カバー袖にはこうある。
…最近まで、行動の多くが“多遺伝子(polygene)”の支配を受ける量的形質であるために、遺伝子行動の因果関係の把握は困難視されていた。ところが、遺伝解析技術の進歩に伴って、量的形質といえども対応する遺伝子の同定が可能となり、また、複数の遺伝子の組み合わせによってはじめて現れる表現型であってもその分子的根拠を探ることが可能となった。もちろん、線虫、ショウジョウバエ、マウスといったモデル動物において行動制御遺伝子をめぐる研究が着実に前進し、行動の生得性が具体的な個々の遺伝子の機能に還元可能であることが示されたことも、行動遺伝学研究に大きなはずみとなった。現在の生物学は、いわば「新たな博物学」を分子レベルでやっていると思うのだが、そのなかでも非常にホットな分野だけに「面白話」が満載されている。産卵や摂食に関わる遺伝子が見つかっている線虫、行動特異的に発現する遺伝子が見つかっているミツバチ、回遊行動に関連する神経内分泌系と遺伝子の関係が解明されつつあるサケ、ナルコレプシーのモデル動物として使われているイヌ、時計遺伝子、冬眠の分子行動学などが紹介されている。そこを追いかけていくだけでも面白い。今後、“行動遺伝子”の実体がつぎつぎに明らかになるにつれ、動物行動の人為的改変による育種といった応用の可能性もでてくるだろう。一方、ヒトの行動形質の遺伝的根拠についても、ヒトゲノム解読の進展に伴い、急速に解明が進むものと考えられる。とすれば、こうした研究が自然科学の枠を越えてさまざまな社会的問題と結びついていくことは必定である。かかる意味でも、行動遺伝学の到達点をいま確認しておくことには大きな意義があるであろう。
だが、本書29ページにはこうもある。
行動遺伝学は、生得的な行動を遺伝子→神経回路→行動で説明するだけだったらそれほどおもしろい学問ではない。むしろ、この路線のなかで、線虫のようにきちんと解析のできる材料を用いて理詰めの研究を行い、予期せぬメカニズムを発見することが学問を発展させるのではないだろうか。思いもかけなかった生物の巧みなメカニズムの発見、あるいは「博物学」の段階を経て「分類学」そして「理論」の段階へと進んでいくところ、そここそが面白いというわけだ。予期せぬメカニズム云々が面白いという話は、素人から見てもそうだろうなあと思う。
この線虫のレビューでは行動遺伝学そのものもレビューされていて、文末では
行動が遺伝子・細胞・神経回路の各レベルで解明され、生物個体は、どのような意味で機械あるいはコンピュータとみなすことができ、どのような点では異なるかが、明らかになるだろう。(38ページ)とまとめられている。どこからどこまでが機械で、どこからが機械とは違うのか。今後に期待したい。
だが、そうはいってもやはり目を引くのが哺乳類の行動に関する話。特に面白いのがマウスやラットの母性行動に関連する遺伝子の話である。
齧歯類の母性行動は、以下の4つに分類されているという。
母親は、子育て経験の有無に関係なく、出産後、驚くべき素早さで(略)4つの行動を行うようになる。迅速に母性行動を起こすためには、妊娠中に分泌される3種類のホルモンの量の変化が重要である。妊娠後期に血中プロゲステロン量の減少、エストロゲン、プロラクチン量の増加といった決まったパターンのホルモン量の変化が起こり、迅速に母性行動を示すようになると考えられている。(127ページ)妊娠、出産、その後の母性行動は「ホルモンのオーケストラ」だとよく言われる。オーケストラを問題にするときは、一個一個のフルートやトランペットよりも、全体の調和が大切なのだが、それでもやはり、オーケストラが一個一個の楽器からなっていることには変わりない。というわけで、いまは一個一個の楽器、すなわちホルモンの分泌に関与する遺伝子を探索していくことが可能になりつつあるのだ。本書ではその最新状況がレポートされている。インプリンティング遺伝子が重要な役割を果たしているらしいという話は興味深い。
おおざっぱに言ってしまうと、基本的には、どこそこの遺伝子をノックアウトすると、なんとかの母性行動が起こらなくなったといった話が紹介されているのだが、話はそれだけに留まらない。母親の子育て行動の違いが、その子どもが成長したときの子育て行動の違いを生むといった話も報告されている。しかもそれは、遺伝子に寄らずに伝達していくらしい。というのは、産みの親ではなく、あくまで「育ての親」の子育て行動が影響するというのだ。母親の行動が子どもの神経系での遺伝子の発現に影響を及ぼし、それが遺伝子によらずに親から子へと伝搬していくらしい。いやはやまったく、驚くべき話である。遺伝子と行動の関係が一筋縄ではいかないことを予感させる話だ。
著者らが言うように、行動遺伝学(それと進化心理学)は、今後、社会に大きなインパクトをもたらすだろう。身近なところでいえば特定の行動に関与する遺伝子をマーカーとして育種に利用したり、さらに進んだところでいえば遺伝子を導入して云々、ということも考えられる。また分子生物学は人間の精神の領域にまで手を伸ばしている。既に、特定の気質や「知能」に相関があるらしい遺伝子も見つかっている。ただし、相関関係があることと因果関係があることとは、別の話である。とにかく、この分野はもっと注目されなければならない。
とにかく大著である。分厚い上下巻、しかも2段組。だが文章は読みやすいので、すらすら読める。翻訳では削られがちな参考文献リストや図版なども掲載されている。しかも各章の終わりにそれぞれ付けられているので参照しやすい。
かつて楽観視されていたこともあった感染症。1950年代、60年代は、人類が感染症に対して勝利を治めると思われていたという。だがここに来て様々なウイルスが出現し、抗生物質が効かない細菌が現れはじめた。著者は、いま本気で対策を打たなければ人類は感染症との闘いに負ける、と強く訴えかける。いくらなんでもちょっとオーバーじゃないかと思ったりしてしまうが、確かに、かつて起こった大流行がまた起こらないとは誰にも言えない。今度起こったときには、さらに大規模、そしてまたかつてとは全く違う形で、人類に大災厄をもたらすことになるかもしれない。
本書が研究者たちが書いた本と違う点は、いかにもジャーナリストが書いた書物らしく、視点が科学だけではなく、経済や社会情勢、法令にまで及ぶ点である。発展途上国─先進国の製薬会社という構図は誰もが思い浮かべるだろうが、問題はそこだけではない。
上巻223ページ、「第6章 アメリカ建国200年祭の陰で──ブタインフルエンザと在郷軍人病」で描かれる1976年のアメリカでの「全国ブタインフルエンザ予防接種プログラム」に関する話は、この手の問題に対する政府の対応の難しさの一面を象徴している。また、下巻291ページあたりに書かれているように、先進国での服薬達成率の低さ──なんとニューヨークが最低──といった問題の指摘は、本書全体が訴えかける「公衆衛生体制の破綻」という問題の深刻さと実状を象徴する。世界の感染症対策の中心とされているアメリカの現状がこれなのだ。
0.00000000001グラムしかない細菌が死を招くこともある。感染症の脅威…。その現状を知るには最適の本、とはちょっと言いがたいが、それでも、読むにはじゅうぶん値する、力作ドキュメンタリーである。
まず第一章では毛利さん、向井さん、土井さん、若田さん、日本人宇宙飛行士それぞれの、ある日の「日常」を切り取ることで、宇宙飛行士の仕事の実際の様子をレポート。2000年に行われ、記憶にも新しいSRTM(Shuttle Rader Topography Mission)用のマスト収納の模様や、船外活動を行うためには実際にどのような準備が必要かといったことが描かれている。
第2章では宇宙開発のこれまでや目的、体制などが整理されて紹介されている。国際宇宙ステーション、そして日本モジュール<きぼう>がどういうことを目的にし、実際に開発されている実験装置にはどんなものがあるかといったことも具体的に書かれている。また、実際の運用という面についてもきちんと紙幅が割かれている。つまり本書は、単に「宇宙飛行士」だけを紹介するものではなく、宇宙飛行士を支えるスタッフの仕事も一緒に紹介する本なのだ。
よって、お馴染みの、宇宙での筋肉の萎縮や宇宙酔い、宇宙での日常なども書かれているが、特筆すべきは「宇宙飛行士を支える人々」という運用にあたる人々の紹介コーナーである。訓練担当者、健康管理を行うフライトサージャン(FS)と呼ばれる人、JEM開発者、実験支援チーム、フライトコントローラなど8名の仕事が、それぞれ本人の文章で紹介されている。ここが一番面白い。
要するに、宇宙飛行士が記者会見でいつも言う「今回のミッションの成功はわれわれだけではなく関係者の努力と強力によって達成されたものです」という言葉のなかの「関係者」って誰?って人たちの言葉が収録されているのだ。このへんは意外と表に出てこないので貴重だ。しかもみな、経歴と写真入り。見るとみんな若い人たちばかり。まだ20代の人もいる。いやー。
もちろん、応募条件などちゃんとした情報も掲載されている。宇宙に関する仕事にマジメに就きたい人だけではなく、かつて憧れ、いまも夢見ている人みんなにおすすめ。あっという間に読める。
よって、本書で多少なりとも読む価値があるのは間に挿入されている<未来学者たちが描く1000年>というところだけなのだが、ここの信頼性もどうなんだか。原文そのままなのかどうかも疑わしいし。
もちろん、すばるが持つ7つの観測装置も紹介されている。7つとは、
の7つである。それぞれの説明はウェブサイトか、本書をめくって頂きたい。
すばるは、総体500t、高さ22m、幅27mの鉄の構造物だ。だがその精度は計算値から10マイクロメートル以内に押さえられており、駆動には車輪も歯車も使われていない。駆動部分には油膜が張られ、各部分はそこを滑って動く。重さ500トンだが、なんと人間が手で押して動かすこともできるという。さらに23tの主鏡の誤差は100nm以下である。本書ではすばるを「精密重工業」の粋であると表現している。言い得て妙。
巻末には予算関連の攻防があった話とかも出てくる。このへんの苦労話は『宇宙の果てまで』(小平桂一/文藝春秋)と併読することをおすすめしたい。
本書では私たちがなにを、なぜ美しいと思うかを問いかけてみたい──私たちの本性の中のなにが美にたいして感じやすいのか、人間のいかなる性質がその反応を呼び起こすのか、そしてなぜ美にたいする感受性が人間の本性の中に存在するのかを。人びとが必死に美を求めるのは、本能の作用でもあることをとりあげたい。(略)本書を書くにあたっては、知覚にかんする科学的な最新の研究と進化心理学にもとづいて考察をおこなった。進化論的な視点で美にかんするすべてが説明づけられるわけではないが、本書がその多くを解明する手がかりになり、人間の生活の中で美がどのような位置を占めているか、俯瞰できればさいわいである。(18ページ)つまり著者の基本的スタンスは、これほどまでに人間が美に囚われているからには、そこには何か、適応的意義があるに違いない、というものだ。「美に囚われているだと?」と疑問に思う方は、歴史を振り返ってみるといい。いや、そんなことする必要もない。そこらへんを見渡すだけでいい。なめらかな肌、つやつやした髪、背の高さ、健康そうな体。外見と内面が一致しないことは皆知っている。にも関わらず、人は外見の印象に大きく左右される。そもそも、この本の邦題そのものが、人目を惹くことに異議がある人はいないだろう。我々は「美」なる不可思議なものに引きつけられているのだ。
人はなぜこれほどまで外見にこだわるのか。美の社会的影響力は経済学者でなくても自明だろう。エステ産業、化粧品産業、ファッション産業がなくなることも、雑誌のカバーやTVから美人の姿が消えることなど考えられない。人は確かに、見かけに大きく左右されている。そしてメディアが健康美をあおるいっぽう、摂食障害に悩み苦しむ人々も増えているから話はややこしい。それでも人は、美を追い求め、楽しみ、味わおうとする。
美人は人よりも善意を引き出しやすいという。その一方、美人は期待値も高く、もしその期待されただけの能力を発揮できなかった場合、反発も大きくなる。また、見かけがいいとされる人は、もともと持っていたその性質に加え、さらに外向性に磨きがかかるらしい。
本書で紹介される調査結果によると、相手を選ぶ際に外見を気にするのは男性だという。女性は外見よりも、相手の履歴を見るそうだ。また不思議なことだが、白い肌の女性を好むという傾向は、ほぼ世界的に共通しているという(もちろん相対的なものだが)。これは生殖能力や経産回数を肌の色から判断しているのではないかと著者はいう。また、どんな顔を好むかという研究もいろいろ紹介されている。中には私がネットサイエンス・インタビュー・メールで話を伺った山口真美氏の研究なども紹介されている。
本としては事実や研究結果が点在していて、いま一つまとまりに欠ける。心理学の領域で多種多様な実験が行われていることは分かるが、結局著者が何が言いたいのかはよく分からない。そこが残念。
内容はタイトルどおり。1969年以来、ボルネオを訪問している著者が、ウルクク村というところに住むカダザン・ドゥスン族のウォルターという村医者と知り合い、いろんな植物の効能を教えてもらいました、というもの。本文の合間に植物事典的に30余りの薬草が紹介されている。ねずみや害虫よけの草、解熱剤、酒の酔い止め、糖尿病薬、目薬、複雑骨折の治療薬、天然の味の素、そして日本軍がやられた毒矢まで。
だが本当にユニークなのは著者自身のボルネオとの関わり方。帯には「プラントハンターとして」とあるが、著者は最初からプラントハンターだったわけではない。最初は商社の社員として、高度経済成長に伴う木材ブームの結果として、ボルネオを訪れたのである。そのあと、オイルショックが起きる。日本は石油価格の上昇に苦慮。その結果、マレーシアやインドネシアで格安の木炭ができるのではないかというアイデアが生まれた。そして著者は1979年に今度は炭焼き師としてボルネオを訪問する。その企業化の可能性を探索した。著者がウォルターと出会うのは1988年に入ってからのことである。
最初は自然環境の破壊のことなど全く考えもしなかったという著者が、現在はプラントハンターとして多様な生態系の保護だけでなく、貴重な知識を蓄えている先住民文化の保護を訴える。そここそがこの本独自のポイントである。ひょっとすると著者自身も気がついてないのかもしれないが、本来ならば、ここをもっと膨らませるべきであった。多くの日本人の自然との関わり合いを照射することもできた。そうすれば、本書はもっと深みを備えた著作となっていたことだろう。
片頭痛には「軽度の失語症、片麻痺、複視、めまい、嘔吐、内蔵機能の障害、水平バランスの変化、人格障害」、そして身体の感覚異常、眠りや意識混濁などの症状がある。脳卒中や脳腫瘍、あるいはてんかんの前兆現象などに似ているが、基本的に良性で、発作が悪化していくこともないし、症状が収まりさえすれば元通りに戻る。女性の場合、生理や妊娠周期に影響されることがあり、月経に関連して症状が起こったりする一方、妊娠している間には滅多に発作が起こらない。
周期性があると同時に、また、情緒と深い関係がある。片頭痛によって情緒的変化が発作として引き起こされることもあれば、深い情緒的変化が片頭痛発作を引き起こしたり、引き起こさなかったりするらしい。通常、発作初期には不安感や感情過多になり、発作中には無感情と鬱、そして快復期には多幸感が起こるらしい。
さらに興味深いことに、患者のなかにはしゃっくりや嘔吐、ぜんそく発作、大食などによって発作を代替することができるものがいる。発作が起こったときにくしゃみや嘔吐を繰り返すことで、発作が急激に収まることがあるというのである。「患者はあたかも眠りから覚めるかのように、片頭痛から覚める」とサックスは記している。片頭痛薬の多くも、患者を鬱状態から覚醒させる作用を持つものが多いという。覚醒障害は、全ての片頭痛に備わった性質であるらしい。
また、内臓性疾患の形で症状が現れてくることもある。ここまででお分かりのとおり、片頭痛は神経生理学的な原因がある。当然、内臓を治療しても治らないのだが、誤診されることも多いという。
本書は、片頭痛という神経生理学的にみて非常に興味深い症例を多数紹介し、その現状の認識を促す本である。文庫本だが扉絵に片頭痛患者が書いた絵が収録されている。片頭痛患者の多くは、視野のなかに暗黒やギザギザ、そして光などを見るものがいるのだ。まるで超空間通廊か、異星人の変身か、と思ってしまうような光景が、生き生きとした筆致で描かれている。もちろん本文には、生々しい患者の言葉もまるごと収録されている。
この、肉体的な症状と情緒的な症状を伴う多様な片頭痛とはなんなのか。サックスは、こういう問いの立て方そのものが間違っているという。ここは、なぜ症例をいろいろ書き連ねるという表現手法でサックスが神経生理学の本を書いているかということそのものにも関わっているので、ちょっと長いが引用しておこう。
もし片頭痛に一定の形と一定の決定因子があるなら、単一の原因──要因X──を絞り込むことができるだろう。しかし、これまでみてきたように、片頭痛は本質的に多様で、発症の状況もさまざまである。したがって、片頭痛のある場合には要因Xが、他の場合には要因Yが関係しているといったのが実状であり、あらゆる場合に当てはまるたった一つの原因があると決めつけることはできないのである。本書17章以降では、片頭痛による幻覚がなぜ幾何学的な形、まるで万華鏡のような形になって現れるのかについて考察されている。このへんも面白いのは面白いんだけど、やや当たり前なことしか書かれてないような気がした。だがともかく、脳の生理の不可思議さの一端を垣間見せてくれる面白い本である。だが、片頭痛にはさらに基本的な問題がある。それは、片頭痛が神経系に原因もなく自然に発生すると単純には考えにくい事実から派生する問題であり、原因と結果から切り離して考えることはできない。生理学的な言葉によっては片頭痛の原因、あるいは反応や振る舞いの重要性を理解することはできないのだ。たとえば、「片頭痛の原因は何か」といった図式的な質問自体に、明らかな論理的な混乱がみられる。なぜなら、私たちが求めているのはたった一つの説明あるいは一つのタイプの説明ではなく、複数のタイプの説明であり、しかもそれぞれが論理的なものであることが要求されえいるからだ。つまり私たちは、なぜ片頭痛はその形を取るのか、なぜ片頭痛は起こるべくして起こるのか、という二つの質問を発するべきなのだ。(中略)
…こうした発作はどれも何かに対する反応であり、そのことに言及せずに説明することはできないからである。同じことが片頭痛にも当てはまり、しかも周囲の状況とは関係なしに周期的に片頭痛を起こす患者にも当てはまるのである。こうした片頭痛は体の内部の事象や周期と関連させて解釈しなければならない。さらに、片頭痛は単純な生理学的なプロセスではなく、患者の側からみれば症状のセットであり、経験的な用語で記述することが必要となるのである。(330ページ)
翻訳のせいもあるのかもしれないが、本書の文体は硬い。症例がえんえんと綴られたスタイルの性もあるのかもしれないが、サックスも昔から流れるような文章ではなかったのだなと思ったりした。
本書原題は『愛の絵筆──ペニスの生涯と仕事』という意味なのだそうである。著者はベルギーの大学病院の学科院長で、ニューヨーク州立大やカナダの大学でも教鞭を執っている、向こうでは著名な人物とか。原書ではジェンダーの問題や女性の視点やらもろもろも収録されており、訳者は全文を翻訳したそうだが草思社の意向で削られてしまったとか。まったく余計なことを。
本書は基本的に著者ボーと友人とのやりとりという過程で描かれている。ペニスの構造やメカニズムについてはもちろん、オナニーの話や大きさの話、前立腺の病気やコンドームについて、パイプカットするとどうなるか、勃起力の問題など、男性にとって非常に重要な意味を持つが、他人にはなかなか聞きづらい疑問に答えてくれる本となっている。
もっとも、勃起力を高めるために実際に効力がある(らしい)運動なども紹介されているが、基本的には、本書を読んだからといって何かが解決するわけでもない。だが、実際問題としてこの本が売れているということは、ある種の精神安定剤としてこの本が機能しているのだろう。まったく悩み多く、しかも一生涯つきあっていかなくてはならない、それがペニスなのである。
著者ボーの答え方はなかなかにウィットに富んでいて、なおかつ科学的。そしてなおかつ人間的というか、(患者が望む)医療現場的である。
しかしねえ、きみ、生物学の研究では一般に、統計を評価しすぎないように注意したまえ。対象が人間であった場合は、とくにね。(195ページ)には、思わずにやっとさせられてしまった。
一部は車雑誌「CG」に掲載されたものとのこと。そのへんの記事は車の門外漢には厳しい。というか分かりにくい。車に特に情熱がない人間に対しても分かりやすいようにするなどの配慮が欲しかった。
本書は、難しい言葉は本文中で説明せず、巻末キーワードで紹介するというスタイルを取っている。これもどうかと思う。巻末キーワード集そのものはいいんだけど、本文でスムーズに紹介してこそライターだろう。
まあ、とはいうものの、全体として見ると燃料電池をめぐる事情がだいたい書かれていて、悪い本じゃない。興味がある人は買って損はない。
21世紀──テクノロジー音痴は無教養と同じ。というわけで本書は、教養としてのテクノロジー基礎知識解説集。こういうと軽薄に感じるかもしれないが、意外と良い本。本当の基本──たとえばコンピュータだったらその原理とか──がちゃんと解説されている。そういう意味では、この帯は当たっている。逆に、お手軽に表面的知識だけを仕入れたい人には向かないかも。著者は「サイエンティフィック・アメリカン」の編集者とライター。翻訳はどうやら訳者によるようで、ちょっとガクガクしてる部分がある。
目次を紹介しておこう。
都合により取りあえずここまで。ありがちだけど、技術をブラックボックス扱いしたくない人向け。
ミトコンドリアのDNAのうちかなりの部分は核へと移行し、ミトコンドリア内に残った遺伝子は、ぎゅうぎゅうに詰め込まれている。ミトコンドリア遺伝子が核へ移行していったのは活性酸素の害を防ぐためらしいが、では残った遺伝子はなぜ移行しないのか、ということはまだ分かってないらしい。
最近注目されているのが、ミトコンドリアがミトコンドリア病(CPEO=慢性進行性外眼筋麻痺症候群、MERRF=赤色ぼろ線維を持つミトコンドリア異常を伴うミオクローヌスてんかん、MELAS=ミトコンドリア筋症脳症高乳酸血症、脳卒中様症状などがある)は言うに及ばず、糖尿病やアルツハイマー病などにも関連しているらしいという点。本書はミトコンドリア全般に書かれた本だが、ここはやはりキモとなっている。ミトコンドリアがアポトーシスのオン・オフをしているらしいのだ。また糖尿病患者全体(日本で500万人)の1%にミトコンドリア遺伝子の異常があり、その患者は病状の進行が速いという。
本書は、教科書やレビュー集でしか読めないような内容を新書という安い本で出してくれた有り難い本なのだが、まあこれを普通の人がすらすら読めるかというと…、まあいいや、出してくれただけでも個人的には嬉しかった。
ところで、コラムのなかに書かれていたUCPによる放電と熱発生って、具体的にはどういう仕組みなんだろうか。肥満遺伝子の話でもよく出てくるけど、放電から熱発生までの具体的なところがいま一つ分からないのだが。
そういや秋篠宮の本もまだ読んでないや。あれもミトコンドリアの話だったとは知らなかった。