当然のことながら、なぜ「青色」が難しかったのか、そして彼がなぜ「青色」に成功したのか、といった話も書かれている。
「井戸は水が出るまで掘れ」。成功するコツは、とにかく成功するまで諦めずに続けることだという。まあ、成功者はみんなそういうんだよな。確かに、頑張っても成功するとは限らないのだが、頑張らないと成功しないのも確かだ。「やめておけなどという忠告には耳をかさず、やってみるのだ」。
ただ、読んだ後、ふりかえって考えると、何か残ったかなあというと、あまり残ったものはなかったりする。いや、確かに至極もっともな話ばかりで、著者の意見には、ほとんど全面的に賛成なのだが。あまりに「ごもっともです」すぎるからかも。
まあいいか。ZMPとか、ロボットのアルゴリズムについてとかも、だいたいの所は分かるし。プレゼンテーションとはこういうものだと学ぶためにもいいかも。あまり誉めてないけど、決して悪い本ではない。なお北野氏も『日本発トップを切る科学者たち』に登場している。
番組を見てない人のために一応内容を紹介する。異種移植用トランスジェニック・ブタ、予めドナーになることを期待されて作られた子供、ES細胞、ESを使った臓器培養の夢、ESの収集源としてのウシ細胞とヒト細胞の融合胚、不老不死への夢、そしてまさに秒読み段階のクローン人間誕生。最後はリー・シルヴァー(『複製されるヒト』翔泳社)が登場して締め。
現在のバイオの世界の先端部分を、実際に世界に旅して直接研究者達に取材しており、しかもTVと違って、研究者と会ったときの取材者の印象まで書き込まれているので、その部分は非常に面白い読み物となっている。
ただ、著者の意図は批判や肯定ではなく、取りあえず研究の紹介にあったとのこと。研究の紹介だけなら別にNHKがやらなくても、既に多くの媒体がやっている。もちろんTVでやることには大きな意味があったと思うが、本でもやっぱり紹介だけっていうのは、ちょっとがっかり。少なくとも著者がどういう考え方を持ったかくらい、書いてもらいたかった。
著者の人柄が全面に出た文章で、だいたいの質問には丁寧に、でも時には相手にキレたりしながら質問に答え続ける著者の様子が笑える。特に自分でもこの手の質問電話の応対をしたことがある人ならば、みな身につまされて共感できるだろう。
特に印象に残ったのは、中学生の女の子からの電話の話だった(サーターアンダギー)。その子は、ヘールボップ彗星の写真を一枚送ってくれないかと頼んできた。国立天文台では原則としてプリント写真は送らないことにしている。だから杓子定規に言えば著者はその時点で電話をガシャンと切ってもよかったのだが、どうして写真が欲しいのか、女の子に聞いてみた。以下引用。
「あのね、国立天文台では写真をお送りできないんだけど、どうしてヘール−ボップ彗星の写真が欲しいのですか」合点がいった著者は原則からは外れるものの、一枚の写真を送った。それから一ヶ月後。その女の子から、お礼状と黒砂糖、そして石垣島のお菓子の「サーターアンダギー」が届いた。そういう話である。
「彗星を見ることができなかったんです。だから、写真だけでも見たいの」
「ヘール−ボップ彗星の写真はいまの天文雑誌にたくさん載っていますよ。お父さんかお母さんに御願いして、本屋で一冊買ってもらったらどうですか」
「でも、本はなかなか買えないんです」
話の調子から、私はちょっと気付くところがあった。町からかなり離れたとこに住んでいるのではないか。
「立ち入ったこと聞いて済みませんが、どこから電話をなさっているんでしょうか」
「石垣島です」
僕自身も、小学生のとき、天文台ならぬ測候所に質問電話をかけたことがある。何の質問をしたのかは忘れてしまったが、そのとき対応してくれた職員の方の親切な態度だけは、今でも記憶に残っている。
もう一つ。何か天文現象が起こると必ずニュースの最後には「この現象は○○年ぶりで、次に見られるのは○○年後になります」とアナウンサーは付け加える。だが著者はいう。
それにしても、これは、著者の言い分も至極もっとも、だとは思うけど、上のような質問をぶつけてくるマスコミ記者の気持ちも分かるなあ。 そういうこと言わないと、原稿がしまらないし、実際世の中からも期待されているみたいだから。というわけで、この質問に関しては、両者に歩み寄ってもらいたいなあと思ったのだった。
「このような現象がこの前起こったのはいつか」
「このつぎはいつか」
というマスコミの質問は何とかならないものか。この質問がどんなに無意味で、天文台の回答者を困らせているのかを知ってほしい。まず、「このような現象」というのが何を意味するかはっきりしない。
本書はそれを実現するための手前の技術である小型化、そしてウェアラブルへの道を、これまでの歴史、現状、ビジョンなど、まるごと書いた本。著者のビジョンは壮大で面白いのだが、実際にやっている研究が地味に感じられるのは仕方ないことなのか。でもまあ、これまでの技術周りの進歩や現状が、実際の研究者の手で描かれているので臨場感はある。また、資料としてもけっこう使い出がありそうだ。図版も多い。
ただ、実際にユビキタス・コンピューティングが実現したら一体どんな世界になるのか、そこがやっぱり見えないのが残念。どういう世界の到来を望んで、研究者は技術開発を行おうとしているのか、僕はそこが知りたかった。まさか単に小さくしたいだけ、ではないだろうし。
ユビキタス・ネットワーク(またはコンピューティング)という言葉は、本誌読者ならば、ご存じだと思う。ubiquitous、すなわち同時にあらゆるところに存在する、偏在するという言葉通り、センサーと無線を持った計算機を電子ペーパー、スマートカー、スマートルーム、体内センサー、そして周囲のありとあらゆるオブジェクトにばらまき、周囲の環境そのものをインテリジェント化する、いわば究極の情報環境ならびに、その概念のことである。
だが、本書でいうところのユビキタス・ネットワークはそれとはちょっと違う。上記のような概念は本書では「エキゾチック・ネットワーク」と呼称され、パソコンだけではなく携帯やPDA、カーナビや町中の端末などで気軽に情報空間にアクセスできるようになることを本書ではユビキタスと呼んでいる。いわば、より現実的、あるいは近未来的な情報技術・情報産業を想定、考察しているのが本書というわけだ。
前半がユビキタスの概念とそれを支える技術の展望、後半が来るべきユビキタス時代のビジネスと生活の考察である。ごくごく近い未来にブロードバンドでボーダレスなコネクティビティを実現するために、いまどんな研究開発が行われているのか、そして現実化したときにどうなると考えられているのか、取りあえずのことを俯瞰することができる。
本書の対象はビジネスマンである。だが、この本を通読し、中身を玩味できるのは、かなり意識の高い人々だろう。そのくらい本書の内容のレベルは高く、エッジは鋭い。
ただしレベルが高いといっても技術的詳細がいろいろ書かれているということではない。もちろんSS方式やIPv6、RFID(無線タグ)といった言葉は踊っているが、それはユビキタスのための要素でしかない。いま重要なことは、それでいったい何が変わるのか考えることだ。いつでもどこでも情報空間にアクセスできる、情報空間と接して生きるとはどういうことなのか。残念ながら本書でもこの部分の考察は弱く、後半部分はやや退屈だ。RFIDの実験として回転寿司の皿に埋め込んでみたという話が掲載されているが、こういった事例がもっと増えないと、まだ先は見えてこないのかもしれない。
なお、ユビキタスとはウェアラブルと同じだと捉えている人もいるようだが、それは違う。ウェアラブルがユーザーが情報機器を持ち歩くことを前提としているのに対して、ユビキタスは、いわば周囲の環境そのものが端末となるので、ユーザーはいわば手ぶらでも構わない。ただしこの二つの概念は相対するものではなく、やがては融合していくものと思われる。その辺は時を同じくして刊行された『ウェアラブルへの挑戦』(工業調査会)『モバイルコンピューティング』(岩波書店)をお読み頂きたい。
初出『DOS/Vマガジン』。野村総研のサイトにも情報があります。
2冊を通読してクリアーに分かってきたのは、白川氏は自分が求められているものは何かということをかなり的確に判断して喋ることができる希有な才能の持ち主らしいということ。聴衆や読み手に応じて、自在にレベルを変えて喋ることができるようなのだ。これができる研究者は意外と少ない。
これまた加筆します。