「DOS/Vmagazineカスタム」<森山和道の科学的態度>第一回

99年7月号掲載

『科学ファンでいこう!』

ファンという態度

 いつまで続くか知らないが第一回なので、まず私自身のスタンスを申し上げておく。

 皆様は、みうらじゅん・いとうせいこうらによる『見仏記』という本をご存じだろうか? オレタチは「信者」ではないし、ましてや「研究者」でもない、「仏像ファン」である。こう自称する彼ら二人が、勝手気ままなことを言いながら日本や世界のいろいろな仏像を見て廻る、という本である。

 何せ彼らは「ファン」だから、言うことは(信者からすると)もうむちゃくちゃである。たとえば「仏さんというのは要は外タレだ」とか。だが、これが実に痛快なのだ。何より「仏像を見る」という行為そのものを単純に楽しんでいるというのがよく分かる本である。

 なんでこんな本の話をするかというと、僕自身の科学に対するスタンスは、この「ファン」に一番近いように思うからだ。「科学ファン」である。

 自分で研究するわけではないし、やるつもりもないけど、面白そうな研究があると聞けば、それに「接する」ために文献を読み、時には研究者に会いに行って現場の雰囲気を楽しむ。で、マイブーム研究を周囲に「面白いんだよ〜」と語る。これが科学ファンである、と僕は勝手に定義している。

 たぶん、本誌読者にも程度の差こそあれ、科学ファンは大勢いると思う。科学を楽しみ、面白がりたいと考えている人、そういう人はみんな、科学ファンだ。基本的に、そういう考えのもと、妄想をいろいろと働かせて、この欄の原稿は埋めていくつもりだ。暖かく見守っていただきたい。

 ではそういうことで。

3Dなカノジョいる?

 最近、3DCGで美少女を描く、というのが流行っている。「エモーション・シンセシス(情緒合成)」をうたう次世代プレイステーションのデモの中にも、CGで作られた女の子が髪をバッとなびかせてにっこりする、という絵があった。

 だが僕はガッカリしてしまった。「なんだか気持ち悪いなあ」という感情しか浮かばなかったのである。

 こんなことをいうと3Dソフトで女の子を作っている人たちに怒られるかもしれない。「オマエは無知だからあの凄さが理解できないんだ!」と。

 確かにその通りなのだが、とにかく僕は3Dで描かれた人間には全く魅力を感じられないのである。体の動きのキレが悪いとか、髪の毛が不自然だとか、白い歯が妙にむきだされたようで目立つとかいったことも気になるし、もともと張り子のようなワイヤーフレームの上にテクスチャーを張り付けただけでは「自然さ」を実現するのは無理なのかもしれないが、理由はもっともっと、違うところにあるような気がする。

 たとえば大きくデフォルメされたアニメのキャラの表情を見ても別に不自然だとは思わない。だが、デフォルメされているようでいてリアルでもあるような3DCG人間の顔は、僕に奇妙な違和感を残す。異物感と言ってもいい。どうも、中途半端にリアルなところが問題なのではないか、という気がする。

 また、3DCG人間の顔の動き(敢えて表情とは呼ばない)から連想するのはマネキンの顔だ。マネキンの顔面筋をある種の表情記述法に従って動かしているようだ、と感じてしまう。だから笑顔も文字通り「作り笑い」にしか見えない。内面からわき上がってきた表情には全く見えない。これはおそらく、表情記述法──ある仮説によると人間の顔は44通りの表情で記述できるという──が、どこかまだ、不完全であることによるのかもしれない。そうだとすれば、まだこれからの研究によって発展する可能性はある。だが、それだけが理由だろうか。

顔の表情それぞれ

 人間にとって顔は、非常に重要なシンボルである。顔はほとんど人間そのもの、人格そのものの表象と言っても良い。それだけに人間の「顔」に対する評価は非常に厳しい。その一方で、人間は3つ穴があるものを見ると、顔として振り分けてしまうと言われている。やはり顔は特別な存在なのだ。

 顔がどれだけ特別な存在かということは、たとえば「相貌失認」という障害があることからも分かる。脳の障害などによって顔の認知ができなくなる障害である。顔が見えなくなるわけではない。唇や鼻や目など、一つ一つの部分はちゃんと見えているのだが、顔全体を知覚できなくなるという症例だ。健康な人間の日常生活からおおよそ理解不能な症例だが、こういう世界に生きざるを得なくなった患者さんが存在するのである。そしてこれらの症例の研究から、研究者の中には、顔の認知は他のものの認知とは違う経路・方法で処理されている、と考えている人が少なくない。

 顔を見いだしたときに人間の脳はどういう処理をするのか。現在のモデルでは、まず「構造的符号化」という処理が行われることになっている。平たく言えば形態的な特徴の抽出とデータ化が行われるのである。

 おそらくこの段階で、アニメやマンガの顔は、顔は顔でも人間の顔の処理とはまた違う経路に分けられるのだろう。ところが、中途半端にリアルな3DCGの顔は、その処理が「混ざる」のかもしれない。ここは僕の妄想に過ぎないが。

 またおそらく、CGの表情が作り物に見える、つまり不自然に見える理由は、表情記述法に従った表情操作のみには求められないように思う。

 僕らがある特定の人間と接したときに感じる「顔つき」というのは、連続した顔の瞬間瞬間の印象を積分した結果である。

 たとえば写真をとられた瞬間、非常に間抜けな顔をしていたという体験は誰もがしていると思う。人間の表情は実は非常に不安定で、揺れ動いているのではないか。だがCG人間の表情には当然その「ゆらぎ」はない。ひょっとすると、その部分が抜け落ちていることが、何らかの理由で「不自然さ」を感じさせているということはあり得るのではなかろうか。

 ご存じの方も多いと思うが、1995年3月には「日本顔学会」なんてものも設立されたくらいで、顔はいま非常に注目されている。顔のCGの研究は必ずしも美少女のみならず、情報工学の世界でも盛んで、ユーザー・インターフェースとしてコンピュータに顔を持たせようという試みや、ユーザーの顔を認識させる研究などが行われており、今後大きく発展することが期待されている。

 野次馬のたわごとだが、これまでの顔CGの研究では「主観性」をあまり考えない研究が多かったのではないか。もちろん考えてはいたのだろうが、取りあえず役に立てば良いじゃないか、という工学産物としての発想と、客観性を重視しようとするあまり、メッシュの網の中からいろいろなものをボロボロとこぼしすぎるようなものがCGの顔研究には多過ぎたのではないか。もうちょっとマジマジと、顔を見つめ直してもいいと思う。

参考文献:
視覚の謎』本田仁視、福村出版
顔学への招待』原島博、岩波書店
顔面考』春日武彦、紀伊國屋書店





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