02年4月Science Book Review


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  • 検証 なぜ日本の科学者は報われないのか
    (サミュエル・コールマン(Samuel Coleman) 著 岩舘葉子 訳 文一総合出版 2400円 ISBN 4-8299-0065-2 原題:Japanese Science : From the Inside, 1999)
  • 日本には優れた研究者たちが大勢いる。歴史に名を残す巨星も多い。だが日本全体の科学者が世界一流とは言い難い状況にある。それはなぜか。

    本書は日本の科学研究、特にバイオサイエンスに関連する問題を批判的に検証するリサーチレポート。著者は社会学の世界でいうフィールドワーカーで、日本の研究所の中に入り込み、取材・調査を行っている。本書は、8年間にわたる研究の集大成だという。主な取材の舞台は大阪バイオサイエンス研究所(OBI)と蛋白工学研究所(PERI)。そのほか私立医大と農水省食品総合研究所(NFRI)も取材したそうだが、メインはOBIとPERIの二つである。

    著者の分析対象は大学・研究機関の現状、企業研究員と大学研究員の違い、人脈採用と公募、科学者と官僚の関係、ジェンダー、英語の問題にまで及ぶ。著者のインタビューに答えた匿名の研究者たちのコメントはなかなか辛辣で面白い。全体的な印象は、日本人の多くが「まあ、世の中そんなもんだよね」と思っていることを改めてきちんと指摘している、といったところか。

    著者は日本、日本の科学界は「宝の持ち腐れ」だという。そして「流動化」や「国民性」は非生産的逃げ口上に過ぎず、現在の不満足な状況で得をしているのは誰なのか、そして彼らはなぜ変化に抵抗するのかと問うべきだという。それこそが組織の問題を解決する第一歩だと。

    日本の科学が欧米の後塵を拝するのは予算のせいだという声がある。それも原因の一部であることはほぼ疑いない。だが、政府による投資が増額されたからといって日本の生物化学が世界をリードできるわけではない。日本の研究者社会はメンタリティや研究者間の流動性、そして予算の適正配分など様々な面で問題を抱えている。いわばこれまでの問題による問題の蓄積による閉塞状況にあり、まずはそれらを解決しないと前へは進めない。

    そこで著者が登場させるコンセプトが「クレジットサイクル」だ。研究成果を出して助成金を手に入れ、それを再び研究に投資して自らのキャリアを築く欧米スタイル。要するに研究者のキャリアアップである。日本では年功序列、中央集権、健全なクレジットサイクルが機能していないと言う。クレジットサイクル(=キャリア形成と報酬システム)を活発化し育むことが重要であり、そうすれば日本の研究社会も世界で一流になれると、ほとんどア・プリオリに著者は考えているらしい。

    著者が言うことは、基本的に「ごもっとも」で、アメリカ的に一流を目指したいならば反論の余地はあまりないように思える。
    さて、ここから先は私の勝手な感想である。著者は日本人の遠慮的態度や消極的態度は原因ではなく結果であるという。また、国民性・文化原因説は「仲間どうしのなれあいを黙認するという根深い問題の格好の言い訳」だとする。

    これらは科学向きではない特質が日本人に広く深く浸透しているという説に対する反論として著者が挙げるものだ。彼の主張を裏返して考えてみる。つまり著者は、とにかく積極的で自己主張をし、衝突を恐れないのが「科学向きの特質」だと考えているわけだろう。

    さて、これは真実なのかどうか? 本書ではこれはア・プリオリに正しいとされており、そもそもその検証は行われていない。また実際、「著者の言うとおりである」と答える研究者は多いと思う。

    だが、日本人とアメリカ人の気質がどうも本当に違うのではないか、と考える人も大勢いることもまた確かだ。だからこそ、著者が忌み嫌う国民性に原因を求める説も消え失せないのである。また日本人は変化よりも安定を求める傾向にあることは、日常生活から誰もが感じていることなのではなかろうか。私はそんな気もするのである。

    だとすれば、とにかくアメリカ式にせよというのではなく、日本人社会ならではの、まったりした雰囲気を残しつつ、なおかつ国際社会で負けないようなやり方を考え出したほうが現実的ではないかという気もするのだ。

    ま、そんなことを考えました、ということで。


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  • 共感覚者の驚くべき日常 形を味わう人、色を聴く人
    (リチャード・E・シトーウィック(Richard E. Cytowic) 著 山下篤子 訳 草思社 1900円 ISBN 4-7942-1127-9 原題:The Man Who Tasted Shapes : A Bizarre Medical Mystery Offers Revolutionary Insights into Emotions, Reasoning, and Consciousness, 1993)
  • 帯の文句は
    ミントを食べると「円柱」を感じた。
    ポケベルが鳴ると「赤い色」が見えた。
    五感が入り混じる特異な人たちの脳のミステリー。
    そして副題は「形を味わう人、色を聴く人」。これが共感覚者だ。彼らは感覚がからみあっている。音を聞くと色が見える。ものを食べると指先に形を感じる。「連想」ではない。「感じる」人たちの話だ。一つの感覚刺激で別の感覚が「不随意に」引き起こされる。それが共感覚(シネスシージア:Synesthesia)である。

    本書の著者シトーウィックはワシントンDCの開業医。1980年にたまたまマイケル・ワトソンという共感覚者に出会うことで共感覚の世界にのめりこんでいく。そして共感覚の意味や意識と情動の謎などに踏み込んでいく、という構成になっている。

    共感覚は、古くから知られてはいたものの、研究は1860年〜1930年をピークとして下火になっていき、臨床の現場ではほとんど知られないものになっていたのだという。実際、周囲の医者仲間に話を聞いた著者は、共感覚という現象そのものに拒否反応とも言えるような拒絶の態度を受けてしまう。そんな中、少しづつ共感覚者の研究をすすめていく著者の様子、共感覚者だった芸術家たちの逸話、そしてなにより、著者が直接知り合った共感覚者たちのエピソードが面白い。

    たとえばマイケルの様子はこうだ。

    深夜に冷蔵庫をのぞいて夜食を物色する。残り物のローストチキンを見て「アーチ形はどうものらないな」とひとりごとを言う。あるいはレモンパイをながめて、おなかは空いているけど、とがったものはほしくないなあと思う。ピーナツバターのサンドイッチにしようかとも考えるが、球や円で満腹になると眠れなくなるのがわかっているからやめる。

    冷蔵庫の灯りに照らされて、棚から棚へ目を走らせる。冷えた床の上の足を動かし、ようやくチョコレートミント・パイを取り出す。10あまりの円柱が自分の前にあるのを感じる。眼には見えないが、触覚では実在する。フォークを入れると、円柱の冷たくて滑らかな表面に手をあてて上下させている感じがする。ミントの味を口のなかでころがすときは、円柱の一つに手をのばして、裏側の曲面をこすっている。なんと豪奢な感覚だろう。表面は冷たくてすがすがしく、一種セクシーでさえある。
    (13-14ページ)

    このマイケルは実にユニークな感覚の持ち主で、たとえばある苦い液体を舌に垂らされたときはこのように表現している。
    「これははっきりと自然物の形をしている。マッシュルームみたいな弾力のある硬さで、ほぼ丸い」と言いながら手をのばし「しかしこぶが触れるし、表面に小さい穴がいくつかあって、そこに指が入る」 (94ページ)
    マイケルは味と触覚の共感覚者だが、実際に多いのは色聴という共感覚だという。音を聞いて色を見る人のことだ。共感覚者は10万人に1人いるというから、珍しいとはいっても結構いる計算になる。実際、色を感じると自分で主張する人は結構いるようだ。

    だが、実際に彼らが感じているのがどういうものなのか、外から知ることは難しい。本書で著者が著していることによれば、共感覚の特徴は、不随意でコントロールできない、そして体の外で知覚される、ということだ。いわゆる「心の眼」に見えるとか、そういった類の現象ではないのだという。そしてまた、共感覚者の感覚の結合は、一生涯続く。ある人にとってある音が「青」ならば、それは常に青のままということだ。また、共感覚は記憶に残りやすく、直感像と関係があるという。また、感覚は非常に「リアル」に感じられるらしい。

    こういった話を聞くと、少しでも脳に関する本に目を通したことがある読者ならば、誰もが辺縁系や、てんかんとの関連、あるいはLSDによる意識の変容との関連を疑うだろう。当然著者もそのように考え、脳血流量を調べ、共感覚は辺縁系で起こっていることを確認する。

    さて、この本の問題はここからだ。ここから著者は、情動こそが意識の根元、というより実体であるという話を展開するのだが、どうもそこの議論は力ばかり入った空振りに終わっているように思う。

    著者は共感覚は実際は誰の脳内でも起こっているのだが、意識にのぼるひとが10万人に1人しかいないのだろうという考えを持っている。そして共感覚者を「認知の化石」と呼ぶ。誰もが持っている能力なのだが、大多数の人においては意識から失われたものなのだ、という主張である。

    著者がこのように考える理由の一つには、異種感覚間連合という能力の話がある。これはどういうものかというと、たとえば、ある物体を見る。我々は一度それを見れば、今度は眼をつぶっていても、それと同じ物体がどれなのか、触覚だけであてることができる。これは視覚から得られた情報を触覚と結合させているからできる芸当で、言語能力の下敷きにあるとも言われている能力だが、実は人間にしかできない。

    そして共感覚において重要な役割を果たす辺縁系は情動に深い関わりのある部位であり、自己意識というのは幻想的である。自己意識がアクセスできない処理が脳のなかには大量に存在している。で、情動こそが我々の意識の本体であるといったことを主張するのだが、はっきり言って論理が無茶苦茶で、繋がっていない。

    どうも著者は、もともと情動についての本を書きたかったのだが、共感覚の研究で有名になったので、共感覚の話のなかに情動に関する考察を織り込むことにしたのではないかという気がする。もちろんその構想を考えたときには当然著者の頭の中では繋がっており、うまく埋め込めると思ったのだが、実際には整理がついておらず、ひっちゃかめっちゃかになってしまったのではないか。そんな気がしてしょうがない。

    というわけで、共感覚の不思議に迫ろうとする弟一部は面白いが、第2部ははっきり言って余計である。ま、原著が書かれたのは1993年だし、この本のあとに、共感覚に関する本が続々と訳出されることを願う。

    以下余談。共感覚は実はみんなが持っている能力だ、という主張そのものは、私も多分そうだろうなと思う。私がこの本を通読しながら連想したのは、東大&産総研でヒト型ロボットをやっている國吉氏の研究。彼は、各感覚モダリティに別れていない形式での情報表現が、脳のなかにはあると考えている。面白いのは、実際にニューラルネットワークでそういう回路を組むことができること。たとえばロボットの前でやった動作を、ロボットが「つい」真似をしてしまう、といったことを、実際の実験で確かめることができきる。ロボットは自分自身の体の構造を「知らない」のだが、目の前で、自分自身がもともと持っている情報パターンに似たようなアクションが視覚情報として入力されると、それにあわせて体が動いてしまうというものだ。いわゆる反響動作とかは多分こういう仕組みによるのかもしれないし、また、共感覚も、脳の中での情報表現が、実は各感覚に別れてないことを示唆するのではないか。


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  • 不妊治療は日本人を幸せにするか
    (小西宏(こにし・ひろし) 著 講談社現代新書 660円 ISBN 4-06-149602-6)
  • 著者は朝日新聞記者。


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