長編よりも100ぺージくらいの中編の方が物語としては緊迫感があったかもしれないが、そうなるとこのダラけた感じは出ないわけで、小説の長さというのはなんだか難しいね。ホラーというよりは、そういうコミュニティーのダラダラ感と彼らの心象を描いた小説である。そうなると当然のこと「虚ろな穴」の邦題の意味も分かってくるよね。
そういう類の小説はなんだか途中で飽きてくることも多いのだが、これは結構面白いし読めるなあ。何が違うんだろう。やっぱなんだかわけが分からない存在としてのファンフォールの魅力と、それに対してまっとうに苦しむ主人公の姿がわかりやすいからかな。そういう意味ではラスト近くの展開は、あんまり僕好みではないのだけど、これはまあこれでよし、としよう。
これは、哀しい狂信者の物語である。静止した状態のユートピアがあり得ると信じ、失われた生活様式、慣習と伝統を取り戻そうとした男の。変わってしまってはそれはもはや、彼が考える「キクユ族のユートピア」ではない。だからありとあらゆる変化をもたらす可能性のあるものとの接触は、避けなければならない。もし接触を始めたら一つ一つ伝統が失われ、「もはやキクユ族ではなくなってしまう」。だからキリンヤガに留まりたければキクユ族として生き、キクユ族らしく振る舞わなければならない。キリンヤガに住むのはキクユ族だけなのだから。
だが変わらぬものなどない。人間は林檎をかじらなくても知恵をもち、好奇心を持っている。智恵を持って世界を変えようとする。飛ぼうとする。外を覗こうとする。だがそれを許してしまっては「キクユ族のユートピア」は崩壊してしまうし、もともとキクユ族はそんなことはしない。そんなことをするのはヨーロッパ人だ。キリンヤガにはキクユ族しかいない。だからそういう者は排除するか、服従させなければならない。
結果、ユートピアはディストピアとなった。だがこれこそは「キクユ族のユートピア」なのだ。けれども、ユートピアという概念そのものももともとはキクユ族にはなく、実は借り物なのである。
と、こういう話である。
「幸福」という概念そのものも生まれたのは200年前くらいのことらしい。世の中には幸福という概念がない人々もかなりいるのである。なにが幸福か分からないように、何が楽園なのかもわかりはしない。完璧な世界は完璧な故に閉じている。だがそこには成長はない。キリンヤガが文字通りインパクトによって彼の考えたキリンヤガでなくなることは、運命だった。
と、「いろいろなことを考えさせられました」と書きたいところなのだが、どちらかというと著者のあざとさが目に付いた作品だった。もっとも象徴的な作品はやはり『空にふれた少女』。