一見するとただの写真集だが、人類の飛行の歴史に関するエッセイ、1998年に琵琶湖横断に成功したチームエアロセプシーの「極楽とんぼ」号の話や、各種チームの設計の工夫など、技術面の話もけっこう興味深い。「鳥人間コンテストとは失速回復大会だ」という話にはハッとさせられるし、「好き勝手に作って、空中分解しようがどうしようが、最高の性能をギリギリまで追求できるのが『鳥人間コンテンスト』かな」という言葉には、飛行機野郎が鳥人間コンテストに集うある意味現実的な理由が集約されているように感じた。77年〜2000年の出場チームの全記録も収録されている。
「人はそのままでは絶対に飛ぶことができない。その絶対できないことを、工夫によって可能にする。そこに、限りない魅力があるのではないだろうか」という野口常夫氏の言葉も同感だ。
だが、本書一番のポイントはやはり、この本は、参加者たちの思い出のアルバムだということである。
撮影されているのは、機体だけではない。期待と不安を込めた眼差し。喜びの笑顔。悔し涙にくれるパイロット。それをなぐさめる仲間の腕。チーム一人一人の笑顔、笑顔、笑顔。
そして何より印象的なのが、飛行機が飛び出していく空と琵琶湖のブルー。青。空へ飛びたいと願う人々の思いをふんわりと受け止める青い空。その空の青が、限りなく美しく、優しい。
私には、本書で描かれた、ありとあらゆるシーンが面白かった。ウェルナー・フォン・ブラウンにサーナンらが会い、君には自動車を用意しようといったときの話(もちろんそれは後に現実となった)、海軍のパイロットとなり、さらに宇宙飛行士への道を一歩一歩歩んでいく様、ジェミニ9号の打ち上げシーン、宇宙での行動のしづらさ、負けず嫌いの宇宙飛行士たち、宇宙へ行って感じたこと、アポロ10号での月着陸船のアクロバット、そして17号での月面活動。どれもが楽しい。
なかでもジェミニ9号の打ち上げ時の模様は、まさに迫真の描写である。打ち上げシーンは宇宙物の山場。長いが引用してご紹介する。
「飛んでいるぞ」。トムにはそう言うだけの余裕があったが、わきにいる新人の私は口をきくこともできなかった。私は自分に課された作業をこなしながら、言葉では表せない、想像もしなかった体験をしていたのだった。
私たしは一秒ごとに地球から遠ざかりながら伸びていく、長い、白い蒸気の軌跡の先端にいた。ロケットはますます増大するスピードに乗って、激しく揺れながら大気圏を突進していた。私は自分でも信じられないほど気持ちが高揚していた。いまの自分と同じ経験をした人間は世界中にほんのひと握りしかいないのだ。
ロケットは炎の尾を引く長い投げ槍のように、燃料が消費されて積み荷が軽くなるにつれて、また上空へ行くほど大気が希薄になり空気抵抗が弱まるにつれて、着実に加速していた。実際には決められたコースを指示どおりに進むだけだったが、私たちはその飛行を楽しむ前に、パイロットとしての任務を果たさなければならなかった。打ち上げから約4分後には、第一段ロケットの切り離し作業にかかった。ここで、二つの大きなエンジンが停止して離れ落ち、やや小さめの第2段ロケットがそのあとを引き継ぐのである。私はトムから、このときにはスリルが味わえると聞いていた。確かにそのとおりだった。
第一段ロケットを切り離すと、それまで私たちをシートに押しつけていた重力の4.5倍という強大な力が一瞬で消えた。私たちはシートから投げ出されそうになり、後ろから巨大な火の玉が迫ってきて、黒い縁どりをしたオレンジ色のクモと、狂ったようにのたうつ炎で宇宙船を包み込んだ。そして恐ろしいハロウィーンの化け物のように炎を吐きながら飛んでいったのである。私には炎しか見えなかった。私はそれが何であるかを正確に知っていたし、そうなることも聞いていたが、最初は自分たちが燃えているとしか思えなかった。
つぎの瞬間、第2段ロケットが始動し、私たちは火の玉を突き抜けて放り上げられた。そして第2段ロケット・エンジンの燃焼力が高まるにつれて、またしても急激に増大する重力によってシートに押しつけられた。飛行を開始してから八分後には、私たちは信じられないほどの圧力に耐え、うなるようにして息を吸い込みながら、重力の7.5倍という力で上昇していたのである。
ロケットは軌道に到達する寸前に燃えつき、私たちは息もできないほどの圧力との戦いから、無重力の世界に突入した。作業員が置き忘れたナットやボルトがどこからともなく浮き上がり、塵の粒やひもの切れ端が鼻先でゆっくりと舞っていた。両手が自然に持ち上がり、金属のズボンをはいた両足も羽のように軽かった。
トムが地球の見える方向に宇宙船を回転させると、私は窓の外に目を凝らした。下のほうに、遠い青い海と、真綿のような白い雲が見え、アフリカの海岸が滑るように過ぎていった。
私は宇宙を飛んでいた。(139ページ)
全体の筆致は実に軽やか。何よりも、全体が浮き浮きするような高揚感と熱気に満ち溢れている。基本的には回想録なのだが、過去のわくわくした時間を実に楽しそうにサーナンが振り返ってくれるのだ。まあ、「月に降り立つ」、これ以上の夢はあまり世の中にはないだろうしなあ。しかもそれは、もう30年以上も前のことなのだ。
サーナンは最後に言う。
アポロ計画は時代に先んじていたのではないだろうか。ケネディ大統領は21世紀に手を伸ばし、そこから10年間をつかみ取って、1960年代と1970年代にはめ込んだようにさえ思われる。論理的に考えれば、宇宙計画はマーキュリー計画とジェミニ計画が終了したあと、スペースシャトルの製造へとすすみ、つぎに宇宙ステーションをつくって、それから月を目指すべきだったのだろう。実際には、私たちはまず不可能に近い任務を達成し、そのあと再出発したのだった。(372ページ)ここから先の本書の締めくくりは「いかにも」といった感じではあるけれど、誰でもこのように生きられるわけではない。そこは、皆さんが自分で本書を手にとって、読んでもらいたい。
実際にはサーナンの単著ではなくライターとの共著だし(海外の書籍の場合よくあることだ)、固有名詞の訳しかたに難があることは確かだが、それでも十分、いや無茶苦茶楽しめた。宇宙計画が猛スピードで進行していたとき、まさに夢のような時間であったろう時を、もう一度体験するには最適の一冊だ。
アメリカ初代大統領ワシントンも入れ歯に苦しみ、比較的最近までヒトの歯そのものが入れ歯として使われていた。戦場では戦死者の歯を抜くものがいたという。
これらのトピックスだけでも僕は十分楽しめた。あとは現代の入れ歯の話や未来の入れ歯など。著者はインプラントには反対意見。
しかし、万が一歯が取れてしまっても、(歯が汚れていなければ)歯肉の穴に差し込め、運がよければもとどおりに生着するっていうのは凄いなあ。この辺、やっぱり分子レベルでの解明も進んでいるのだろうか?
現在の人工乳房は、シリコーンで作られ、温泉につかったときには上気したように色づくという。中村ブレイスでの義肢や人工乳房製作は事業のごく一部で、主体はサポーターなどだという。なぜかというと、作れば作るほど利益面ではマイナスにしかならないからだという。社長の中村はこの事業を「メディカルアート」と名付けて事業展開を続けている。
現実問題としても人工乳房などに理解を示さない人も多いそうだが、QOLを大切にしたいという患者の要望は、これからどんどん増していくことだろう。義手義足は言うまでもない。こういった事業者には頑張ってほしいものだ。
かつて──というか今でも、その気風は残っていると思うが──絵が描けない奴は生物学者になれない、と言われていた時代があった。分子生物学や数理的な手法を使う系統学などを除いて、ストレートな生物学や進化生物学、博物学は、視覚に頼る部分が非常に大きいジャンルだ。何よりも徹底的に見ること、観察することが要求される。
ところが著者は全盲でありながら貝を専門とする進化生態学者になったのである。そこには様々な苦労があったことは想像にかたくない。邦題からも、こちらは半ば、それを期待しながら読み進めた。
もちろん著者ヴァーメイには晴眼者にはない能力がある。目が見える博物学者が冷たい海の貝が、暖かい海の貝に比べて色が単調だということに注目するのに対し、ヴァーメイは冷たい海の貝はもろい白亜質で、暖たかい海の貝は硬くてつやつやしているのはなぜかと問う。
だが本書で描かれているのは、全盲の科学者の苦労話ではない。そういう話はほとんどない。主な内容は進化に関するエッセイだと考えて間違いない。もちろん、そういうものだと思って読んでも悪い本ではないのだが、ちょっと肩すかしにあったような気分になった。
おそらく本国では刊行されているのだろうが、サイエンスライターあたりが客観的に書いたほうが面白い本になったかもしれない。
おまけ。この本、グールドが献辞を書いているのだが、なぜかその言葉はカバー袖。意味ないじゃないか。
最近、「大学院生倍増計画」だとか「ポスドク等一万人計画」だとかで博士課程の募集人数がやたらと増やされ、さあ大変だと言われているのだが、この数字を目にすれば、これから大変になるわけではなく、実はいままでも大変だったのだということがよく分かる。単に今までほっといただけなのだ。しかも博士号がどのような基準で与えられるのかも明確な基準はない。でも研究者として職を得るためには取りあえず博士号がいる。博士号がないと何も始まらない、らしい。
本書は、オンライン書店bk1での上原子レビューの言葉を借りれば、
「問題の改善を目指すのではなく、問題アリアリの状況をいかに乗り切るかを目指す」本である。だからジャーナリスティックに、「ここが問題だ! だからこう改善すべきだ!」という本ではない(もっともジャーナリストを名乗る人が書いた本でも「指摘」しただけで改善法は全く示さない人が多いけど)。いわば、博士課程の学生ならびに博士課程進学希望者のための実用書であり、心得を説いた本だ。ただし、現状の指摘は様々なデータや図表、そして独自の調査によって示されており、説得力がある。現状紹介は極めて具体的で、年収や生涯賃金はもちろん、現場の雰囲気やアプローチのしかた、そして企業に取材を申し込んだときの断られ方にまで及ぶ(笑)。
というわけで、研究職に就きたいなとか思っている人は目を通しておいたほうがいい本であることは間違いないのだが、私のような研究職にない人間には関係ないかというと、そうでもない。「約14万人もいる医学博士よりも、過去39年間で21人しかいない家政学博士をありがたがったらどうだ」といった話はともかく、他にもいくつか興味深い話が掲載されている。
まずは世間が研究者あるいは科学者に対して抱いているイメージの問題である。98年12月、総理府が「社会意識に関する世間調査」を行った。そのなかに「今後、政府に足しいて、力を入れてほしいと思うことを、いくつでもあげてください」というのがある。項目は全部で28項目。そして、強調しておくが、「いくつでもあげてください」というアンケートである。つまりいくつマルをつけてもいいわけだ。さて「科学技術の振興に力を入れて欲しい」は何位だったか? なんと28項目中28位である。しかもマルをつけた人は全体の4.8%しかいなかった。つまり日本の大人のほぼ全員(95.2%)は、科学技術の振興になど興味はありません、と言っているのだ。
さらに面白いのがここからで、「現在の日本の状況について良い方向に向かっていると思う分野をいくつでもあげてください」という質問に対しては、1位「医療・福祉」、2位「通信・運輸」、3位「科学技術」という答えだったという。全24項目中、上位三位までに科学技術関連のものがくる。さらに「日本は科学技術が進んでいる」と思っている人は80.6%にまでのぼる。
この結果を合わせるとどうなるか。
そうです。日本の科学技術は世界的にすごく高いレベルで、しかも、今もどんどん発展してると、世間の大人のほぼ全員が思っているのだ。ナヌ、キミもそう思っているってか。オイオイ。(39ページ)ということになるのである。もう進んだ技術を持った国なんだから、これ以上振興する必要などないじゃないか、ということらしい。オイオイ。
あと、博士号取得者の今後の進路先の一つとして出版界が紹介されている。このへんは、僕に聞いてくれればもうちょっと正確な数を教えてあげたのに、と思わなくもなかった。まあでも、1998年の新刊点数6万3023冊のうち、自然科学書が占める割合は7.5%に相当する4721冊で、さらにそのうち71%が「医学・薬学」書というのは改めて示されるとやっぱりなあって感じがする。
なお本書ではそれぞれの業種の人が顔写真入りでインタビューされているのだがバイオ出版界代表?は羊土社の中川尚氏。彼が出版業の不満点として、ちょっと面白いことを言っている。
第一に、出版業は他の製造業に比べ効率化が難しいことです。基本的には手作りなので、10人いれば30冊出版、20人いれば60冊出版と、人員を増やしても単純比例でしか製品は増えません。つまり、あまり儲かりません。(268ページ)確かにそのとおりだが、まあこれは、マーケットの大きさが決まっている専門書、あるいは売れない本ばかり作っている出版社の話ですね。ということは実際に生きている出版3000社のうちほとんどの会社が作っている本ということなんだけど。彼は編集者なので、編集コストにだけ目がいっているのも、当然といえば当然なんだけどね。でも逆にいえば、そういう状況だから科学書は売れないのですよ。
もっとも、売れたところで大したことないのかも、と思わざるを得ないデータも示されている。総理府による「科学技術に関する知識の情報源」のうち書籍は10%に満たない(しかも複数回答可のアンケートだから、この数はもっとあてにならない)のだ。もちろんぶっちぎりはTVである。なんと89.7%。ちなみに科学雑誌など専門雑誌は書籍以下の影響力しかない。一つくらい科学雑誌がなくなったところで大勢に影響なし、と僕が考える理由の一つはここにある。雑誌が論壇を引っ張っていた時代は、もう終わったのだ。
あらあら、完全に話がずれてしまった。ま、大学院生はみんな読んでおいたほうがいいかもよ。
たとえばカイコのウイルス病のひとつに核多核体病ウイルスがある。「細胞の核内でウイルスが増殖して、多角体という結晶状のタンパク質をつくり、その中にウイルスが包まれている」ことからついた名前だ。ウイルスがカイコの体を利用して、自分たちを包む膜を作らせているのだが、この多角体タンパクは、幼虫一匹で10ミリグラム、幼虫の全細胞タンパクのうち、20〜30%にもなる。では、この驚異のタンパク合成能を利用して、多角体のかわりに有用な物質を作らせたらどうか。そういう発想だ。
また、有用な物質を好きなときに作らせる培養細胞、人工細胞の研究も進められている。また、三重大学工学部の小林淳氏らは、培養細胞は能率が悪いとして、人工昆虫臓器の開発を目指しているという。つまり生体のように高密度に組織化された人工の細胞叢を作ろうというのだ。
昆虫から有用物質を、という発想の過程で昆虫という生き物の細胞、組織、器官の性質が詳細に検討されている。そこが面白い。また日本のお家芸であるカイコの現在が分かるところも面白い。
ただ、本としてはいま一つかも。内容は非常に面白いのだが、ただ淡々と書かれているので、やっぱり素人向けではないかもしれない。個人的には同じ著者の『昆虫に学ぶ』のほうをおすすめしたい。
本書は、空前の健康ブームが来ているなか、遺伝子組み換え食品の登場などで揺れる我々の食事情を科学的な目で考え直してみようという本だ。執筆者は主に京都大学食糧科学研究所の人々。各章は読み切りで、それぞれ、おいしさについてやアブラと体の関係、アレルギーの話、クローン牛、そして遺伝子組み換え食物(GMO)の話などなどとなっている。遺伝子組み換え食品に関しては、本書は基本的に賛成の立場。地球上には「何を食べるか」どころか「何が食べられるか」という人がいっぱいいる、といういつもの話。
現在は様々な情報に溢れているが、そのぶん情報に溺れている人も多い。それに「食」を考えることは、自分一人だけが何を食うかという問題だけではない。一カ所だけ見て、それがどうしたこうした言ってもあまり意味はないのだ。だから全て、それこそ地球全体の環境まで引っくるめた全てを考えなければならない。編者は<エピローグ>でいう。
これはとても人で判断し、どのように行動するか決められる問題ではない、と逃げ出したくなりさえする。しかし、食べるもののことくらい、自分で決められなくてどうする。逆に、食は短期的にも長期的にも自分の健康に跳ね返ってくるのだから、何を食べるかについて自分が最終判断をし、責任を持つしかない。誰かがかわりになってくれはしないのだ。だが、そうは言っても何を食えばいいのかは難しい選択だ。取りあえず、身の回りにあるものを食ってみて試す、これしかないような気もしている。これまでずっと、ヒトがしてきたように。
本書の役割はここにある。生活習慣病、遺伝子組み換え食品、環境ホルモンなどそれぞれに関する専門書は多数あるが、私たちの健康と食はそうした問題すべてにかかわっている。そして何度も繰り返しになるが、食の問題は、他人から「これを食べなさい、これは食べてはいけない」と指図されるものではない。本書は、食の選択に必要な知識と情報をそれぞれの分野の専門家が提供し、読者ひとりひとりに考え、行動していただこうというものである。(191ページ)
なぜこんな症状があるのか。どうも、脳が自発的な視覚イメージを生み出していること、それと意識の低下や記憶の障害などが組み合わさって、このような症例を生み出しているらしい。だが、やはり不思議である。なぜそんな症状があり得るのだろうか。
本書は、人間の心の働きを支える脳の中の、意識的な経路と無意識的な経路双方の絡み合いを、数多くの不思議な症例で描き出そうとしたものである。本書でいう無意識とは、ユングやフロイト的な意味での無意識ではなく、意識上にのぼらない処理過程のこととでも考えたほうがいい。この無意識と意識は対立するものではなく、相互に、臨機応変にその比重を変えながら我々の心を形成していることが、本書で紹介される数多くの症例──幻肢、反復視、ユーテリゼイション・ビヘイビア、潜在記憶などから浮かび上がってくる。
しかし、やっぱり不思議でしょうがないのが病態否認とそれに伴う作話傾向である。著者はこう言っている。
むしろ、意識の本来の性質として病態失認を考えることも可能だろう。すなわち、意識(あるいは脳の働きといってもよい)は、その一部に何らかの欠陥が生じたときに、その欠陥を補う形で再編成され、あらたに完結した意識の統合体として機能しはじめる性質をもっているということだ。それは、幻肢や幻視、さらには無視症状の生成機序とも共通した、意識の特性といってよいかもしれない。(85ページ)「意識」なるものが一体なんなのか、皆目分かってない今日、意識とは何なのかと考えることはまさに群盲象をなでるに等しい。だが、いったい何なのかと考えること、そのこと自体は決して無駄ではないし、その取っかかりはある。そんなことを思った。
何も知らない人は読めないだろうが、ある程度知識のある人が、現状をざっと再確認するためにはオッケーの本。ただ、索引がないのは残念。これで索引があればちゃんと使える本になったのに。
間には研究者たちへのインタビューも挿入されている。インタビューは、なかなか面白い。
んー。やっぱり索引がないのが不便だなあ。なんで作らなかったんだろ。そういう手間を惜しむ編集者はいかんよ。
本書は、クモを研究する著者の本だが、クモそのものの面白さよりも、はまっていく著者本人の様子のほうが面白い。
ただ、それにはやや中途半端で、また、僕が求めたものともちょっと違った。よって僕的には本書は落第点。ま、本書のせいじゃないけども。クモの糸の粘着球の写真には驚愕した。
目次を紹介しておく。
第一章 概要と展望(長尾確)アマゾン・コムが使っていることで有名な「協調フィルタリング」などは、科学だけではなくビジネス面でも興味を惹くと思う。また、第二部の実世界モバイルエージェントや、その例としてのウォークナビ、ナビカム、カーマ(140ページ)などはこれから大きく発展する可能性があるだろうし、ショップナビ(157ページ)やABSバッジを使ったガイドシステム(170ページ)などはARのアプリケーションとしても面白い。将来の建物の天井や壁には位置を検出するための赤外線マーカーが埋め込まれ、それぞれの訪問者の履歴に合わせて様々な情報を提示してくれるようになるのだろう。
第一部 知的ソフトウェアエージェント
第2章 インターネットエージェント──インターネット上での情報検索/統合/配信の知的支援(北村泰彦)
第3章 エージェントグループウェア──共同作業を支援するエージェント(國藤進、高田裕志)
第4章 エージェント志向インターフェース(長尾確)
第2部 知的モバイルエージェント
第5章 プランニングモバイルエージェント(大須賀昭彦)
第6章 実世界モバイルエージェント──実世界をパーソナライズするエージェント(勝野恭治、長尾確)
第7章 エージェント拡張現実感──実世界を情報的に拡張するエージェント(長尾確)
第3部 コミュニティウェア
第8章 出会いを支援するエージェント(角康之、角薫、間瀬健二)
第9章 エージェントメディエーテッドコミュニケーション(長尾確)
第10章 分身エージェントに基づくコミュニティコミュニケーション支援(西田豊明、平田高志)
本書の著者らはエージェント技術を使って人間のコミュニケーションをより活性化しようとしている。だが、それが本当にうまく働くのかどうか。現段階のものから、10年後を想像するのは難しい。
というか…、なんていえばいいのかな。基本的には本書が思い描かせるような世界へと進んでいくのだろう。だが、それは本当に、著者らが想像するような世界だろうか。ちょっと違ったものになるのではないか。ケータイの爆発的普及を牽引したのが女子高生らだったように、全く思いもよらないアプリや使用層たちがARやエージェントテクノロジーを引っ張っていくような気がしてならないのだ。
著者の仮説の基本は極めて単純である。地表と電離層をそれぞれ極板とみなしたコンデンサーと考え、地震発生前に地表に電荷が生じ、静電誘導で電離層の電子密度に変化が生じる。もちろんごく僅かな変化だが、それを電波の後方散乱の形で空間的に積分して観測すれば、変化を捉えることができる、というものである。
著者の名誉のために断っておくが、彼は最初から地震の前兆現象を捉えようとしていたのではない。つまり先に説ありきだったわけではない。
彼が捉えているデータは、限られた会員にしか公表されていない。その理由も本書には書かれているが、正直いって、僕は納得できないし、他の多くの人もそうだろう。できれば公開して欲しい。そして世に問うて欲しい。著者は私財を投じて研究を続けているとのことだが、もし公表し、それが(精度はともあれ)ある程度有用と認められれば、資金は自然と集まってくるだろう。その評価を拒んでいては、道は開けまい。現在、理研の地震国際フロンティア研究部とも共同研究しているということなので、今後に期待する。
また、著者ジャレド・ダイアモンドへのインタビューは、http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_top.cgi?aid=p-moriyama0044&tpl=dir/01/01080000_0013_0000000004.tplにて公開されている。