『技術と経済』1998年11月号掲載書評

「いのちの遺伝子」
集英社刊
98年7月11日
253ページ 定価1500円
著者 中部博
評者 森山和道

 北海道大学で行われた日本初の遺伝子治療。それを行った医師たちの激闘と、患者の家族の苦悩や衝撃の日々をめぐる。ヒューマン・ドキュメントである。
 患者が北海道のある町で発見され、重い病状が徐々に明らかにされていく様子は、ゆっくりと死を宣告されていくかのようだ。
 患者の病名はADA欠損症。アデノシンデアミナーゼという酵素を作る遺伝子が欠損しているため、免疫が働かない病気の一つである。直接の死因にはならないが、感染症やガンになった場合、即、死に繋がる。
 病気を治すにはいくつかの方法しかない。骨髄移植、酵素補充療法、そして始まったばかりの遺伝子治療だった。
 骨髄移植はドナーがいないとできないし、免疫系の働きを化学療法で押さえる必要がある。体力を失い、肝臓にも障害を持つ患者では死に至る可能性が高いので、断念された。
 ADA酵素そのものを補充してやる酵素補充療法は試みられたし、今も続けられている。ところがこれには保険が全く適用されないのである。1回分の費用が三〇〇〇ドル。毎週一回行うとなると、月額は一二〇万円、年間一五〇〇万円以上の負担。「これは、どう考えたって、死の宣告にちかいこと」だった。だが、医師たちの努力で費用をなんとか切り下げることに成功、治療は実施された。これまた日本で初めて行われた治療法だった。効果はあり、患者の病状は回復へ向かった。
 ところが、やがて効果が薄れ始める。こうして残された手段は、ただ一つ、遺伝子治療のみになった。そして日本初の治療は、多くの困難を乗り越え、実行された。
 やたらと汚職や天下りが報じられる今日この頃だが、本書に登場する医師たちは、ひたすら患者の命を救うために奮闘する。
 経済行為としての医療がまき散らす弊害や、薬害のような新たな技術による問題は確かにある。だが、この医師たちのような人達が、本当の意味での医療行為への信頼を支えている。
 押さえ気味の淡々とした文体が、ほとんど死を宣告されたに近い我が子を抱えて、懸命にふんばる患者の家族たちの思いを反映しているようだ。読んでいると思わず熱くなる。
 医療とは、そして技術とは何のためにあるのかを考え直すためにも、今年、必読の一冊である。

もりやま・かずみち
サイエンスライター


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