K.Moriyama's BookGuide:

脳と心を探る35冊

森山和道 moriyama@moriyama.com

『SFマガジン』誌'98年4月号「われ思う、されど脳あり─脳SF特集」
掲載原稿に(ほんのちょっと)加筆。
(というよりボツったところをそのまま残したもの。どこが削られたか探すの面倒なんで)
皆さん『SFマガジン』を買いましょう!


■脳と心、意識

 脳と心、意識、そして魂とは、実に不思議なタームだ。どれも日常的な言葉だが、この中で定義がある程度はっきりしているのは脳だけである。両手を握って拳を作り、掌の側を合わせる。それよりほんの少し大きめの、あっけないほど素っ気ない灰色の固まり。それがあなたの頭蓋の中の脳ミソであり、多くの人に<心の器官>だと捉えられているものだ。だが、脳と心の関係一つとっても私たちの体はそう単純なものではない。体中の細胞は相互に影響を及ぼしあい、外界の刺激に応答していることが分かりつつある。脳が体へ指令を一方的に出しているわけではなく、体も絶えず脳に刺激を与え続けている。その複雑な相互作用の中から私たちの<知・情・意>は生まれてくる。脳に限らず、私たちの体はもともと恣意的な器官に切り分けられるようなものではない。だが一方で、心の機能のうちある種のものは確かに局在するらしい。ほんの一部が破壊されただけで、心が破壊されてしまうこともある。
 「心」「意識」なる言葉の定義も実に曖昧で、研究者によって違う。意識に関する本もじわじわと刊行数を増しつつあるが、一冊の本を読む上でのお約束としての定義を理解するのに、まず時間がかかってしまう。ホフスタッターは『マインズ・アイ』TBSブリタニカ('84、原著'81)で「心とは、心によって知覚されたパターンである」と言った。一読しただけでは何のことかさっぱり分からない。万事この調子である。だがしかし、一般人が興味を持つものは脳よりは心であり、魂とはなんぞや、という問題だろう。これまで科学は、曖昧なものは扱えないとして、はっきりとした対象、つまり脳しか相手にしてこなかったが、近年この辺へのアプローチも再開しつつある。本稿では、細胞社会が生み出した「心」なる働きへのアプローチがどのように行われているか、ブックガイドを交えつつざっと眺めていくが、その前に、お約束を一つ。
 本稿でいう「心」と「意識(あるいは自意識)」はだいたい同じ意味だと考えていただきたい。一応申し上げておくと、「意識」とは覚醒状態の事でも注意的な意識のことでもなく、外界ならびに自分自身の事に気が付いている状態のこと、つまり自覚意識のことである。「心」とは認知、思考、記憶、想像、意志などの過程の複合であり、神経系の活動の結果、発生すると考えられているものである。そしてその働きは、それ自らには「意識」として認識されている。心とは心自身によって観測される状態のことであり、それに気が付いている状態が意識である、ということだ。これではなんのことか分からないかもしれないが、この辺でお許し願いたい。では、本題に入る。

 まず総論的な本から挙げていく。皆さんお馴染み<講談社ブルーバックス>からは脳についての本が多数刊行されている。敢えて一冊あげれば『脳の探検 上・下』('87、原著'85)。教科書としてバランスのとれた優れた本だ。この本あたりで解剖学的な基礎知識を入手、同時に自分がどういったことに興味関心があるのか探ってみるのが基本だし、ベストだろう。あるいは、小脳研究で有名かつ日本の脳研究の牽引者・伊藤正男による『脳のメカニズム』岩波ジュニア新書('86)。中学生にも分かる表現ながら、記憶の形成に重要な役割を果たすシナプス可塑性、コラムやニューラルネットなど専門書レベルの基礎知識をもスムーズに織り込んだ、入門書として手頃で最適な一冊である。
 ちょっと趣は違うが、もっとダイレクトに心や意識に関心がある人にはフーパー&テレシーによる『脳と心の迷路』白揚社('95、原著'86)がある。副題は<心の化学から魂のニューフロンティアまで>。ちなみに序文はアシモフ。古典的な脳の姿は、神経細胞が相互にビビビと電気信号をやりとりさせている電気機械的な像だろう。この、回路図的な脳の姿は基本的には(多分)正しいが、それほど単純に還元できるものでもない。リチャード・M・レスタック『化学装置としての脳と心』新曜社('95、原著'94)は、ケミカルマシンとしての脳を描き、来るべき薬物時代を予見させる本。一読すれば古典的電気機械的な脳の姿はかき消えてしまうだろう。必読。研究の現状と実際を読む本としては信濃毎日新聞社編『脳・小宇宙への旅』紀伊国屋書店('91)と、立花隆『脳を究める』朝日新聞社('96)。書かれた内容全てを読みこなすのは難しいかもしれないが、日本の研究者の姿をかいま見られるし、MEGやfMRIなど脳計測の先端技術を覗くこともできる。最近は脳を非侵襲的に、つまり傷つけずにいろいろと調べられるようになった。しかも脳に磁気刺激を与え、反応を起こさせたり一部の機能を麻痺させたりすることもできるようになっている。つまり、磁気刺激による電磁誘導でニューロンに電流が流すことができるのである。全くの外部刺激でニューロン網を動かすことができるのだからこれは驚きだ。この辺を読んでおくと脳SFがより楽しくなることうけあい。


■神経細胞と記憶

 脳の重要な役割にメモリー、つまり記憶がある。記憶には長期記憶と短期記憶があるが、どちらの記憶もないと人間は連続した存在としていられない。不思議なものだ。脳は言うまでもなくニューロンの塊だが、そのネットワークの中に記憶はある。脳のニューロンは百億個ほどあり、一つのニューロンにはおよそ1万のシナプスがある。一つのニューロンは、シナプスを介して接続している多くのニューロンから入力を受けている。このシナプスの一部は可塑性を持っている。つまり、シナプスが繋がったり切れたりするのである。それらによる神経網の電位変化が記憶であるらしい。ネットワークのモデル構築と神経細胞内部の活動の研究がこれからの記憶研究のカギを握っているのだ。さて、神経細胞がニョロニョロ軸索を伸ばしてシナプスを繋いだり切ったりするから記憶が生まれるわけだが、この機構が遺伝子レベルで解析されつつある。記憶を保持するために神経細胞の中でDNAが何をやっているか、どんな生化学変化が起こっているか知りたい人には山元大輔『脳と記憶の謎』講談社現代新書('97)が手頃。記憶とは何なのかについても大いに勉強になるし、免疫系と神経系の類似についての示差など、実に面白い本である。記憶に関する仕組みは種を超えて似ているそうだ。これは、記憶の進化的起源が共通であるからだと考えられている。また分子レベルでの記憶メカニズム解明は、アルツハイマーなどの防止や治療にも役立つのではと期待されている分野でもある。神経細胞の役割にも、まだまだ未解明の謎がある。

■心の進化

 進化という言葉が出たところで、眼を転じてみよう。生物の全ての器官や機能は進化の産物である。脳も例外ではない。では脳の機能の一つである「心」あるいは「意識」は、なぜ、どのようにして生まれたのか?なぜ「心」は自然選択の中で生き残り続けたのか?「心」を持つことには何の「得」があったのだろうか?なぜ「心」は進化してきたのか。おそらく「意識」なるものがあった方が、周囲あるいは内部環境の情報処理をするために有用だったのだろう。考えるきっかけとして、ニコラス・ハンフリー『内なる目』紀伊国屋書店('93、原著'86)。TV番組の台本を本にしたものだけに読みやすいが内容は示差に富む。またG・M・エーデルマン『脳から心へ』新曜社('95、原著'92)は古典的な内容ながら、やはり心を考える上では進化の概念は必須であることを正面から訴える。心の問題へアプローチしているのだが、いかにも生物学者が書いた本らしく具体的でとっつきやすい。藤田暫也『心を生んだ脳の38億年』岩波書店('97)は脳の個体発生を支点としつつ、心の進化を考察している。

■動物の心と意識

 人の心の進化を考える上で、動物の心を探ることは大変有意義である。進化史上、人間と動物は連続しているからだ。いつから、我々はヒトから人間へなったのだろうか。人間の意識と動物の意識との線引きはどこにすれば良いのか。行動の面から心の進化を考える本として、類人猿研究者の数多くの著作はどれも面白い。またドナルド・R・グリフィン『動物の心』('95、原著'92)、マリアン・S・ドーキンス『動物達の心の世界』('95、原著'93)共に青土社など、動物が意識を持つかどうかについての考察も手にとって欲しい。欧米では動物に心があるという考え方に対して根強い抵抗があるようだが、これらは動物が意識を持っていることを示差する(ように見える)証拠を多数挙げている。
 この問いに対して脳の解剖学的構造からのアプローチで答えるのが脳のコラム構造の研究者として数多くの著書を持つ澤口俊之『「私」は脳のどこにいるのか』ちくまプリマーブックス('97)である。ヒトの連合野と相同な連合野を持たない動物は私たちと「相同な心・意識」を持たないとする考え方は分かりやすい。実際にはどうなのだろう。しばしば「犬を飼ったことのない哲学者は、犬には心がないと考えている」と言われてるが…。
 どちらにせよ、動物や昆虫の知覚世界は人間のものと全く違っているだろうと予測できる。昆虫にいたっては知覚器官までまるで違うのだから当然である。鈴木光太郎『動物は世界をどう見るか』新曜社('95)はそんな動物の知覚世界を推測してくれる本。他の生物の知覚は違うといったところで意味はないのだ。どう違うのか、探ってみなければ。

■心のメカニズム、認知科学

 では、我々の知能、認識のメカニズムはどうなっているのか。知識はどのように記憶構造化されているのか、それらをモデル化して理解しようとする試みが認知科学である。認知科学では、心をモジュール化し階層性を持った存在として捉える。この分野は、人工知能や、表象あるいは出力媒体としての自然言語とも深く関わっており、書籍もそれらの分野と交差して多数刊行されている。ちょっと専門的になってしまうと初学者にはちんぷんかんぷんな世界だが、最近の本ではチャーチランド『認知哲学』産業図書('97、原著'95)などが教科書的であるがそれなりに面白く、ざっとした知識を手に入れられる。
 また近年、鳥やチンパンジー、フクロウやコウモリなど多くの動物の認知機能が調べられており、いくつかの動物ではめざましい成果を上げている。それぞれの動物は環境情報の中から情報を取捨選択して取り入れるための独自の認知機能と、その統合結果である認知世界を持っているが、本質的に動物と人間の心を分けているのはこの点にあるのではないらしい。どうやら認知能力そのものは、それほど人間だけが特別だ、というわけではないらしいのである。ヒト精神そのものの固有性は、別のところにあるようだ。
 ちょっと変わったものではエルンスト・ペッペル『意識の中の時間』岩波書店('95、原著'85)は、我々の認知世界の中での時間、連続して流れているように感じている時間感覚が、実は曖昧なものであることを教えてくれる本。我々の意識で「いま」と呼ばれているのは3秒間であり、その中での神経活動が意識なのだという。また我々は1秒間に30回しか決断できる機会がない、つまり人間は、30分の1秒の、細切れの時間の中で生きているという。生物の時間感覚が注目されつつあるが、なぜ過去・今・現在という時間の流れを感じることができるのかという問題は、意識を考える上でも非常に重要である。
 なお、感覚の中でもっともモデル化が進んでいるのは視覚である。眼は発生的にも脳の出張所だが、池田光男『眼は何を見ているか』('88)平凡社、フランシス・クリック『DNAに魂はあるか』講談社('95)などが参考書として面白い。

■機械の心について

 SFファンならば「人工的に心を作ることは可能なのか?」と疑問を持たない人はいないだろう。つまり人工知能である。人工知能の考え方の一つ、かつ基本中の基本の書籍(ただし読むのは結構疲れる)はミンスキー『心の社会』産業図書('90、原著'86)。心とは単機能の<エージェント>が多数集合している<社会>のようなものだという。彼は将来は脳の一部を機械化していき、能力を拡張したりメモリを増強したりできるようになるだろうと公言してはばからない。さらに過激な男が『電脳生物たち』岩波書店('91、原著'88)を書いたハンス・モラヴェックである。彼は貧弱な有機体である人間には未来がないと言い、<心の子どもたち>と彼が呼ぶところの、人間が創り出した知能を持った機械達が人類の子孫になると主張している。人間はどうしているかというと、ミンスキーがいうように機械に部品を置換していってやがては全て機械になるか、脳の中の思考や意識を丸ごと読みとってダウンロードし、コンピュータとなって生きるかするだろうという。『ゲイトウェイ』の電子知性たちのようなものだ。リチャード・ドーキンスは文化的情報の複製子として「ミーム」という言葉を作った。ミーム、つまり文化的遺伝子はひとたび生まれるとそれ自体生物のように増殖する。人間が作ってきた文明や文化そのものも全て時間や世代を越えて伝えられてきたミームの産物である。ミームはこれまでもずっと遺伝子にも影響を及ぼしてきた。火を使って命を延ばすことから始まり、今日ではもっと直接的に遺伝子そのものをいじっている。人間の作り上げた機械が我々の子孫になるのであれば、それはミームのジーン(遺伝子)乗っ取りである。モラヴェックの言うことは突飛だが、体のパーツを少しづつ機械に置換していったとき、どこまでその人はその人であるのかという古典的な問題を考察するきっかけとしても一読の価値あり。SFファンには面白いこと間違いなし。
 こういう<強いAI>の立場に対して真っ向から批判するのが哲学者であるドレイファイスやサールらである。それぞれの主張は彼ら自身の本にまかせるとして、ここでは『ソラリス』や『ブレードランナー』を高く評価している認知哲学者・黒崎政男の著作『哲学者はアンドロイドの夢を見たか』哲学書房('87)、『ミネルヴァのふくろうは世紀末を飛ぶ』弘文堂('91)を挙げておこう。AIに対する、あるいは人間機械論に対する反論、テクノロジーと人間の距離感についての論考を読むことが出来る。なお色々な立場を1冊でという人には、論文集『知能はコンピュータで実現できるか?』森北出版('92、原著'89)を挙げておく。
 なお念のためここで強調しておきたいのは、AI問題の核はコンピュータの演算速度などではないということだ。そもそも心は計算機でエミュレートできるのかできないのか、脳はコンピュータなのか違うのだろうか、という問題なのである。

■コンピュータに情動を

 話を再び脳そのものの理解に戻そう。脳はやはりある種のコンピュータなのだという考え方に基づき、脳のモデルを構築しようという試みもいろいろと行われている。基本キーワードは遺伝的アルゴリズム(進化的手法を用いた最適化の一つの手法)とニューラルネット(神経回路網)、そしてカオスである。これらの考え方に基づき、出力結果を絶えずフィードバックしながら規則そのものを変更していくモデルが構築されており、パターン認識などに有用だとされている。またカオス派の人々によれば、カオスは脳の中でも記憶、認識、時間感覚などに重要な役割を果たしているという。その辺の観点を得るには、カオスの視点で脳の情報処理モデルの構築を目指す津田一郎『カオス的脳観』サイエンス社('90)がある。最近は、コンピュータへの入力情報に予めウェイト、つまり「重みづけ」あるいは「好み」を加えておこうという動きが流行っているようだ。講演集『心とコンピュータ』ジャストシステム('95)などで、この辺のことはざっと仕入れられる。情報の好みとは一言でいえば価値基準である。これは「感情」の原初的な発露に他ならない。ある研究者によれば、この「好み」はどうやらバクテリアのレベルからあるらしい。なかなか興味深い話である。知・情・意のうち、これまでは「知」に偏って研究が行われていたが、これからは情・意が重視されてくるのだろう。この辺は、AI研究と表裏一体の関係にあるが、結局は、免疫や進化、情動といった<生物的なもの>をどうモデル化して新しいコンピュータを作り上げるかという問題なのだ。

■ペンローズ説をめぐる問題

 これまでは、認知メカニズムや神経網がどう繋がっているのかといった、比較的科学がアプローチしやすいものだけに、科学はせまっていた。心をいくつかの要素にわけて、調べやすいところから調べてきたのである。元来、科学とはそういう性格のものであるし、それはそれで大いに結構だったのだが、ばらばらのものを集めてもどうしても進めない壁が目の前に立ちふさがっていることに多くの人は気が付いていた。それが意識や意志の問題である。
 自意識とは何か。どのようなメカニズムで発生し、働いているのか。何がどうなって「私はいまここにいる」という独特のクオリア(質感)が生まれるのか。いったい<これ>は何なのか。この問題は、科学の埒外に置かれていた。だが、ここへ科学者達の目が向きつつある。これにはある一冊の本の役割が大きい。ロジャー・ペンローズ『皇帝の新しい心』みすず書房('94、原著'89)。未訳の『Shadows of Mind』('94)と共に、意識を理解するためには量子重力論が必要と提唱し、脳の働きは非計算的でありAIは裸の王様だ、と揶揄した本である。かなり疲れる本だがトライするのも一興。副読本として『ペンローズの量子脳理論』徳間書店('97、原著'96)などもある。彼は麻酔医のハメロフと一緒に「意識は神経細胞の中にあるマイクロチューブル(細胞骨格)の中での波動関数の収縮によって起きる」という説を提唱している。この、一見なんのことやら分からない、これまでの常識とは全く違った意見は喧々囂々の議論を巻き起こした。主に各方面からペンローズへの反論という形だったのだが、その過程で、それぞれのジャンルの研究者が依然としてかなり異なった考え方を持っていることが明確になった。少なくともペンローズが意見の相互交換を活性化させたことだけは間違いない。

■意識の科学研究の現状

 これまで扱えなかった意識の問題を、科学者達はようやく問い始めた。いったい意識とはなんだろうか?先に挙げたペンローズはじめ、脳科学や神経科学はもちろん、哲学者や言語学者まで入り交じった欧米での議論の様子が良く分かるのは矢沢サイエンスオフィス・学研による最新科学論シリーズ『最新脳科学論 心と意識のハード・プロブレム』('97)。この本あたりでざっと状況を俯瞰した後、それぞれの研究者たちによる著作を読み進めるといいだろう。意識の秘密は神経細胞の中にあるのか。それとも、やはり神経回路網の計算過程が意識を生むのか。いや、シナプスの伝達物質がカギを握っているのか。あるいは、全く未知のメカニズムがあるのか。まだ分からない。
 科学の仕事ではないとされていた意識。だが、意識についても問うても良いのだ、科学は問えるのだ、と科学者達が議論を再開したことは大変嬉しい。国際会議も時折開かれており、日本人研究者も参加していると聞く。今後の研究の進展に期待したい。この分野の学説は、はたから見ていると限りなくサイエンスフィクションに近いようなものも多い。ペンローズの説しかり、デネットの「意識とは並列マシンによる仮想直列機械の動作過程だ」という説しかり。どれもこれも、ふーんとしか言いようがないものばかりである。この辺りをネタにした面白いSFを読みたいと思う今日この頃だ。

■精神病や脳疾患に伴う心の障害について、精神薬理など

 最後に、実際の人間の心の摩訶不思議さを実感させてくれる本を挙げておこう。精神病、神経障害関連の本である。基本的な本としてはアンドリアセン『故障した脳』紀伊国屋書店('86、原著'84)。精神病を扱った最近の本としては春日武彦の一連の著書『ロマンティックな狂気は存在するか』('93)『私はなぜ狂わずにいるのか』('94)『心の闇に魔物は棲むか』('96)大和書房がオススメ。脳の疾患、神経障害などが心の働きにどのような影響を及ぼすかについて知りたい人にはメディカル・エッセイの名手、オリバー・サックスによる著作をお薦めする。晶文社から<サックス・コレクション>として刊行されている。晶文社からはその他にも強迫神経症に関する『手を洗うのがやめられない』('96)ほか、自閉症に関する本など、数々の面白い本が刊行されている。また近年TVドラマなどで取り上げられて一般にも名前を知られるようになったサヴァン症候群については『なぜ彼らは天才的能力を示すのか』草思社('90、原著'89)がある。
 心の病の本を読むと、その不思議さと人間精神の深淵に愕然とさせられる。と同時に狂気と正気の危うさを深々と感じる。特に近年の精神薬理学の進歩は、その境界をますます曖昧なものにした。精神病がクスリによって快復してしまうのである。逆に言えばそれだけ薬物に我々の心は支配されているわけだ。もちろん今でも心理療法と薬物療法は両輪だが、器質性の疾患はクスリによらなければ治らないのである。心は物質から発生する。当然のことながら、ある心の状態には必ず、ある器質の状態があるのだ。何が器質性で何が心因性のものなのか。その境界は曖昧だ。こうなってくると、どこからどこまでが病気で、どこまでだったら正気なのかもどんどん曖昧になってくる。「病気」と「個性」の境界は社会的な基準にしかない。
 精神疾患関連の本で取り上げられるのは、神経細胞でも脳でもない。本稿冒頭で定義した「心」といったものとも微妙に違うかもしれない。それら全てを含む、全人的な「こころ」なのだ。あるいは「魂」と呼んでも良いかもしれない。こころを回復していくには、心理療法、薬物療法、そして周囲の家庭環境や人間環境までをも含めたケアが必要となる。私たちの「からだ」と「こころ」の不可分かつ不思議な関係をこれほど実感できるジャンルはない。神経化学や大脳生理などの本と併読すると、改めて「こころ」の不思議を感じるだろう。

■魂(SFマガジンには未掲載)

 最後に、と断った後、完全に蛇足だが「魂」というものについて。ベンフォードは『SFはどこまで実現するか』講談社の中で、多くの人が漠然と捉えている魂の概念を言葉にし、魂とは身体によって生じるが、ひとたび生まれたあとは身体に依存しないもの、としている。この存在はいったい何なのだろうか。そんなものありはしないのだ、と嘲笑する人も、少なくとも生者の中に「魂」と呼んでも差し支えないある過程が存在することは否定できないだろう。そしてこの何物かは、ある「質感」を持っており、それが「生きている」という感覚に繋がっている。と同時にそれは単なる心的過程だけではなく


あー、このあと何を書こうとしたのか思い出せません(笑)。うーん、何を書こうとしたんだろうか。ちなみにベンフォードは、魂というモノがもしありうるのならばという形で、上記の本の中でさらにSF的考察をしています。

もちろん、上に挙げた本以外にも面白い本や重要な本はありますが、比較的手に入れやすい本を重視して挙げたつもりなので、店頭になくても注文すればだいたい入手可能なはずです。
なによりこの分野は、新刊の良い本もバシバシ刊行されているので、そちらを読んでもいいと思います。

それと、上記以外にも脳を扱うジャンルはあります。僕が「しまった」と思ったのは、睡眠研究と臨死体験研究です。この二つは「やっぱり入れたほうが良かったかなあ」と思ってます。


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