98年11月SF Book Review



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  • クロスファイア 上・下
    (宮部みゆき 光文社カッパブックス、各819円)
  • 宮部みゆきに超能力テーマを扱った傑作は多い。だが、宮部みゆきがこういう文体の小説を書くとは思わなかった──。これが僕の、上巻を読み終えた時点での感想だった。宮部みゆきは「書かずに描く」タイプの作家だと思っていたのに、ここまで書いて書いて書いてしまうか。そう感じたのである。

    本書は短編『燔祭(はんさい)』(「鳩笛草」カッパブックス収録)の続編にあたる。パイロキネシス(念力放火)の能力を持つ女性、「装填された拳銃」青木淳子を主人公にした作品。『燔祭』を未読でも読むことはできる。だが『燔祭』は名作なので僕は断言する。「まず『燔祭』を読んでから読め」と。

    ただ──これは『燔祭』既読の人、『燔祭』の読後感を期待している人に対して言うのだが──『燔祭』の読後感と、本書の読後感は全く別種のものだ。
    なぜか。描いているものと描き方が違うからである。

    本書を指して「娯楽作でありながら『正義とは何か?』を問いかける問題作」と称するのは簡単だ。なにせ、帯にもそう書いてある。だが本書の主題は「そこ」にはない。そんな気がしたのは僕だけではないと思う。

    本書は、まず第一にエンターテイメントなのだ。宮部みゆきを捕まえて何をいまさらと言われそうだが、本書は、それをわざわざ強調したくなるほどケレンに溢れている。
    だがその中にも社会的な問いかけを巧みに含むのが宮部みゆきだ、本書にもそれはある──そう、それは僕もみとめるし同感だ。だが、主題はそれではない。

    冒頭の、(上巻を読み終えた時点での)僕の読後感を説明する。そのためにはストーリーから紹介したほうが良いだろうか。

    主人公・青木淳子は持って生まれた能力・パイロキネシスを使い、自らの判断で犯罪者たちを「処刑」していた。ある夜。彼女は、一人のサラリーマンが3人の若者に拉致され、殺される寸前の場に出会う。即決を下した淳子は「力」を使い、2人の若者を「処刑」する。だが一人を取り逃すばかりか、男は殺されてしまい、さらには淳子自身も拳銃で撃たれてしまう。淳子は、瀕死の男が残した言葉を頼りに、若者に拉致されたとおぼしき女性を探す。その女性を救うために、そして悪事をはたらく若者を断罪するために──。

    青木淳子は「悪」を容赦しない。そして、悪の近くにいる人間も。恫喝や脅しすら使う。淳子が吐く言葉はどれも激しい。まるで暗黒小説の登場人物のような言葉遣いで、「悪人」を燃やしていく。
    彼女はこんな女性だったか?──『燔祭』を思いだしながら、そんな思いすらした。

    やがて、彼女に<ガーディアン>と名乗る組織が接触してくる。一方、立て続けに起こる不思議な殺人事件に不信を抱いた石津ちか子刑事と牧原刑事もまた、様々な手がかりを結びつけつつ、一歩ずつ淳子に近づいていた。

    この辺りから、ストーリー展開そのものは一気に陳腐化する。展開は(おそらく)ほぼ大方の読者の予想通り進行する。それでも読み続けられるのは、作者の筆力のなせる技だ。
    なぜここまで「ありがち」なストーリー展開なのか。ひょっとしてこれは、確信犯ではないか。そんな気もした。「青木淳子」という女性に対して多くの読者が抱く最大公約数的な人生。そんなものが描かれているような気がしたのだ。ラストも宮部みゆきらしい結び方である。

    さて、積み残していた本作の主題だが、これについては宮部みゆき自身が繰り返しあちこちで言っていることだと思うのだ、やはり。たとえば、『エンパラ』(光文社文庫)収録の対談では、超能力を題材として選ぶことについて、こう言っている(ちなみにこの対談は『鳩笛草』発売の頃に行われた)。

     むしろ私が興味あるのは、ごくあたりまえの人間の能力なんです。例えば、ある人はもの凄く楽器がうまいのに、ある人はうまく弾けない、ある人はすごく日曜大工がうまいのに、ある人は駄目、なぜある人ができることがある人にはできなくて、この人ができることはこの人にはできないのか。それから、ある時期できたことがあるときできなくなるとか。
     すごく不思議なものだと思うんです、能力って。そのことを象徴的に表すには、超能力って書きやすいんですね。
    この一文を読んだとき「この人はSF作家だ」と思った。形而上のものを形而下に引きずりおろして描く、抽象的なモノを具象化に引きずりおろして描く、それがSFだと考えているからだ。

    能力──個人個人によって違うもの。個性そのものと言ってもいいもの。そして、自分が自分であることと不可分のもの。もたらすものが幸せだろうが不幸だろうが、その人の人生とともにあるもの。
    超能力テーマがSFとして捉えられていた理由の一つは、これだったと思う。宮部みゆきはそういう前提で、超能力者たちの苦悩を描き、「人の幸せとは何か」「生きていくとはどういうことなのか」と問うた。だから、『燔祭』はSFだったのだ。

    翻って本作はどうか。
    肉親を殺された兄の感情を描き込んでいた『燔祭』に対して、『クロスファイア』は超能力者たる淳子の視点から描かれる。つまり最初から描き方が違い、描いているものが違い、読後感も違う。確かに違うのだが、やはり本作のテーマも「人の幸せとは何か」「人の絆とは何か」ということだった。そして「人はどう生きるべきなのか」ということだった。僕はそう思う。

    「ごくあたりまえ」を描くために、「ごくあたりまえ」でないものを描く。「ごくあたりまえ」の幸せ──それを望む人々を描かせれば並ぶ者のない作家の、新作の一つである。

    …なんかうまく言えないが、読んで損はない、っちゅうことです。
    あ、うちのページで宮部みゆきは初めてだったか。


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  • 垂直世界の戦士
    (K・W・ジーター 冬川亘訳 早川書房、700円)
  • んー。この邦題、なんとかならなかったのだろうか。主人公は別に戦士じゃないしなあ。いまある仕事にあてはめると、流しの入墨師みたいなもんでしょう。それと表紙も。普通の人に売るつもり、全くないんだろうなあ、きっと。だいたい内容とあってないじゃん。どういうセンスしてるんだろうか。

    上下にどこまでも続く世界、シリンダー。普通の人は中の水平な床(ホリゾンタル)で暮らし、チンピラや刺激を求める若者は垂直な壁(ヴァーティカル)で暮らしていた。主人公アクセクターはヴィジュアリスト。要するにデザイン屋で、ヴァーティカルをバイクでぶらぶらしている。そんなある日、彼は天使の交尾シーンの撮影に成功したが…。で、それをきっかけに軍事部族同士のトラブルに巻き込まれる、っていう話。

    ジーター本人が興味なかったのだろうが、全般的にビジュアル面の書き込みが不足しているように思った。絵的にいけるシーンが多いだけに残念。というか、これも、小説というよりはマンガだ。マンガで読んだほうがこの話は面白いと思う。アフタヌーンあたりでやって欲しいなあ(マジ)。

    まあ、気持ちのいい話ではあるけど。それだけといえばそれだけ。


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  • 奇跡の少年
    (オーソン・スコット・カード 小西敦子訳 角川書店、720円)
  • え、ここで終わり?と思ったらシリーズだった。既に本国では5作が刊行されているらしい。長大な続き物にやや辟易している僕としては大ショック(笑)。

    舞台は入植しばらくたった頃のアメリカ。イギリス由来の精霊やまじないや魔術が息づいていた頃。七番目の息子のそのまた七番目の息子、アルヴィンが生まれた。七番目の息子の、七番目の息子は特殊な力を持つという。その通り、アルヴィンはこの世に秩序をもたらすことのできる、創造者(メイカー)だった。

    ここでいう創造者というのは、<混沌>に対する<秩序>のようなもの。<無>や<破壊>に対する言葉だ(だから裏表紙の粗筋紹介は内容とずれている)。アルヴィンは、ものを秩序立てる力を持っていた。つまりこれは、秩序と混沌の闘いの物語である。そして一人の少年がどう生きていくか、という物語でもある。

    カードらしい、いかにもカードらしいファンタジー。こんなこというと「カードらしいってどんなんだ!」と言われること間違いなしだけど、なかなか口でいうのは難しい。もちろん、子供が主人公で、特殊能力者で、いろいろ苦労するんだよ、と言っちゃうことはできるけど、それを言っちゃあおしまいだ。

    ピアノソナタのような静謐さと、音色がやんだ後も長く長く響く余韻。僕にとってカードの読後感はいつもこんな感じ。だけどこんな抽象的な言い方では、伝わる人には伝わるのだけど、伝わらない人にはさっぱり伝わらないのだなあ。
    ま、山岸真氏が解説で、例によってポイントをうまく捉えて表現されているので、カードがどんな作家か知らない人はそちらをご覧下さい。「試練」と「真摯な態度」と「人の生き方」がキーワード。

    いつま通り、カード読者は読むしかないので、特に言うことはなし。
    世界幻想文学大賞受賞作。


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