残念ながらガチガチの専門書であり、普通の人には立ち入れないタイプの本。僕自身、通読はしたが本書を読んでオサムシに興味を持てたかというと、本書を読む前とあまり変わらない。オサムシについて勉強したくなったときに読み直すことはあるかもしれないけど。
というのが、特にオサムシに興味があるわけではない一人の一般人の評価なのだが、bk1でレビューを書いてもらった本職さんたちからすると、また別の読み方もできるようだ。
本書前半は、その細胞株が樹立されるまでを基本的な縦軸としている。後半はその活用編といってもいいと思う。横軸は当然のことながら、ウイルス・細菌研究発展の折々や、生物学のはなしとなっている。個人的にはどうもあっさり描かれすぎている感じがしてしまった。結局、著者が何が言いたいのかがよく分からないのである。
いっぽう、それに対して真っ向から反論するのが本書『科学者として』である。著者は国立感染症研究所の主任研究員。移転前から反対運動を続けつつ、なおかつ現在も職員でいつづける、極めて特異な立場の人間になる本である。
…と、言いたいところなのだが、どうやら半ば以上はライターが書いたもののように思える。そのせいか内容には繰り返しが多く冗長で、読みづらい。著者が言いたいことは分かるだけに、非常に残念である。そもそもレヴェル4実験施設をなぜ住宅地のど真ん中に作ったのかという疑問は、誰もが感じていることなのだから。
私はこの一件に関して詳しくない。著者らが問題にするように、外気に対する安全性が不十分なのかどうか、詳細を知らない。確かに査察のときに慌てて片づけをするといった話は問題といえば問題だが、どこでも日常的に行われていることであるような気もする。
「バイオの時代」は「バイオハザードの時代」。その警告は深刻に受け止めたいと思うだけに、もうちょっとしっかりした内容・構成の本を書いてもらいたかった。
今年、僕が読んだ本のなかで、最も衝撃を受けた本かもしれない。内容は、タイトルどおり「原爆をつくった科学者たち」を描いたものだ。ある意味、お馴染みのストーリーである。
だが、僕は本書、特に前半部分を読んでいて、恐怖を覚えた。本書は、1918年から始まる。才能ある人々を引きつけてやまない黄金時代を迎えていた原子物理学。そしてドイツによる原爆製造を阻止せんとするジラードら。ジラードはアインシュタインにあの有名な手紙を書かせた科学者である。ジラードは、はやくから原子爆弾の可能性に不安を抱き、モラトリアム実行を研究者たちに訴えていた。アインシュタインの家にたどり着けなくて迷子になっていたジラードとウィーグナーを案内したのは、七つくらいの日に焼けた少年だったそうだ。
彼らには、無邪気なまでの善意しかなかった。それがやがて、一本の糸にまとまり、さらに大きな流れへと束ねられていく。流れはやがて、彼らが阻止しようとしていたはずの原子爆弾製造に、まっしぐらに進んでいく。
この世にもしも悪魔がいたならば、呵々大笑していたことだろう。関係ないと思われていた出来事の連鎖が、運命──そうとしか言えないような形で、一つに繋がっていくのだ。その過程が、本書が書かれた当時ならではの迫真をもって克明に描かれていく。
僕は心底、怖かった。いったいなぜなんだと思った。人知が及ばないとはこういうことかと思った。人間は、先のことをまるで予測することができない。ある科学技術がどのように発展するのか、具体的に予想できる者などいはしない。
もちろん、オッペンハイマー登場以来の原爆開発ストーリー部分だけでも必読なのだが、特に前半部を、全ての研究者の方々に読んで頂きたい。そう思った。もちろん、原爆など出来はしない、そう考えていた研究者が多かったことも有名な話だ。だが、それはどんなレベルの話だったのか。当時の研究者たちは、実際にはどう思っていたのか。どのように現実が分かっていなかったのか。原子爆弾実現の可能性は見えていたのだ。本来、阻止することもできたはずだ。実際に阻止しようともした。だができなかった。多くの研究者たちには、現実が見えていなかった。見ることができなかった。それはいったいなぜだったのか。その過程を知る上で、本書以上の本はないだろう。
タイトルは、以下の文章からとられたもの。トリニティ──最初の原爆を爆発させた瞬間のオッペンハイマーを描写したものだ。引用する。
この瞬間には、誰もが自分たちは何をやろうとしていたかを忘れていたのだ。みんな爆発のものすごい威力にすっかり動顛してしまっていた。オッペンハイマーは<制御室>の中で一本の支柱にしがみついた。そして一瞬彼の脳裡を閃いて通ったのは、インドの聖典『バガヴァッド・ギーター』中の一文だった。千の太陽の光が
一時に
突如として天空にきらめき出ることがあれば
そはかの荘厳なる者の光輝にも似ん……
ところが今、遙か<ゼロ点>の上空に不気味な巨雲が立ちのぼったとき、今度は同じインドの叙事詩中の別のくだりが頭に浮かんできた。
おれは何もかも奪い取る死神
宇宙を揺すぶり動かす者ぞ。人間の運命を司る神シュリ・クリシュナはかつてそのように語りかけた。しかしロバート・オッペンハイマーは、巨大な、あまりにも巨大な力を付与されていた一個の人間にすぎなかったのである。(315ページ)
さて、本書で紹介されている様々な新エコ技術や、著者が実践している環境への配慮の一つ一つについては実際に本をめくって頂くとして、著者の主張をいくつか抜き書きしてまとめてみよう。
まず、このままだと100年保たないという危機感を「持続可能な発展(sustainable development)」と表現しているのは誤解を与えるとして以下のように述べている。
「development」の日本語訳として、「発展」が良いのか疑問に思うからだ。原義に近い「開発」と訳しても、人間の生活の「進歩」が大前提にあって、そのために持続可能な地球環境を守らねばならない、という意味に矮小化されてしまうような気がする。むろん、第三世界の一尾には生活の発展が必要だが、いわゆる先進国にはもはやこれ以上の発展は慎むべきだろう。だから、私は「人類が持続可能となる生活への新展開」と訳することにしている。地球環境の危機を前にして、私たちの生活スタイルを「新展開」させるべきだ、と。僕は「持続可能な発展」という言葉はよく分からないなあと未だに思っているので、これも素直に頷けるわけではないのだが、「なるほど」くらいには理解できた(何がどう「よくわからん」なのか、という点については、僕自身、僕の気持ちがまだはっきり理解できてない)。
<あとがき>にはこうある。
本書で私が言いたかったのは、人類は、今後、「環境圧」という外圧を強く受けるようになり、それによって生活スタイルを変えざるを得なくなるだろう、しかし、「その時」をただ安閑と待つのではなく、自分の生活スタイルを見つめながら、どこから変えていくかを考え、少しずつでも実行してみよう、ということであった。というわけで、著者は実際にいろいろなことを実践しているわけである。難しいのは「生活スタイル」は個々人によって違うし、「環境への配慮」なるものの基準も人によって全く違う、ということだ。コンビニを使う人や新幹線を使う人は、いくらこまめに電源を落としていても、環境に配慮しているとは言えないだろう、と思ってしまう僕は所詮、ただの皮肉屋さんなのだろうか。環境のインパクトを少しでも下げる方向へと、世の中が向かいつつあることは確かだと思うのだが。
さて、本書は様々な幻覚経験者たちの報告集である。「幻覚脳」とあったので、脳生理の立場からの研究がもうちょっと報告されているのかと思ったらそういうのはほとんどなく、ただ延々と薬物摂取した人たちの経験がつづられている。そういう話を収集している人には面白いのかもしれないが、個人的にはあまりピンとこなかった。期待はずれ。
人という存在は、遺伝子の川に浮かんでは消える泡のようなものだ。けれど、どれひとつとして同じ泡はない。泡の消えゆくさまをまっすぐに見てはじめて、わたしたちは未知の恐怖から逃れ、幻惑や後悔や嘘にさいなまれずにすむのではないか。というわけで、老衰、成人病、アルツハイマー、がん、ストレス、自殺、安楽死、殺人、感染症、事故などいろいろな「死因」を集めて紹介した本。各ページの下には著名人の死因が書かれている。最後には「不老不死は夢か」と題されて、寿命の科学のはなしなど。
通読したが、僕には結局、著者が何が言いたいのかよく分からなかった。多分、この本が面白いかどうかは、引用したところに頷けるかどうかによるのだろう。僕は他人の死に様をいくら見たところで、死への恐怖や生への執着が消えるとは思ってないし、僕自身もそういうタイプなので、最後まで共感できなかった。
また新聞記者出身の著者らしく、いかにも新聞記事的な記事のまとめ方にシンクロできなかったという点も大きい。たとえば197ページのこういう一文。ネットの人間なら「ドクター・キリコ事件」を覚えているだろう。そのまとめの文章だ。
仮想の世界で自殺願望を共有していた若者たちの存在は、いのちの重さが現実に感じられない社会の病を象徴している。ああ、そうですか。
新聞記事ならこんな文章でもまとまっているのかもしれないけど、一人の著者が一人称で書く「本」の世界で、こういう、何を言っているんだか分からない書き方されても、だからなんなんですかとしか言いようがない。ネットを仮想の世界と決めつけているのも、ちゃんちゃらおかしい。じゃあ、ここで僕が書いていることも仮想でしょ。これはいったい何を象徴しているのか、ぜひ伺いたいものだ。
この一文だけではない。この本には全体的に、この種の雰囲気が感じられた。まあ文体の話だから、好き嫌いかもしれないけど。
そもそも「死」は個人的なものだと思う。個人的なものを扱っているはずなのに、妙に俯瞰されても困ってしまうのだ。そうじゃなくて、人がいっぱい、いろんな要因で死んでいくんだよということを描き出したかったのかもしれないけど、だったらそんなことは最初から分かっているわけで、やっぱり何が言いたかったのか分からない。
次の本では、結局自分は何が言いたいのかということを、新聞記事的な書き方ではなく、自らの言葉、自らの文章で語って頂きたい。なおオンライン書店bk1では著者のコメントが掲載されている(http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_top.cgi?aid=p-moriyama0044&tpl=dir/01/01080000_0012_0000000002.tpl)。
アメリカではアドレナリン発見は譲吉の盗作だったとする説がずっとあり、それがために日本でも彼の功績は正当に認められていないと著者らはいう。なんでも、業界ではアドレナリンという名前そのものも認められていないのだそうである。著者らは、高峰譲吉の助手であった上中啓三の実験ノートをベースに、やはり最初の発見者は高峰らであったと主張する。
だがその一方、高峰譲吉が有能な助手であった上中を研究者としてはほとんど抹殺してしまったこともつまびらかにしていく。どうも高峰譲吉という人物、生涯、助手は助手、俺は俺的な人物であったらしく、忠実であったらしい上中を別として、助手があまり長居することはなかったらしい。
つまり本書は、高峰譲吉という人物の光と闇双方を描きだすことで人物像のコントラストをあげ、この、なんとも馬力のある明治人の生涯を活写しようとした本である。当然、著者らは高峰譲吉という人物にかなり愛を感じているようなのだが、暗い部分は暗い部分として認めていて、いたって正統な評価をしている。
一人の実業家に焦点をあてて明治時代を描くといった本はいくつもあったような気がするが、一人の化学者に焦点をあてているところが面白い。何となく、当時の雰囲気が伝わってくるような本である。そして多分、本書はその雰囲気を楽しめばいいんじゃないかという気がする。高峰の名誉挽回も確かに大切かもしれないけれど。
全部で23章からなる。それぞれ、1番から22番、そしてX染色体とY染色体、それぞれから遺伝子をピックアップして、普遍的な生物学のおはなしをする、といった内容。まあまあ面白かったのはXとYの話のところで、遺伝子がゲノムのなかでもそれぞれ「利己的」にふるまって、場所取り合戦をやっているという話。
あんまり評価してないけど、かといってつまんない本でもない。性的嗜好と出生順位に関係があるとか、ヒトDNAの35%はLINE-1やAluのような「DNA版コンピュータウイルス」に占められているとか、ced-9という遺伝子が壊れると神経細胞が死ねなくなって脳が秩序を失うとか、インプリンティングとか、性格的特質と外見とに相関があるかもしれないとか、けっこう、面白話は詰め込まれているし。悪い本じゃないのだ。電車のなかでパラパラめくるのにはちょうどいいんじゃないでしょうか。ただ、僕はもうそういう本は飽きたし、これで2400円ていうのは、ちょっと高いかな、と。
内容は、著者名から見当がつくだろうから特に触れない。「この人たちだれ?」って人は、名前のところにbk1へのリンクを埋めておいたので、執筆書籍から判断して下さい。
本そのものを通読した感想は、うーん、期待してたほど面白くないなあ。一般的にインタビュー本や鼎談本は売れないと言われるのだが、その理由が分かったような気がした。でもまあ、505円だから。