著者の立場は「マシンが何をするかよりも、人々がマシンをどう思うかのほうが重要」というものである。つまりマシンが実際にどう動作し、アルゴリズムがどう動いているかということよりも、マシンの「操作」そのものを我々がどう感じ取り、イメージし、認識するかの方が大事であるというものだ。
原著が出たのが1995年。訳出があまりに遅すぎた。当時は先鋭的で優れた言説だったのかもしれないが、今となっては過去の記録を読んでいるようだ。
確かに、このような悩みにぶつかっている人もいる。心理学者には面白いテーマだろう。だが、一般のネットワーカーは、そんなことはほとんど気にしていない。もっと気軽にネットで遊んでいる。「現実」と「ヴァーチャル・コミュニティー」といった形での分離分割は、そこには見られない。
我々はもともと、ペルソナを使いわけていたのだ。ネットの出現は、その場所が単に一つ増えたに過ぎなかった。それがこの数年間で証明されてしまったように思える。著者は「多重でありながら一貫性をもったアイデンティティ」を実証したのがホームページであるという。確かにそのとおり、だが現実を振り返ってみたとき、こういう表現はオーバーで滑稽に見える。
アイデンティティやパーソナリティというものは、もともと非常に動的かつ多面的で、流動的でありながら強靱なものなのだ。如何にコンピュータや「ヴァーチャル」なものに違和感や恐怖を覚える人がいようと、ほとんどの人は、そんなものは簡単に乗り越えてしまうのである。人のアイデンティティはタフだ。
だが、今だからこそ、そのあやふやな境界を見つめられるのかもしれない。オンラインとオフラインはさらに溶け合っていく。過去や経緯を辿ることはますます難しくなっていく。だから、ときどき過去を振り返ってみるのも悪くない。コンピュータは今後も喚起的であり続ける。