ただ、こころとからだの性が一致しないという言い方は、私個人は、サイエンスとしてはあまり正しくない、あるいは誤解を招きやすい表現なのではないかと考えている。こころの性とは、すなわち脳の性である。
いま性同一性障害として一くくりにされている人の中にも、いろいろなタイプがあることが、脳の性という観点から見ると理解しやすくなると思う。たとえば、性の自己意識を司る部位が体の性と一致していない人もいるだろうし、性の志向対象を決める部位が逆転している人もいるだろう。また、性行動を司る 神経回路に何かが起こっている人もいるかもしれない。おそらく、性同一性障害とは生物学的にはそういうことだと思う。
ただ、それとメンタルな部分は別だ。また、本書著者が言うように、まだ性同一性障害の原因──すなわちジェンダーの決定──が純粋に生物学的なものだと決まったわけでもない。ともあれ、社会的な側面でも多様になりつつある性を考える上で、この本に書かれている程度のことは基礎知識として必要だろう。
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だが著者はその捉え方に対して、ミトコンドリアと宿主細胞との関係は「共生」というより一方的な「収奪」に近いと主張する。ミトコンドリアは共生をはじめてほどなく大量の遺伝子を抜き取られ、増殖をコントロールされるようになった。まるで、小作農と地主のようだと。著者はこの考えかたを、分裂を制御するリングの発見を一つのクライマックスとする自らの研究史を振り返ることで説明していく。
内容はやや専門的で、話を見失ってしまいそうになるところもあるが、1ページ1ページを丁寧に読んでいけば大丈夫だ。極めてアクティブな細胞内の世界、そしてその研究の世界をかいま見ることができる。著者らの主張は決してすんなり認められたものではなく、いくつもの証拠を突きつけていくことで勝ち取ったもの。そういう研究のドラマが好きな人にもおすすめしておく。
ただやっぱり、もうちょいすっきりさせることはできたような気もする。
本書はVR技術の現状と将来を、10の場所を訪問してレポート。一つ一つは簡単ながら、おおざっぱにVR技術の現状を眺めることができる本だ。
「現実世界ではできない体験ができること」がVRの利点。実際には危なくてできないこともVRを使えば再現できる。というか、再現してもいい。VRを使って高所恐怖症にならしたりといったこともできるだろうという話はなかなかユニークかつ本質を突いている。
個人的には一番最後のソリッドレイ研究所のレビューが興味深かった。ソリッドレイはVRシステムを提供するベンチャー会社である。いわばVR研究者たちを支える裏方である。だからこそ焦点をあてると面白い。高品質の立体映像装置開発から、独自のVRソフトを開発によって大手顧客の信頼を獲得するといった過程は技術関連のベンチャービジネスに興味がある方も面白く読めるのでは。
巻末にはVR年表つき。資料として役に立つ一冊。
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書かれている内容は、基本的に否を唱えようがないものばかりである。ただ気になるのは、ここで本書が主張している内容が、実際の工学部の人々、たとえば東大工学部の人たちにさえ届いているのかどうか。
実際のところ、どうなのだろうか? 工学部のあなた、あなたはこの本を読みましたか? 読もうと思いましたか? 読んだ方はどう思いましたか? 私はそこが知りたい。
巻末には主として教授たちによる座談会。だが僕が一番シンクロしたのは鳥井弘之・日本経済新聞社論説委員の話だった。ここだ。
鳥井 (略)…たとえば技術とはいろいろな要素技術がシステマティックに組み合わさっているものです。システマティックに組み合わせるということ自体に、どう組み合わせるかということ自体に価値観が内包されていると思うんですね。技術で何か知識をユーティライズしていくといった途端に、それはもう価値観を内蔵してしまうわけですから。(283ページ)文章は(たぶん、座談会をまとめた人のせいだろう)ちょっとおかしいけど、まったく同感。工学を考えるということは、こういうことなのだ。工学にはまさに時代の価値観が反映されているのである。
ちなみにこれは吉川弘之・放送大学学長の発言に対する反論である。当たり前のことを言っているように思えるかもしれないが、当事者本人たちには全く見えてないこともあるのだ。
おそらく工学の問題は、<おわりに>に指摘されているように、1971年に同様の趣旨でまとめられた本の指摘が現在でもぴたりとあてはまってしまうというところにある。<おわりに>を書いた堀井秀之は言う。「先輩の先見性に驚けばよいのか、進歩の少なかったことを反省すればよいのか」。どう考えるかは、個々人の仕事である。
1981年。名古屋で無脳症児の臓器移植が行われた。無脳症とは脳がない状態で生まれてくる症例のことだ。その臓器を他の赤ん坊に移植したのである。
その是非については議論を避ける。明らかに問題であることは、このような移植手術が、ほとんどオープンにされることなく行われていたということである。実際、今でも知らない人は多いのではなかろうか。そういう意味では、著者がいうように臓器移植法成立そのほか、ここ20年の進展は本当に大きい。
これから、インフォームドコンセントをベースにしたバイオエシックスの構築は、ますます重要な課題となる。やや、さらさらと読めてしまいすぎのところもあって、本としては物足りないが、主張に否はない。
巻末にはバイオエシックス関連用語集。ミニ事典として使用可。
そして、物理における数学と、数学だけの数学の違いを比較する本でもある。たとえば、円の直径と数学で言えば、それは円の直径のことである。だが、実際に完全に円である円など、この世には存在しない。その場合、円の直径とはなんのことを指すのだろうか。
また、著者はこうも言う。
科学者が自然の動きを探るときには、まず個々の事例を調べ、それからそれを支配する一般原理を帰納しようとする。数学者は逆で、抽象的な公理・公準から初めて、それから特殊事例(物理的な実在に関係することもあれば、関係しないこともある)を演繹する。科学者の一般化は、それまで考えられていなかったような数学の体系を必要とすることがある(たとえば、アイザック・ニュートンが、惑星軌道の力学を支配する原理を記述するために解析を発明したように)。逆に、科学者が自然の中に探そうと思ってもいなかったような物理的効果を、純粋数学者が予測することもある(たとえば、ソリトン、フラクタル、ブラックホールなど)。科学の帰納と数学の演繹という手順が相補って、世界の基本構造を解明できるようにしてくれているのは当然である。(105ページ)おそらく、この辺が著者が言いたかったことだろう。マルコム・E・ラインズ『物理と数学の不思議な関係』と似たような感覚がある。類推による推理は、科学的研究の重要な側面の一つである。数学は証明による推論によって進むが、科学研究はそれらしいと思える論証で進む。科学者にとっては、数学が真理を定めるのではない。科学者にとって数蛾のすることは、宇宙についての真理に至るそれらしい道筋を示すことだけである。科学で最終的に真偽を決めるものは、他ならぬ自然以外にはない。(224ページ)
当然、真理の基準は科学と数学では異なる。数学と科学はある仮説を反証することができる点では同じだが、証明をするのは数学だけである。数学者は自分の抽象的真理に確信をもてるが、科学者にできるのは、せいぜい自然の世界にある真理についての仮の案を手にするだけである。(258ページ)
こう書くと抽象的な話が延々続く本のように思われるかもしれないが、そうではない。πの歴史やころや車軸、ピストン運動、サイクロイドの話など、多彩なエピソードや具体例が主で、抽象的な文章はその間にちょろちょろと挟まっているに過ぎない。だから中身からっぽの本だということはないので、ご安心を。
なお<訳者あとがき>で、πを小学校レベルでは3として教えてもいいんじゃないのかという話について、訳者がコメントしている。彼によれば、これはπをいくらと教えるべきかという話ではなく、小数点の感覚を身につけるべきだという話としてとらえたほうがいいという。最近の子は小数点の処理があやふやで、円周は直径の3倍より少し大きいという感覚がない、と。
感覚の話は合っているとは思うのだが、これは、問題の本質を逆に小さく捉えてしまっていると思う。
私は、π=3.14という話は、単に「πは3ではなく3より少々大きい」といったレベルのことではなく、円周を直径で割ったπという数字は、無理数、つまり循環にならずえんえん無限に桁が続く数字であるといったことを、象徴している数であり教え方なのだと思っている。というのは、むかし、初めてπという数字の話を聞いたとき、僕は「無限に続く数」というところに限りなく魅力を覚えたのである。そういった感覚を呼び起こすのに、小数点以下二桁という値は、ちょうど良かったと思うのだ。完全に脱線ですいません。
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いくつか面白かった話を。
スナガニ類は砂泥を積み上げた構築物をつくる。構築物というとなんかえらそうだが、干潟を見ていると巣穴の周囲に砂泥がところどころ盛り上げられているところがある。あれだ。あれは、単に巣穴を掘るときに邪魔になった泥を積み上げているだけではなく、なわばり維持に関係しているのだという。しかもカニは、自分のまわりに砂を盛り上げるだけではなく、他個体の巣穴の周囲に砂泥をつみあげて、バリゲードをつくってしまうこともあるんだとか。たかがカニとバカにしてはいけない。彼らには彼らなりの営みがある。しかし不思議だ。
そのほか、カニとマングローブ、シャコに共生する貝の話など、共生関係の話題も。
後半は、干潟レッドデータブックの話から、やはり干潟の保全の話へと至る。
間にちらちらと入っている<閑話>というコラムは面白い。
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完全に脱線してしまった。でも僕が読みながら感じたのはそういうことだったのだ。つまり、できれば中学生くらいに読んでもらいたいな、ということ。
それと、もう一つ感じたことがある。DNAの構造発見はついこないだと言えばこないだだったんだけど、若い頃のワトソンの写真と、すっかり老けた彼の写真を見比べると、ずっと前といえばやっぱりずっと前だな、ということ。当たり前なんだけどね。でも、一人の人間の人生から科学の発展を見るということは、そういうことを感じるということでもあるんじゃなかろうか。
それが、この本はこれでいいんじゃないかと思った理由でもある。
「まえがき」を読むと、自叙伝といっても本人が書いたものではないようだ。というのは、著者は長年、日本語で文章を書いたことがなかったため、ライターに聞き書きをさせたらしい。
つまり著者は、いわゆる頭脳流出組である。ただの頭脳流出組ではない。アレルギー反応の分子メカニズムを解明し、日本人でありながらアメリカ免疫学会会長、NIH研究計画審査委員等などをつとめた人物である。その成果に対して、2000年には日本国際賞を受賞した。
文章は実際に文を綴ったライターの力量もあろう、非常に読みやすい。淡々とはしているが、しっかりとした自信と知性に裏打ちされた落ち着きがある。雰囲気をよく出した文体だ。
また免疫の話はとにかくややこしいのだが、その知識がなくても比較的さらさらと読める。もちろん、血清中の濃度が極めて低いIgEを発見するために、それとだけ特異的に反応する抗体を作って同定するという手法を編み出したところや、自らや共同研究者でもあった照子夫人や当時教え子だった多田富雄氏らの背中の皮膚を使ってIgEを同定した過程は本書の中核である。その後この手法は生命科学研究に大きく貢献することになった。
だが、本書のおもしろさは単に一ジャンルの研究史という範囲には留まらない。やはり重要な部分を占めているのが、日米の研究スタイルの差である。著者は一生を通じて、NIHに研究費を申請してもらえなかった経験がないという。それは、キャルテック留学時代にダン・キャンベルから受けたアドバイス−−実験をする前に論文を書け−−が非常に役に立ったからだという。
実験する前に論文を書けとは、つまり、ビジョンを持ち、プランをしっかり立てろということだ。NIHに提出する研究計画は、これこれこういう実験をしたらこういう結果が出るだろう、そしたらこういう実験を次に行う、あるいはもし予測した実験結果と違っていたら、今度はこういう実験を行う、といったことまできっちり書くのだという。頭の中で研究の全課程をシミュレートするわけだ。すなわち、研究のビジョンが最初から最後まできっちり見えてないと書けないのだ。いわばその研究計画は、実験を行う前に書く総説以外の何物でもないのだという。
また、大学院での教育制度に関する日米の差の話なども、幅広く興味関心を呼ぶのではなかろうか。
研究一筋に生きてきて、それに心から満足している著者の人生を平易かつ格調ある文章で描く、回顧録の鏡のような本である。個人的には、名前を表に出されていないライターの労をねぎらいたい。
こんな感じ。どんなものでも実験の種になる。電卓や時計を分解するだけでも楽しいし、目覚まし時計を袋に入れて振り回せばドップラー効果の実験になる。この夏、お子さんといろいろ遊ぶ種にはぴったりの本だ。